複数の文化からなる弥生時代
2019/03/04 19:55
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投稿者:K2 - この投稿者のレビュー一覧を見る
弥生時代の年代観を500年遡らせた歴博の研究で主導的役割を担った著者の弥生時代通史。弥生時代には時間的・空間的に複数の文化があることを強調する。縄文時代から弥生時代への移行は丁寧に叙述されわかりやすかったが、古墳時代への移行はサッと終わらせた感じで少し物足りなかった。
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投稿者:福原京だるま - この投稿者のレビュー一覧を見る
最近の研究で稲作開始が紀元前10世紀に遡ることことを明らかにした人の著書。一口に弥生時代と言っても北九州や近畿、関東、東北では稲作の受容に時間差が大きく北海道や沖縄では稲作が入らず地域ごとに多様な弥生時代の実像がよくわかる
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投稿者:雨読 - この投稿者のレビュー一覧を見る
縄文時代と古墳時代の間が弥生時代ということだが、地域やしきたり、道具の使用等で一概に明確な区切りができないわけである。
しかし考古学や自然科学等の発展で、水田稲作の始まりが紀元前10世紀と今までの定説より500年もさかのぼるとのこと。
土器や鉄器、青銅等の発展や渡来人との関り、水田稲作の地域での浸透の違い等、興味ある内容でありました。
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投稿者:あらら - この投稿者のレビュー一覧を見る
稲作開始が紀元前10世紀からという、通説を500年も早くなるという。
炭素14年代測定が明らかにした弥生時代像である。
読みやすかったです
2015/08/30 21:12
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投稿者:ヒケシ - この投稿者のレビュー一覧を見る
稲作の始まりから古墳の誕生まで、弥生時代と呼ばれている日本の古代の変遷を通史としてわかりやすく、具体的な遺跡を上げて説明してくれています。
邪馬台国に興味のある人も読んでみると少しは参考になるかも?
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<目次>
プロローグ 弥生前史~弥生開始前夜の東アジアと縄文晩期社会…コメの出現
第1章 弥生早期前半(前10世紀後半~蝉世紀中ごろ)…水田耕作の始まり
第2章 弥生早期後半~前期後半(前9世紀後半~前5世紀)…農耕社会の成立と水田稲作の拡散
第3章 弥生前期末~中期前半(前4世紀~前3世紀)…金属器の登場
第4章 弥生中期後半~中期末(前2世紀~前1世紀)…文明との接触とくにの成立
第5章 弥生後期(1世紀~3世紀)…古墳時代への道
<内容>
「弥生時代は紀元前10世紀にはじまった」と炭素14年代測定で発表した、国立歴史民俗博物館の教授による、弥生時代の通史。プロローグにあるように、その理由は炭素14年代測定法の精度が上がった、とのが最大の理由であり、較正年代の測定も精度が上がった、からだ。そして、それを基に新しい知見を交えて、弥生時代の歴史が語られていく。そこでまず最初に語られるのは、細長い日本列島、いわゆる”弥生時代”は相当の年代差で進行していったことである。前10世紀に九州北部で始まった稲作が、関東に及ぶのは前3世紀。東北北部、北海道、沖縄は結局は弥生時代にはならない。また関東北部以北は、稲作はするが、全体的には弥生文化にはならない。ほかに面白い知見が続くが、それは読んでもらいたい。
また、この本では謎は謎のままで残される。特に金属器の普及と古墳の始まりの関係。これは潔い。
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紀元前10世紀にさかのぼる稲作文化の伝来と弥生時代の成立を最新の科学技術の成果をもとに読み直す。川の中流に集落を作っていた縄文文化の在来人と下流に集落を作った稲作文化の渡来人。その交流と時間をかけた東への伝播。村の成立。寒冷化と国の成立。銅鐸、銅矛の伝来と鉄の伝来。鉄を手に入れるために海を渡る弥生人。威信材の九州偏重から西日本全般への波及。広域文化圏の成立と倭国大乱。卑弥呼の擁立と前方後円墳の成立。
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習ったものとは結構違ってきているんだなあ。弥生は結局関東より西だけ、稲作は一旦東北まで上がるがそれと弥生はリンクしきらない、クニの成立は環壕集落、威信財の時代から実用財の時代へ、などなど。そうか、東北と沖縄諸島には弥生がないんだ。
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学生の時にさらっと学んだ程度の弥生時代について理解を深めることができる書籍。
我々が学んだ時とは違い、最新の研究では紀元前10世紀頃から弥生時代が始まっていたことに驚いた。技術の進歩によって歴史も変化し、常識も変わっていくということか。
北九州、瀬戸内、近畿、関東、東北等地域ごとの考察も興味深く、北海道、琉球の当時についても言及している。ただ後半は少しだれてきてしまった。関心が薄い人にはあまりおすすめできないかも。
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炭素14年代測定の精度が向上し、結果、弥生時代の始まりが500年早まるということになったとのこと。
しかしながら、従来の弥生情報の中で学説を唱えてこられた方々にはなかなか受け入れられない現実もあるとのこと。
筆者は、500年早まったということを受け入れ、縄文から、弥生、古墳時代へ変遷していく日本の古代史をじっくりと事実を積み上げ、また、異説もきちんと紹介しながら、現時点の結論を導いている。
従来から日本列島に住んでいた、「在来民」、在来民が水田稲作とも接するという「園耕民」という概念など、縄文文化と弥生文化の交流を日本列島に住まい当時の人々の社会のあり方が感じられ、とっても面白く読めました。
これで、ますます縄文・弥生に興味が深まるでしょう(笑)。
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藤尾氏は国立歴史民俗博物館において、AMS炭素14年代測定で弥生時代の開始を500年遡らせた立役者であり、2014年にあったという「弥生ってなに⁉」展の中心人物である。それらの成果をコンパクトにまとめたのが、この一冊だと思う。
遠く岡山の地に居て、藤尾氏のこの10数年の研究をほとんど追ってこなかった身にとり、思った以上に刺激のある一冊だった。
以下、学んだ所、気になった所をずっとメモしてゆく。長くなるかもしれないので、とりあえず最初の頃の一部分だけ。
◯炭素年の測定方法を簡単に書いているが、文系の私にはどうも理解出来ない。ただ1950年を基準にするとは驚き。これ以降は核実験が広く行われたために、大気中の炭素14年濃度が大幅に上がったためしい。人類は、気候的にも、環境汚染的にも、たった100年で地球規模的な不可逆的な改変を行っている。
◯弥生時代開始年代は、2003年発表時から今まで3説に分かれた。(1)藤尾説の紀元前10世紀に遡る説(よって紀元前1000年では無く、950年ぐらいらしい)、(2)朝鮮半島や中国遼寧省の考古学知見を優先して紀元前800年まで遡る説(新発見があれば更に遡る可能性がある)、(3)従来の紀元前5世紀説である。その根拠が藤尾氏の説明通りだとすると、藤尾説を採るしかない。もう10年以上経ったのだから、考古学学会もハッキリして欲しい。そうしてくれないと、我々はホントに困る。
◯22pの土器形式ごとの太陽活動表は、面白かった。特にびっくりしたのは、二世紀初め(100-110)を「温暖」と規定し、二世紀中(130-150)を「冷涼化(大きな降水量の低下)」と規定し、190-230年を「温暖」としているのは、「倭国乱」の背景と考えれるように思うのだ。ところが、藤尾氏はかなり前半で気候との関係を書きながら、弥生後期では、全く言及していない。私はこの時期の急激な気候の不順化が、水を司る吉備の龍神信仰を成立させて、吉備を一大強国にしたてあげたのだと見る。
◯韓国遺跡を西暦で表現してくれていて、参考になる。実際韓国の博物館に行くとわかるが、韓国の考古学は日本ほど緻密ではない。ひとつひとつの遺物が何世紀のモノかさえも特定できないのである。(東三洞貝塚 紀元前4000年、南部の稲作の始まり 紀元前11世紀、検丹里遺跡 紀元前10世紀)特に検丹里の環壕は重要だろう。藤尾氏は、日本の弥生化は朝鮮南部の「農耕社会化」により、矛盾で「迫害」から逃れるために海を渡った「メイフラワー号」タイプの人々が担ったのだろうと見る。そういう見方をすると、早期北九州弥生遺跡に支石墓が点々とあるのが合点がゆく。しかし、彼らは直ぐに支石墓祭祀を放棄し、放棄したところほど大きなクニを作る。それは何故か。この頃の北九州の大きな変動について、この本では十分にはわからない。
◯「魏志倭人伝」に最初のルートとされている壱岐対馬に、10世紀の支石墓がないのが不思議だと著者は云う。その通りだ。最初のメイフラワー号は、大陸のみを目指したのか。福岡沿岸の小平野ごとに支石墓内の棺の形式が異なるのは、彼らが先着の居る場合は、やり過ごして東へ東へと船を進めたからではないかという説を紹介している。興味深い。
◯やっと第一章「弥生早期前���(前10世紀後半~前9世紀中ごろ)」である。北九州の在来民は、ことごとく海沿いではなく少し川を上ったところで、半分稲作、半分狩猟の生活をしていた。在来民が渡来人交流して下流域に稲作を始めるまで、下流域に住む在来民は全国的に6000年以上いなかったそうだ。
◯最初期の板付遺跡は、最初から給排水施設があった。畦畔は土盛りなので、大量の杭、矢板、横木で補強する。その数何百、何千。鉄器を持たないので、すべて大陸系の磨製石器で作った。しかも大区画水田。500平方メートルを水平に保つ造田技術も持っていた。
◯(これは私の仮説)これだけの大自然改造。自然をそのまま受け入れる縄文人の価値観と相対したことは間違いない。最初は数十人の渡来人が何年も、ひとつの田んぼを経営して実績を作り、やがて好奇心旺盛な縄文人が参加していったのだろう。板付遺跡で大きな洪水が二回、それでも弥生人は稲作をやめなかった。自然そのものが「神」なのではなく、自然に恵みをもたらす更に超越的な存在が「神」になる土壌が、その頃から育まれるだろう。最初期は、それは遥か彼方からやってくる「鳥」に象徴されたのかもしれない。弥生文化に、全国的に分布する鳥の呪術遺物は、それを裏付けている。鳥は祖先の知恵の象徴だったのかもしれない。しかしやがて1人の英雄が、蛇の生産性と鹿の顔を持ち、しかもそれらの姿と全く違うオーラを持つ「龍」を招致する。龍は、雨をもたらすと同時に、嵐をももたらす、恵みと力を持った神だった。この神を手に入れるかどうかで、その国の盛衰が決まる、と言い伝えが広まっていたのが、実は弥生後期なのではないか。
○橋本一丁田遺跡の最古の弥生土器(福岡市埋蔵文化センター蔵)を見てみたい。縄文土器に、弥生の稲作文化の背景を持っていれば、弥生土器ということを提唱したのが、佐原真「岩波講座日本歴史(1)」(1975)だったらしい。
○弥生早期後半(前9世紀後半)から前期後半(前世紀)。
○日本最古の環濠集落は、のちに三世紀に奴国となる比恵・那珂遺跡南西部の村に前9世紀後半に現れる。直径150mの壕を二重。150年経営。おそらく洪水で廃絶。その後500m離れた春住遺跡に移る。那珂遺跡よりも1キロ上流の板付遺跡(前9世紀)は、長径110mの中に10ー15軒の竪穴住居。既に階層差の痕跡あり。糸島町新町遺跡(前9世紀後半)では最古の戦死者。稲作文化の始まりと同時に出現したのは、おそらく稲作文化と水や土地を獲得する手段としてパッケージで入って来たためだろう。つまり縄文人の世界観には、戦いはなかった。
○稲作文化は、最初北九州からは250年かけてゆっくり広がった。
前10世紀後半、玄界灘沿岸部。
前8世紀終わり、九州東部・中部。
香川以西の瀬戸内沿岸。
前7世紀前葉、鳥取平野。
前7世紀、神戸市付近。
前6世紀、徳島市。奈良盆地。
前6世紀中ごろ、伊勢湾沿岸。近畿日本海沿岸北上。
前4世紀前葉、青森県弘前市。
前4世紀、仙台平野、いわき地域。
前3世紀、中部高地、関東南部。
以下略。
2017年3月12日記入
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古代史にはロマンがある。
我々の過去でありながら余りにもわかっていることは少なく、しかも最近の研究でどんどん新しい発見があるなど実に痛快だ。
紀元前の1世紀から10世紀というと地球の裏側ではアテネとスパルタの時代かなどと考えながら読んでいると実に興味深い。
文字記録はなくとも、科学的研究により弥生時代の解明がもっとすすむかと思うとワクワクする思いを持つものである。このジャンルも読書の楽しみとして欠かせない。
2017年5月読了。
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本を読む楽しみには、知らなかった事を知る、分からなかった事が分かるという事がある。この本を読んで、知らなかった事が、分かった、とはならない。分かってたつもりの事が、分かってなかった、となる。分からないことが分かるのは貴重だ。しかし、欲求不満にはなる。
炭素14年代測定の成果に依拠した、弥生時代史。考古学が科学であるために必要なことは、まず証拠をもって事実(らしい)ことを記述することであり、本書の姿勢はそのもの。
記述は慎重。大胆な仮説の一つぐらいサービスしてくれてもいいのに。
稲作が(経済的な豊かさを求める)目的ではなく、ある社会形態を維持するための手段であるとの主張は、面白い。
また、近畿は鉄器生産では九州、山陰に比べて遅れていたというのも、自分にとって新しい知見。
歴史を見るとき、後になるほど進歩するという単純な史観は成り立たないと、分かっているのに、どうしても、暗黙の裡にそういう見方をしてしまっているときがある。
本書は、それを思い出させてくれる。
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弥生時代に出土された土器、青銅器、鏡を基にその時代の様子を考えていくところはとても面白く感じられた。歴史の醍醐味だと思う。水田耕作、農耕社会、鉄器、吉野ケ里遺跡、原の辻遺跡、糸島、くに、祭祇的、政治的、板付遺跡、登呂遺跡、縄文時代も弥生時代も出土するものが少ないからそこから想像していくところがとても面白いと思う。
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水田稲作が日本に伝わるルートは、朝鮮半島南部経由説で考古学者の意見は統一されている。朝鮮半島南部で水田稲作が発展すると、身分の差が顕在化して社会の内部に矛盾が生じ、それを逃れ出た人々が九州北部に水田稲作を伝えた。土器に付着した炭化物などのC14年代測定から、弥生時代の開始はBC10世紀後半と考える。
水田稲作が始まってから100年ほど経った玄界灘沿岸地域には、環濠集落や有力者集団が出現し、副葬制の開始、世襲制の始まりと身分の固定化、武器や戦死傷者の出現などが起きた。水田稲作は250年あまりの間、玄界灘沿岸地域にとどまったが、前8世紀の終わりごろ九州東部・中部で始まり、前7世紀に鳥取平野と神戸付近まで、前6世紀に徳島市と奈良盆地、伊勢湾沿岸まで、前4世紀には青森県弘前市、仙台平野、福島県いわき地域に、前3世紀に中部高地、関東南部に到達した。
最古の青銅器は、前8世紀末の福岡県今川遺跡で見つかっている。前4世紀半ばには、朝鮮半島製の鏡や青銅製武器が有力者の墓に副葬品として納められる。最古の鉄器は、大久保遺跡で出土した中国東北部の燕で前5世紀につくられたもの。前3世紀になると、炭素量が2%以下の鋼で作られた鍛造鉄器が出現して鉄器の量が増え始め、青銅器も鉄器も国産化した。
前1世紀末以降、奴国の須玖・岡本遺跡群には王がいて、比恵・那珂遺跡群は交易・流通センターの役割を果たしたが、3世紀には王都としての機能を併せ持ち、奴国の中心となった。道路状遺構と墳墓が一体して造営されており、初期ヤマト政権の中枢域に匹敵するという考えもある。
前1世紀前葉から半ばに作られた大型の中国鏡は、前1世紀後半には玄界灘沿岸諸国でしか見ることができない。前1世紀後葉から後1世紀初めに作られた鏡から当方への分布が拡大し、1世紀半ばから後葉に作られた鏡は平原遺跡を除いて玄界灘沿岸諸国の大量埋葬はなくなり、九州北部とそれ以外の地域がほぼ均衡する。一方、鉄器は倭国の乱後の3世紀になっても近畿中央部には普及しておらず、九州北部の方が圧倒的に多い。2世紀以降、鉄と中国鏡の分布が異なるのは、玄界灘沿岸諸国では鏡などの威信財よりも生産力を上げる鉄素材などの必需財が重要になっていたためと考えられる。