紙の本
「反原発運動史」ではなく
2024/04/27 14:38
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投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
「反原発運動史」ではなく「反原発思想史」である。戦後の文化史、とりわけ80年代以降のサブカルやニューアカ等の変遷に関心がある人は面白く読めるかもしれないが、良くも悪くも著者の個性がかなり強く出たものなので異論反論も多そうではある。
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反原発思想の分節化に意味はあるのか?
2017/03/05 18:49
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投稿者:親譲りの無鉄砲 - この投稿者のレビュー一覧を見る
フクシマ原発事故の衝撃は世界中に広がった。今なお廃炉の道筋は見えず、この先百年単位での人類の宿題が山積した。地元住民や国民に刷り込まれた「安全神話」は311の歴史的事実の前には何の説得力もない薄っぺらな嘘だったことが白日の下に晒されている。しかし原発推進の国策は改まっていない。また、多くの国民はその刷り込みに再び順応し始めている。だからといって原発問題の解決策や口当たりの良い方針及びその提示、そんなものは多分ないだろう、と著者はいう。著者は勿論原発推進者などではない。しかし原発問題の反動としての「反近代」への志向には抵抗すべきである、そのためには、「正しい」歴史認識が必要、ということで本書は書かれたのだそうだ。
預言者的市民科学者として311後注目を集めた故・高木仁三郎や、1980年代の反原発ニューウェーブの思潮を繙くには、1968年に遡らねばならない、と著者は主張する。この手の議論に私は詳しくないが、想像するに、著者本人の原体験に立ち戻ることが主観的に必要なのでそうしている、ということらしい。結局その旅に読者は長々と付き合わされることになる。確かに高木の思想信条に毛沢東主義が何らかの形でこびりついていたかもしれないし、表立っては宮澤賢治へのシンパシーも表明していた。宮澤賢治にはその後のニューエイジの旗手たちが抱いた共鳴もあったかもしれないし、アナーキズムとエコロジーの結びつきから1980年代以降のサブカルチャーが表出しており、その担い手たちが反原発運動を主導した、という歴史的事実はあるかもしれない。現代思想をリードした一方の大物である吉本隆明は早い段階で原発推進を表明していたという歴史的事実も抑える必要があるかもしれない。いくつかの事実誤認は散見されるものの、断片的な情報それ自体は興味深いものではある。しかし、著者はその思想潮流を辿る道草を楽しみながら、私のような無知な読者を敢えて置いてけぼりにした。(これが意図的なものであることはまえがきに宣言されている。)結局この挑戦(本書読破)は相当苦痛なものだった。著者は歴史を遡りながらその思索を巡らせていたはずなのだが、本書スタイルが時間順序の通りの叙述を貫いている点にもその原因があるかもしれない。そこで読者には、1990年代を記述した最終章から読むことを私からお勧めしたい。個別現象の原因を知りたければ、その前の章を読む、という変則的な読書の方が、おそらくは苦痛なく読める。興味が湧かなければ、そこで読むのを止めても一向に構わない。(私もそうしただろう。)
最終章にある、「脱」原発運動は新自由主義経済下では第三国への原発輸出圧力になる、という指摘は、一面として当たっている部分があるかもしれない。とはいえ、そこで吉岡斉の「脱原発論」を脱構築主義、と切って捨てたところで生産的な議論は始まらないのではないか。反原発運動の思想背景やコンセプトの純粋培養化や分留化を図って、雑多な反原発運動の意味分節化を執拗に繰り返す著者の意図を最後まで理解できなかった。運動を強めるには、分節化ではなくて統合化の努力の方が恐らく大事だ。大抵の左翼的運動が、些末な思想や基盤の違いで内部分裂を繰り返し自壊した歴史を、結局著者自身が学んでいないようにも見える。
なお、歴史を語る上で現代を評価するためには今少し時間が必要だったが、本書出版は残念ながらフライング気味であった。表面的な新自由主義の下で、原発産業の大手東芝は、逆に目下倒産の危機にある。原発輸出のビジネスモデルの前提が崩壊しているのだ。三菱、日立にもそういうリスクが潜在している。
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12/02/17。
ある歳まではこの著者の言葉は刺激的であった。
久しぶりに買ってみたが、生理的に受け付けられない自分に驚く。
左翼的な言辞への嫌悪感かな。
レファレンスにしかならない。
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内容は日本ニューエイジ人士列伝で、さながら『帝都物語』の続編といった趣。反原発を題材にわずかでも読んで楽しい本が書けるとは思っていなかったので驚いた。
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原子力発電所は太陽電池と発電コストはあまり変わらない。あるいは、事故時のリスクが大きいので作るべきではない。という考え方は、原発を否定する考え方として筋が悪いのではないか、ということを反原発運動にかかわる人たちの思想的な出自を分析することで説明していこうとした本、だと読んだ。
じゃあ反原発の根拠としてどういうものが正しいのかということは書かれていない。私には読み取れなかった。
これまで、テクノロジーの導入に積極的な(原発推進派の)環境活動家はアメリカから来ていて、どちらかというと昔の生活に戻りましょうという感じの(原発反対派的) 環境活動家はヨーロッパから来ているものだと思い込んでいた。この本では、実は反原発の思想的な背景もアメリカから来ているということが書かれていた。そうなんだ。
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これは労作だと思います。反原発の思想的背景を再確認することで、現在の脱原発デモに対する違和感の所在がより明確になった気がする。
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読書会の課題本だったので読みました。(読書会は不参加)
想像していた内容と全く違っていて驚きました。
そして読むのがすごく辛かったです。
原発の思想史というよりかは、日本における左派の活動記録みたいな。
正直生まれる前の話が殆どだし、筆者も左翼運動をまったく知らない人向けに書いているわけではなさそうなのですごく疲れた。
ただ、なぜ反原発運動が「ヒダリ」と親和性が高かったのか、なぜ今「ミギ」からの原発運動が起きていることが稀有な目で見られているのか、そこいらへんがなんとなくわかったから☆3つけましょう。
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正直、左な感じの小難しい本でした。
読者にどれほどの知識量を前提として課しているのか?という本。
ただ、世の中にあふれる言説の一枚裏側をめくってみたら、いろんな魑魅魍魎どもが跋扈しているんだな、とそんなことを感じさせる一冊でした。
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絓秀実『反原発の思想史 冷戦からフクシマへ』筑摩書房、読了。本書は戦後日本の反原発の「メンタリティー」を俯瞰する挑発的な一冊。議論の荒いところは目立つが、戦後日本の反原発「文化」・「思想」の弱点を抑えることは轍を踏まない一助となろう。 http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480015365/
戦後日本の反原発運動は反戦反核の住民運動としてスタートしたから原発そのものを否定するロジックが希薄であった。岐路は1968年。反西洋・反近代義批判が毛沢東を召喚する。毛沢東理論の「誤読」が反原発に近代科学批判の根拠を与える。
(精査されぬ)土着主義とユートピア論は「近代の超克」さながらだ。恣意的な「アンチ」は、ニューエイジ思想を取り込み「カウンター」というより「サブカルチャー」として展開する。宮沢賢治に傾倒した高木仁三郎の楽天性とて例外ではない。
「近代の超克」に関して、日本はかつて苦い失敗を経験している。原発が近代の象徴であればあるほど、近代の枠組みの「外」にそのオルタナティブを求めるべきではないとの著者の立場には納得する。現実の日本は「前近代」そのもであるからこそ。
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原発関連の本を読むと、何回もこの本が引用、紹介されていて、読まないわけにはいかない本だった。
難しいのではないかと思ったが、私なりに面白く読めた。2冊続けて、反原発の流れを書いた本を読んだからかもしれない。
どれだけ理解できたか怪しいのだが、最も目を開かされたことを書いておきたい。
脱原発と新自由主義は共犯の関係にある、という指摘だ。私以外の人には自明のことなのかもしれないが、そこまで考えたことはなかった。
日本で原発の増設が難しくなったからといって、これから発展しようとしている国に売りつけないでほしい、よくも自分の国で売れないものをよその国に売るよなあ、お願いだからやめてほしいと思っていた。
あれ、またわからなくなってしまった。
反新自由主義でいくなら、製造業を国内に残し、すると電力がいるから、原発がいるってこと?
そうなのか?
第2次産業には原発は必要ってこと?
第2次産業と原発はセットなの?
物を製造する以上、地球上から原発をなくすということは不可能なのか?
そう決まっているのか?
原発の代わりのクリーンエネルギーの会社も、ベンチャー企業で、それもまた新自由主義ならでは、みたいなことも書いてあったな。
もともとアホな上に、勉強不足でちょっとよくわからない。もっと勉強しなくちゃ。
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反原発の思想史: 冷戦からフクシマへ (筑摩選書)
(和書)2012年04月13日 14:56
スガ 秀実 筑摩書房 2012年2月13日
すがひでみさんの新作と言うことで興味を持っていたのです。
面白い内容でした。毛沢東の誤読の意味がよく解らなかった?そこはあんまり興味を惹かれなかったからいいかと思った。
アナーキズムについて非常に分かり易く明確に指摘されていて参考になった。
アナーキズムにおけるクロポトキンの相互扶助について、アナーキズムにも右派と左派があるのですね。権藤成卿という右派のアナーキズムの社稷というものそれは天皇を中心とする相互扶助であるらしい。左派のアナーキズムというのは遊動性(自由)がそれに加わったものであるように思える。これは柄谷さんの自由であることが平等であり平等であることが自由であるという関係という無支配(no rule)の指摘である。
兎に角、アナーキズムについて相互扶助と資本主義に対抗する運動という二つの側面がどう可能なのか?それは右派のアナーキズムを左派のアナーキズムに導くことによってあり得るようにも感じる。アナルコキャピタリズム(資本主義)とアナルココミュニズム(左派アナーキズム)などいろいろあると思うが、この本が非常に分かり易くよかったので入門編としてとても良かった。