紙の本
中世の神学に初めてふれた一冊
2015/09/30 13:17
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:タヌ様 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ギリシャ、スコラ哲学、一気に飛んでデカルト。その間の中世は神学の時代で哲学じじゃない。キリスト教育なんか受けたことが無い私には全く関知しない世界が中世だった。
暗黒の時代なんだそうで、堀米庸三氏の著作位しか読んだことが無かった。いったいどういうものか見当がつかない。テレビ化された大聖堂の世界。外延的に十字軍の世界位でしかなかった。
この著作はそんな中世音痴には少し驚くものだった。著者は長い年月をかけてスコトゥスに取り組み(私はスコトゥスの名前も知らなかった)続けてこられて、じっくりと手なれたやり方で素人にもわかるように書かれているが本書である。
中世に、辺境であるはずのイギリスに神を哲学する宗教者がいたんだっていうことを、どうやって神を考えていたかっていうことを丁寧に語ってくれる。
やはり中世がわからないとだめだったんだと。デカルトが批判した中世観を知らないと、それ以降のスピノザもどっかピンとこないんだなって。
宗教のキリスト教が人々に深く浸透していた世界を知らずして近代の理解はない、これ本当なんだなって、わからせてくれる。
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スコラ哲学の精神をざっくり知るのに良い。例えば完了形という時制は「神にとって、全てはすでに完了している」という神の計画の概念とつながっているなど。
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中世の神学と哲学とについて初歩的な事柄から教えてくれる。
三位一体、新プラトニズム、アリストテレス形而上学、普遍論争、神の存在証明など
キリスト教独特の概念を、繰り返し別の言葉で説明してくれる。
時として日本人の考え方との対比を出してくれたりもする。
神への信仰が西洋の哲学的土壌を生み出したのだなと感じさせる。
神学は存在そのものや眼前で起きる事象に対して、
神にまつわるなんらかの理由付けを模索することに徹底しており、
その理由付けの批判と発展によって近代哲学や近代科学を生み出した。
また、個人主義は神と一個人との対峙の中で生まれる思想であったことを改めて知った。
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中世ヨーロッパの「神学」が具体的にどんなことを追究し、どんな文化がその根底にあったのかということを書いた本である。こういう雰囲気は中国古典の「経学」と似ているので分からないではないが、本書は中世神学の再評価を願っているので、記述にやや「相手をさげて自分を上げる」式のルサンチマン(怨念)を感じる。とはいえ、全体としては「神学」の具体的な姿を知るにはいい本だと思う。ただ、フリーハンドで書いていて注がないので、ほかの研究を検索するのは不便であり、思い切った断定もあるので疑問符もいくつかつくのではないかと思う。第一章は「中世」の時代と場所についてである。基本的に500年から1500年の1000年間がヨーロッパの「中世」で、地域的にはアルプス以北がその主要な場所である。キリスト教の修道士が、自然崇拝の土着民族の住む土地を「祈り」(=呪い)の力で開拓し、時間割にしたがった秩序ある生活を築いたこと、ギリシア・ローマの哲学遺産がアラビア経由で入ったこと、人間が神に似せられて作られたこと、光の形而上学などのキリスト教の基本的要素を確認している。第二章から第四章までが、「スコラ哲学の父」アンセルムス、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥスの神学をテキストから紹介している。アンセルムス(1033-1109)の部分は『プロスロギオン』(信仰以前)から「神の存在証明」を解説している。要するに「神は完全であり、存在しないものより存在するものの方が完全だから、神は存在する」という理屈である。アンセルムスはアリストテレスの全貌を知らなかった世代で、新プラトン主義からこの証明を行っているそうである。トマス・アクィナス(1225-1274)の部分は『神学大全』から社会問題の部分を解説している。守護天使・魔女・不法行為に対する原状回復の思想、神の二重性(自然の秩序にみられる神は一つだが、各人の理性には神は「異なる顔」をみせ、この神の恩寵によって自由が可能になる)などの点を指摘している。トマスは「主知主義」の神学者で、理性が自由の根拠で意志が自由の働く場であるとする。スコトゥス(1265-1308)の部分では、主に経済理論を紹介している。スコトゥスは神の摂理よりも、神の自由を強調する「主意主義」である。神は自然の必然を自由につかうことができ、神は完全に自由なので過去についても改変可能で、たとえ悲惨のうちに人生を終えた人も、神に背かなければ天国ではその人の人生は幸福に改変されうるそうだ。この点は神の摂理を強調するトマスとは異なる。私生児の相続問題(不義密通の子が自分のものでない財産を占有しているとき、その母はどうすべきかという問題、基本的に暴露しても誰も幸せにならないから聖職者になるか、貧者に施せという解答)、商業の価値(商業は国家にとって有益、商人は自分の配慮と危険の対価を利益という形で得てよい。ただし、転売による値のつり上げは取引を妨害しているから不正)、利子論(種籾の例えから利子は正当だが、良識の範囲で決めるべき、時間は神のものなので時間そのものを売るのはウスラ、不正利益である)などである。第五章は「中世神学のベールを剝ぐ」という題名で、内容が多岐にわたり理解しにくい。普遍論争、法則と普遍、神の存在証明、「理性の情」��理性は推論能力、感情はpassioだから受動のこと、純粋理性の存在である天使や悪魔にも喜怒哀楽がある)、ペルソナ(三位一体・自己)、天使の堕落論(天使は傲慢によって悪魔になった。神のようになろうとすることは正当だが、自分だけの力に頼って神のごとくあろうとするのは傲慢、修道僧の欝の問題や学者の驕りと関係がある)などを論じている。第六章は修道院の概説、聖書の『詩編』から「信仰」がどのようなものかを書いている。最終章はフランシスコ会聖霊派の指導者ヨハニス・オリヴィ(1248?-1298)の思想を紹介している。彼の思想はオッカムやスコトゥスにも影響を与えたそうである。オリヴィは神学をやればやるほど、信仰から遠ざかっていくという矛盾を考えた。そもそも神学というのは無信仰な者を信仰に引き入れる役割もあるから、俗な感覚をもっていなくては神学はできないそうである。これに対してオリヴィーは神学それ自体は悪くないが、学問には秩序がないといけないとする。聖書は完全な理性には分かるけど、人間のような頼りない理性しかもっていない者には理解できない所がたくさんある。だから、神学なしで聖書が分かると思ったら間違いである。ただ、クレルヴォーのベルナルドゥスが言うように、アリストテレスの論理学に夢中になって、煩瑣な項目の論証に血道をあげるのは本質を忘れていると批判する。最後のキリスト論は難解である。キリスト(救世主)というのは、神が人の罪を購う(買い戻す)ために人間として生まれ侮辱され死んだ者である。とすると、人間イエスには人と神が混じっているのであるが、オリヴィは水に水を混ぜても水であることが変わりないように、神が人に入っても神であることには変わりはないそうである。こういう理論が後にスコトゥスらに伝わって、「加速度」の研究の萌芽になっていくそうである。著者は大学ではなく修道院で教えつづけたオリヴィに中世神学の本質をみている。この著作に注釈がないのも、オリヴィのような本質的学問をやっているという表現なのであろうか。本書には、歴史的事項や語源(宗教religioとは「再び結びあわせること」)などもあるが、本質は「空手」で「哲学する」ことを実践しているのであろう。神学が科学の種を播いた点があるにしても、異端審問などの暗黒面にあまり言及していないので、片手落ちの感は否めないとは思う。トマスが魔女狩りに根拠を与えたことは否定できないのではないかと思う。主知主義と主意主義は朱子と王陽明のちがいに似ている。
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一般書にしては、緻密な考証で、西洋中世の神学をどうアリストテレスと折り合いをつけるかが焦点です。具体的には、アンセルムス、トマス・アクィナス、ドゥンズ・スコトゥス、ヨハニス・オリヴィを扱っています。それぞれの論証の過程がとてもおもしろいです。でも、この著者はキリスト教徒ではないそうです。
日本との比較の視座を入れるなら、どうして「わび」「さび」になるのか、わからないです。むしろ「空」の「実体」がないということとの比較の方がわかりやすいのに。
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[時去れど今なおの輝き]その分野が重要であろうことは頭で理解しつつも、多くの日本人にとってなかなか手が出ないヨーロッパ中世期の哲学。現在の考え方と中世のそれとはどのように異なるのか、そして中世の哲学は神と世界をどのように理解していたのかを探る一冊です。著者は、西欧中世哲学を専門とする一方、日本思想についても詳しい八木雄二。
中世哲学の世界に入る前に、その世界に入るための頭作りをしっかりとしてくれるところが魅力的。現在の一般的な考え方からはおよそ理解できないであろう世界観を、懇切丁寧に比較や例示を用いて説明してくれています。「中世」と「哲学」という言葉が2つ並んだだけで(自分もそうなんですが)尻込みしてしまいがちになりますが、本書を手がかりにその奥深さを体験してみてはいかがでしょうか。
哲学という主題を通して、中世の人々の生活、特に修道士のそれについての知見を得ることもできます。現在では想像もつかないほど大きな影響力を有していたという修道士の生き方を覗くことで、キリスト教(特にローマ・カトリック)の教義や「仕組み」を学ぶことができたのも有益でした。
〜近代科学の運動の考察にも神学の寄与があったことを知るとき、人間には何らかの形で信仰が必要であることを認めざるを得ないのではないだろうか。この問いは、やはり今なお、哲学に突きつけられている。〜
彼我の隔たりを否応無く感じました☆5つ
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中世のアルプス以北の森の中を開拓した修道士。町の半数は修道士だったのでは。
童貞は結婚に勝る。童貞を捧げることで神は報酬をくれる。現世では知識、死後は天国を。知的好奇心旺盛な若者は修道士になることを選んでしまう。
修道士は天使のように生きる。ただしキューピッドはローマ神話の悪魔の一種。肉欲。
武力では領土の独立しか果たさないが、宗教によって統一が果たされる。天使のような、神に仕える平和の戦士。
形而上学と神学のセット。
(現代でもスピリチュアル系の人は中世神学の感覚なのではないか?)
アンセルムスの神の証明でも最終的に、存在するから存在するという同語反復となる。しかし神学は、信仰の世界をもつ人間にとって信仰の内側の世界で成り立つ哲学を目指している。
外部からの反論に対する論拠も、外部とはユダヤ教イスラム教を想定しているので絶対神や旧約聖書を前提とした論拠であった。
神の世界は円と幾何学の整然とした世界。建築も庭園も、音楽も幾何学的にキレイでなければならない。
予定説は下位のすべても予定されているというが、新プラトン主義のように上位の存在は摂理に支配されているが下位の存在は偶然に支配されているという。
(予定説は無理がありすぎるのでこれでよかったのでは?でもそれだと辛い人生を納得させる術がないのか……)
一方スコトゥスの説では、予定説はなくどんな行いも過去も死後神の前に来たときに信仰心に応じて書き換えられることになっている。
信心深い人の不幸もこれで解決。
神の自由さを有限化したのが人間の自由なので、信仰心のもと自由に色々やるべし。→科学の発達へ。分析哲学「可能世界論」へ。
キリスト教的理性とは、ロジックから出てくることでそこには理性的感情というものもある。日本人は理性と感情を対比させるので非常にわかりづらい。
修道士には非常に細かい日々の規範やスケジュールがあった。
中世でもアリストテレス哲学(最新の知識)を学んだ人たちの中で、信仰(宗教)など必要ないという風潮も。
また神学を学ぶことに熱心な人の中にも、信仰の実践が疎かになる人も。
本書では中世の価値観に少し近づけた気がする。
最終的には神だから神なのだ、神はいるのだという同語反復や、信仰の心を体験したものには分かるという主張の神の存在証明中心の中世に、アリストテレス哲学の論理による存在証明が入ってきてどちらとも整合をつけようとする当時の修道士・神学者の論理や気持ちに少し近づけた気がする。
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神を哲学した中世: ヨーロッパ精神の源流 (新潮選書)
(和書)2012年12月18日 19:18
八木 雄二 新潮社 2012年10月26日
キリスト教神学の読み解きが非常に面白いです。神学がどういうものか始めて考えることができる。かなりの労作でそれを惜しげもなく披露してくれる著者に感謝したいとおもいます。
古代哲学・宗教から中世へそして近代・現代へ続くものをどう捉え考えるか非常に参考になる本です。
図書館で借りたけど購入したい一冊です。
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中世神学に近づくために:
中世、その時代と場所
ギリシア・ローマの哲学遺産
キリスト教の権威
「目に見えない世界」の奇妙な構造
キリスト教神学の誕生―アンセルムスの世界:
形而上学・神学・スコラ哲学
「信仰以前」の世界
地上の世界をいかに語るか―トマス・アクィナス 『神学大全』:
天上から地上へ
中世における精神と身体
二重に見える神
神学者が経済を論じるとき―ドゥンス・スコトゥス 『オルディナチオ』:
神の自由と「別の可能性」
私生児の遺産相続
金儲けは正義か?
所有・貸借・利子
中世神学のベールを剥ぐ:
修道士の精神世界
「普遍」とは「もの」である
神の存在証明
フォーマルな知と情
「天使の堕落」問題
信仰の心情と神の学問:
キリスト教信仰の文学的土壌
学問への不安
中世神学の精髄―ヨハニス・オリヴィの学問論・受肉論
神学は藁屑か?
学問に必要な七つの事柄
照明・味覚・発語
神の受肉をいかに証明するか
神学と科学
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アンセルムス,トマス・アクィナス,ドゥンス・スコトゥス,ヨハニス・オリヴィの業績についてよくまとめられている。時に日本の思想を補助線に。