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投稿者:雄ヤギ - この投稿者のレビュー一覧を見る
1936年にソ連を旅行したアンドレ・ジッドが、旅行によって裏切られた失望を記した本。平等を求めるジッドだが、「労働者の国」ソ連では、ある種高等労働者と、貧しい労働者に分けられたり、スターリンに反対する人間が粛清されたり、自由な言論が侵害されたりすることへの反発。
「プロレタリアートの祖国ソ同盟」を素直に見ると
2019/03/19 21:56
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投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ジッドが見たままのソ連を書いた事で有名な本の新訳。勿論、ソ連当局がおめでたい「進歩的知識人」や「ソ連の友人」といった連中に見せる為の見学者コースだが、それでも素直に見れば、それなりの事は見えてくる。見たまま書いたからソ連をはじめフランス共産党などから罵倒されたが、どちらが正しいのかは未だに「プロレタリアートの祖国ソ同盟」を崇拝するようなスターリン主義者でもない限り明白だ。
ただしこの本が書かれた時期での「浮浪児たち」とは「革命後」ではなく所謂「農業集団化」とホロドモールで家族を失った子供達が殆どだろう。
「修正」の方でソ連批判を書いた人達の名前が出て来るが、邦訳のある人はどの位いるだろうか?もっともジッドも「修正」に出て来るので「ソヴィエト旅行記」を書いてから読んだようだが。トロツキーや「裏切られた革命」のフランス語訳の仕事をしてからトロツキーと敵対関係に入ったヴィクトル・セルジュ、邦訳者が惚れ込んだので邦訳が出ていたスヴァーリンの「スターリン」といった本は読んでいたが、セリーヌの「懺悔」は彼の著作だから邦訳があるだろうと探して入手した。
セリーヌはジッドと同じ1936年にソ連を旅行したが、訳注では「ソヴィエト政府の招待を受けてソ連を旅行したが」とあるが、国書刊行会から出た「懺悔」の解説では「夜の果ての旅」のロシア語訳がアラゴンの妻によって「セリーヌの同意なく大幅に削除した箇所がいくつかあった」ものがソ連で刊行されて「そしてこの翻訳の印税がソ連邦内で消費すべく定められていたので」彼がソ連を旅行したとある。これではセリーヌがソ連に招待されたというより問題のある翻訳で得た印税を消化する為(おそらくルーブリをソ連から持ち出せないからだろう)に訪ソした事になる。こんな話しは初めて読んだ。セリーヌの「懺悔」は彼の狷介な文体が災いして読みづらいが、ソ連批判は読み取れる。
「修正」にはジッドのようにソ連礼賛者からソ連批判に回った人達の名前が出て来るが、ソ連の実態を見たり粛清の報道や独ソ不可侵条約などでソ連に幻滅してから、かつてのフランス共産党の幹部だったジャック・ドリオのフランス人民党に加わった人もいるかもしれないし、トロツキストになった人もいるだろうし、ユダヤ教やカトリックに帰依した人もいるだろう。スヴァーリンの「スターリン」のようにポグロムで生地から追われてヴィシー政権に逮捕された事もあるユダヤ人でも晩年にヴラーソフ将軍を礼賛する記述を付け加える人もいる。
今日読んでも意味のあるもの
2023/12/27 15:04
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投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
ソ連を擁護していたジッドがソ連を訪れ批判を記したものだが、反共としてではなく、圧制とそれを支える仕組みについて考えるためにも今日読んでも意味のあるものだろう。「今、為政者たち人々にが求めているのは、おとなしく受け入れることであり、順応主義である」。この言葉も今日的だろう。「私はいつも真実の側につく。もし党が真実から離れるのなら、私もまた同時に党から離れる」。
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2019年4月読了。
愛育病院に行く途中、田町駅前の虎ノ門書店で「ジャケ買い」。
この本が2019年に日本語訳されて出版されるということの意味を何重にも噛みしめて読んだ。
訳者による前書きで本書の成立年代に関する背景について説明があり、そこで提示された事柄を前提にして読み進めれば、この当時のこの場所=1936、37年のソビエト社会が、如何に今日私が住んでいる社会とさして変わりはない、同じような現象が起こっていることに気がつく。
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1936年3~6月にジッドがソヴィエトを旅行し、
考えたこと、感じたことが書かれた本。
ジッドはソヴィエトに希望を見出していたが、
実際に訪れてみると、理想とかけ離れた現実が
そこにはあった。
当時のフランス左派知識人からソ連は強く支持されて
いたため、本書が出版されると、左翼から猛烈な批判を
浴びることになる。当時のヨーロッパでは、私たちが
考えるよりも、共産党に共鳴する人が多かったそう。
この時代の空気を感じることができた一冊でした。
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ソ連については教科書以上の予備知識はあまりなかったので、当時フランスでソ連の信奉者が知識人の中にも多くいたのには驚いた。あとがきにもあるように、「歴史が証明した」後に私は生まれたから。
旅行記と聞いて想像した内容とは違って、ほぼソ連への批判文だった。最初こそはソ連への希望的観測を捨てきれていないようだったけれど。
全体として真実を見つめ誠実であろうとするジッドの姿勢にはとても好感が持てた。ジッドがソ連を訪れたのは66歳だったという。作家としても成熟した年齢になっても、自分の想像と現実が違ったときには過ちを認められる柔軟さや誠実さを持ち続けていることに尊敬。
現代でも全体主義的な脅威はいまだ存在しており、その脅威はこれからより一層大きくなるように思われる。ソ連時代の本では歩けれど、現代にも通ずるメッセージを持っていると感じた。
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いい本でした。単なるソ連の批判ではなく哲学としても非常に奥深い本となっています。作者の批判が非常に理論づけされていて良かった。
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ソ連崩壊前、共産主義にはそれなりに興味があった。その後歴史が証明したとおり、社会主義、共産主義は、たぶん人類の脳というOSに合わなかったんだろう。
「あっ、合ってないなあ」、と気が付き出した時の人類がどういう非喜劇を演じたか、壮大な社会実験を行ったソ連の内情を垣間見ることが出来て、非常に面白かった。
ドグマがなんであれ、批判を許容出来ない社会には活力も進歩も生まれないのね。
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内容についての良さは置いといて、訳者による前書きやあとがき、解説の丁寧さと熱意のすごさたるや…ジッドに込められた想い、前訳者に対する尊敬の念などを読んで、文庫と厚さにしては1200円ほどと高さを感じたが、これはそれ以上の価値がある。ソ連をより知るための教科書でもあるがそれ以上に現代人には必読書と感じる。読んで本当によかった。
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面白かった。赤かった時代のソ連に旅行した時の作者の感想。こういう他国の政治には、くるんでくるんで、匂わせ程度にしとけばいいのに、多分それでも批判されるのに。別に攻撃、批判をしてるんでなくて、ちゃんといい所も挙げている。多分フランス人が一番、人間の尊厳、生きることの理由意味などに真摯に向かい合っている人種で、最後の一人になろうとも、違う物にはノーというべき姿勢を貫ける人種かと思っているが、当時のソ連には、個人を表現するすべが見当たらず、作者は絶望を感じてしまったようだ。この作者読んだことなかったけど良かった
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・これは面白い。歯に衣着せぬ鋭い意見。
・ソ連の欺瞞をジッドは見抜いていた。
・何度か読み直してみたい。
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1930年代のフランス文学界と共産主義や革命との関係の史料として手に取ったが、心に残る言葉にたくさん出会えたのは思いがけない喜び。
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ジッドの真心からの叫びが悲しい。
ユートピアができるはずだったのに何でこうなってしまった?と嘆く。
本当にジッドのようなただ純粋に平等な社会が来ることを信じてた人達を騙したニセ予言者や独裁者は罪深いと思う。ニセ予言者について哲学者のカール・ポパーが『推測と反駁』で結構強めの言葉でこのように批判してる。
丸ごと全体がすっかり善なる社会といった遥けき理想を志し、この理想のために働くことによって間接的にこれらの目的を実現しようとしてはならない。この理想の心をそそる未来図に自分は支えられているのだと深く感じるにせよ、自分はこの理想の実現のために働く義務があるのだからとか、この理想の美しさに他の人々の眼を開かせるのは自分の使命であるとか考えるな。素晴らしい世界の夢が、今ここに苦しんでいる人達の要求を、この夢に引きずり込むのを許すな。いかなる世代といえども、未来の世代のために、決して実現されぬかもしれぬ理想の幸福のために、犠牲にされてはならない『推測と反駁』
私は全体主義と独裁、そしてどうして人間がそれらの方向に進んでしまうのか分析・批判した哲学者ポパーの仮説と、ジッドの実地で体験したことが縦糸と横糸のようにうまく組み合わさってると思ったので、本書をポパーに寄せてレビューしていく。スターリン個人の問題であって、他の人物だったらこんなことにはならなかった、スターリンが間違ってただけで、マルクスやレーニンは間違ってなかったのような取り繕いも不可能だと思われる、といった話に終始する。よってそんな話には興味ないという方はここで読むのをやめることをお勧めします。なぜなら言いたいことは上で引用した文章に尽きるし、ポパーの話ばかりになりすこぶる長文でもあるから。
■『ソヴィエト旅行記』
・人々から個性がなくなる、規範に合致するように作ることを強いられた芸術は芸術か?
ジッドが繁栄してると聞かされていたコルホーズの住居が、実際は共同の大寝室で、部屋にはみすぼらしい家具とスターリンの肖像画だけがあって、その労働者個人を示すものは一切なかった。そして没個性は進歩ではないと批判する。
またソ連の芸術がソ連の体制に合致するような大衆に受ける芸術だけを求め、その他のよく分からない芸術を形式主義だのブルジョア的だのレッテルを貼られ弾圧されていると嘆く。自身も作家であるジッドがかなり違和感と憤りを覚えている。芸術は体制に迎合するものではなく、既存の価値観に反発することで素晴らしい芸術作品が生まれてきたのではないかと。それこそ革命の精神なのではないかと。現在の政権を褒めたり賛美したりするだけの芸術を作ることが、どう民衆を教え導いて文化を発展させていくんだと。芸術家に沈黙を強いる文化は褒めるどころかむしろソ連を貶めてる。芸術の話はジッドの憤りが伝わる。体制に媚びへつらい大衆に好かれようとしてるだけの作家のどこが偉大な導き手なのかと。ジッドと口論になった画家Xは、あとでジッドに「さっきはあのように言わざるを得なかった。分かってください」と弁明した。
ポパーの意見→社会を前もって計画された企てに従って建設しようとするなら、そこに個々人の自由を認めることはできない。中央集権化された経済計画は経済生活から個人の最も重要な機能、個人が自由に生産物を選んで消費するという機能を排除する。まず全員が平等という地上に楽園を作るには全員の足並みをそろえる必要がある。この足並みを乱す輩は楽園の敵だ。誰かが新しいものを生み出すとそれで差がついてしまうので芸術も閉鎖される。商品は全て国が管理し国から支給される。競争相手がいないので劣悪な商品でも淘汰されない。人々が常に嘘をついて体制を賛美していなければならない、わざとらしい社会。これは純粋無垢な人達が心の底から平等で幸福に満ちている社会ではない。『開かれた社会とその敵』
・革命を起こしたのに、また格差ができてる
革命を起こしたのに、その内部で恵まれた者と貧しい者という格差ができてるという。そしてその恵まれた者達は保守的になりその境遇を守ろうとして、貧しい者のことなど考えなくなってしまった。人々から慈善精神も消えうせた。なぜならそういうのは今後は全部国がやってくれるので自分らはやらなくなる。なんというパラドックスか。楽園になると慈愛の心が消えうせる。
ポパーの意見→革命を起こしても、また新たな格差ができる、新たな階級が出来上がる。マルクス自身の分析によると、階級の統一または連帯は階級意識の一部であり、それ自身大部分が階級闘争の産物である。共通の階級敵に対する闘争の圧力が消えてしまえば、労働者がその階級敵統一を維持しなければならない理由もなくなる。最も高い可能性は、勝利の瞬間に権力を握っていた指導者達が、その追随者と共に様々な権力闘争を生き残り新しい社会の新しい支配階級を形成することだろう。搾取がブルジョア階級と共に消えるとも限らない。『開かれた社会とその敵』
トレンドと法則の混同。前提条件が変化したり消滅したりすると変化するトレンドと、無条件の法則は別物。太陽系の星の動きは数百年未来でもあてられるんだから、社会もそのように予測して的中させられるはずだという間違い。天文学の長期予測が成り立つのは、太陽系の動きが恒常的な反復で成長も発展もしないから。つまり歴史がないから。非定常的な社会体系はそのようにいかない。国が貧困を撲滅するよう介入してきたなら、労働者達が団結して革命を起こす必然もなくなる『ヒストリシズムの貧困』。マルクスが分析した仮借なき資本主義は、多くの改良を経て全く別物になっている。仮借なき資本主義の次は革命が起き無階級社会が来ると断言するのは人々を惑わせたニセの予言でしかない『開かれた社会とその敵』
・スターリンや社会政策への批判が許されない
批判を封じ込めてはいけない(特に権力者が一番これをやってはいけない)、人間は必ず間違えるんだから、その間違いを指摘してくれる批判こそが知識を進歩させる、と常々述べていたポパーだったが、ジッドも同じことを考えていた。
ジッドは言う、国内で反対派を抹殺することはテロリズムへの道を開く。国民全員が同じ意見で統一されてるなんて、なんて精神の貧困化だろう。反対派の意見に耳を傾けることは大いなる叡知。ロシア人には自分の思ってることを表現する自由がなく、共産党の機関紙『プラウダ』だ���が自分の意見を持てて発表する権利を有する。ヒトラーのドイツでさえソ連以上に精神が自由でなく、捻じ曲げられ、恐怖に怯え、隷属させられている国はないのではないか、とまで言う。下々は自己批判なるものをやってるが、スターリンが決めた規範の線の枠内にいるかいないかについての批判であって、線そのもの(スターリン)の批判はされていない。ソ連の賛成者で命を捧げてもいいと誓ったジッドが、ヒトラーより酷いことになってると告発するのは重く見るべきだと思う。
ポパーの意見→自分の下した結論に何度も挑戦し、もしかしたら間違ってるかもしれないと思い、そのため他人の理性を信頼し他人の批判で誤りを見つけてもらうこと。そうすると自分はなんて知らないことが多いんだろうと思う。とてもじゃないけど自分は全知全能だなんて驕る気持ちはでてこない。批判こそが知識を進歩させる唯一の道だという。
逆に言うと、批判を受け付けない、または人々を黙らせる力を持っているのでそれを行使して言論の自由を弾圧するような人物は、間違ってるかもしれない自分の意見がいっこうに訂正されず、そのまま暴走してしまう恐れがある。また他人との話し合いも不要というのは、他人の理性も信頼していないということで、間違いを犯す人間に過ぎないのに自分を神かなんかだと勘違いしてる傲慢さも見て取れる『開かれた社会とその敵』『よりよき世界を求めて』『ヒストリシズムの貧困』『推測と反駁』。またカントの『純粋理性批判』『人倫の形而上学』など。
どんな情報源だろうと利用されていいが、どの情報源にも権威はない『開かれた社会とその敵』
いかなる源泉、いかなる提案も批判的検討の対象になる『よりよき世界を求めて』
政治における科学的方法とは、「何の間違いも犯していないと自らを納得させ、間違いに目をつむり、人の目から隠し、他人のせいにする」という芸術的な技の代わりに、「過ちの責任を認め、そこから学ぶ努力をし、その知識を将来に活かして同じ過ちを繰り返さないようにする」という、より偉大な芸術的手法を身に着けることを意味する『ヒストリシズムの貧困』
好き勝手発言して批判は許さんなんて態度は通らない。批判や反論からチョロチョロ逃げ回ってる独裁者は私には強者に見えない。むしろ臆病者に見える。また、彼らは資本家の搾取を問題視するが、これこの通りロシア人から自分で考えてそれを発表する権利を搾取して、自分だけがこの権利の恩恵に浴している。
こんなことしてる人達が果たして強いとかすごいとか言えるだろうか。またそういう人物の言うことは全く信用に値しないのではないか。なぜなら誰からも咎められないので証拠がなくても好き勝手発言できるから(独裁者はうちの国民が迫害されたとか虐殺されたとか隣国に主張することがままあるが、どちらを信じるか、ポパーの提示した基準はそういう時の判断材料になると思う)
・楽園作りに携わる人間の神格化が始まる
レーニンがクーデターまがいからジッドの旅行まで約20年が経っていた。20年経ってまだ楽園は完成しない。ジッドも嘆いてる、スターリン個人というよりも、あれ程の血を流し、あれ程の涙を流し、あともう少しで人類がつかめると思ったも���、それは結局人類の力の及ばないものだったのか…という失望。初めの理想とはすでに乖離している。
ポパーの意見→楽園作りを批判した理由の一つ。一からの楽園作りとか計画が巨大・大量すぎて時間がかかりすぎる。人間である以上予期せぬエラーや間違いは必ず起こるのに、計画が大量にある場合その間違いも桁違いになる。またユートピア主義は最良と考える究極的国家の青写真をまず最初に思い描く。合理的な政治的行為の前に究極的な目的が決定していなければならない。しかし究極目的がどのようなものか、理想の状態とはどのようなものかを科学的に決定することはできないし、意見に関する相違も議論で取り除けない。すると宗教的意見の相違に似てくる。自分のユートピア像と異なるユートピア像を持つ人間を説得するか、さもなければ粉砕するしかなくなる。計画が膨大かつそれらを不変に保つ必要があるので、長期にわたって異見を弾圧する必要に迫られる。これが楽園作りの恐ろしいところで、もし目標を変更でもしたら、怨嗟の声を抑え込んで数十年かけて進んできた巨大計画をまた最初からやり直すはめになる。目的変更(間違い修正)のたびにこの危機に見舞われる。いよいよユートピアなどどこにもないのではという焦りに駆られるかもしれない。今更間違いを認めるわけにはいかない彼らの取るべき手段はただ一つ、楽園作りに携わる人間の神格化が始まる。ユートピアの青写真を設計し実現しようとしてる指導者達は先見の明を持ち、誤ることのない権威を有している、といったような断言が始まる。彼らは全知全能になる。そして批判が不可能になる『開かれた社会とその敵』『推測と反駁』『ヒストリシズムの貧困』
ジッドは1936年のソ連でこれを体験し、ポパーのこの分析は1947年、まだ楽園を目指してユートピア社会工学で進んでいった国がどうなるか分からなかった時。でも私達はそれらの国がまさにジッドが嘆き、ポパーが予測した通りになったことを知っている。
・理想の社会を構築する前に画面をまっさらにしておかなければならない
ジッドは画面のまっさら化を目撃して、それを記録に残してくれた。ソ連旅行の前のジッドの演説で、ソ連の作家が反抗者というより迎合者だと述べ、それを褒めたたえる箇所がある。このときはまだこれを良いことと評価していて、後で見当違いだったと認めている。その時、旧来の作家の社会の問題はまるで消滅したかのよう、むしろあまりにも新しい状態に移転してしまったために私達の精神が面食らってる、全く新しい空に新しい星々を輝かせるごとく、新しい問題がソ連で浮かび上がり、栄誉の一つになるだろうと、確かにちょっと支離滅裂なことを述べている。これはポパーが画面のまっさら化と呼んだ完全主義的な社会変革のアプローチについてジッドが面食らってる場面だと思われる。また「風呂の水が汚いので、全部捨てたら赤ちゃんも一緒に捨ててしまった」というたとえ話のところもそう。とにかくソ連では今までの伝統とか道徳などを全部一掃してしまったと。まっさらになった画面の上に全く新たな社会を構築してると。
ポパーの意見→ユートピア技師というのは一種の芸術家で、以前の作品の汚れが画面に残ってるのが許せない。そこで全部拭い去ってから仕事に取り掛かる。これを人間の社会に適用するとどうなるか。まず子供たちを親から奪いどこか別の場所で集団で教育する。必ず不服を唱える親が出てくるのでそういう人間は追放するか抹殺する。国家をよりよくするためにはこれは唯一の正しいものとされる。これ全部ソ連の発想ではなくて、実は古代から提案されていた。その提案者はプラトン。『国家』や『政治家』『法律』に実際書いてある、政治家は粛清・追放・殺害しなければならない。彼は今ある伝統を腐敗したものとして消去しなければならない。ちなみにプラトンのいう哲人王、政治家とは神のごとき人物で、ほぼ全知全能のようなカリスマである。神や全知全能を気取った間違いを犯す人間が、批判を不可能にし、どれだけ民に被害をもたらしたか今の私達は知っている。たった一人の間違いを犯す神気取りの人間にすべてをゆだね全部消去しろとは全く科学的でない非合理的だし正気の沙汰ではない。それなら今あるものを皆で話し合いながら少しずつ改正していく方が合理的だ『開かれた社会とその敵』『推測と反駁』
・結論。人はいともたやすく篭絡されてしまう
人間の本質は善か悪か、みたいな質問がある。ポパーは人というのは基本的に善良であるという。むしろ善良すぎるぐらい。しかし同時に愚かでもあるという。ここでいう愚かというのは、私達は他人のことをたやすく信じてしまうという意味の愚かで、人類そのものが絶望的に愚かなんだという話ではない。私達の生み出す闘争の問題は邪悪さに起因するのではなく、むしろ道徳的熱狂に、私達の社会をもっと良くしようという熱心さに起因するのではないかと。闘争とはよりよい社会を作ろうとする宗教間の戦いだった。道徳なんか信じていなかった独裁者達の訴えですら自分らはさらに高次の道徳に至る道を知っていると主張することだった。そしてスターリンやヒトラーに従ったように人々は容易に篭絡された。1942年に現在の体制が悪魔の仕業で悪魔的な体制になってしまった、聖職者はその撲滅に努めなければいけないと主張したブラッドフォード大僧正のいう悪魔の体制とは、秘密警察と強制収容所のギャングの世界だったソ連でもナチスでもなく西洋社会のことだった。イギリスの有名な物理学者が、スターリンは全ての科学者の中で一番優れていると報道されたこともあった。より高度の道徳に至る道を自分は知っていると主張する誰かが現れれば、なんと簡単に私達は篭絡されてしまうかよく分かる。そしてたとえ善良さでも、合理的な批判と結びついていない場合、いかに危険なものになるのかも。スターリンの拷問を受けた者もスターリンを最後まで信じて死んでいった。逆に言うと、道徳も自由も信じていなかった独裁者といえども、人間の善良さに敬意を表さざるを得なかったし、自分は自由のために戦っていると口先だけのお世辞をふりまかざるを得なかった。ここで最初に引用したポパーの言葉をもう一度かかげよう
丸ごと全体がすっかり善なる社会といった遥けき理想を志し、この理想のために働くことによって間接的にこれらの目的を実現しようとしてはならない。この理想の心をそそる未来図に自分は支えられているのだと深く感じるにせよ、自分はこの理想の実現のために働く義務があるのだからとか、この理想の美しさに他の人々の眼を開かせるのは自分の使命であるとか考えるな。素晴らしい世界の夢が、今ここに苦しんでいる人達の要求を、この夢に引きずり込むのを許すな。いかなる世代といえども、未来の世代のために、決して実現されぬかもしれぬ理想の幸福のために、犠牲にされてはならない
平等も無階級も最高の善を実現するには楽園を作る社会しかないと断言し、貧困や病苦、失業や国家的抑圧や戦争紛争などの今目の前の害悪から救われたい、救いたいと善良さから思っていた人達(ジッドら)を欺いて偽りの楽園(全体主義国家)作りに誤導した者達の罪は大きい。理想的な善など議論では決着がつかない、科学的に規定できないもので、それは予言者が熱狂的に吹聴してるようなものだ。それは公平な判定者の合理的な態度を必要とせず、熱烈な説教者の感情的熱狂を求める。幸福の追求など個人に任されるもので、全人類を至福に導くような行動は常に失敗してきた。常に失敗した理由をようやく述べられる。一度自分の知性を使って、自分の頭で考えたことがあった場合、私達は無垢の状態には戻れない。人間が今から全裸になって文明の利器をすべて放棄して山や森で獣のように暮らす、なんてことはもう不可能。カントはそれを未成年の状態から抜け出したと表現した。自分の理性を使う勇気がない状態が未成年。もしそんなことを無理やりにでも望むなら、やろうと思えばできる。ただしそれは全ての社会的発展を人為的に停止させ、純真に振舞うよう脅迫され、体制に疑問を抱いたり発表したりしないよう強制されてるわざとらしい社会であって、本当に無垢な人間が戯れてる天国では決してない。むりやり知性を使わないように未成年の状態にされている。これは人間的なことではない。権力者が一番、地上に天国を作ることはできないと理解しなければならない『推測と反駁』『開かれた社会とその敵』
■『ソヴィエト旅行記修正』
ここまでが『ソヴィエト旅行記』の内容。精神の自由に対する抑圧への批判が多い。そこでこれを読んだ同志達から「知的な内容に偏りすぎてる。ソ連は貧困撲滅や非識字者撲滅などもっと実質的な問題へ対処しているのだし、そこを評価すべきだ」と反駁された。それについてジッドが「それじゃあ同志達よ、具体的な数字を出して貧困や非識字者が撲滅されたのかどうか見ていこうじゃないか…」と再反論する。これが『ソヴィエト旅行記修正』。ジッドというのは敵に回したらいけない人のようだ。『ソヴィエト旅行記』でもソ連の批判はしていたが、一縷の望みで良くなるんじゃないかと考えてるふしがあった。しかし『修正』ではジッドと同じく支持していたソ連に失望し『旅行記』に賛同した他の作家から情報を提供されたことで、より批判が苛烈になった。もうここでは良くなる望みも捨ててるように思える。『旅行記』では労働者達は精神的に搾取されているという話だったが、『修正』では肉体的にも物質的にもいまだに皆搾取されていると憤る。理想郷を作るどころか来た道を戻ってるのではないか。イメージではなく客観的な数字なのでぐうの音も出ない。工場で生産される欠陥品の増加、根絶されない非識字者、学校に来なくなる大量の子供達、教師に給料が支払われない、おぞましい様相の労働者の住宅、革命前���り減少してる学校数、ジッドはフランスの共産党にも怒りをぶつける。君達はこれらの惨状について知っていながら、まるで楽園のごとくと労働者を騙したのだと。ソ連の労働者には移動の自由すらない、もし指定された場所から脱出しても次の場所で仕事は貰えない。逆に移動の命令には逆らえない。党に入れば様々な特典がつくし給料も通常70から400ルーブルのところ、高級官僚になれば1500から3万まで。この見返りに自分の頭を差し出す必要がある。もう自分の頭で考えるのを止める必要がある。すべては順調と認めればいい。でないとシベリア送りになるからだ。
ロシアに密告の文化が根付いた。体制に不満な人間を密告すると警察の覚えがよくなり厚遇される。もはや誰も信用できない、子供ですら信用できない。油断させて本音を喋らせるための誰かのスパイかもしれない。かつては助け合いや支え合い、保護や黙認があったが、今はなくなった、皆腹に一物を隠し口からは嘘だけが出てくる監視と密告の社会になった。評価されるのは慈愛精神に溢れた者ではなく、最も卑怯な者、最も迎合的な者、最も下劣な者という道徳が退廃した不誠実な国になったとジッドは嘆く。ジッドが怒るというより呆れたのがソ連当局の極度の虚言癖、ジッドの知らない所で勝手にジッドがソ連をこう褒めただのこういうことがあっただの嘘話をでっちあげ堂々と新聞に掲載したという。これはポパーの楽園が作られるならその間に何が起ころうが正当化されるというヒストリシズムの倫理を思い出す。
大多数の庶民は、おそらくこの体制をまったく評価していないだろう。だからこそ彼らの口を封じておくことが肝要となるのである。206ページ
1936年に制定された憲法で普通選挙制を定めるなどの世界一民主的な内容と謳われたが、適用の面では案の定空文化した。労働者には自分達の侵害された利益を守ってくれる代表を選出することが不可能となっている。投票はただの見せかけで、上から下っ端まで最初から誰が当選するか決定済みであり、その通りに行われる。スターリンはプロレタリアを抵抗できなくし、自分に従わないものを裏切り者扱いし抹殺、世界中の共産主義者はこの体制を賛美している。官僚達のほとんどが冗官であり、スターリンの賛美者だ。なぜならいなくても誰も困らない自分らが存続するにはスターリンの寵愛を得るしかないのだから。労働者から搾取したこれらの高級官僚や支配者達は、労働者のために病院や学校や療養所や住居などの施設を作ることはなかった。代わりに作ろうとしたのが高さ415メートルで巨大なレーニン像が聳え立つソヴィエト宮殿というものだった。これにはジッドも開いた口が塞がらず、死ぬほど飢えている労働者達も満場一致で喜ぶだろうと述べた。ここに来てジッドの怒りのボルテージが上がり、フランス共産党は目を開くべき、フランス共産党を騙してる者もその行いをやめるべき。あるいは労働者達は共産主義者に騙されてると知るべき。共産主義者もモスクワに騙されている、と述べ『旅行記』ではまだ信じようと努力していたかつての熱烈に支持したソ連をもはや見限ってる様子が伺える。
訳者は日本でも『旅行記』発売後の翌年という早い段階で、左派から批判があったと紹介している。これを読むと人々がこの当時どれ程ヒストリシズムに染まっていたのかということが分かって興味深い。1937年にプロレタリア作家の宮本百合子がジッドに反論しているが、ジッドは「歴史的現実を客観的につかんでいない」「大局を見誤ってる」「歴史の本質を把握し得ない」という批判だ。自分にはこれは批判というより「歴史の法則が分からない凡人」と小ばかにしてたり、「歴史という激流に逆らう愚か者」と呆れてる様子に見える。宮本のいう「歴史の本質」というのがマルクスが発見した階級闘争の法則のことならば。この法則は人間ごときが足掻いた所で逆らうことなど不可能、社会主義が到来するのは歴史の必然である。宮本にとってはジッドの行いは、濁流の前に立ちはだかる一匹の蟻が流れを堰き止めようとしてるかのごとく映ったのではないか。ここでポパーがマルクス主義に反対した理由の一つを述べる。革命が起き楽園の到来が確実ならば、いかなる犠牲を払ってでも一日でも早くその楽園を近づけることこそが正義となる。すると、未来の楽土がもたらす利益の前には現在の独裁体制がもたらす弾圧や抑圧、その他諸々の害悪などものの数ではなくなる、遠い将来の目的のためにあらゆる非道な手段が正当化されてしまう。嘘をつこうが人を殺そうが革命や楽園創造のために許されるなら、社会も倫理も崩壊してしまう。これをポパーは若いころ目撃した。宮本もこのヒストリシズムの倫理に染まっているように見える。ジッドさん、国民の貧窮とか自由の弾圧とかそんなことは些末なんですよ、いずれ楽園が到来してみんなハッピーになれば今までの行いがどれだけ非道だろうとお釣りがくるでしょう?マルクスは歴史の発展法則を発見したと主張し、それに基づいて資本主義社会は内部矛盾で崩壊し社会主義が到来すると説いたが、この自称科学をポパーは批判した。これは果たして知識や科学なのかと、科学を装った迷信(予言)なのではないか?と。そもそも歴史の本質など捉えることができるのか?と。これは完全に脱線話になるので気になったならポパーの著作を読んでほしい。
・地上に天国は作れなかった。この原因
これを分析したのがカール・ポパーなので彼の言葉を端的に述べる。
「誰が統治すべきか」という問いは明らかに間違った問い。これは「一番賢い者」「一番偉い者」といった権威主義的な答えを必ず導いて独裁に繋がる。私達はもっと謙虚な問いを立てる必要がある。それは
「私達が当然避けようとしているにも関わらず、あまりにも簡単に現れてしまう悪しき支配者、無能な支配者がもたらす害悪を、可能な限り最も少なくなるように政治制度を築きあげるには、私達には一体何ができるのか」
という問い『よりよき世界を求めて』
それは、血を流さずに被支配者が支配者を制御し罷免できる選挙制度しか今のところないだろう。これは国家にはどの程度まで権力を譲渡していいかという問いにも繋がる。これらの問いをソ連に限らないがユートピア社会工学を採用した国は考慮しなかった。ストッパーがないため権力がどんどん積み重なって、いつの間にか批判不可能の神が君臨していた、こうなるともう選挙でこの人物を取り替えることが不可能になる。マルクスはプロレタリアを支配階級に押し上げ、民主主義を勝ち取ることが革命の第一段階と述べたが、誰が支配者になればいいのかというのは上記の通りニセの問題である。これも流石ジッドがよく見抜いていた、本書の234、235ページ
ましな階級だと思ってた人達もひとたび権力を握り富を得ると、かつての支配者と同じように腐敗していく
問題は人ではなく制度である。全人類の完璧なる救済などよりも、今目の前の問題を解決したり、悪辣だったり変な政治家が登場しないような社会を一人の人間に任せきりにしないで皆で築いていくべきなのだと。そういう制度がない昔はどうしてたかというと、伝統が腐敗防止のためにストッパーになっていた。しかし画布のまっさら化により伝統まで廃棄してしまったのだった。