紙の本
あまり有名ではない大江氏の小説だが、これは(も)おもしろい
2021/09/19 22:09
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
キルプの軍団って、いったい何なんだ。キルプというのは、ディケンズの小説「骨董屋」に出てくる悪党の名前だということが小説の当初で明らかになる、主人公のオーちゃんは叔父を教師として原文で「骨董屋」を読み進める(筑摩や集英社から訳本が今は出ている)、元サーカス団員だった百恵さんやその夫たちと「骨董屋」やドストエフスキーの「虐げられた人びと」に着想を得た映画作りに取り組もうとする。「全然、キルプの軍団じゃないじゃないか」と思っていると、予想外の事件が起こる。確かに彼らはキルプの軍団だった、そして小説を読んでいるときに登場人物のうちで一番キルプにシンパシーを感じていたオーちゃんもあぶないところでキルプの軍団入りをしていたかも知れない、あまり有名ではない大江氏の小説だが、これは(も)おもしろい
紙の本
ディケンズとドストエフスキー
2019/08/19 11:18
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投稿者:とめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
過去の学生運動の影響を持つ人々といった悪意の人間に囲まれる経験をした高校生の恢復と癒しを著者の読書術を交えながら、家族をいけにえにすることへの赦しを求めた高度経済成長期末期らしい書。
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一度何処かで文庫化されていたような記憶があったが、巻末の初出を確認すると岩波から出た後、講談社文庫で出て、再び岩波に戻ってきたようだ。
大江健三郎の長編の中では余り知られていない作品ではあるが、この柔らかい雰囲気が好きだ。
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ディケンズの骨董屋を読み進めていく過程が楽しい。また、小説家の父に対するオーちゃん目線の描写にクスリとする。「事件」自体は陰惨な印象があるものの、少年の一人称目線の平易な文体で清々しい一作。
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この小説はとても読みやすかった。
鍵カッコが使われていなかったり、独特の周りくどい言い回しがあったり、ディケンズの骨董屋が、英語の原文で引用されていたりするものの、作家のご子息がモデルであろう、高校生の主人公・オーちゃんの言葉は、偽りや虚飾が無く、まっすぐに伝わってくる。
他の大江健三郎の小説をパラパラと立ち読みした時にこれは読めないと思うぐらい文章に苦戦したことがあり、警戒していたので、むしろ面食らった。
読みやすい文だからと言って、内容が薄いかというと、そういうことはないと思う。
作者自身のあとがきや、小野正嗣さんによる解説にもあるように、この小説には、癒しの効能がしっかりとある。
主人公が最後に自身を振り返って、「この世界はキルプのような悪意の人間の思うままなのだ、そういうところで苦しく生きるために、自分は生まれてきたのだ、と信じこんだのでした。」と書いている。
そしてこうした考えを起こすようになった出来事をも含むすべての原因は、毎朝「骨董屋」を、読んだことに始まる、とも書いている。
この世界は悪意の人間の思うまま、と感じることは、私にもある。
そのことによって、絶望的な気分になり、何もかもどうでも良いような気さえする。
そして、確かに物語によってその考えが生まれてくる、ないしは強化されるということは、あった。
そう思うと、物語は、無闇に現実に対して絶望を煽り、人間を自暴自棄にしてしまうようにも思えるが、ドストエフスキーの物語に対して、主人公のオーちゃんと、父が語り合った際に話し合っていたように、悲惨な物語であっても、読む方は心がたかまると感じる、全体を読み通すと励まされる、といったようなこともまたあるわけで、私はこの感覚が小説の中に著されていることに、目を見張った。
この本の中で語られる党派同士の殺し合いのような終わりの見えない負の連鎖(日本人離れしたしつこさで続く)は、ずっと過去から現在に至るまで、人類が逃れることができずにいる暴力の連鎖の一つの例であると思う。
今、パレスチナで起こっていることも、ウクライナと、ロシアの間で起こっていることも、すべてこの人間の止めることができない暴力の連鎖の一例となるだろう。
原さんと、そして主人公が思うように、誰かを殺したときには、自分も殺されなくてはならない、というような、人間が根源的に抱く恐れが、民族浄化のようなジェノサイドを引き起こすと思う。
また、現実社会で、法による裁きを建前としていたとしても、内面で強く自分や、他人の死による贖いを望む/恐れることによって、むしろ他国への侵攻や、他者への暴力をやむを得ないものとして正当化しようとする心境が生まれていっているようにすら思える。
つまり、己の恐怖を無いものとするが故に、暴力の連鎖そのものを無いものとする前提に立って、戦争を始める、ということだ。
しかし、どんなに暴力の連鎖を断ち切るための法律や理論や宗教を拵えたところで、人間の根源にある、「目には目を、歯には歯を」という気持ちを無くすことができるわけではない。
暴力が発生する限り、報復の連鎖は続いて行く。
暴力を止めるために、最もすべきことは、暴力を行わないことだが、自分自身がやむなくその暴力沙汰に巻き込まれてしまった時、どうすべきか。
この小説では、事件に巻き込まれてしまったオーちゃんが、自分の振る舞いによって、未然に防げたはずの暴力を作動させてしまったのではないかと思い悩む。
そのことについて、自分も殺されなくてはならないのでは、というほどに思い悩む。
これほど深い悩みではないにしろ、私自身も、自分の言動によって、誰かを傷つけてしまったり、苦しめたことについて、悩むことがある。
いじめに片足を突っ込むようなことをしてたんじゃ無いだろうか、とか、あんなことを言って、あの人は傷ついたんじゃ無いだろうか、とか。
そういうことを積み重ねていると、自分は全く幸せになるべきではないような気さえしてくる。
この小説のなかで、本当に心に深く響いたのは、主人公とその父の問題への対処の様子だ。
オーちゃんが原さんの死の責任に苦しみ、涙する中、父は、困ったなあ、と言う。
息子の考えを、その考えを自分が否定しても受け入れられない、という気持ちがあることを理解した上で、困ったなあ、というほかにない、という。
そこで息子も本当に困ったよ、と素直に明かす。
そして、父は、息子の理論を真っ向から否定し、説き伏せるのではなく、そこからの恢復を願っていると励まして、その場を後にする。
この部分のオーちゃんの父の言葉には、自分も励まされた。
私もそうだが、多くの人は、自分自身の過ちについて深く悩み、苦しんでいても、そのことで困っていると、うまく人に明かせない。
反対に、蓋をするように、自分の外面ばかりを取り繕うので、グズグズの地盤にコンクリートを積み重ねて行くみたいに、むしろ傷を深くしていってしまう。
傷に必要なことは、それを陽に晒して、乾かし切ってしまうことだ。
そのあいだ傷に外気が触れたり異物が触れたりして、痛むことがあっても、その傷があることを自分自身が認め、他者に認識してもらうことが、回復にとって必要な過程になると思う。
このときオーちゃんが、父に自分の思いを打ち明けたこと、そして、父の受け入れる姿勢を前に、苦しみを認めたことは、傷を陽に当て恢復させる、第一歩となった。
それに加えて、光さんの音楽によっても、彼は癒しを得る。
芸術の最も素晴らしきところは、その曖昧さ、その未確定で、漠然とした広さによって、多くの人の多様な苦しみを癒すところだと思う。
オーちゃんの父の周りくどいといわれる言い回しには、普段の生活を送る上では大いに困ることがあるだろうが、こと、人を癒すという場面では、大いに役立つものなのだと、示されている。
自分の考えに固執しないこと。
自分こそが正しいと、相手を圧倒しないこと。
いつのことからか、口喧嘩に強い人間こそが賢いような困った認識が広がってきつつあるように感じられるこの世界で、勝敗如何ではなく、論理の正当性だけではなく、実際の人間を常に慮りながら、作り上げるような切実な道徳観念が、まさに今必要だ、とこの本を読みながら考えていた。
どちらが正しいよりも前に、今目の前の傷ついた人々を救���ために戦闘をやめるべきだ、という感覚を持ち続けていたい。
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最後に実名で大江光の作曲が出てくる。大江の日常生活の冒険と内容が一部重なっている。ディケンズの小説を原書で読んでいるオーさんが主人公であるが、その警察官であるおじと作家である父がいる。そして映画製作する原が党派の争いで間違って殺され、サーカスで一輪車に乗っていた女性が遺される、という複雑な話である。
朝日新聞での大江の追悼で紹介された本であるが、代表的な小説としては宣伝されていないので、いままで読むことがなかった。
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おーちゃんは忠叔父さんを第二の父親のように慕い、ディケンズなど小説の事を共有しながら関わりたかったのだろう。
百恵さんや原さんたちは、そんな忠叔父さんに付随する忠叔父さんの気にかける大切な人。
だから余計に、おーちゃんは映画基地にのめり込んだと思う。
そして忠叔父さんがいなくても、一人前になった気分で映画基地に通っていたからこそ、タローちゃんの事件が起きても
警察権力としての叔父さんを行かせるのを渋ったのだろう。
寝込んでから、おーちゃんは家族のもとに戻ってきたのだと思う。忠叔父さんは「一般的な叔父さん」に戻り
おーちゃんの家族は父親、母親、姉、そして兄で
そんな家族に救われ復活出来た。
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☆4.5 ヒューモアにあふれてゐる
大江作品のなかではめづらしく、『静かな生活』と同様に、こどもの視点からえがいた小説。
冒頭からのディケンズ『骨董屋』の読解がつづき、カッタルイかもしれない。けれど、ゆっくり読めばいい。しだいに主人公のオーちゃんがかたる高校生の生活――おもにオリエンテーリングと忠叔父さんに惹かれてくる。百恵さんや鳩山さんが魅力的なキャラクタとして登場する。結末は活劇めいてちょっとのめりこんだ。
印象としては、「河馬に嚙まれる」や「僕が本当に若かった頃」の要素に、「静かな生活」のアクションを足した長篇。
講談社文庫版のあとがきには、『キルプの軍団』がいちばん好きだといふ三十代のファンと、ドイツで会った旨が書かれてをり、同時代の若い人にむけためづらしい小説だといってゐる。
岩波文庫版の小野正嗣の解説はすこし的外れだらう。モデル小説として家族をいけにへにする、その罪のゆるしといふ解釈がなされてゐる。しかし、そのやうな局所的な思ひが大江にあったか? 尾崎真理子も、全小説の解説で指摘してゐる。
NHKの100分de名著の『燃えあがる緑の木』の特集でも、大江がむつかしいといふNHKキャスターにたいして、どこがむつかしいんですか?と小野は言ったさうで、なんだか鼻持ちならないなと私はかんじてゐた。
大江をむづかしいとかんじるひとがゐるのは当然のことで、だから村上春樹は大江から離れたのだらうし、大江も後期は文章の改善に努めた。私も文章さへどうにかなればとおもひ、大江と村上の融和こそが、つぎの小説だとさへかんがへた。
ちなみに、さがしたら「キルプの軍団」といふボカロ曲があった。