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「奇妙」などの言葉が似合うような奇な話。ころころと移っていく場面に混乱しながら、この話はいったい何なんだとずっと思っていたが、最後の最後にようやくその疑問が解決できた気がする。終わり方が突飛だったので呆気にとられてしまったが、なるほどきっと死とはこういうものなのだろう。
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面白かった!
最期のシーンは怖い。
穴から覗くと、穴から覗いている自分が見える、その恐怖で突然終わる。
死を意識する状況にある場合、こういう夢を見るかもなぁ。
無機質なベッドが、ここでは生きている。墓場まで連れて行かねばならない使命を持って・・
死んだ母親と出会う場面は脳裏から離れず、賽の河原、A.B.C、病院、極端なことを云えば、全てのシーンは自分が見た夢なのではないかと思ってしまうほど、奇妙でいてある意味本当のことのような・・
死は個人的な部分と普遍的な部分があり、二人称の死、三人称の死があるというが、こういう一見わけのわからない話は、全てを網羅している気がする。
自分もいつか、死んでしまうのだな。
死んでから、自分の死を納得するまで、どんな過程があるのだろうか。
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安部公房の作品ってほんと意味わからない(笑)
この本を読んだら、砂の女がかなりまともな内容に思えた。
脛からかいわれ大根が生えてくるとか、勝手に走るベッドとか、賽の河原で小鬼やら死んだ母親やら出てきたりだとか(笑)
安部公房の脳内どうなってんだよって思う。
テーマは「死」
もはや現実なんだか夢なんだかわからない世界を主人公が自走ベッドとともに巡るのは、もはや読んでいるこっちも訳が分からなくなる。
安部公房好きです(笑)
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[かいわれの刑]朝目覚めると、脛に違和感。なんぞと思って見やればなんとそこにはふさふさのかいわれ大根。あまりの不気味さに仕事どころではなく皮膚科に駆け込み治療を求めるも、ベッドにしばられた僕はそのまま地獄巡りの旅を余儀なくさせられることに。上司からコンセプトを考えるよう言われていた「カンガルー・ノート」のことも後にして......。海外からも高い評価を得ている安部公房の最後の作品となった長編小説です。
とっぴょうしのない話のように思えるかもしれませんが、安部公房が自身の死を前にして著した作品と考えると、ストンと胸に落ちてくるものがありました。死という極限的な現象すら、ブラック・ユーモアでくるんでしまうその発想力、そしてそのセンスに驚かされること間違いなしです。気味の悪さと退廃感が絶妙に絡み合った作品ということができるのではないでしょうか。
そんな中で印象的だったのが、露骨に「性」のにおいが感じられる描写が姿を見せること。安部氏にとってそれがどのような意味を持っているのかはもはや知る由もありませんが、死といわば合わせ鏡のものとして「性」をとらえていたのではないかと感じました。それにしても、安部公房の小説って一読しただけだと呆気にとられてしまってなかなか著者の意図を汲み取るところまで行き着かないんですよね。
〜そんなこと構っている場合じゃないでしょう。君の性別なんて、ナンセンスよ〜
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テーマは死ということらしい。たしかに、作中には安楽死、尊厳死、交通事故、賽の河原と言った死に関わる事柄がよく出てくる(実際、人が死ぬ)。あとがきのドナルド・キーンが言うように、これは晩年の安部公房の体験を元にした私小説なのかもしれない。病院のベッドに乗った主人公、最後に死にゆく主人公は安部公房自身なのだろう。
実際に見た夢をつないだような小説。夢から夢へと実際に自分が見ているかのような感覚が得られる。たぶん本当に夢を元にして書いているのだろう。
看護婦のトンボ眼鏡ちゃんがかわいい。
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むかし人さらいは
子供たちを探したが
すべての迷路に番号がふられ
子供の隠し場所がなくなったので
いま人さらいは引退し
子供たちが人さらいを探して歩く
いまは子供たちが
人さらいを探している
だれも人生のはじまりを憶えていない
だれも人生の終わりに
気付くことは出来ない
でも祭りははじまり
祭りは終わる
祭りは人生ではないし
人生は祭りではない
だから人さらいがやってくる
祭りがはじまるその日暮れ
人さらいがやってくる
北向きの小窓の下で
橋のふもとで
峠の下で
その後
遅れてやってきた人さらい
会えなかった人さらい
わたしが愛した人さらい
遅れてやってきた人さらい
会えなかった人さらい
わたしが愛した人さらい
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脛毛がカイワレ大根になるなんて面白い。賽の河原の鬼も愉快。「旅路」は『オデュッセイア』を思い起こす。著者の遺言は本書そのものであろう。
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どこからが現実で、夢で、空想なのか。入口も出口もわからない。面白いのかつまらないのかもわからない。でも安部公房好きにはたまらない世界観でした。
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ラストの場面で、箱の中の自分の後ろ姿を見つめるシーンがとても印象的だった。恐らく主人公の後ろからも、もう一人の主人公が後ろ姿を見つめるような鏡合わせの構造になっていて、だからこそ主人公は「恐かった」のだろう。でも、もしそこで振り向けば、目の前にいた自分の後ろ姿からも目線がそれるのだから、背後の自分も見る事は出来ないはずだ。となると、特に害のある演出でもないわけだから、箱の登場が、ここで物語が唐突に終わる原因にはならない。Bと一緒に列車に乗り込んで何処かに連れて行かれるのが妥当な結末だろうか。
この作品を読んでいて常に気になっていたのは、現実世界を描写しているのはどの部分なのだろうかという点だ。読んでるときは、きっと物語の後半で一旦現実世界の病室に戻ってくるはずだと思っていたが、結局主人公は物語序盤で坑道の坂道を下っている途中に一回だけ病室に戻った以降は最後まで戻ってこなかった。そもそも、作品中に現実世界を想定するなら、かいわれ大根が生えた主人公が存在する時点で、現実世界と対照的な夢の世界を描写しているのではないか。とすると、この作品は最初から夢遊病者が見ていた夢で、現実世界の描写は最後の新聞記事の抜粋だけなのだろうか。
再読後
安部公房の不思議小説の中では一番好き。脛に貝割れ大根の生えた男が、アトラス社製の医療用万能ベッドに乗って、夢から夢へと疾走する話。結局貝割れ大根やカンガルーが何の比喩なのかさっぱりわからない。ドナルドキーンが解説を書いてるけど、氏もどう解釈してよいか分からず困っている感じが伝わって来てこっちまでムズムズした。でも、賽の河原に移動するシーンで、地獄が案外平凡であると解釈しているのはとてもスッキリする指摘だと思った。兎に角、僕は内容よりも、この作中に登場する背景の描写が大好きだから、多分時間をおいてまた読み直すと思う。坑道とか暗渠とか、賽の河原、病棟、廃駅と、薄暗い雰囲気が好きなんだな。
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読み進めるほど荒唐無稽さが際立ちます。これまで読んだことのある安部公房さんの作品は、混沌や錯乱の中にも秩序があった気がします。思考実験のような雰囲気のものや、ルポルタージュのような作品もありました。しかし本作は思いつきで書き散らしたかのような内容になっています。散りばめられた種々のアイコンが、どこかで回収されたり収斂していったりといったことは基本的になく、単発のできごとの連続でした。
しかし、それは批判の対象とはなりえないと思っています。
私は、この作品のひとつの美点を、上記の印象に見出しています。
基本的に、この作品はわけが分かりません。
ただ、冒頭から一貫して漂いつづける死の気配は、後半に向かうにつれて徐々に強くなっていきます。
例えば、こう考えることもできるかもしれません。
はじめに、中心に死があり、その周りに生に関する様々なオブジェクトがあります。それらは、互いにほとんど関係がないように見えますが、中心からどんなに離れた位置にあるものであっても、死の強烈な引力によって繋ぎ止められ、それぞれが死を中心として周回しているとします。そういう意味では、相互に無関係ながら、死を中心とした同一の系の中で共存しているもの同士なのです。
あるいは、こういう世界が描かれているのではないかと、私は感じました。
明示的なテーマを設定していかにも「考えさせられる」ものや、感動をいたずらに喚起したり、怒りやスリルを与えたりするものよりも、少なくとも私にとっては、なんだか悩ませられてしまう作品というのは面白みがあるように思います。
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安部公房氏の遺作。
相変わらず意味がわからない。脛からかいわれ大根が生えた男が自走ベッドで不条理な世界を体験していく。良くいえばダンテの『神曲』、悪くいえば狂人の絵空事。しかし物語は破綻していない。安部公房氏はその着想を夢から得ることが多いと語っているが、こんな夢を見る人はまず居ないだろう。緻密な情景描写と前触れも無く切り替わる場面、そして賽の河原で繰り広げられる高度なブラックジョーク。そもそも『カンガルー・ノート』とは何だったのか。文豪は数居れど、世界に比す真の天才は少なく、安部公房氏は紛れもない天才であろう。
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高校の時以来の再読。やっぱり訳が分からぬ。
脛に貝割れ大根が密生した男。頼りにした医院からベッドにくくりつけられ、硫黄泉への旅が始まる。
トンボメガネに下がり目の看護師、賽の河原の小鬼たち、失くした母との再会。
オタスケ オタスケ オタスケヲ
ダレカ オネガイ タスケテヨ
このあたり、楢山節考にも通じる作者のユーモアを感じる。
全編通して生と性、そして死の気配が混沌と。本当にカオス。。
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かいわれ大根が脛に自生していた朝から始まる冒険譚(?)。
訪れた病院で生命維持装置付きのベッド(水陸両用!)に乗せられ、療養のため硫黄温泉に行き、かいわれ大根を齧りながら地下坑道、賽の河原へ、現実とは到底思えない世界へ迷い込んで行く。
そんなありえないことの連続なのに、あるがままをふわっと受け入れ、妙に淡々とした口調で語る男が滑稽でたまらない。自生するかいわれ大根を食べて栄養補給すれば貸借表上赤字か、黒字か、なんて考えとる場合かよ。
本作は著者の最後の長編だったそう。死が迫ってくる中読めば、少しは理解できるのだろうか。
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再読。
初めて読んだ時は星五つ間違いなしの面白さだったんだけど、しばらくして読み直すと、思っていたほどの面白さでもなかったので、ちょっと肩すかし。
もっとはちゃめちゃではじけていた印象があったんだけど、きちんと整理されまとまりすぎているなぁ、というのが再読後の正直な感想。
ほのめかす程度でいいのに、そこまで書いちゃうかなぁ、という箇所がちらほら、なんて不遜にも思ってしまう。
作者の遺作。
もちろん死を意識しての作品だろう。
最後の「恐かった」は偽らざる作者の気持ちなんだろうと思うと、読者としても違った意味で怖くなる。
最後の最後は「砂の女」と同じような手法。
ちなみにピンク・フロイドの名前が出てくるが、ピンク・フロイドの映像の中にも病院のベッドに横たわったまま移動するという内容のものがあった。
偶然なのか、必然なのか、あるいは作者がその映像を見たことがあったのか。
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ある朝突然、脛にかいわれ大根が自生していた男の話。
病院のスプリンクラーは父親の顔、ハイテク自走機能付きのアトラス社ベッドに括り付けられそのまま硫黄温泉へ。
賽の河原に子鬼が出て来たかと思いきや、児童福祉施設のパフォーマンスだという。病院の看護師が現れたと思えば目のない母と太刀回りを繰り広げ・・・夢と現実のはざま・・・と言いたいところだが地獄からどうしても出られない、悪夢から覚めそうで覚めることができない、なんだか言いようのない気持ち悪さと悲しみを感じた。