紙の本
タブーがタブーである所以
2020/06/17 21:52
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:食いしん坊22 - この投稿者のレビュー一覧を見る
三章までありますが、著者の主張は主に第一章に著されているように思います。
ダメだと言われたから書かないのではなく、
ダメだと思うから削除する。
忖度しているわけですね。
出版業界の仕組み、特に取次や流通のことについても書かれていて、業界を知るには興味深いです。
ただ、序章とはいえP21と本論のP179の記述はエピソードとして重複しており、頂けない。
本文を読んでいて既視感があり、あれ?と思ってしまった。
紙の本
タブーって
2019/04/26 23:53
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:きりん - この投稿者のレビュー一覧を見る
タブーって自分の心に壁を作ってしまうことですからね。みんなが、と誰かのせいにするのではなく、今一度自分に問いかけてみなくては。
投稿元:
レビューを見る
タブーはいかにして、そして誰のために生まれたのか? 「そこそこ自由な国・日本」に生きるぼくたちだからこそ知らなければならない、誰も教えてくれないタブーの正体と無力化する思考法。
投稿元:
レビューを見る
皇室、宗教、在日
どんな業界でも取引先の悪口は禁物。
とりわけエンドユーザーと接点のある小売店の悪口は禁物。
黒人差別、職業差別。
投稿元:
レビューを見る
日本におけるタブーについての検証で、内容は網羅的ではあるが、各事項についての深い論考まではなく、入門的解説書。
投稿元:
レビューを見る
もっとオドロオドロしいタブーを期待してたんだけど、意外と普通の話しでした。
ジャニーズに触れてないのは何でだろ?タブーかな?
暮らしの手帖に広告がない理由が、自分でアートディレクションできないページがあるのが我慢ならん、というのは大変興味深い。なぜ他人がデザインしたページを許容するのか、と。
投稿元:
レビューを見る
日本と言う国はそこそこ自由な国である。あくまで自由なのは「そこそこ」であり「ある程度」なのだ。
国家による「法規制」や自主規制である「タブー」などを主に、表現に関する自由を考える。
なんとなく読んでいて違和感を感じた。
著者は規制はない方がよい、最小限にとどめるべきだ。タブーに関しても然りと言う。確かにそうなのだろうが、社会性のある種としてはやはりルールは必要だろう。むしろ在った方が安心して生活できるというものだ。まあもともとそういう暮らししか知らないせいかもしれないが、今規制されているものを不自由とは感じられない。こう言うとすでに権力のコントロール下に置かれていると言われてしまうのだろうか。
タブーの方がもっと複雑だろう。ここで多く取り上げられているのは報道に関してだが、スポンサーに対するタブーは、相手のことを考えてというよりは自己の利を考えてと言うべきだろうから、私的にはちょっと別にしたい。最近の風潮として正義と言う名の個人たたきが行き過ぎているような気がする。当人ならいざ知らず、無関係の人間が口を挟まなくてもいいようなことまで大騒ぎをするのは如何なものか。というか、人それぞれなんだからもっと曖昧でもいいんじゃないかな。自分には厳しめで他人には寛容なくらいが丁度いいと思うのだが。
配慮しすぎるのもどうなんだろう?もちろん他人を傷つけたり差別するのは良くない。とだこれも人によって感じ方が違うし、言葉さえ謹めばよいものでもないだろう。問題は言葉ではなく、その後ろに垣間見える気持ちの方なのだから。と『ちびくろさんぼ』好きの私としては、とても哀しく思う。
投稿元:
レビューを見る
・第一章は、「出版と報道のタブー」。出版や報道に関する「タブー」は、その多くが何かによって禁止されたものではなく、自主規制によるものである。圧力や暴力、そして、ビジネスがらみの理由から自主規制をするのだが、極端に言えば「事なかれ主義」という印象が強い。民衆に事実を伝えるための出版・報道機関として、その姿勢はいかがなものかと思う。
・変わって第二章は、「外側からの規制」である。法律や条例などによるもの。
p.187
時代が変われば価値観も変わる。法律や条例がつくられたときと、社会や人びとの感覚が変わっているものもある。また、法律や条例がつくられたときには想定していなかったことが起きたり、想像もしていなかったものが登場することもある。ことの性質上、法律や条例は社会の変化を追いかけるようにしてしかつくることができない。そして、時代に合わなくなった法律や条例を変えたり捨てたりするのは意外と難しい。名誉棄損やプライバシー権侵害、著作権侵害についても、これからさらに変わっていくだろう。
しかし、法律や条例の中には、首をかしげてしまうようなものもある。
p.178
「愚かな民草はほうっておくと何をするかわからないから、我々がコントロールしてやらなきゃいけない」という役人の大きなお世話&上から目線の大衆蔑視的感覚が根底にあるものと思われる。国民を子ども扱いして、信用していない。
・現代日本には、言論の自由はないと思ったほうがよい。インターネットの登場で、言論の自由が確保されたかと思いきや、実はそうでもないということである。
p.214
一定方向の発言しか許さない空気がインターネットのなかにはある。ネットのなかでは「マスゴミ」などといって、既存メディアを蔑視する発言も多いが、言論の不自由さはネットのなかのほうが厳しいのではないか。ネットにはタブーを破壊する力があるかもしれないけれども、それと同じく、新たなタブーをつくったり古くからあるタブーを強化してしまう力もある。言い換えれば、匿名の大衆は常にタブーを求め、タブーを侵犯する者を監視し、侵犯する者を処罰しようとする。タブーとは我々大衆自身の欲望だ。
表現の自由、報道の自由、国民の知る権利、そして報道される側の各権利など、難しいかもしれないが、バランスよく守られないかと思う。
投稿元:
レビューを見る
憲法上、表現の自由が担保されている日本においても法的規制や社会通念としてのタブーが存在する。
筆者はその出自について述べ、適切な議論を行わない限り、非本質的な規制が蔓延ることになると主張する。
私は形骸化したタブーの発生起源について考える足掛かりとするために本書を読むこととした。
タブーの起源は「恐ろしいことが起こる」「面倒くさいことになる」「社会経済的に不利になる」「単にみんながそうしているから」の4点に大別されるようである。
形骸化したタブーについての興味を持つ私は「単にみんながそうしているから」的なタブーについての記述に得るものがあった。
形骸化されたタブーはその起源に関する共通認識を失っており、「なぜそれがいけないのか」という対象の持つ性質に関する議論を通さずに「かれこれの属性を持つものはいけない」という社会通念となり果てているものだ。
これは非常に解像度の低い見方であると言わざるを得ず、本質を突いた社会的改善につながらないばかりか、差別問題において「我々一般人はその差別語を使われないように強制されていることで、被差別者たちに表現の自由を侵害されている」などといったことを宣う頭の足りぬ大衆が出てくるせいでさらなる差別を助長しうる可能性がある。
表現の自由は担保されるという前提を適切に運用するという立場に立つと、「ある表現を使用しないこと」は各個人が獲得した本質的理解からの自発的な選択であるべきであり、「ある表現に対する抵抗」にも本質的理解からの根拠ある主張が求められるべきだと強く感じる。
「○○の性質を持つから即ダメ」という、あまりに短絡的で野蛮な主張がまかり通ってしまいがちな現代において、表現する側と表現に対してNOを突き付ける側のどちらもが座に就いたうえで議論を進めなければならない。
最後に、オルテガの言を引こう。
「支配するとは、拳より、むしろ尻の問題である。」