上巻に引き続き良い内容です。
2021/06/03 20:52
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:岩波文庫愛好家 - この投稿者のレビュー一覧を見る
上巻に引き続き解り易く、平易で、納得して読み進める事が出来ます。
記憶したい内容が上巻よりも多くありました。
『リンゴには香りも味もなければならない。外形だけでは十分ではないのだ。したがって、人間であることを示すためには、鼻と目があるだけでは十分でなく、むしろ人間らしい考えがあってこそ十分なのだ。』
『なんぴとも他人の意志を支配することはできない。そして、善悪は意志の中だけにある。』
『明日に注意することがよいのであれば、今日注意すればどれほどよいだろうか。』
『若くして生を終えることになれば、神々を非難する。ところが、いよいよ死が近づいてくると、まだ生きることを望み、医者を迎えにやって、労を惜しまずに看護してくれるようにお願いするのだ。』
『足でも希望でも、可能な歩幅を知るべきである。』
『身体を癒すことよりも必要なことは、心を癒すことである。』
どれも言い得て妙味があります。
紀元100年ごろの古代ギリシアのスコラ哲学者の代表作です!
2021/04/05 10:51
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、古代ギリシアのストア派の哲学者エピクトテスの考えを弟子たちがまとめたものです。実は、この書はすべてのストア哲学のテキストの中でおそらくもっとも広く読まれ、影響力の大きなものであると言われています。苦難の中にあって平静を保つことや、人類の平等を説いたその教えは、皇帝マルクス・アウレリウスの思想にも引き継がれており、ストア主義の歴史上重要な意味を持つとみなされた偉大な古典です。岩波文庫からは上下2巻から構成され、同書下巻には『語録』の第三・四巻、『要録』の内容が収録されています。
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「語録」の続きと「断片」「要録」を収録。
断片は色々な書物のエピクテトスの言葉を集めていて、
「要録」は弟子のアリアノスが分かりやすくまとめた本。
断片にはアントニヌス帝の「自省録」からの引用もある。
やはり意志をコントロールし外物に動かされない
ということを繰り返し言葉を変えて説いている。
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期せずして、本書の通読講義を受けることができた。
今回で『語録』部の通読を終え、残すところもわずか。この機会がなければ”ストア派”に親しむことはなかっただろうし、講義では『Epictetus: A Stoic and Socratic Guide to Life』(A. A. Long)の紹介ー外国語はまったくだめは私にとっては救いーもあり、一気に距離を縮めることができたように思う。
本書で「意志」と訳されている語は、今日わたしたちが日々使用する「意志」との隔たりは大きい。そこにはストア派ーそしてエピクテトス特有の倫理「Theos=Cosmos=logos」「決定論+運命論」が色濃く反映されており、魂が「自由」であるとはどういうことか、を反省的に考えることができた。
講師がサルトルの命題「人間は自由の刑に処せられている」を引用された。「自由」とは選択肢の多さと自己決定に規定されるというドグマのなかにいることが反省させられた。真に希求されるべき自由、自由意志を見失ってはいないだろうか?繰り返し繰り返し説かれる『語録』の場面から、今日と同様の課題が、当時の社会にも課されていたのかもしれない。
『語録』には人生のお手本としてソクラテス、シノペのディオゲネスがたびたび登場し、「よく生きる」ことについて語られる。ここでは、悲観的な印象であった決定論、運命論が、むしろ、積極的に生の肯定の色彩を与えてくれた。同時に「外的なもの」への態度は、圧倒的なメディア社会の中にあっての処世術を教えてくれ、厳しい反省を促された。
講義ではたびたび『語録』の語られた場面、著述そのものについても考察され、文献学の面白さも知ることができた。
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エピクテトス(50?-135?)自身が著した本ではなく、アリアノスが師から聴いた講話を出来るだけその話し方そのままに再現した形で記録した『語録』、それを簡潔にまとめた『要録』、種々の筆者によりエピクテトスに言及した断章を幾らか集めた『断片』を収めたもの。岩波文庫上下巻の大半は『語録』が占めており、あとの2編は分量はごく少なく、下巻の後半に載っている。
昨2020年に岩波文庫から出た「新訳」版なのだが、『語録』はどうも読みにくかった。平明な言葉を話しているのに、文と文の相互関係が意想外に乱れており、現代日本語としてはちょっと分かりにくすぎる。思うに、「分かりやすくなるよう」に括弧[ ]などでもっとたくさん接続詞等を補ってやるべきではなかったか?
しかもこの『語録』、数ページから成る短いエピソードが大量に入っているのだが、何も考えずに配列したようなデタラメさで、このアリアノスという人の無才無芸が際立っている。そもそも、速記が出来たとも思えぬし、本当にエピクテトスがこう語ったのだというのも疑わしい。むしろ『要録』の方が簡潔な文章になっているので理解しやすい。
いずれにしても、本書を読んでエピクテトスにおいて語られたストア派の教義を知ることは出来る。世界の真理をくまなく調べていこうとするようなアリストテレス的知とは異なって、ここでは「自分の心をいかに陶冶するか」という人生論的な方針に哲学知は限定される。
「次のことを心に留めておくがいい。君を辱めているのは、罵ったり殴ったりしている人ではなく、彼らが辱めているという思いなのだ。だから、だれかが君を怒らせたなら、君の考えが君を怒らせたのだということを知るがよい。だから、まず第一に心像によって心を奪われないように心がけよ。・・・(後略)」(『要録』二〇 下巻P373)
このような自己陶冶のテクネ—は、現在の日本人にとってもある意味では参考になるのかもしれない。ストレスだらけの社会生活を孤独にさすらう、寄る辺もない現代人がすがりつくものを求め、安直な自己啓発本や、怪しげなカルト宗教や、アドラーなんていう二流の心理学者の「ことば」に飛びついたりするのも、まあ気持ちは分かるとして、エピクテトスの本書も、そういった需要に応えうるところがあるだろう(しかし分かりにくい日本語訳が問題だが)。
誰かに何かをされたり、「自分の力の及ばないこと」に対しては「自分には関係ない」と捨象し、代わりに心の平静さを保つための自己鍛錬に専心する。こうして限定された「自己」こそが本当の「自由」であり、宇宙の自然本性にかなった知や生き方を約束するものである。
このようなスタンスは、何かと心乱される日常生活において確かに心がけた方がよいのかもしれないという気はする。しかし、そんな有用性よりも、この時代のストア派の知の権力において、「自己への配慮」が全力で推進されたという、ミシェル・フーコーの系譜学的考察を参照するのが面白い。
フーコー『性の歴史Ⅲ 自己への配慮』には、マルクス・アウレリウスの「自身の外をさまようこと」を止め「自分自身を支援せよ」と自らに呼びかけるような思考へとつなが���言説として、「この主題についての最高の哲学的琢磨が表れるのは、多分エピクテトスにおいてだろう」という指摘がある(田村俶訳 新潮社、P.65)。
フーコーと共に、古代の思想をメタ的に辿り直し、そして現在、消費財としての「自己啓発」ベクトルのテクネ—が人々の間で濫費される状況を顧みてみる、というプロセスに魅力を感じている。
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上巻と同じく意志を重視し、「意思と関わりのあるもの」と「意思と関わりのないもの」との区別が何度も繰り返されている。読んでいると確かに区別はちょっと哲学っぽい。物事を悪くとらえるのではなく、一度眺めて起こっている物事の現象だけ取り出し、自分の意志を加える、というのはすげーと思いつつ…難しいだろうなぁ…
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われわれの力が及ぶのは「判断、衝動、欲望、忌避」といった、意志のみである。それ以外のものは力の及ばないものである。力の及ぶものだけに注意を払い、それ以外の事物に心を奪われるべきではない。 といった趣旨のことを述べ続けている。
度々ソクラテスやディオゲネスがリスペクトの対象として引き合いに出される。一方でエピクロスはやはり敵対視されている。
古代哲学は万物の根源(火だとか水だとかアトムだとか)を何なのかという命題をよく議論している。エピクロスは自然現象を知ることが不安を払拭し、心の安寧につながると考えていた。一方でエピクテトスは、そういった力の及ばないことを考えても無駄だという立場をとる。ここにもストア派と快楽派の異なる立場が見えて面白い。