紙の本
個人的な視点で描き出すライトエッセイ
2018/05/31 19:59
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:たあまる - この投稿者のレビュー一覧を見る
『ぼくの沖縄<復帰後>史』は、復帰後の沖縄社会を地元ライターの新城和博が個人的な視点で描き出すライトエッセイ。
ボーダーインクという那覇の出版社の新書です。
沖縄の土産物屋で買って、帰るまでに読んでしまいました。
沖縄の県民大会を上空からの写真の視点でなく、会場の参加者の視点で書いているのが興味深かったです。
投稿元:
レビューを見る
著者は1963年うまれ(ということは、『みぞれふる空』のサーちゃんと同い年だ)、アメリカ統治下の沖縄で育ち、1972年5月15日の日本復帰を小学生で迎えた。
復帰から40年の節目にあわせ、沖縄タイムスの文化面で隔週連載された「沖縄復帰後史 我らが時代のフォークロア」をまとめたものがこの本で、著者は〈復帰後〉の40年にあった出来事の中から沖縄タイムスの担当者に「お題」を与えられて、自分の記憶から蘇る場面を描いたという。
1970年代、1980年代、1990年代、2000年代以降という区切りのなかで取り上げられたできごとについて書かれているのは、著者の個人的な体験だが、それは「誰かの物語と重なるかもしれない」(p.6)ものなのだろうと思えた。
▼数え年四〇の間に沖縄で起こった事を挙げればきりがない。 (略) 沖縄戦を体験していない世代の僕でも、復帰から四〇年も経てば、ひとつの歴史として沖縄を思い返すことができるかもしれない。戦後史ならぬ、「沖縄〈復帰後〉史」とでも名付けてみよう。(pp.5-6)
ドルから円へと通貨が変わり(1972年)、米軍統治のもとで右側交通になっていた沖縄が左側交通に変わり(1976年)、それまで使い慣れていた1セントと比べてあまりに軽い1円玉になじめなかったことや、バスの向かう方向が逆になり、バスの乗車口が変わり、乗るべきバス停が逆になったという「同じに見えて一か所だけ決定的に違う風景」(p.30)の記憶が書かれている。
沖縄の右側交通が続いていた6年間、日本は「一国二制度」で、それを沖縄が変えるかたちで制度は揃ったのだが、「逆の立場になって考えてみて、「なぜ沖縄の方を変えないといけないの」という、きわめてもやっとした疑問も、あるにはある」(p.27)というところには、はっとした。
80年代半ばの「日の丸・君が代問題」、これが復帰後の沖縄で"問題"になったのは1986年3月の県立高校の卒業式からだろうか、と著者は書く。それまで「日の丸・君が代」の実施がほぼゼロだった沖縄県に対し、前年9月に文部省から実施せよとの通達があり、それを受けて沖縄県教育庁は日の丸掲揚と君が代斉唱を各高校に"指導"、実施をめざす学校長と反対する高教組や現場教職員、そして卒業式当日には多くの学校で"強行"されたのだという。1985年は、昭和でいうと60年、この"問題"は昭和天皇在位60年とたぶん関係があるのだろう。
86年だったかどうかは記憶がはっきりしないが、私が通っていた大阪の高校でも、日の丸・君が代を実施しようとする校長と教職員組合のあいだで悶着があったことは聞いた(組合員だった先生が、授業のときか何かのときに話をしたのだった)。私の記憶では、そのときは組合が実施を阻止したのだった。組合の組織率がまだ高かった頃だと思う。
この「日の丸・君が代問題」の頁では、著者の母が、沖縄にもある「君が代のような唄」を、出身地の島に住む自分の母に「いつもこんな風に言い換えて葉書に書いて送っていたよぉ」と教えてくれた、その唄が書かれている。
▼んなとぅちびぬ石ぬ
大瀬なるまでぃん
うかきぶせみしょり
わん親がなし (p.58)
母の思いを込めた意味として、これを著者が意訳したものは「んなとぅちび(地名)の小石が 大きな石になるまで 元気で過ごせますように 私の大切なお母さん」(p.58)。こちらの石の唄が自分にはしっくりくると著者はいう。
1995年、「戦後50年」の年に起こった、米軍人による少女暴行事件と、それに対する抗議は全県に拡がり、「事件を糾弾し日米地位協定の見直しを要求する」ことを目的とした10・21県民総決起大会となった。大会参加者は8万5千人で、復帰後最大の抗議運動と言われたそうだ。
▼あれから18年もたったなんて嘘みたいだ。何がかというと、沖縄の米軍基地問題が何も進展していないということがだ。あの日、何かが起こると予感した心のざわめきは、なんだったんだろう。
僕は当時こう考えていた。今この国で沖縄の人々が声をそろえて「米軍基地の整理・縮小、そして撤去」を打ち出すことは、一種の独立宣言じゃないかな…。(p.93)
そして、2007年の、「教科書検定撤回9・29県民大会」。沖縄戦における住民のいわゆる「集団自決」に関して、高校日本史の教科書で「日本軍の強制」を示す記述が削除されたことに抗議し、検定意見の撤回を要求する大会は、95年の参加者数を上回って、またしても復帰後最大規模と言われたそうだ。
この頁には、著者の母が渡嘉敷の集団自決の生き残りで、「天国に行って学校に行きなさいね」という親戚の一言に「死んでから学校があるかっ」(p.145)と子どもながら怒って叫んだ話と、戦争当時中学生だった著者の父は、座間味村慶良間島でやはり集団自決の現場にいた当事者であることが記されている。著者は、沖縄戦の写真集に載っている当時の父の写真を見ながら、集団自決を目の当たりにした少年の心情を想像する。
「生き残り」という言葉に、私は、もしその生死が違っていたら、著者は生まれていないし、この本もないのだなあと思った。
そんなふうに記された〈復帰後〉のエピソードのあと、巻末の「付録 〈復帰四〇年〉の後に考えたこと」の末尾で、著者はこの本をまとめるように沖縄イメージの変遷を書いている。
▼沖縄イメージの変遷は、復帰後から振り返ってみると、「沖縄戦のビジュアル資料の衝撃」、「亜熱帯・無国籍的リゾート」、「琉球王朝文化の再現(レプリカ)と沖縄ポップの登場」、「長寿、癒やしのウェルネスな島」、「バーチャル・リアリティとしての沖縄の自然」、「消費行動の郊外化」と変遷してきた。さて現在の沖縄イメージはなんだろうかと、もやもやした気分でいたのだが、「沖縄文化のレビュー化」という言葉で、個人的には腑に落ちたのである。
「レビュー」には「批評・評論」という意味があるが、今後「批評的視覚化」という表現が、沖縄から立ち上がってくるのか、ちょっとだけ期待したいところである。(p.194)
私には未踏の沖縄、そのイメージは…と考えてみる。この本を読みながら、40年という年月は、生まれた子どもがいいオバハンやオッサンになる歳月でもあって、その中で変わったことと変わらないこととは何だろうと思った。それは、たとえば大阪の40年と比べてどうなのかとも思う。
『ウシがゆく』をまた読んでみようと���う。
(6/15了)
投稿元:
レビューを見る
自分の生きた時代を、こんな風に私は語れるかしら。その時々の世相をしっかり捉え直しながら、その中に生きてきた自分を確認できるかしら。読み終わった後に、そんな風に考えてしまいました。
何度かお話させて頂いたことのある新城さんの著作です。何故か積ん読してたんだぜ…。
パワフルな方だな〜でも、体育会系のノリとは何か違うな〜と、勝手に親近感を覚えたことが懐かしく思い出されます…(笑)。
沖縄の戦後史?
本土復帰と海洋博と基地問題ですかね…と、「教科書に載ってる歴史」以上のことは実感としてはなかなか分からない(生まれる前の話なんだからそりゃそうなんですが)、そんな事件やイベントが、著者の個人的な思い出と合わせて書かれた本作。
記録として報告される事実と、思い出として語られる言葉は、こんなに温度差があって、こんなに説得力に違いがあるんだなあ、と感じました。ただデータを残すのではなく、語り継ぐことの重要性っていうのは、こういうところにあるのかな。
是非見習いたいと思ったのは、「批判」の表現の仕方ですね〜。私自身、気を付けたいと思いながらも、批判する時に出てくる言葉はどうしてもネガティブかつ攻撃的になりがちなんですが、新城さんの言い回しはエスプリが効いてるのよね〜。チクリと刺しつつクスリと笑えちゃう感じ。…「エスプリ」って言うとなんかシャレオツな感じするな〜(笑)。「ウィットに富んだ」? 何だろ(笑)。
私の中での一つのターニングポイントは、1995年です。これは確信持って言える。
阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、そして当時の私とほとんど変わらない少女が被害に遭った事件に対する抗議大会。父と喧嘩して激昂して泣く以外で、母が初めて涙を見せたから、すごく驚いたことを覚えています。
初めて沖縄を出て東京に行った年でもあったなあ。地下鉄サリン事件から一週間も経たずに行ったな…。家族で社会問題について語り合うようになったのもこの頃からじゃなかったかしら( ^ω^ )
っていうことを考えて行くと、1999年の沖水の春の甲子園優勝の時は祖父の葬儀でものすごく晴れてる日だったなあとか、9.11の時は金田一少年のドラマが突然ツインタワーの映像に切り替わって鳥肌立ったなあとか、うん、意外に鮮明に覚えてるなあ。
なんか、長くなった〜(笑)。いつものことだけど(笑)。
メモるのだよ( ^ω^ )φ
◉沖縄が日本になる為に躍起になった1970年代〜本土からやってくるものへの不安もありつつ〜◉
復帰すると沖縄にも雪が降ると子供たちは信じていた?!笑
ダイナハ(VS公設市場からの〜)、海洋博、ナナサンマル
◉ヤマトンチューになりたかった1980年代〜コンプレックスはあるけど、具志堅用高はやっぱりウチナーンチュのヒーローだった〜◉
ちょっちゅね〜(グシケンヨウコに反応する琉大生(笑)、日本記録の断水、バススト(東洋バスだけはしなかったらしい(笑)、西銘順治、日の丸・君が代問題(掲揚するけどコッソリと、歌は歌いませーん)、慰霊の日問題
◉沖縄らしさを模索し始めた1990年代〜沖縄POPカルチャーの流行と基地問題の顕在化〜◉
復帰前後のデモとは違うシュプレヒコール、沖縄ブーム(ハゲ=ミステリーサークル(笑)、首里城開園、10.21県民総決起大会
(静かな怒りの共有に、ある種の心地よさ)、ナビィの恋
◉閉塞感の2000年代〜ウチナーンチュの闘いは終わらない
サミット(プーチン怖い…いつまで現役なん…)、ちゅらさんブーム、美ら海水族館開館、稲嶺知事大勝からの辺野古沖埋めたて合意、ヘリ墜落、教科書検定問題、オスプレイ問題(抗議大会だけ時間通り(笑)、
動かざること米軍基地の如し
投稿元:
レビューを見る
沖縄タイムス文化面にお題に対しての随想録、その時の年表、出来事事件の写真や注釈などで紹介。1945年沖縄戦直後から1972年まで日本から分離されたアメリカ施政権下、1972年5月15日27年ぶりに沖縄は日本に復帰、その間どういう体験をしたか社会的出来事を著者が個人的な体験、視点でまとめたもの。懐かしすぎて付箋だらけになった。沖縄の友人と語り合いたい内容ばかり。ダイナハ、海洋博、ナナサンマル、断水、バススト、日の丸君が代問題、米兵による少女暴行事件、安室奈美恵、ちゅらさん、美ら海水族館、ゆいレール、沖国大米軍ヘリ墜落、興南高校野球部、春夏連覇など。
『1981年 具志堅用高敗れる!』「生まれジマの言葉を持ち続けることが、真の強さにつながることを表現」「沖縄ブームの基層のひとつを形成」
慰霊の日休日廃止問題は週休二日制の導入だったのか!現在も休日である。
90年代の沖縄ブーム、「日本になりたい沖縄」「日本になれない沖縄」でもない、新しい沖縄のイメージを構築すべく、沖縄の生活文化の面白さで「新しい沖縄イメージの創出」、「沖縄県民の観光客化」などの言葉が印象的だった。
いまは住宅商業地域としてにぎわっている那覇新都心となっているおもろまちは、悲惨な激戦区「シュガーローフ・ヒル」(慶良間チージと地元では呼ばれた)を含む、天久住民が再び集落を形成したのに最初に強制収用された土地で米軍専用の住宅地「マチナトハウジングエリア」だったとのこと。復帰後から徐々に返還、しばらくは広大な空き地状態(正月は家族で忍び込んで凧あげをした思い出がある)。
沖縄住民の自立性について、影の中に光を織り込んで被植民地化された人々の複雑な現実を生きる方法と智慧があった(仲里効)アメリカ統治という時代は、伝統を抱えながら、絶えず何かを想像し表現したいと思う沖縄びとの時間だったと感じた(高良倉吉)
基地問題の現実的対応で絶えず厳しい選択を迫られる政治状況への閉塞感漂う沖縄現代史、歴史の転換期を押さえつつ、振り返ることができた。