紙の本
鴎外の「人生に対する慈しみ」
2010/02/14 08:44
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:analog純 - この投稿者のレビュー一覧を見る
以前『雁』を読んだ時も、はじめ気になって仕方がなかったんですが、なぜ鴎外はこんな作品を書いたのだろうということです。
漱石を読む時なんかはこんなこと思いませんね。「贔屓目」なのか知れませんが、漱石の時は「内的必然性」なんて言葉で、あっさりこの部分はクリアしてしまうような気がします。
鴎外でも、短編の時はそんなことはあまり思いません。
鴎外の短編は、いわゆる「テーマ小説」が多く、要するに、なるほどこの時は鴎外はこんな事を考えていたんだなーで、わりと簡単にクリアします。
なぜ『雁』とか本作の時にだけそんなこと考えるかというと、ひとつは、その長さのせいですね。「中編」くらいの長さがありますから、そのぶんあれこれ書き込んであって、それで、なぜこんなに頑張って書いているのかなー、と、そう考えるということですね。
そしてもう一つの理由は、鴎外自身が本作でもシニカルに書いていますが、こんな風に批評され続けたという表現。
「情熱という語はまだ無かったが、有ったら情熱がないとも云ったのだろう。衒学なんという語もまだ流行らなかったが、流行っていたらこの場合に使われたのだろう。」
鴎外にシニカルに笑われても、やはり僕も、読んでいてそんな気が大いにするんですがねー。
もちろん鴎外も、そんなことは分かっていて、わざとそんな風に書いているんですよね。かなり屈折的ですよねー。
今ふっと思ったのですが、こういうのを
「上から目線」
って、言うのかも知れませんね。
ま、相手は天下の鴎外ですから、上から見られるのは当たり前なんでしょうけれども。
いえ、僕は別に鴎外が嫌いなわけでは全くないんですが、なんか変な展開になってきたんですが、でもやはり、こんな風に思ってしまうということなんです。
「鴎外先生、そんなにこの小説についても情熱的に書かれているわけでもないんでしょ。なぜ、こんな小説をお書きになるんですか」と。
えーっと、いわゆる文学史的には、なぜこの小説を鴎外が書いたかということについては、以下の定説があります。
猖獗を極めるように文壇中に流行っている自然主義小説が、極めて「露悪的」に性欲を描いていることについて、果たして日本人の性欲はさほどに「どぎつい」ものであるのか。ワシなんか全然そんなことないもんねー。いっちょ、ワシの「性欲的自伝」を書いてみるか、と。
しかしこんな「定説」では、納得できませんね。
そこで、以前の『雁』の時のこともあったものだから、ちょっと注意しながら読んでいったんですが、ああ、やはり僕は間違っていたんだなーと、つくずく思いました。
例えばこんな所です。
「飯の時にはお蝶がお給仕をする。僕はその様子を見て、どうしても蝶ではなくて蛾の方だなどと思っている。見るともなしに顔を見る。少し縦に向いて附いた眉の下に、水平な目があるので、目頭の処が妙にせせこましくなっている。俯向いてその目で僕を見ると、滑稽を帯びた愛敬がある。」
他にもいろんなところに散見されますが、ちょっと意地悪に言うと、こんな表現を書いてしまうところに鴎外の「ねじれ」があるんですよね。
そして、この「ねじれ」こそが、「諦念」なんて言われる鴎外の人生に対するニヒリスティックな信条を不十分なものにしつつも、一方我々小説好きの読者にとっては、すばらしい作品群を残してくれた、鴎外の「人生に対する慈しみ」「小説表現の豊かさ」であるわけですねー。
小説を書くことに対する「やめれないおもしろさ」、後年鴎外は史伝の世界に沈潜してしまいますが、少なくともそこに至るまでは、やはり、例えば上記の引用部分を、とてもおもしろがりながら丁寧に丁寧に書いたであろう鴎外の姿を、今更ながら、改めて見つけたように、僕は思いました。
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この作品は、鴎外の作品の中でもあまり知られていないものなんだけど、性への目覚めを、自然主義小説風に(鴎外は自然主義には反対の立場です)自分の学生時代の体験を振り返る形で描いています。当時はとってもセンセーショナルな内容だったのでしょうが、今読むと、正直で純情な学生さんの悩みが、微笑ましいほどです。
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なんか激昂しながら読んでた気がする(なにそれ)
ドイツで鴎外博物館行って来たけど、すごいいいところでした。あの書棚がたまらんでした。
かたかった。
もしかしたらすといっくとかんちがいしてる。や、ストイックってその部分むしろフィーチャーしてる上での名称だと思うから、もしそれだったらストイックでいいのか。どうでもいいけど。(わからんだけじゃの!BAKA!)とにかく文体とか文章とかがかたいって印象がいい。
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性に関する経験の履歴を綴ったとかなんとかいう出だしですが、大丈夫か鴎外。当時は問題作とされたようですが、昔ってすごいな
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性欲とは、人生において重要なのだろうか?幼少時からの幾つかの経験を通して、著者は愛の情熱がなければ性欲は無意味だと示すために筆を執る。
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こんくらいで発禁だなんて時代を感じますね。
愛って言葉が出来る前、ラブの概念は忠だったから男色が珍しくもなかったんでしょうね。
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2006. 10月頃
なんだかオーガイ先生の文壇復活作品だそうで
気負って書き始めるも、途中から息切れした雰囲気がします。
これが発禁になるなんて、当時はさぞおカタい世の中だったようで。
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森鴎外の性についての自伝的小説。といっても特に官能的なことが描かれているわけではなく、客観的・分析的な目線で淡々と綴られている。どちらかといえばアンチエロティシスムな作品であると思われる。
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なんか明治当時の衆道文化に妙に詳しくなってしまった一冊。書生間とか。なぜタイトルに「新潮文庫」がついているのか…?
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性について自伝的に書かれた、当時の発禁本。しかしながらそんなにエロス!!というほどではないのですが、当時の文化なんかがうかがえてすごく面白かったです。
軟派・硬派だとかは以前漫画で読んだことがあったので、あ・これのこと!って思いました。本当にあったんですね…!
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哲学を教えている主人公が、自身の性に関する成長を顧みて自伝を書く形で進んでいくお話。性の萌芽から、硬派としての書生時代、そして吉原での出来事などを書いてしまった後に、自身の洋行中に起こったことを書く前に筆を止めてしまう。 この話はとてもおもしろかったです。うん、共感できるところがたくさんあった。男性としてかならず避けて通れない道を赤裸々に語ってくれます。性欲、それは永遠のテーゼなんですね(゚∀゚)ちなみにこの作品は当時、その内容が過激すぎたため連載していた雑誌が発刊禁止処分を受けました\(^o^)/
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本人の性生活の歴史を赤裸々につづった本。ところどころおもしろい部分もあったが、読み終わった後何も心に残らなかった。つまらん。
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当時発禁処分まで受けた問題作ですが、内容はいたってシンプル。
どちらかというと淡白ですな。
内容よりも語り口の美しさが素敵。
08.09.22
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鴎外の性生活をその芽生えから青年期まで綴った自伝的小説。
当時発禁になったというだけにどれほどエロいのかと思いきや、全然普通で健全。
この時代の人も辞書でエロワードを引いていたという所が妙に笑えてしまった。
いつの時代もお約束としてやっているのだなと。
また見合い結婚が当たり前の時代に「俺みたいな醜男と誰が好き好んで結婚などするのか」と自覚してしまう鴎外の卑屈さは作家として信頼をより深めてくれた。
男尊女卑の時代なんだからそこはもっと自信持って良いだろう、とこっちが励ましたくなった。
早すぎた喪男。
鴎外は文理において優れた功績を残した秀才として見がちだけど、妙な俗っぽさがあってそこに惹き付けられるのだなと思う。
最後の言葉が「馬鹿馬鹿しい」だったという、その俗物さうかがわせるエピソードも魅力的に感じてしまう。
結局満たされなかったのかどうかは知る由もないが、これだけの人物が満たされなかったと思うと我ら凡人も諦めがつくというものだ。
男の根底にあるものを理解するなら鴎外を読むのが手っ取り早いだろう。
そして現代の理系博士全員に性的な小説を書いて欲しくなるのだ。
小谷野敦だけに独占させておくには勿体無い(小谷野は文系だけど)。
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禁止発売された連載である。 それだけで面白みある。 買った時ただ変わった外語の題だねと考えて、何か新潮なものでも書いてあるみたいな心持。 マア読み始まったら、私欲の生活のラテン語だっと知ってちょっぴり冷えてしまった。 幸い鴎外先生信じたる者だし、この事も滅多に書かないんだし、また張り合い有って読んだ。 性欲で題にしても欲と言う成分がかなり薄く感じます。 むしろ人の成長必然に随って、特別な課題として性に対する認識の更新、成り行きを冷淡に観察とゆような作品です。 近頃鴎外先生に敬愛の折折文献を調べたら、陸軍に勤めていた時分に随分厄介な事を起こして、医療衛生に関るものなので人々の命を奪うほどな悪影響も与えたそうです。 実に残念の極まりだ。 如何してこんな酷い過ちになるのかしらと考える最中、恰もこの本を見て案外とその意気地を理解してみてしまった。 人生は自己弁護であるんだ。 負けじ魂はいかなる罪悪の深みへ落しかねない . . . 僕もこの負けじ魂のために、行きたくもない処に行くことになったのである。 折れないプライトでもあれば、自ら持っている自信心に賭けるのでもあるだろう。 ですからその遣り方は認めなくても考え方だけは確かに少なくとも解しえることになった。 そしてやはり鴎外先生の硬く弾けない生き方に敬仰しかねない。 情熱が誰かに見えなくても、衒学だの、自己弁護だの、雑報にも劣れてると云っても惚れたものは惚れたのだ(笑) その冷徹な精神の運び方に、その生への軽蔑と生への愛情の混淆に呼び返される我が涸れて行ったこころ。