紙の本
ともに生きてくれた人びとについての記憶、人類の遺産である文学からの恩恵。二者への謝意が書かせたであろう、まろみある短篇作品集。
2012/10/22 13:54
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「時は老いをいそぐ」ではなく「老いは時をいそぐ」が思い過ごしではない、ここ数年。情けなくはあるものの、しかし今さら、ほかの誰の人生でやり直せば満足が行くのか分からない身に、しみじみ響いてくる文章が所収2篇め「ポタ、ポト、ポッタン、ポットン」にあった。
あんたは自分が賢いってわかっているし、そんなことは考えたこともないかもしれないけど、子どものときの記憶だと思ってるものは、もう大人になってからの記憶なんだ。そんなに昔のことは思い出せるもんじゃない。そのころ大人だった人の手助けが必要なんだよ。(P41)
体に痛みをかかえた初老の男性が、小さな頃に母親代わりをつとめてくれた叔母の重篤で病院に駆けつける。
叔母に乞われ、ささやき声に耳をかたむければ、上のおしゃべりの後、これまで打ち明けられていなかった昔話が始まる。男性が5歳当時のことで、それは彼の一生を左右する叔母の発見であった。
叔母にしてみれば、大切な甥の将来を、輝ける光の中に送り出すことに成功した非常に嬉しい発見だったのだろう。しかし、病に倒れた彼女には、もはやその出来事を生き生き表情豊かに語る力はない。「けど死にそうだなんて思わないでよ」(P40)と断わりながら、かすかな声で、実の息子のようにいとしい甥の耳に語りかける。
幼い子どもは、まだ自分についての「昔むかしの話」を持っていないから、昔むかしの話を不思議なものとして面白く聞けるのかもしれない。
いつのまにやらうっかり年を重ねた大人は、自分自身の「昔むかしの話」を多すぎるほどに蓄えてしまったため、自分の話ばかりしようとする。世の中には、そういう大人が多くはないか。
自分の昔むかしの話を、まるで人ごとのように、誰にでも通ずることのようにうまく語れる大人なら、この話に登場する「叔母」のように煙たがられない。けれども、自分の経験したことが、さも重要なことだと押しつけるようにしゃべりたがる者はイタい。
『時は老いをいそぐ』は詩的響きに満ちた切ない題名だから、読む前から人は、タブッキという作家(和田忠彦という哀切が分かったイタリア文学者が訳したタブッキ)の魅力に吸い寄せられ、そこに漂う情緒をまといながらこの本をひもとき始める。
そして、タブッキが現代イタリア文学のみならず世界の現代文学においても得難い作家のひとりだと知っている者なら尚のこと、本書の文学的位置づけ、文学的価値をしっかり語ろうとする。そこで題名に含まれる「時」「老い」がタブッキ文学にとってどういうものなのかを解き明かそうという気持ちになるのだろう。
そのような読後の知的営みは、文学という世界において必要なものには違いないが、「時」「老い」によって得られるものを、自分の過去を振り返りつつ思い巡らせながら、すべての人の「人生の収穫」として全霊で読んでみるのが、この短篇集にはふさわしい。そのように感じられて仕方なかった。
身内や友人はじめ過去の自分とともに生きた人びとについての記憶、彼らにまつわる言及、そして過去の出来事への思いといった私的な部分の価値が、はっきりとどういうものなのかは説明されずイメージのように語られ、時という幾千、幾万もの場面のシーケンスの中に広がっていく。
そして、そうした私的な部分の価値を遠巻きにしながら、人間の遺産としての文学の数々の価値もまた、時のシーケンスの中に広がる。過去の文学作品を連想させる断片が、そこかしこに見受けられ、文学に生きたタブッキの「しるし」を確認させられる。
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さらりとした哀しさ
2016/06/09 04:16
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投稿者:une femme - この投稿者のレビュー一覧を見る
どの短編も、唐突に始まるためか、なかなか読みにいと思うこともあったが、他に類のない、現実的なのに隠喩的ともいうような、さらりとしているのに深い味わいのある物語が並ぶ短編集だと思った。さすがは、タブッキの作品だと思う。なんというか、完璧に纏まっている。
尚、訳者の先生の解説が、巧みに、作品の理解を深めてくれた。
つまり、<望郷>と 、<時>が、これらの作品のテーマとなっていて、特に、私にとって深かったのは、「<時>との葛藤のほかならない<書くこと>が背負う逆説を<時が伝える>逆説に重ねることから滲む思い」が描かれているという解説だった。
全体を通して、主人公たちは時に心を砕き、時を追いかけ、時を見失い、そして、紛れもなく時は過ぎる。
本編も、きっちりと書かれた解説も、完璧な形の作品だと思った。
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投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
いかにもタブッキらしいといえばそうであるが、また新たな境地を切り拓くようでもある。訳者の和田忠彦はこの短編集に流れる雰囲気に「郷愁」をあげているが、タブッキの最後の作品となったことを思うと、作家にその予感はあったのだろうかと考えてしまう。
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驚いた。1週間ほど前に休みがとれたときこの『老いは時をいそぐ』を読み終わったところだった。なんとなくすぐには感想が書けず、少しゆっくり考えたり読んでから書こうと思っていて、どんな作家なのだろう?とWeb検索しているところで訃報に接した。今月25日に亡くなられたとのこと。
堀江さんの帯の文章と雰囲気、気分的になんとなく外国文学を1冊、と思っていたところで手に取った。今回初めて読むタブッキ。
タイトルからしてそうだが、時間というものについていろいろと感じさせるところの多い小説である。何となくなのだけれど、時をめぐるものを書く人というのは、どこか豊かな知性と優美な雰囲気、そして時代を生き抜く剛健な印象をなぜか個人的に与えられてきている。的外れかもしれないが、私が思い浮かぶのは吉田健一、金井美恵子のような作家。プルーストなんかも病弱というイメージもあるけれど、一つの作品に対して思いを傾け続けることができる、という点で、私にはどこか力強いイメージがある。
時間をめぐるある種のすぐれた書物というのは、ある程度の長い時間に対する変化への、人生を賭けての観察のようなところから生まれるような気がする。つまり、ある程度生き延びること、もしくは自分は明日も生きているという感覚が前提になっていると思う。もちろんこれはそういうものもある、ということで、「明日死ぬかもしれない」という思いの中で書かれるものにも、それはそれで魅力あるものがある。ただ、生き延びた上で、時間について振り返る時、そしてそこに、豊かなものを見る眼とそれを文章に落とす力が作家に備わっている時に、すぐれた考察が一つ落とされるのではないか、とこの本を巡ってなんとなく考えていたのだった。
収録の「将軍たちの再会」のようなものを読むと、長い時間によって醸成される輝くような一瞬のことについて考える。そんな時が私にも訪れることがあるだろうか?と。
ただ、訃報に接したことで、またこの本への印象も少し変わった。この本が出された時の自身の年齢等を鑑みながらタブッキが何を感じていたのか? そして、そこから最期の時の間に、どんな時間があったのだろうか? そんな所に思いを致す。
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円と井戸
今日からタブッキの「時は老いをいそぐ」を読み始め。追悼でもあるし、自分にとっては久しぶりでもある。
緩やかなつながりを持つ連作短編集らしい…まずは最初の「円」から。
そのおばあさんの姿が埋められた井戸みたいな記憶の底から浮かび上がってきたのだ。
(p13)
どうやらこの短編の語り手(いや、なんか語っているわけではなさそうだから…うーん、想い手?)の祖母はベルベル人の地からやってきた人らしい。埋められた井戸というのが強烈な印象残すけど、それは水出なくなって捨ててきた砂漠の村の井戸のことでもあるし、子供のいない想い手自身のことでもある。でも馬達が円を描いてギャロップする幻想的な後半部分では、ベルベル人の地のことを全く知らない想い手にもベルベル人の太鼓が内側から聞こえてくる。
うん、でも、前半部分と後半部分、井戸と円のつながりが自分にはあんまり感じられない…穴が空いた感じ。連作短編集の最初だから、全体への謎かけみたいなものだろうか?どうだろうか。
(2012 05/14)
背中と井戸
えと、おはようございます。
またしても井戸です。なんか「井戸を巡る断章」とでもした方がよさげな「時は老いをいそぐ」ですが、今日は二つ目の「ポタ…」(ポトかも?)を。テーマ的にも、話題の移り変わりが相互浸透的な手法にも、なかなか難しいものがあり一筋縄ではいかない作品で、こういうのは眠い中で読みたくは(本当は)ないのですが…語り手(今度は語っているだろう…)の背中の正確な一点から身体全体に投射する痛みというのが、リアルでし(笑)。それと井戸とはどういう関わりがあるのか…
(一番印象的なのは夜を迎えるシーン)
(2012 05/15)
壁から脂へ
今日の「時は老いをいそぐ」は「亡者を食卓に」。このタイトルはアラゴンの詩からとったもの。この作品は前の2作品よりやや筋がわかりやすい。ここからが東ヨーロッパ彷徨実践編?なんだろうか。
で、元東ドイツのスパイの老人が住んでいるベルリンを彷徨したら、昔彼の標的だった男(解説によるとブレヒトらしい)の墓の前に来ていた、という物語。
作品冒頭の路面電車のガラスに分断された自分の姿、あるいは壁のあった頃に郷愁を感じているなどの昔…今の時代は彼にとっては皆身体の中から脂ぎっていると見えるらしい。
そんな彼もスパイされてたらしいけどね。
(2012 05/17)
二重写しの謎
今朝は「将軍たちの再会」を読みました。核の物語はハンガリー動乱で敵味方に別れて戦った将軍2人がモスクワで3日間を過ごすというもの。別の人が書けばものすごく感動的にしてしまうようなこの素材を、物語論とか語る場の情景などでずらしながら、まるで素材をできるだけ隠しておこうとするかのように語る。
で、結局、ハンガリーの将軍がモスクワで出会った相手側は、自分と二重写しみたいな人間…そんな人物が実際いるのかどうかとても気になる…そいえば、前の作品のスパイとブレヒト(と、しておく)の関係もそういうものではなかったか。ペソアも含め、タブッキにとってこうしたテーマはもっ��も核にあったものだったのだろう…
(2012 05/18)
想起のいろいろ(仮)
えと、おはようございます。タイトルは仮です。もっとよいタイトルみつかったら変えるかも?
んで、今日は「時は老いをいそぐ」の中でも掌編の「風に恋して」。間奏曲的な役割かも?
まずはこんな文から。
空の碧が一角にのぞいた隙間を埋めていた。
(p109)
建物の間の空を見上げた時の表現。なんかいいなあ。視点を逆にした表現とも言えるし、絵画的表現とも言える。うまく言えないけど。
この文はもう結末直前にあるのだけど、その結末は聞こえてきた女の歌声につられて古いバラッドが男の口から出てくる…というもの。
あの誰も歌うことのなくなった歌、歌っていた人びとはみな死者となって、その題名も、時代もわからなくなってしまったーそんな歌だったかもしれない。
(p107ー108)
引用は前後しますが、そういう歌が直接知らない男から出てくる…想起というものの不思議さ…この本の謝辞でタブッキは耳を澄ませることを心がけたというようなことを書いてますが、それはそういう歌を聞き取りたかったから…
舞台はナポリ?(まあ、どこでもいいのだけれど…)
(2012 05/19)
フィルムのない映画祭(笑&仮)
今朝は「フェスティバル」。トリコロールの監督(早口言葉みたいに言いにくい名前の人)と、その弟子の脚本家に捧げられています。
ただ、八百長と承知していてもひとがのってしまうのは、いつか勝ち札が手元に廻ってくるかもしれないと期待をかけるせいです。
(p116)
またしても(一番学習効果が高いとされる)変動比率スケジュール思い出してしまうのですが、期待というもの、希望というものはこうやってでしか生まれてこない…人間社会なんてほとんどが八百長だから…
この短編、社会主義政権下のポーランドが舞台なのだけど、そして具体的なポーランド現代史が絡んでくるのですが、直接に地名が出てくるのは、たった一度、ワルシャワの名前のみ。
そして、標題。脚本家ならぬもともとは政治犯の弁護人だった語り手は、ある日法廷の中の映像を撮りたいと言ってきた。カメラのあるなしで判決まで異なる結果となったわけだ。その後、フィルムの在庫が無くなり監督はこなくなった。でも、脚本家はフィルムなしでもおいでください、と誘う、という筋…
(2012 05/21)
かわいいと変わってるの間の水平線
結局、帰りに一編読んだ「時は老いをいそぐ」から「雲」。場所はクロアチアの海岸リゾートで、コソボの平和維持軍に参加した男と、リゾート客の娘の、なんかかみ合っていそうでいなさそうな会話が前面に繰り広げられます。かみ合っていなさそうなのは二人の会話だけでなく、一人の人間にとってもそれが言えそう…
詰まるところ歴史ってやつは、こんなふうにまとめられるってことなんだ。
(p139)
娘が口癖のようにかわいいと変わってるを交互に使い、それを男の方も使う…この2つの言葉は、まとめられることのできない、そういう差異を現しているみたいで、そこをタブッキの好きな水平線という言葉で言い表せないか?と思ったりしてます。
(2012 05/22)
固定化する夢と聞こえない声
えと、おはようございます。
今朝は「ブカレストは昔のまま」。ブカレストでファシスト政権下、チャウチェスク政権下で暮らしてきて、イスラエルに亡命したユダヤ系の老人と、亡命した時にはお腹にいた息子の意識の対話。老人はブカレストの収容所にいた頃、よく門だけあってその先には何もない…という動かない夢を何回も見た、と語ります。そしてそこで強調するのは、声が聞こえてきそうだけど聞こえない、ということ。夢は感情が何らかの変容を伴って出てくるもの。脱出したいという願望と、父(たぶん)からの禁止の掛け声への恐れ?なのかな。
亡命してからは見なくなったというけれど、また最近見るようになった。今度の門の先には何が…
そしてこの作品タイトルは老人が作品の最後に言う言葉。イスラエルのテルアビブを見下ろしながらこう語る。これは固定化する夢が現実に転嫁されたのかな。
現実の時間と感情の時間は流れ方が違うらしい…
(2012 05/23)
いきちがいとその下の層
えと、おはようございます。
昨夜、またもや無理やりに「時は老いをいそぐ」の最後の短編、「いきちがい」を読みました。語られている人物を示している言葉がだんだん微妙にずれてきて、いきちがいというよりずらしという感じですが、飛行機が滑走路に着陸するところの一文が印象的だったので、引用しときます。
そうこうしているうちに機体はようやく着陸にかかり、彼の下を走る滑走路が見えてきた。そこに描かれた断続的な白線は、スピードのせいで一本のつながった線になっている。到着したのだ。
(p193)
この(滑走路の)点線と直線という対比は、その上の機上にいる主人公?の読んでいる「マガジン」に掲載されているいろいろな事件と現実の時の流れというのにオーバーラップされて読みながらある種の快感を覚えるのですが、読み終わったあとで振り返ってみると、その対比はこの短篇集全体の縮図にもなっていないだろうか、とも考えたくなります。
ということで、これで「時は老いをいそぐ」を読み終えました…が、この本に限らないことですが、なんか大きく読み落としている気が。他の本の場合はその読み落としが、抜け落ちとか気づかないとかそういう感じになるのですが、この本(というかタブッキの場合というか)の場合は自分が読んでいる層の下に、また別の透明な層がありそうな気がしてならない。そこでは物語の上の層と全く違うシステムで動いている…そんなような。
(2012 05/29)
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アントニオ・タブッキ(和田忠彦・訳)『時は老いをいそぐ』、短編集。
穏やかな死を目前に控えようとしている登場人物たち。
そこで語られるのは、やはり記憶だ。
それは遠くて、どこかから戦争の砲撃の音が聞こえ、恋があって、
すれ違いがあって、物語の種があって、でもその物語は語られることなく、
ただ霧の中に消えていってしまう。
無数の物語はそうやって消えていく。
ただ消えていく膨大な記憶、その断片をすくい取ることができるのは作家だけで、
ほかの誰にもできない。
だからタブッキは死の床でも書きつづけた。
それは「あるべき希望」なんてものとは関係なく、
消えようとしているものに対する慈しみ、いや正確に言えば「物書きの責任」が支えている。
書いている人、書きたい人が手にするべき本。
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『歳月はひとを巻き込んでは、かつて実際に起きたことまで幻にみせるものだ。そんなことを考えながらベラ・バルトークの音楽を聴き、ニューヨークの空に沈む太陽の下、健康維持のためと称してセントラル・パークまで義務みたいにして散歩する』ー『将軍たちの再会』
タブッキの突き放したような生に対する達観の奥には、連ねられる言葉と裏腹に、ひどく凡人染みた未練のようなものがある。それが不条理な世界に対するタブッキ独特の身の振り方なのだと思う。それこそが自分がタブッキに惹かれる大きな要素なのだけれども。
タブッキが取り上げる世の中の不条理は、往々にして主義主張に付随する不自由さに由来しているような気がする。そういう状況の中でタブッキが取り上げるのは常に自分の意思とは関係なく不条理に絡め捕られてしまう人々だ。おかしなことに、自分の意思とは関係がない、ということは、世の中の流れにただ流されているだけ、ということを意味しない。ディレッタントの旗を振る人であったり、祖国を守る立場に立つ人であったり、と、むしろ自分の主義主張をはっきりと持つ人であると他人の目には映るであろう人である。しかし、その他人からはそう見えるであろう役割に居心地の悪さを覚えこそすれ、昂揚感など微塵にも感じない、という人物ばかりが登場するように思えるのである。
『ふと気づけば両手に弾力を失った風船がのっている、誰かが盗んだのだ、いやそうではない、風船はちゃんとある。中に入っていた空気が抜けただけ。そういうことだったのか、時間は空気だったのであり、気がつかないほどのちいさな穴から空気が抜けるのをそのままにしてきたということ?』-「『円』
そうして時間が過ぎ去っていく。むしろ「時間だけが」と言った方がよいかも知れない。本人は周りの変化に対応することを拒絶しているつもりですらないのに、気が付けばいつも時間だけが過ぎ去っており、変化を拒絶したかのように佇む自分がこの現在に存在している。あの時代でも、仮にそう呼んで懐かしむことのできる時が本人にあったとして、決して居心地の良さを感じることはなかったけれど、今、この瞬間に自分自身を見出している時代には輪をかけたような違和感を覚える。すべて物語がそんな風に進んでいく。
『ひとつ学んだのは、物語ってやつはきまってわたしたちより身の丈が勝っていて、わたしたちの身にふりかかったときには、気づかないまま主人公気取りでいる』-『将軍たちの再会』
確かにそうなのだ、と思う。物語は、勝手に原因と結果を結び付け、本人の断りなしに本人の行動を定義する。そしてそれに対して責任を取れと迫る。もちろん、そんなことはできやしない。しかし、それでも「本人の意思」と周囲が誤解して看做している、その「原因」の種のようなものが、どの主人公の中にも、自分は見出せるような気がするのだ。それを自分は、全体主義に対する嫌悪感であるとみる。
『我々の国では、暴力といえば灰色、モノクロームでもなく、灰色でした』-『フェスティバル』
全体主義に駆られた社会の中に溢れる「白か黒か」的な脅迫は、その発端となる精神が如何に正義心に満ちた���のであろうとも白の(あるいは灰色の?)選択のみを迫る時点でファッショと同じことである。ここに一筋縄ではいかないタブッキ独特の反骨精神の根源があるように、自分は思う。そのことが最も際立って表れているのが「将軍たちの再会」という短篇だ。
ニューヨークのセントラル・パークで耳にするバルトークが(あるいはそれはドミトリ・ショスタコビッチであってもよい、とハンガリー人ではない自分は思うが)、過去を語らない主人公の頑固に閉ざされた精神を一瞬だけ解放する。しかしその解放された気持ちを義務のような日常に押し込んで再び蓋をするシニカル。そこには何も肯定したくない、肯定すれば再び物語に絡め捕られてしまう自分が居るということを自覚する精神活動が存在する。それがよしんば美しく響く物語であろうとも、そこに自分の身を置きたくはない。そんな気持ちが透けて見えてくる。だから、タブッキを読むということは勇気をもらうということと同じなのである。 f
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今年(2012年)3月に急死したタブッキの短編集。死の直前に発行されているが、ずいぶん前に執筆された作品主体だ。
収録されている9編は、いずれもイタリアを離れた異国の地を舞台にした作品。どの作品にも人生経験豊かな人々が登場するのだが、それぞれの語る物語にはどれ一つとして似たところがない。
強いて言えば、韜晦に満ちた老人特有の堂々巡りのような繰り返しの言葉が共通しているところかもしれない。
読者に既視感を与えながら、タブッキらしいさりげない技巧によって、先の見通しをみごとにはぐらかしていく筆の運びはさすが。
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過酷な歴史を生き抜いてきた人たちの記憶を巡る物語。
時に難解で、時に捕らえどころがなく、時に皮肉のようなおかしみを漂わせ、我々は主人公たちの不確かな内面へ導かれる。
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タブッキを通勤電車で読む幸せよ
示唆に富んでいる、以外の良い言い回しを知りたい訳だが、これは腰を落ち着けて音楽なしで読むべきだなと。遡って色々読みたい。書評も読みたいね。ピアチェーレ!
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短編集。須賀敦子さんのエッセイで知った。登場人物たちの語りによって徐々に状況が明かされていき、はっきりとわかった瞬間の、目の前が開けたような気持ち。開放されたような、心細いような、不思議な余韻の残るお話ばかりだった。