紙の本
自分が自分を捨てた先
2021/06/16 12:22
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投稿者:月餅 - この投稿者のレビュー一覧を見る
幸福とは言い難い生い立ちのトム・リプリーは、ゴミゴミした都会(NY)の片隅で軽犯罪すれすれのイタズラをして日々を過ごす濡れネズミのような人間。しかし、ひょんなことから裕福なグリーンリーフ家の跡継ぎディッキーに会いに、ヨーロッパという別天地に行くことになります。
イタリアでのディッキーとの交流を通し、全く違う階級(ハイクラス)の人たちの世界を垣間見るトム。
この階級の違いに違和感を感じるどころか、これが本来自分の住む世界であると確信。ディッキーとの未来をも夢見ます。
しかし愛憎相半ば…。
※ネタバレあり
愛されないなら殺してしまいたい。トムは短絡的に犯行に及ぶものの、自分自身を第三者的目線で見ています。
妙に冷静に行動ができるトム。
ディッキーの仕草はいつのまにか身についていて、声色、筆跡も含め形態模写ともいえるそれを武器にアリバイを固めていきます。
切り替えの早さと他人になりきることができる能力。自分を捨てる能力?
それこそがこの小説の原題「トム・リプリーの才能」を指すのでしょうか。
その後も行き当たりばったりな殺人をしアリバイ作りやなりすましに奔走。たくさんの欠落はあったのに。なぜだか運はトムを味方する…。
ディッキー・グリーンリーフになりすまし、ローマで高級なホテルやレストランに行きパーティで交流する彼はもてはやされます。みずぼらしいトム・リプリーはいません。自分が自分を捨てた先では、一体何が得られるのでしょうか。
本書の時代(1955年頃)のイタリアの様子も垣間見えて面白い部分です。アメリカンエクスプレスの使われ方、イタリアの田舎モンジベロの人々の様子(ディッキー「冷蔵庫を買ってしまったらメイドの仕事がなくなるだろう?」)高級な革製品の店としてGUCCIも登場。当時のローマやベネツィアの様子にも思いを馳せられます。
映画「太陽がいっぱい」でアランドロン演じるトムはフレディを殺した直後に自分で焼いたステーキを食っています。怖い。すばらしい演出です…。そしてとても面白い。しかしこの映画は原作とは全く別物であると考える方がよいでしょう。
最後に疑問。いくらトムが人格を盗む才能があるとはいえ、そして眉墨など化粧もしたとはいえ、ディッキーに扮したトムと、トムのままのトムとも会ったことのあるイタリア人警部補が、これを同一人物と気が付かないのには多少違和感があります。
読み落としたのかもしれませんが…。
紙の本
アメリカの作家パトリシア・ハイスミス氏の代表的な傑作です。映画化もされた名作です!
2020/05/21 12:09
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、アメリカの作家パトリシア・ハイスミス氏の代表作の一つで、1960年にフランスとイタリアの共同でアラン・ドロン主演の映画にもなった作品です。内容は、ローマの街角のオープンカフェで話をする二人の青年から話が始まります。一人はアメリカから来た大富豪の息子ディッキー、もう一人は貧しく孤独な青年トム・リプリーです。実は、トムは、奔放な息子ディッキーをアメリカに呼び戻してほしいという大富豪の頼みを受け、イタリアにやってきたのでした。しかし、ディッキーはなかなかアメリカに帰ろうとはしません。やがて、トムは持ち金がつき、ディッキ―の小間使いのように行動するのですが、ディッキーへの羨望と友情を抱くトムの心に、徐々に殺意が生まれてきます。一体、その後、何が起こるのでしょうか?続きは、ぜひ、同書をお読み下さい。
紙の本
私利私欲と自己正当化。
2021/04/27 18:14
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投稿者:ゲイリーゲイリー - この投稿者のレビュー一覧を見る
自らの境遇を呪いながらも、改善するための努力をせず犯罪行為で糊口をしのいでいたトム・リプリー。
そんな小物感満載の彼が、とある人物をヨーロッパからアメリカへと帰国させるため、説得に向かうことで物語は大きく動き出していく。
アメリカでの自らの生活に辟易し、嫌悪していたリプリー。
しかし、ヨーロッパでなら理想とする生活をやり直せるはずだと夢見る彼に、思わず呆れてしまう。
環境が変わろうと、怠惰で都合の良い解釈ばかりを繰り返す彼が理想の生活を送ることなど無理に違いないと。
そんな無謀な夢を胸に抱いた彼が犯罪行為に手を染め、理想の生活を送ると同時に、その犯罪がバレないように苦心し葛藤する心理描写が本作の核となっている。
先述したように、人間としての魅力が乏しいリプリーだが、物語が進むにつれ犯罪がバレないようハラハラしている自らが居ることに気づいた。
いつの間にかリプリーに感情移入してしまっていたのだ。
彼に同情する余地はないし、自らの欲求を満たすために犯罪行為に及んだ彼が悪いのだが、それでも犯罪行為がバレそうになるシーンでは思わず息が止まる。
著者の卓越した心理描写や、状況描写のなせる技を是非とも堪能してほしい。
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パトリシア・ハイスミスの代表作。映画版はかのアラン・ドロンの出世作としても有名。
ストーリーとしてはサスペンスだが、人間関係の機微が丁寧に描かれていて、それがサスペンス感を盛り上げていた。
映画版は破滅を暗喩しているが、原作では、リプリーは完全犯罪に成功し、逃げおおせるというラストも当時としてはけっこう斬新だったのでは?
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以前、アラン・ドロン主演の映画「太陽がいっぱい」を観て面白かったので、いつか原作を読んでみたいと思っていた。本屋で探しても見つからなく残念に思っていたら、最近新訳で再出版された。
有名なリプリーシリーズの一昨目である本作は、原題は「太陽がいっぱい」ではなく「The Talented Mr.Ripley(才能あるリプリー)」。このタイトルのままだったら、きっとあの映画は日本ではそんなに流行らなかっただろう。
「太陽がいっぱい」、このタイトルは素敵だと思う。
リプリーが憧れたディッキーの暮らすイタリアの太陽の眩しさと、ディッキーそのものが眩しく見えたリプリーの思いとが重なっており、実に見事だと思う。
原作を読んで感じたことは、映画とはいくつか異なっているということ。
ひとつはラスト。
映画ではリプリーの破滅を仄めかして終わるところが、原作ではそうではない。そうしたことで原題との齟齬は無くなる。ただ、終わり方としては映画の方が正しいというか、やはり犯罪者に罰がないままはおかしいし、映像で観たときのドラマ性は高いと感じる。
もうひとつはリプリーのディッキーに対する気持ち。
映画では単に裕福なディッキーへの憧れという感じだったが、原作では経済的に恵まれた男への憧憬に留まらず、ディッキーに恋をしているように感じる。
金銭だけでなくディッキーに恋するがゆえにディッキー自体になりたいと思ったという方が、リプリーが行ったことへの整合性はあるかもしれない。
それにしても、殺人犯をシリーズの主役に据えるというのは、なかなか斬新だと思う。
リプリーシリーズ第二作目「贋作」が、どのようにはじまるのかが気になるので読んでみたい。
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アラン・ドロンの映画で知って、ずっと気になっていた作品。
まず印象的だったのは、リプリーのゲイ的視点。
ライバル的女性への感情や人間の観察具合がとてもゲイゲイしい。
そしてこの作品の読みどころは、自分がだんだんリプリーなんじゃないかと感じるくらいの心理描写だろう。
昔のサスペンスらしく、
たまたま運がよかっただけでは?
と感じるところがいくつもありながら、どこか洗練された印象を受けるから許せてしまう。
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ちょっと、三島由紀夫さんのような。
水面下に脈々と流れる、異常で変態な、ぞくぞくぬめっとする不安感というか。足下の地面がぐにゃっと軟化しそうな味わい。この本には、それが上手くマッチしていていました。
若くて才能があるのに、努力してもどうにもならない境遇の自分と。
なにもしなくても親の巨額な財産で、優雅に文化的に恋愛と芸術を謳歌する友人と。
物凄い格差を挟んだふたりの若者の、うたかたの交流と愛憎。
「格差の葛藤」という、まさに今現在の世の中の仕組みの脆さを突きつけて、突き刺し貫くようなキケンな小説でした。
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嫉妬。軽蔑。
絶望。羨望。
屈辱。怒り。
そんな主人公の心の襞を、舐めるようにねっとりと眺めていく、殺人の記録。
財産、金のために、友人を殺すんです。何が起こったか、だけで言うと。
でも、きっと違うんですね。
プライドのため。人生のため。
これは、リプリーの戦争なんですね。
戦争に善悪があるのか?
超・一級品の、犯罪小説。悪人小説。でした。
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「太陽がいっぱい」。1955年出版、アメリカ。
女流作家パトリシア・ハイスミスさん、34歳くらいの作品。
1992年河出書房、佐宗鈴夫さん訳。
佐宗さんは、僕の知っている範囲では「メグレ・シリーズ」も翻訳してます。
20年来の「メグレ・シリーズ」ファンなので、メグレを訳してる人、というだけで無駄に親近感(笑)。
まあつまり、佐宗さんと言う方は、仏語も英語も翻訳できる、ということですね。
#
1960年のフランス映画「太陽がいっぱい」の原作です。
多くの人と同じく、僕もまず映画を知っていて「ああ、あの映画の原作か」という興味。
更に映画ファンとしては、ヴェンダース監督の傑作(というべきか、デニス・ホッパー出演の傑作、と呼ぶべきか)「アメリカの友人」(1977)の原作も、同じパトリシア・ハイスミスさんで、どうやら原作小説世界では「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンの後年の姿が「アメリカの友人」のデニス・ホッパーである!、という驚愕の事実から原作への興味を持った、というのが実情です。(更に言うと、「原作に興味を持った」というのがそもそも20年くらい前のことだったんですが...)
映画のことは置いておいて。
小説「太陽がいっぱい」の備忘録、概略。
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舞台はニューヨークから。時代は恐らく同時代、つまり1950年代でしょう。
まだビートルズ前です。まだまだ世の中は保守的で、アメリカは強く、ただ世の中の勝ち組・負け組構造は、もうかなりがっちりできて来ていました。
主人公はトム・リプリー。イケメンの若者。ただ、貧乏です。
どうやら孤児みたいな生まれ育ち。郊外で伯母さんになんとか育てられたようですが、その伯母さんともしっかりした愛情で結ばれているわけでもなくて。要は、ほとんど天涯孤独。
恐らく田舎のハイスクール出たくらいの学歴で、大したコネもなくニューヨークにやってきたのでしょう。
今の日本風に言う��アルバイトや契約社員みたいな仕事を転々としています。真面目につましく暮らしていこうにも、とにかく目先のお金が足りない。筋の良くない友人のアパートを転々としたり。当然、若いし面白くない。そういう仲間たちとくだを巻いたり。
ただ、このリプリーさんは、あることに、ちょいと才能と度胸があります。それは何か。犯罪です。
保険や税金関係の事務仕事をしていた経験から、税務署員と偽って税金と称して小銭を巻き上げる。そんな詐欺を働いています。
いつ警察に捕まるか?みたいな、不安なその日暮らし。そんなリプリーさんに降って湧いたのが、「イタリア行きの仕事」。
リプリーが浅く広く、ぐだぐだ付き合っていた若者たちの中に、ブルジョアの息子がいたんです。自称画家。金持ちニートです。ディッキー・グリーンリーフ。
そんなに仲良い訳でも無く、知り合い以上友だち未満くらいの関係。
このディッキーのお父さんが、突然現れて主人公トム・リプリーに声をかけます。
「息子の友だちなんだよね?息子が、画を描くって言って、イタリアに行ったきり何カ月も何カ月も戻ってこないんだ。イタリアに行って、説得して連れ帰ってくれませんか?当然、あご、あし、まくら、プラス諸経費一切、出させてもらうんで」
という夢のような依頼。
ディッキーの父親は、造船所のオーナー社長。紛うことなき億万長者。そして、トム・リプリーがケチなフリーターの軽犯罪者だとは思っていません。サラリーマンだ、くらいに思っているんですね。信用しています。(信用されるように細かく嘘を積み上げる技術が、リプリーにある、というのもあります)
まんまとアメリカ脱出。太陽がいっぱいのイタリアへ。
ディッキーと出会う。同じ年頃。同じ背格好。ふたりは一見、異国で肩を寄せ合って楽しく過ごします。
けれど、渦巻く格差の意識。底に流れる不信。そして怒り...。
この心理は、もう、絶品の小鉢のような極上の味わい。ピリリ山椒。
映画でも活かされていますが、リプリーが、ディッキーの服を勝手に着て鏡を見ていると、ディッキーが不意に帰宅している場面。このやりとり。
まさに、「小説」が「物語」から離陸する快感。
そして、リプリーは人生初の大犯罪に。
ディッキーを殺し、ディッキーになりすまし、財産を我が物にする...。
果たして、捜査の手から逃げ切れるのか?
ディッキーの恋人の眼は、ごまかせるのか?
#
小説が、正直に言うと、事前の予想より面白かったんです。
このぞくぞくした、人間のダークで異形な部分の味わいは、只者ではありません。
リプリー・シリーズを全部読む(と言っても3冊か4冊でしたが)、というのが人生の楽しみに新たに加わりました。嬉しいことです。
と、いうハイスミスさんへの敬意を踏まえて。
それでもやっぱり思ってしまうのは、
「いやあ、映画もよくできてたよなあ」ということです。
原作ではアメリカ人なんですが、それがフランス人に。
そして原作と、細かくは言いませんが「終わり方」が圧倒的に違います。これはほんと、映画サイドの英断だと思い��す。
(映画の終わり方の方が素晴らしい、という訳ではありません。「映画にとっては」、映画版の終わり方の方が素晴らしい、と、思います)
そして、原作に存在する、ぬめっとした存在の不安のような味わいは、映画版では明確には描かれていないのですが、「アラン・ドロン」という異様なイケメン俳優のどきどきする危うい存在感が、それを十分に補てんしていると思います。
(原作では、50年代のアメリカで商業小説に許されるぎりぎりくらい、「同性愛っぽい匂い」というか「同性愛者だと思われることの屈辱とか偏見、恐怖」みたいな通底音が流れています。これだけで、つまりは「健全なる社会の構成員」であることへの皮肉な、そして暗い疎外感と敵対感がぬめぬめと醸し出されるわけです。
その要素は、映画版ではかなり排除されているのですけれど、排除しても排除しても、アラン・ドロンという人間の肉体と存在感から、同様の寂しさとか緊張感がだだ漏れに漏れてくるんですね。素晴らしい。これはまあ、ヘルムート・バーガーさんとか、やはり「ヴィスコンティの眼鏡に叶いし者たち」の持ち味というかなんというか…)
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映画版を褒めてばかりいてもナンなんですが、映画の題名、Plein Soleil「太陽がいっぱい」。これ、素晴らしいですね。脱帽。
原作にもはちきれんばかりに描かれる、くらくらする地中海の太陽の暑さ。若者の噎せ返るような不満と恍惚。そんな空気感をざっくりと表した題名だと思います。これだけは、うーん、ハイスミスの原題Talented Mr.Ripley 「才能あるリプリー氏」よりも、わくわくしますね。
ほぼ直訳だけど、日本語としてのセンスもいいなあ。やっぱり、洋画をカタカナタイトルで公開するのは、何かしら堕落を感じてしまうんですよね。まあ、興行業界には興行業界なりの、事情があるんでしょうけれど。
(とはいえ、じゃあStarWarsを、宇宙戦争、にしかなったのも英断だと思うので、まあ作品によるわけですが…)
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ミステリ作家だと大好きなのはチャンドラーくらいしかいなかったんだけど、ハイスミスは『キャロル』に続き読了二作目の本作で完全に好きになってしまった。
主人公のリプリー、やってることも考えてることもは最低ゲス野郎のはずなのに心理描写の丁寧さとヨーロッパの様々な国の風景の美しさもあって(他にも理由はたくさんあるだろうが)なんでか読んでいて上品で質のいいツイード生地を眺めているような、落ち着いた気分になる不思議な作品だった。この、文章の端正さがハイスミスの魅力の一つなんだろうな。
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ヘルニアの手術で整形外科入院していました。
暇でした・・・中古で拾って来たこの本を読みました。
読了してから同室のリーマンに差し上げました。
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ミステリー小説、という事前情報だけで読み進めた。
主人公リプリーはクズと評されることも多いけれど、誰もが持っている側面の一つを演じているに過ぎないように思う。
彼は偶然にも機会と、閃きがあった。
きっとそれだけなのだ。
そのように思う私もまた、クズの素質があるということなのだろうか。
犯人視点の小説は久しぶりで、いつ捕まってしまうのか、いつ罪が露見するのか、最初から最後までドキドキが止まらなかった。
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ニューヨークで国税庁職員のふりをして詐欺をはたらいていたトム・リプリーは、かつての友人ディッキー・グリーンリーフの父親から「ヨーロッパへ行って帰ってこない息子を呼び戻してほしい」と依頼を受ける。トムがイタリアのモンジベロを訪ねると、ディッキーはマージという女性と共に悠々自適に暮らしていた。トムは徐々にディッキーと距離を縮め一つ屋根の下で暮らすまでになるが、二人のあいだには常にマージがいた。そしてある決定的な事件を境にトムはディッキーから疎まれてしまい、傷心のトムはディッキーを殺し彼になりすますことを思いつく。サンレモへの二人旅の途中、ディッキー殺害計画を実行したトムの危険な逃避行がはじまる。映画『太陽がいっぱい』の原作小説。
読み始めはどうしても昔見た映画版のぼんやりした印象といちいち照らし合わせてしまったのだが、話が進んでいくにつれこの作品もまた〈同性愛者の生き方〉を取り扱っていることがわかってきて驚いた。映画はヘテロセクシャルの物語として自然にみえるよう、筋がかなり変更されているようだ。(とはいえ、映画版にもホモセクシャルの要素があることは淀川長治が指摘していたらしい)
はじめに気になったのは『キャロル』の主人公テレーズとトムの境遇が似通っていること。二人とも孤児で他人の経済力に頼って生きてきたため、贅沢な暮らしに憧れ、今の自分の生活に嫌悪感を抱いている。テレーズは舞台美術デザイナー、トムは俳優を目指してニューヨークへ出てきたが夢破れ(かけ)ており、職業的に安定していない(トムが「デパートで堅実に働いていれば…」と考えるシーンも示唆的)。二人とも同性の友人がおらず、世間的に語られる“恋愛”に違和感をもっている。
ふたり旅が運命を大きく変えること(マージ視点から見たトム“と”ディッキーの旅はキャロルとテレーズの旅に似ていないだろうか?)、探偵とのハラハラする問答など、展開的にも『キャロル』と重なるところは多い。当時別名義で出版した『キャロル』のほうが先に出ているので、ハイスミスが『リプリー』でも共通のテーマを扱ったと考えても不思議ではない。トムの心理を詳しく見ていこう。
トムは打算まみれでディッキーの元へやってきたが、ローマでの夜遊びをきっかけに同居を許されてから本当に親愛の情を感じはじめる。このときトムの意識に性愛はなく、マージを疎ましく感じるのもディッキーをアメリカへ連れ帰るという目的のためだと考えているが、偶然ディッキーがマージの腰を抱いてキスするところを見てしまい、大いにショックを受ける。そして自分でもその衝撃の意味がわからないまま、ディッキーの服を着て鏡の前に立ちマージの首を絞めるという寸劇を演じるのだ。そこに帰ってきた他ならぬディッキーの言葉でトムが自覚を促され動揺するくだりは悲劇的だ。そしてトムが自身のセクシャリティにゆらぎを感じていたこと、「男を好きなのか、女を好きなのか、自分でもはっきりしないんだよ。だから、どっちもあきらめようと思ってる」というかつて言った“冗談”、しかしその言葉のなかには「事実もけっこうあった」「世間の人間と比べれば、自分ほど人の好い、心のきれいな人間はいない」という��情が読者に明かされる。
この日を境にトムはディッキーとマージから仲間はずれにされ、疎外感から精神的に不安定になっていく。ディッキーから決定的に嫌われてしまったことを認め「死にたいよ」と呟くシーンを起点に、ディッキーへの感情は反転して憎悪となり、ふたり旅に乗り気でないことを隠そうともしない彼をボートのオールで「たたき切るような感じ」で撲り殺す。犯行の直前、トムはひと気のない入り江で「ディッキーを殴りつけることも、飛びかかることも、あるいはキスをしたり、海に投げこんだりすることもできる」と考える。ここでキスを選ぶこともできたのだ。だがトムは自分の心を死なすより、ディッキーを殺すことを選んだ。孤児、あるいは(潜在的な)同性愛者だったがゆえに孤独を強いられていたトムは、殺人者になることで自らが選びとった孤独を手に入れ直したとも言える。この先なんどもそれを後悔するのだが。
〈殺害計画〉といってもトムのやることは全て行き当たりばったりだ。ディッキーに宛てたマージからのひどい内容の手紙(ホモフォビアがほんとひどい)で「何の取り柄もない人」と悪口を書かれるのも無理はない、とつい思ってしまうくらい、何から何まで運任せ。原題「The Talented Mr.Ripley」はハイスミスの皮肉だろう。トムに犯罪の才能はない。なんせディッキーの死体に引っ張られてボートから落ち、あやうく自分まで溺れ死にかけたりするんだから。彼にあったのは劇場では発揮できない類いの演技の才能だけ、つまり嘘つきの才能だけである。
ご都合主義的にも思える逃亡劇にハラハラドキドキさせられるのは読み手をトムにしっかりと感情移入させているからであり、ハイスミスがサスペンスの女王と呼ばれるゆえんを思い知る。ディッキーになりすましていたトムが自分の役に戻らなくてはいけなくなり、ディッキーのイニシャルが入ったブルーとストライプのシャツに涙をこぼすシーンや、「ディッキーとマージの関係についてあんな愚かな判断のあやまちを犯してさえいなかったら、あるいはふたりが自然に別れるのを待ってさえいたら、こうしたことはなにひとつ起こらなかっただろう。そして残りの人生をディッキーとともに暮らし、旅行をしたり、生活を充実させたり、楽しんだりすることができたのだ」とおいおい泣くシーンで、私はトムにすっかり入れ込んでしまった。ここでトムははじめて殺害動機をはっきりと読者に伝えている。トムはディッキーのような人生がほしかったわけではない、ディッキーとともに暮らす人生がほしかったのだと。その望みが完全に絶たれたと感じた瞬間に、殺したいほどディッキーを憎んでしまったのだと。
本書は、同性愛者であることを隠し続けて生きる疎外感と孤独の恐ろしさを殺人者・逃亡者の心理に重ね合わせているという意味で、クイーンの楽曲「ボヘミアン・ラプソディ」にとても近い構造の作品だと思う。秘密を抱えながら常に道化を演じ、恋をした相手と同一化したいと望むナイーヴなトムの虚飾にまみれた姿は、フレディというよりカポーティのようだけど。
映画と異なり、トムはまんまと容疑を逃れ遺産まで手に入れるが、この結末ははたしてハッピーエンドなのか、ピカレスクとしてもモヤモヤする終わり方だ。最初に比較した『キャロル』のテレーズとはな���という差だろう。キャロルはテレーズのために一人娘の親権を手放したし、テレーズ自身は夢だった舞台美術の世界へ一歩踏み出した。対して、トムのために何かを犠牲にするような人は現れない。トムは憧れの俳優業に就く代わりに、人生をまるごと嘘に変えてしまったのだ。ハードボイルドな犯罪小説でも痛快なピカレスクでもない、他人の服を着ることではじめて大胆になれた臆病な男の心理小説として素晴らしかった。私にはハイスミスを読む喜びがこれからもたくさん待っていると思うと、こんなにワクワクすることはない。
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かつてはアラン・ドロン主演で映画になり大ヒットし、最近はマット・デイモンが主演してリメイク(題名は「リプリー」)された映画の原作。
アメリカ人の青年トム・リプリーは家柄も地位も定職も持たず、薄汚れた部屋で、その月の部屋代にも事欠く生活をしていたが、友人のディッキー・グリーンリーフを連れて戻るようディッキーの父親に頼まれてヨーロッパに渡る。
ディッキーの父親は造船会社を経営する資産家で、ディッキーはその御曹司。
自分の生い立ちに比べて恵まれすぎているディッキー。トムは父親から渡された報酬が目当てでいたが、ディッキーに対する嫉妬心からか、ディッキーを殺してしまう。
殺人の隠蔽のためにトムはディッキーになりすまして彼がまだ生きているように思わせて、警察の捜査を切り抜けようとするが、、、
主人公が経済的に恵まれているにも関わらず気ままに暮らす友人の境遇と、同性愛者としての嫉妬から殺人を犯すという当時としては異色の設定?ではないだろうか。
決してトムという主人公は同情を抱かせるような感じではないが、その真相がバレそうになるのを機転で切り抜けながらも、行き詰まってまた犯罪を繰り返すという進行には、バレるのか?切り抜けるのか?また犯罪を犯して深みに入っていくのか?とヒヤヒヤさせられる。
アラン・ドロン主演の映画の結末の方が大衆受けするのは頷けるが、この原作の結末も嫌いではない。
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どうもアラン・ドロンの映画の印象が強すぎて途中でやめてしまった。
随分前にしかも多分中学生の頃みたので覚えているのは、アラン・ドロンが船に乗り背中を日焼けした所と、サインをまねしているところ、そして最後のスクリューの所のみ。だが活字のリプリーはしたたかだ。対してアラン・ドロンのあの上目遣いの目、したたかさではなく屈折。この違いを噛み込めなかった。
1955発表
2016.5.20発行 図書館
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昔映画の『リプリー』を観たことがあったけどほとんど記憶がなかったので新鮮な気持ちで読めた。
リプリーが二件の殺人を犯すまではとても面白く読めたけどそれ以降は少し冗長に感じたかな。
追い込まれるスリルはあったけど。
特にディッキーと仲良くなってから次第に憎悪に気持ちが流れていくあたりは圧巻だった。
リプリーはどうしようもなく身勝手で運が良いだけの犯罪者だとはおもうけど、ディッキーの同性愛嫌悪の態度も読んでいて気分が悪かった。
あんな態度をとられ続ければ辛くなって憎むのも当然だと思えた。
だからといって殺すなんてのはどう考えても許されないことだけど。
フレディが階段を引き返してくるときのハラハラ感もよかった。
最後は映画とはちがって逃げきるので、好き嫌いがわかれそうなところではあるけど、これはこれで物語としては好きだな。
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読み終えて改めて目にする原題の皮肉っぽさに思わずひどい、と声に出して呟いてしまう。「才能のあるリプリー氏」。トムは器用な人間だけれど、世界をあっと言わせるような才能なんてない。
クレバーではあっても臆病で小心者、器の小ささは自分が一番よくわかっている。だから自分が焦がれた特別な相手、新しい誰かに成り代わることで新たな人生を始めようとするのだ。
「要するに、自分を非凡な人間と考えたがるごく普通な若者ですよ」
ディッキーを評するトムの言葉はそのまま自分に跳ね返る。たしかにふたりは似ていたかもしれない。絵はうまくないけれど善良で、気分屋なところはあっても自信と無邪気な明るさに満ちていたディッキー。
そんなディッキーと、よい友人として仲のいいまま暮らしていく未来もあったかもしれない。イタリア語を少しずつ覚えて、モンジベロで仕事を見つける人生。けれど自分を置いてディッキーとマージの距離が近付いていくことに我慢できなかったトムは、結局殺人という道を選んでしまう。
トムは決して優秀な犯人ではない。作中で行われた犯罪だってすべてが場当たり的で、最後は殺人という決定的な罪を犯す前に軽い気持ちで続けていた税金詐欺まで見つかってしまう。そこにきて読者は、この物語の冒頭でもまた警官の姿に怯えてバーで体を強張らせていたトムの姿を思い出す。長い物語の始まりと終わりにおいて、トムはありもしない追っ手の影に怯えていた。
トムリプリーはディッキーを殺したことで犯罪の道に転げ落ちた人間ではなくて、もとより非合法なことに手を染めずにはいられない、そのくせ悲観的でいて、けれど同時に根拠のない自信を持ち合わせた人物なのだ。そんなパーソナリティそのものが「犯罪者向き」なのだとしたら、たしかにトムには犯罪の才能があるのかもしれない。パーフェクトにスマートに犯罪を犯すのではなく、何度危険を冒しても決して普通には生きられないという才能が。
わたしは有名な映画版を見たことはないけれど、映画のラストシーンではトムの殺人が露見するらしい。それはなんだかこの小説の余韻というか、なんともいえない悲しみを損なってしまっていると思う。
運よく危機を逃れ、失敗だったはずの過去の行動にも助けられてディッキーの遺産すら手に入れたトムは、さっきまでの怯えようが嘘のようにハイになって最高級のホテルを目指す。トムという人は、これからもこうして生きていくしかないのだ。致命的なミスを犯して追い詰められ、自分の計画が完璧に破綻するまでは無茶とも言える犯罪に手を染めて生きていくのだと思わされる結末は、ある意味で罪が発覚するよりもとても切ない。
映画を見ずに言うのは無責任な気がするけれど、トムというキャラクターのどうしようもなさがこれでもかと伝わる原作のラストシーンを改変したのは悪手ではないかなあと感じずにはいられない。