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スーパーで食材を揃えるのではなく、自然からもらったものをひと工夫して食しているエッセイ。梅干し一つにしてもバラエティ豊かな調理法があるのだなぁと新たな発見。
丁寧に調理する事で、素材本来を引き出す食べ方をできるようになりたいと感じる。
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軽井沢山中の庵に暮らし、そこの自然で採れる食材で自給自足の生活をおくる著者の、食にまつわるエッセイ。
1月から12月までの12章に分かれていて、それぞれの時期の旬の野菜や草木の話題を中心にして、調理の仕方と心構えが書かれている。
普通のレシピ本のような内容とはまったく違い、芋の皮をいかに惜しんで薄くむくべきかや、育たない冬を耐えて芽吹きの春を迎えた時の喜びなど、自然との接し方について語られている部分が多い。
ここで説明されている料理は、どれも質素で簡単なものばかりだけれども、小説家なだけあって、その描写がものすごく上手く、読んでいると、くわいをただ焼いただけのようなものでさえ、とても滋味にあふれて美味しそうな感じが伝わってくる。
9歳の頃から禅寺で修行をした著者は、16歳から寺の典座(食事)をまかされ、精進料理を作る日々をおくった。著者の、料理中の写真が時々挿まれているのだけれど、これが渋くて、やたらとカッコいい。
初版は昭和53年だから、現代のようなスローライフブームのはるか前から、ごく当たり前な姿で実践していたことになる。
2004年に病没するまでの間、ずっと同じような生活を続けていたのかと思いきや、その後インターネットが登場してからパソコンに興味を持って「電脳小学校」というものまで作ろうとした時期があったらしく、それは結構意外なことだった。
道元さんという方はユニークな人だと思う。「典座教訓」は、このように身につまされて読まれるのだが、ここで一日に三回あるいは二回はどうしても喰わねばならぬ厄介なぼくらのこの行事、つまり喰うことについての調理の時間は、じつはその人の全生活がかかっている一大事だといわれている気がするのである。
大げさな禅師よ、という人がいるかもしれない。たしかに、ぼくもそのように思わぬこともないのだが、しかし、その思う時は、食事というものを、人にあずけた時に発していないか。つまり、人につくってもらい、人にさしだしてもらう食事になれてきたために、心をつくしてつくる時間に、内面におきる大事の思想について無縁となった気配が濃いのである。
滑稽なことながら、ぼくらは、故郷の過疎地に老父母を置いて、都会の巷で、「おふくろの味」なる料理を買って生きるのである。学生街食堂に櫛比する、「おふくろの店」は、そういう大事をわすれた子らが喰える、皮肉な喰いものといえる。道元禅師のいう大事は、己れがつくる時だけに生じるもので、そこのところが、ぼくの心をいま打つのである。(p.76)
ぼくが毎年、軽井沢で漬ける梅干が、ぼく流のありふれた漬け方にしろ、いまは四つ五つの瓶にたまって、これを眺めていても嬉しいのは、客をよろこばせることもあるけれど、これらのぼくの作品がぼくの死後も生きて、誰かの口に入ることを想像するからである。ろくな小説も書かないで、世をたぶらかして死ぬだろう自分の、これからの短い生のことを考えると、せめて梅干ぐらいのこしておいたっていいではないか。(p.110)
この世に山野が生むもので同一のあるいは普遍の食べものはありはしない。よくみれば、その土地土地の顔と味をして、食膳に出てくる。京にうまれて「京菜」、野沢にうまれて「野沢菜」、軽井沢では、その野沢菜そっくりのものさえうめないではないか。不思議なことだと思う。(p.192)
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子供時代に禅寺で修行していた著者が、その教えを活かし、毎月様々な料理を作る本。
「美味しんぼ」で知った人も多いと思います(自分もその一人)。
この本には高級料理なんて一品も出てきません。
粗末なお惣菜ばかりです。
けれど、どれもこれも最高に美味しそうです。
畑で取れた旬の野菜を、手間ひまかけて丁寧に料理する。
それがどんなに贅沢で、どんなにありがたいことか。
作中では、以下のように書かれています。
『出来のわるい大根を、わらう資格はぼくらにはない。
尊重して生かせば、食膳の隅で、ぴかりと光る役割がある。
それを引き出すのが料理というものか。』
食材に貴賎なしということですね。
本当の意味での「ご馳走」とは、まさにこういう事なんだと教えてくれます。
じんと来る表現もたくさんあり、心を豊かにしてくれる一冊でした。
ちなみに、自分が一番心惹かれたのは、次の一文です。
『めし時になると、父は近くの山へ入り込んで、三十分くらいすると何やかや、木の葉や、キノコやをとってきてオキ火を片よせて、そこで焼いて喰った。
弁当箱には、味噌と塩とめしが入っているだけだった。
山へゆけば、惣菜になるものが収穫できるから、何もいらなかったのである。』
ああ……なんて羨ましい!!
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この本を知ったのはずいぶん以前『美味しんぼ』を読んでのことだったと思う。たぶんそれから20年くらいたってようやく読んでみた。作家・水上勉の軽井沢暮らしのなかでの自給自足・自炊の日々が綴られる。
山野のものを上手に使い、腕も立つ人が作る素朴な料理の数々は魅力的。ところどころはさまれる写真がカラーだったらいいのにと思う。でも、著者の筆致が何だか自慢げ自信ありげで、精進とは逆のギラギラっとした雰囲気をそこはかとなく感じながら読んだ。
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映画化にともなって
刷りの新しいのが本屋さんに並んでたので
図書館で古いやつを借りてみました。
で、なんか手元に置いておきたくなったから
今度買おうと思います。
著者が少年時代にお寺で修行していたことを
この本で初めて知りました。
料理を作りながら語る当時の思い出話や
住んでいる軽井沢のこと
説法についての話、典座について…。
ゆったりと滋味になりそう。
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著者が少年時代、京都の禅寺に預けられ、そこで典座をしていたことで精進料理の元が身についた。それを基に執筆当時生活をしていた軽井沢で野菜を育て、精進料理を作る。季節にできる野菜を使う料理を、幼い頃の寺での生活を交え、描いている。
その手順やレシピは素材をいかし、これぞ男の料理という趣も感じさせる。単なるレシピ本ではなく、文学の要素を感じさせるのはさすがである。
最近はこのような野菜メインの献立も違和感なく、ヘルシーな料理として受け入れられている。今でも十分通用する料理であり、日本の食の原点ともいえるものだろう。
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渋皮が少し残った栗、人より長生きする梅干し、山でどんどん採れていた松茸、軽井沢の畑で育った細くて辛い大根。
作者が小さな頃に禅寺で身に付けた精進料理は、文字にしても、どこか土の香りが口の中に広がる。
少し気難しいおじいちゃんに、昔話をしてもらいながら、ご飯を食べているかのよう。
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福井で生まれ京都の禅寺で育った水上と、東京で一生を過ごし若い頃は株の仲買人をしていた同世代の池波正太郎(1923年生まれ)の食エッセイを比較してしまう。
片や精進料理について書き(肉魚も食べただろうが、経歴的にそういった需要が高かったのであろう)、片や各地の豪勢な料理や今で言うB級グルメについて書く。
今はまだ池波のエッセイの料理に引かれるが、いつか逆転する時が来るだろうか。
檀流クッキングは読んだ事がないが、檀一雄と読み比べてみるとどうなるのだろう。
写真が多いが水上が写っているカットが多い。「ミセス」誌を読むミセスを意識した美男、だからか。映画化で水上に擬せられる主人公をジュリーが演じるのも納得。
パルネット ベルマージュ堺店にて購入。
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婦人雑誌「ミセス」の連載とのこと。語りかける調子で書かれており、軽井沢の野山や空気を想像しながら読んだ。
子供の頃に禅寺で暮らし、そこで教わったり自然と身についた料理や、素材の扱い方がずっと後まで著者の台所仕事の根幹にあるらしい。毎月のように、季節の実りを手にしてはそれにまつわる禅寺での思い出を書いている。筍、梅、豆腐、きのこ、栗・・・その時期に目の前にあらわれるものを、よくみて、どう食べるか。ただそのことだけを思って料理を繰り返す日々。シンプルだけど、奥深い。
「口に入れる筍の味覚のほかに、とんでもない暦のひき出しがあいて、その思い出を同時に噛みしめる。――口に入れるものが土から出た以上、心ふかく、暦をくって、地の絆が、味覚にまぶれつくのである。」
タイトルに気持ちが引っぱられているのかもしれないが、全体的に湿った大地のような印象があるエッセイ。
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質素ですが、自然と共存する食の世界。読み進めるほどに、その面白さ喜びが伝わる文章。なんとなく真似て作れるものも中にはあるが、ほとんどは再現出来ない。本当の贅沢ってこういうものかなとも思うし、多くを求めないことが美徳的にも思える本ですが、本当は欲望の追求なんかもな、とも思える名著。
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土を喰う日々。タイトル通りのエッセイで、精進料理を作り方を教わった水上さんが、かつての師匠たちの言葉を思い出しながらこさえる料理だったり、自らの経験を積み重ねて工夫した一品だったり。肩肘はらずに、季節の野菜や山菜や果実でこしらえる料理の数々に、ああ料理というのはただ腹を満たせばよいのではないんだ。と、当たり前なことを思う。
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月毎に違う食材が書かれているので、どの月から読んでも楽しめる。
食を通した人との交流が丹念に紹介されているのが良い。個人的には、六月の章の梅干しの話がジンときた。
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京都の禅寺の庫裡で暮らし、精進料理を学んだ少年時代。水上勉がその時に学んだ、自分の血肉となった料理を1年かけて紹介していくエッセイ。
普段忙しさや面倒臭さにかまけて抜きまくっている手をじっとみる。
丁寧に料理をすること、きちんと食べること。手を抜くことで得られるものと、丁寧に暮らすことで得られるもの。そのバランスを取りながら生きていくことの大切さ。
しかし、どの料理もすばらしくおいしそうでたまらぬ。
山で採れるもの、畑になるもの、そこに時間と手をかけて訪れた人に饗する。
相手を見て献立を考える。よきかな。
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言葉遣いが独特で、すっと筋の通ったエッセイ。
田舎暮らしへの憧れが募る。
映画の内容とはまったく違うけれど、
エッセンスはこの本からしっかりとられている。
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映画『土を喰らう十二ヵ月』に感動したので、原作の料理エッセイも読んでみた。しかし物語部分はほぼ映画のオリジナル。このようなエッセイを土台にして、よくあのような物語を作り上げたものだと感心する。
しかしそこに流れる仏教的なテーマは、確かにこの原作から受け継いだものだ。水上勉は少年時代に禅寺へ修行に出されていた。このエッセイは、その頃に覚えた精進料理を、還俗した今、どのような形で食卓に取り入れているかを語ったものだ。精進料理と、その底流にある思想を語ることは、禅の教えを語ることに通じる。その極めて本質的な部分をすくい上げることで、あの映画が出来たことを思うと、あらためて感動してしまう。
ただし都会人の悲しさよ。読んでも分からない部分が多すぎる。豆腐や梅干しは分かるが、地梨子とか水芹とか言われても、どんな植物かよく分からない。たらの芽とかクワイとか、名前は知っていても味が分からない。松茸は、高すぎて食べられない。ましてや竹による筍の味の違いなど分かろうはずもない。そもそも普段「筍」として食べているのは何の竹なんだという具合。そんなわけで、さすがに距離を感じてしまう部分が多かったのが残念。