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この『暴力的風景論』は「風景的暴力」もしくは「暴力としての風景」とパーツを組み替えて読むことも可能な(?)タイトルの本書であるが、この「風景」とはなんぞや?の回答は、序章でジンメルを介して定義された、目の前に繰り広げられる事象を上位レイヤーで総合する「気分」であり「内面」てあり「世界観」であり「物語」である。
これら「気分・内面・世界観・物語」がいかに「権力」=「暴力」であるかを説く所謂「物語批判」の体裁を持ちながら、逆にこの「風景」という枠組を最後まで手放さなかったことで、「気分・内面・世界観・物語」というターム(手垢まみれの)だけでは語り切れない別種の即物的な「事実」を語りえているようにも思える。
勝手な個人的に印象で解釈すると、所謂「精神分析」が夢や記憶からの「心象風景分析」であるとすれば、この「心象風景」から私的な「心象」を分離して実際の「風景」の分析に焦点を当てたのが本論であるかのような。患者の私的な「物語」を分析家の公的な「物語」で翻訳しなおす「心理学」とは違う手続きであるからこそ「風景=物語」へ総合されるスープラ手前、プレ「風景」として物理的に露呈されているインフラへの徹底した凝視があるような。
結果、現実に起きた戦後事件史の犯罪者から戦後政経の屋台骨を担った政治家財界人の個人史を辿りながらも、安易なファミリーロマンスに陥らない=素朴環境決定論の罠にも嵌らない、「彼らが観ていたところ」の「風景」論が展開され、そしてそのままそれが「理路整然」と「暴力」へと行き当たる。
その「暴力」は「間違っている」のだが、発射位置と発射角度さえ見定めれば(=「風景」)その弾は放物線を描いて「暴力」に着弾せざる得なかったことを証明するかのような。
また複数章を跨いだ「村上春樹論」としても読める本書であるが、上記意味で「村上春樹の物語論批判」でもあり、「やれやれ」退場後、村上春樹作品に氾濫した暴力に対してインセストタブーへの無力とは違う視座(歴史―社会的と言ってしまっていい)を与えている。
村上春樹の物語論はつまるところ「物語をもって物語を制す」というワクチン療法(それはある意味心理学的な手続きでもあるが)であるが、だからこそ薬物が本来的に持ってしまう毒性には無防備であり、すなわち「悪い物語」に相対する「良い物語」の暴力性に無自覚(ベンヤミン流に言えば「法」であるところの「神話的暴力」の肯定)である。
そこに「別の風景」の共存しえる「重層性がない」と著者は語る。
乱立する「神話的暴力」間の対話の可能性を探るために、「物語」には「物語」、「風景」には「風景」をあてがう「村上ワクチン」の免疫療法ではなく、そもそもの毒を無効化させるような手続きがあるのかどうか(さきのベンヤミンの補助線であえて言えば「神話的暴力」を粉砕する「神的暴力」の可能性がありえるのか)?
もしくは毒を孕みながらの対処療法的なブラグマティックな態度、いちいちの対話の可能性を探り、いちいちの理解の可能性を探る手続き。
おそらくその難しい可能性への回答を本書で試みようとしている��ではないかと思う。少なくとも著者は「別の風景」を理解できないものとして否定もしなければ、「崩れさるだろう」と予言もしない。それが3.11後の分断しモザイク化した日本の「風景」への著者の解なのだろうと思う。
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武田徹節ともいえるハイブリッド的な方法で描かれたノンフィクション+評論。沖縄、ノルウェイの森、田中角栄、宮崎勤などが取り上げられる。膨大な数の参考文献を引用し、風景を読み解いているが、もう少し見たままの描写が多い方がよかった。評論的な部分は、それぞれのテーマで書かれた本があるだけに既視感があった。一冊をまとめるような加筆修正をもう少ししてもよかったような気がした。
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わたしたちはしばしば同じ風景を目にしながら違うものを見ている。それは、風景が同じ構成物の集合である以上に、それぞれの主観において統一的な全体性・意味を提示するものであるからだ。
著者は、ジンメルや柄谷行人の風景論を引きながら、それぞれの「気分」や「世界観」を反映する虚構としての風景を唯一絶対の現実として取り違えることは暴力につながりかねないと指摘し、戦後史における暴力事件の「風景」をジャーナリズム的手法でたどろうとする。
日本を世界にただひとつのユニークかつ優れた「風土」をもつ空間として描いた和辻哲郎『風土論』はその問題性も含めてよく知られているが、冒頭で紹介されているのは、それよりもずっと早い1894年に刊行された志賀重昂(しげたか)の『日本風景論』だ。日清戦争に勝利し欧米諸国と肩を並べる国民国家となろうとしていた当時日本でベストセラーとなったこの本で、志賀は、それまで詩歌で称賛されてきた日本の名勝地ではなく、近代国家日本にとってよりふさわしいと考えられる日本の優れた風景を再発見し定義したという。その中心におかれたのが富士山であり、さらには富士山よりも標高が高い国後島や台湾の高山にまで「〇〇富士」という名前をあたえることで、心理的風景においては富士山を頂上とする「日本の風景」の中に階層的に配置していく操作を行っていたという。
さて本書第一部では、「戦後日本」というナショナルな「風景」の形成過程が、米軍基地とアメリカンカルチャーが満たす沖縄、連合赤軍事件が起きた長野の避暑地、田中角栄の日本列島改造論を通して論じられる。ややつまみ食い的になってしまうが、開発の遅れた「裏日本」という概念が早くも1900年代に登場していたこと、角栄の「日本列島改造論」が、同じ新潟出身の北一輝による「日本改造法案大綱」に影響を受けたものであったということも、本書で初めて知った。
さらに第二部においてはこのナショナルな戦後風景の暴力的解体を示唆する宮崎勉事件、オウム真理教事件、酒鬼薔薇聖斗事件、秋葉原殺傷事件の現場や、村上春樹の小説世界などがルポルタージュ的手法で論じられていくことになる。このあたりが評論家としては本領発揮ということになるのだろうが、こちらはあまりついていけず…暴力と風景の議論も正直あまり納得できる気はしなかったのですが、しかし歴史的事実に関してはいろいろ学ぶところ多い本ではありました。
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【風景の強要】
ここでいう風景とは、風光明媚な、なんていう風景、ということではない。あなたとわたしが同じところを眺めていても、それは同じようにはそれぞれの心に届くわけではない。何かの風景にイメージの統一を促すものは「気分」であり、「世界観」でもある。環世界といってもいいのかもしれない。そんな、それぞれにとって違う「風景」が、ときに暴力行為の源になる。だって、争いは自他の違いから生まれるものだから、見えている世界が違えば、そりゃあ争いになるだろう。問題は、その風景づくりに、ジャーナリズムも変な荷担をしていることだ。
8つの風景によって生まれた暴力的行為を描いている。たとえば沖縄という風景は立場によってまるで見え方が違う、アメリカによって書き換えられた国家のOSが描く日本最先端の風景ではないか。他にも日本列島改造論やら、ノルウェイの森やらと、風景の話はさまざまに展開する。
僕は環世界という言葉が好きである。本来生物の種ごとにことなる知覚世界を表現した言葉だけれど、ここでいう「風景」は、人間ごとに異なる環世界の話である。その言葉で、なんでも物分りよく理解したつもりになるのもまずいけど、とにかく誰にだって同じ風景は見えていないんだ。でも、これで本書の内容が説明できているわけでもない。自分に焦れるのである。