命を軽く扱う医療の実態に疑問を投げ掛ける1冊です。
2023/12/29 12:51
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:広島の中日ファン - この投稿者のレビュー一覧を見る
昨今、世に浸透しつつある「安楽死」。当書は安楽死の浸透で、本来持つ人間の貴重な命を医療現場が蔑ろにしているのでは?と強く訴え、疑問を投げ掛けている1冊です。
「安楽死」を盾に、他人の貴重な命を無理矢理終わらせようとしている、それに賛同する人々が増えている今の社会に著者が疑問を呈し、かなり危険な風潮!と危険信号を出している内容です。当書を読むと、手放しに安楽死を推進している人々の意識が変わるでしょう。もう一度、命の重さについて考えてみる、いい機会を提供する1冊です。
安楽死の変質を追って
2024/01/28 18:48
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:いずみ - この投稿者のレビュー一覧を見る
海外の「死ぬ/死なせる」をめぐる論議を追いかけて来て、いつからか、これは実は「いかに死ぬか/死なせるか」という問題ではなく、終末期医療の問題ですらないのでは・・・と私は考え始めた。むしろこの問題の本質は、医療が患者(家族)との関係性をいかに問い返していくかではないかと考えるようになった(192頁)
投稿元:
レビューを見る
われわれが考える安楽死とは何か。そして安楽死先進国ではどんな問題が起きているのか、一方の日本では。考えるべきトピックが非常に多く読み進めるうちに辛いと感じる事も多かった。今の時代は段々と多様な命を許容できない局面に至っているのかもしれない。
コロナ禍のトリアージは医療の現場にいない私は「仕方ない」と勝手に思っていた。命の選別にも無自覚だった。恥ずかしながら高齢者が起こす痛ましい事故を見ると何か心が揺れる事もある。そしていつのまにか浸透した「健康寿命」、ここにも健康でなければ価値がないという危険な思想が透けて見える。
投稿元:
レビューを見る
#安楽死が合法の国で起こっていること
#児玉真美
23/11/9出版
https://amzn.to/49tCJhS
●なぜ気になったか
いつかは自分も死ぬし、「安楽死」について考えたりすることはある。認めるべきか否かは難しい問題。合法化されている国で起きていることを知りたい
●読了感想
「安楽死」の意味捉えを間違っていた。「尊厳死」と「安楽死」の違いを知った今、「安楽死」は認めるべきでないと考えが変わった。「安楽死は是か非か」は筆者が提唱する別問いに転ずべき
#読書好きな人と繋がりたい
#読書
#本好き
投稿元:
レビューを見る
安易に「死ぬ権利」について考えていた
生まれてくる時、誰かの力を借りてきた、死ぬ時は自分の意思で誰にも迷惑かけずにと思っていても、1人では完結しないのが現実
一人一人違う人たちが納得して選択していくには、
話を聞いてくれる相手が必要なんだ
なぜ死にたいのか、どのように生きたいのかを
医療現場の医師や看護師だけでは長期的な対応は難しいのが現状だろう。安楽死を選択する権利はそのままに長期的な相談をする場所や人材が必要で、喫緊の課題だと思う
安楽死に賛成か反対かという安易な話ではなく、まっさらな状態で生命について考えるきっかけになる本
投稿元:
レビューを見る
安楽死を合法化すると、なし崩し的に要件が緩和され、終末期ではない患者に安楽死が提案されるようになる。医療費削減や医療資源の逼迫であるという本人とは無関係の要因で安楽死が進められる実態がある。既に患者の長男の意思で治療を中止する林田医療裁判(平成26年(ワ)第25447号損害賠償請求事件、平成28年(ネ)第5668号損害賠償請求控訴事件)のようなことが起きている。公立福生病院透析中止事件では安易に「延命治療」を中止させたり、その約束をさせたりする行為が批判された。一度合法化すると拡大することは違法ドラッグの合法化論と通じるところがある。
投稿元:
レビューを見る
安楽死の是非を、安直に判断するのではなくて、「なぜ」この人は死にたいと思っているのか?「なにが原因で」苦しんでいるのかを理解しようとする姿勢が大事。人の死を題材しているものと比較するのもよくないが、人事部で働くためのマインドセットとしても通じる気がした。
投稿元:
レビューを見る
安楽死に関する本を読むのは『私の夢はスイスで安楽死 難病に侵された私が死に救いを求めた三十年』以来2冊目。
書店でこの本を見かけ興味が惹かれて手に取ったのですが、おそらく冒頭で語られた記事は目にしたことがある気がします。ただ、後で読もう、とブクマしただけでしっかり内容を追えていなかったと思います。
前半までは、一般の人が混同しているであろう尊厳死・安楽死の定義や現在安楽死が合法化されている国々で起きている考えるべき問題、様々な医師の主張など読みごたえがあるものでした。
この本を読む前に自分が日本社会で一般の人が抱く安楽死のイメージや軽く扱われている印象を受け、危ないと思ったきっかけはアマゾンプライムで見たBBCドキュメンタリーの『アウシュビッツ ナチスとホロコースト』において、凄惨な絶滅政策・大量虐殺が起きた始まりは、障害者を殺害することを許可する計画のせいだと思ったからです。
同じ人間の中で、差別をし、殺しても良い/社会から切り捨てても良いと思う存在を公的に認めてしまう。人を人とみなさない、常軌を逸した事柄が法として認められることでタガが外れ、転がり落ちるかのように倫理観は歯止めが利かず、そのまま進みホロコーストまでいってしまったのではないか、と。
だからこそ、一番最初のおかしなところで声を上げ、止めなくてはならない。
むしろ、おかしなことが公的に認められ、法とならないように止めなくてはならない。
昨今の社会の経済的不安、税の負担に対する不満や少子高齢化の未来の見通しの怖さからか、高齢者の医療行為・医療費に対しての反発や、相模原障害者施設殺傷事件のような他者の独りよがりな判断による命の略奪、それに理解を示すネット匿名の意見。
自身の不安から弱者を切り捨てようとすることは、ナチスの二の舞になるのではと恐ろしく、人の生き死にを他人が判断・指示すべきではない、と自分は考えていました。
その意見や考え方がまかりとおってしまったらエスカレートして悪化する未来しかないように思える。
P087で著者もナチスの施策について触れており考えが近いのかもしれない、とその時は思いました。
当初安楽死自体には、希望する者の選択として尊重すべき選択肢かもしれないと思っていたのですが現状、安楽死の対象者が「無益」の考えから医療従事者が選別し、死を選択するようにマニピュレーションされている状況には驚き、単純に安楽死について判断できないのだと考え直しました。
本著でも指摘されているように経費削減の視点から言えば(倫理的視点は除いてその点だけからいえば)、「無益」の考えは相性が良く進んでいきそう。
ただ、人として失いたくない倫理はありながらも、人は思想だけでは生きていけない。食べなくてはいけない、お金がなくてはいけない。故に経済の視点からの意見もスルーはできないと思いました。
賛同できそうな著者の意見、述べ方もありながら違和感を抱きながら読んでいたところ、途中で著者自身の事実がさらりと明かされ衝撃を受けました。
語弊を招くかもしれませんし、説明がつかないのですが内心「正体をあらわした!」と感じました。
本の半分くらいだったかと思うのですが、それ以降からは徐々に著者の主張が強く出てきていて、居心地が悪くなりました。常に責められるような気持ち。
著者の主張が出るのなんて、その人の本だから当たり前かとは思いますが、それまで読んできた限り中立というか事実を述べながら少しの主張、まずは現状起きていることを伝えてゆだねる、という雰囲気を感じていたので、後半から怒涛の勢いに、ここが本番だったんだなと印象が変わりました。
障害者の親として現状、障害者・ケアする障害者家族を取り巻く医療・行政のサポートや意識が全くなっていないと批判が続く様子に、何か言いたくなります。
人でなしと言われてしまうかもしれないし、安楽死を認められない人がいるならその人達の人権侵害では?という論調で拡大が止まらないと指摘されていた論理展開に似通うかもしれないですが…毎日仕事に忙殺され苦しんでいるかもしれない医療従事者たちへは気を遣わなくて良いのか?要望がエスカレートしていないか?ともやもやしてしまいました。
人の生き死には、医療で抗うことはあっても天に、自然に任せ、人為的に起こさない。安楽死は摂理(この言葉であってるかわからないけれど)に逆らうのでは、人間の思い上がりでは、として。この不自然な行為がまかり通っていることについて。
詳細は違っても、自然に抗い人間の力でどうにかしているという点では、障害者や重病者が生きていること自体もそうなのではないかと気になります。
QOLで、障害者や末期患者の幸福については著者の考え方と同じです。
人それぞれ幸せの感じ方は異なるので、他者からQOLが低いと判断され、あまつさえ死を提案されるなんてまっぴらです。
でも、視点を変えて、生産性にフォーカスしてしまうと、何ができるのか?とは人でなしと言われるかもしれないですが思います。
ただ、自分は、社会福祉として障害者を支えることは賛成です。自分がいつどうなるかもわからないですし、頑張れる人が頑張って、苦しい人を助けられたらと思います。
でも、言い方がきつかったり要求がノンストップだと、反発心が沸き起こってしまうのです。これはトーンポリシングになるんでしょうか。
『ハンチバック』にしても、何にも気付いていない節穴の目を持ち思いあがった健常者たち、みたいな感じで言われてしまうと心が萎んでいってしまいます。
その立場に立った人にしかわからない苦労・地獄があるため、語気を荒げるほどに怒りがたまるかもしれないですが…。。。。
なぜ、こうなっているかと言えば、
障害者支援が全然足りていない!もそうであろうけれど、普通に生活しているだけでも財政難、円安、少子高齢化、実質増税。政府の働きに不満が募り、国民同士で責任をなすりつけあったり足を引っ張り合ったりしている気がします。
政府に対して、声をあげる方向に国全体で変わっていき、国民同士の足の引っ張り合いではなく、思い合い助け合う、豊かな心構えでいられるのが理想なのかなと。
となると、障害者、障害者家族についての医療行為における不満を変えてほしいと労働者である医療従事者にぶつ���るのではなく、もっと上から変えなくちゃいけないんじゃないのかな。。。患者側も医療従事者を思いやらなくていいのかな?とは思う。
日本的な医者のいいなりの馬鹿な患者と思われるんでしょうか。
でも要求だけエスカレートしてリスクばかりあがったら誰が真摯な医療行為を行ってくれる医療従事者になるんでしょうか。みんな楽で稼げる自由診療の方に行っちゃうんじゃないでしょうか。
理想から言えば、漫画『19番目のカルテ 徳重晃の問診』のような、症状だけでなく患者の生活を見て、治療だけではなく寄り添ってくれる先生が増えたら良いかもですが、この漫画の中でも院内で話が上がっているように、部門の採算・売上という視点から言うと…とお金がなければ立ち行かなくなる話でもある。
医大ではテクニカルなことは学ぶけれど、医療倫理についての指導は不足しているのではないかという指摘はもっともではないかと思いました。
医大での指導だけでなく日本国民全体に基本的人権の意識や倫理、哲学の知識が不足しているように思えます。
安楽死を日本に導入したら相性が悪く、どんどん自己責任論で弱者に対して匿名の場所から死ね死ねいう未来が予測できるので恐ろしいです。
感想とも言えない、とっちらかった自分の考えを書きながら着地点が全く見つからず、どうしようかと思いながら、個々の事象に向き合っていくしかない、という著者の主張の通りなのかもしれないと思わされました。
書けば書くほど陳腐な一般論を振りかざそうとしてる自分が恥ずかしい。
生かされている限りは懸命に生きる。
考えすぎない。
他者に奪われない。
と自分は思って生きる。
投稿元:
レビューを見る
20231201- 1207タイトルが刺激的。関連法制を訳しているので参考になるかな、と思って読んでみた。前半は安楽死を認めている国・米国の州での現状についての報告。なんというかとても生々しい。後半(といってもこちらの方が分量は多かった)は日本の状況について。筆者は重度障害者の母親でもあるためか、ややもすれば思いが溢れ出てきてしまい、少々戸惑った。
スイス、ベルギー、カナダ、フランス、米国の一部の州などの実態は、終末期の安楽死は手続きが実にスムーズに手続きができるらしい。しかし、安楽死で死亡した患者の身体から速やかに臓器移植の手続きができるというのはゾッとした。子供の頃に読んだホラー漫画を思い出した。日本ではなかなか臓器移植が進まないというが、それば欧米との死生観の違いからではないだろうか。
(ところで病気でなくなった人の臓器は、いくらその臓器が患者の死因に直接関係なくても、健常な人の臓器よりは傷んでいるのではなかろうか、と思うのだが)
遅読な私にしてはかなり早い読了。多分、早くこの本の訴えから早く思考をそらしたかったのだろう。
投稿元:
レビューを見る
本書を読む前までは、自分の中では安楽死を尊厳死と同じようなものと考えていて、自分が死にたくなった時に好きに死ねる制度の何が悪いのか・・・で、本書にやたら出てくる「すべり坂」という表現に、失礼ながら少々うんざり感もあったんだけど、半分くらい読んだところで、著者が重度の障害を持つ娘の母であるということがわかってようやく腑に落ちた。
筆者の言いたいこともわかるが、全肯定もできない、重くて考えさせられる内容であった。
投稿元:
レビューを見る
日本でもたびたび話題に上る安楽死の合法化。
それについて、すでに安楽死が合法化されている国の事例を見ながら問題提起をしている本。
〇日本で混同される言葉たち
・安楽死:医師が「死なせる意図をもって」薬物を注射。直接的に「死なせる」行為
・医師幇助自殺:医師が薬物の入った点滴等を用意するが、点滴のストッパーを外す、死を引き起こす最後の決定的な行為は患者自身の手で行われる行為
・尊厳死:やらなければ死が予想される状態で治療しない。「死ぬに任せる」行為
※日本で合法化されているのは「尊厳死」のみ。
〇安楽死で自殺者は減るか?
安楽死が合法化されている国と近隣の自殺者数を比較した結果、安楽死により自殺者数が減少したという結果は見られなかった
〇「健康寿命」というサブリミナル効果
いつからか、寿命とは別に日本で語られるようになった「健康寿命」。
健康寿命とは「日常生活に制限のない期間」と定義されている。
そして、私たちはいつからか「寿命」ではなく「健康寿命」を伸ばそうと考えるようになっている。
この考え方の裏には、「障害があって介護を必要とする状態は健康とは言えない」という価値観が潜んでいることに留意が必要。
〇安楽死合法化の後におこる「すべり坂」事例
合法化当初は「終末期の人」のみを対象としていた。
しかしその後、認知症患者、難病患者、障がい者、高齢者、病気の子どもへと拡大。
安楽死容認の指標が「救命が可能か」ではなく「QOL(生活の質)」へ変化している。
そのため、上記のような終末期の人以外にも、病気や障害、高齢により生活に不自由があり、QOLが低いとみなされる人へと対象が広がることとなった。
〇安楽死と社会保障費
カナダでは安楽死合法化により医療費の削減が行われるという試算が出ている。
このことにより、安楽死が医療現場における経費削減の手段の一つとして機能する危険性が挙げられている。
本来「自己決定」が原則である安楽死において、経済的困窮者や障碍者が「QOLの低さ」を理由に医療現場・家族・行政からの誘導等で「自己決定させられている」状態が起こっていないか、今一度検証する必要がある。
〇安楽死と臓器提供
安楽死の合法化により、安楽死を自己決定した人は臓器移植の潜在的ドナーとみなされるようになった。
安楽死による死亡はあらかじめ誰がいつどこで死ぬかが明確なため、準備期間が取れ質の高い臓器を提供でき、レシピエントの生存率が上がることが期待されている。
また、レシピエントの生存率への期待として、本来「死後」行うべき臓器提供を安楽死を自己決定した人から「生きたまま」摘出するという議論へと移行する危険性もある。
〇日本と安楽死合法化
海外の現在の安楽死合法化における諸問題を考えたうえで、日本での合法化は諸外国以上にハイリスクと考える。
それは、集団からの同調圧力が大きな日本文化に起因する。
欧米��安楽死を希望する理由として挙げられるのは耐えがたい苦痛、障害を負った自分、不自由な生活を送る自分を受け入れられないという「自分」を主体とした理由である。
一方、日本では「家族に迷惑をかけたくない」という「他者」を主体とした理由である。このような状態で安楽死が合法化された場合、それは本当に「自己決定」ということができるのだろうか?
投稿元:
レビューを見る
尊厳死=終末期の患者に積極的治療を開始しない、中止する。=消極的安楽死。死ぬに任せる
安楽死=積極的安楽死と医師ほう助自殺。
海外でも、積極的安楽死を認めるところも多い。
医師ほう助自殺を尊厳死に含ませる国もある。
2007年は、オレゴン州、オランダ、ベルギーが安楽死を認めていた。スイスは、医師自殺ほう助が認められていたため、支援機関が存在する。
カナダが生涯や不治の病がある人にも安楽死ができるようになった。
スイスはスイス国民と1年以上滞在した外国人には医師ほう助自殺機関が合法的に活動している。
重大な病気はなくても、QOLの低下に耐えられないという理由で自殺をほう助していいか。高齢者の理性的自殺は容認されるか。容認されるとしたら、障害者、精神疾患、認知症はどうか。子供はどうか。コロナで絶望感を抱いた高齢者はどうか。
現時点で意思が表明できない人が過去の意思表明に頼って自殺をほう助していいか。手が動かない人はほう助でなく安楽死させていいか。
すべり坂状態。どこまでも範囲が拡大していく。
安楽死を望んでいる人は、ほんとうに死を望んでいるのではなく、この状態で生きるなら死んだほうがいい、と考えているだけ。
救命可能性からQOLの低下が指標になってきている。
安楽死は権利か。ある人に認められてほかの人には認められないのはおかしい、という権利議論の中に、すべり坂が内包されている。
医師ほう助自殺の要件に満たない人が、絶食によって、終末期と同じ状態にする代替自殺方法もある。そのための緩和ケアもある。やがて余命6か月以内という医師ほう助自殺の要件に達する。
死にたい、という自己決定が果たして正しいものか。終末期の患者の考えは揺れ動くもの。長い時間をかけてよりそわなければ、本当の理解と自己決定は出てこないはず。認知症、精神発達知的障害のある人、こども、は本人の自己決定は誘導的になりやすい。
安楽死の自己決定原則は崩れかかっている。ナチスによる障害者の強制安楽死と同じではないか。
安楽死と臓器提供。死ぬ前に臓器を取り出したい=脳死判定で取り出せるようになった。さらに自己決定権としての安楽死に誘導できればもっと臓器提供はたやすくなる。=無益な治療論。
テキサス州の無益な治療法=無益だと認められれば生命維持装置を外すことができる。
無益な治療論でも安楽死と同じすべり坂現象が起きている。脳死が植物状態から最小意識状態に変化しても、無益な治療だと判断されることもありうる。回復不能なら無益と言われかねない。
健康寿命もあまり浸透すると、この議論に巻き込まれかねない。健康でなければ生きている価値がないとならないか。健康寿命という言葉は、無益な治療を示唆していないか。
パーソン論=パーソンとは生物学的だけでなく一定の知的能力が必要とする考え方。
治療の費用をワクチンに回せば多数が助かる、という理論には気を付ける。功利主義的で、優性保護になりかねない。
自分の意思を表明できない人たちがドナーに含まれるのではな���か。
脳死に至らない患者から人工呼吸医を外して数分呼吸が戻らないことを確認して、死とする=ドナーとできる。
あらかじめ臓器提供を希望している人から取り出せるのなら、無益な治療を行う患者から臓器を取り出しても問題はない、という考え方。
さらに、潜在的なドナーは必ず死ぬ。治療が無益だと判断されれば。=循環死後臓器提供。
コロナのトリアージ=高齢者を救うのか。利益の最大化を考えると高齢者、障碍者、難病患者は救わないという
結論に達する。
尊厳死の法制化=医師に促されてあらかじめそのような意思決定をしておけ、という誘導にも聞こえる。
医師によるパターナリズムから患者の自己決定権、無益な治療論の意思の決定権、へと議論が進化した。いずれの過程にもすべり坂が存在する。
家庭内ケアにもすべり坂が存在する。家族介護者による自殺ほう助に対する寛容な判決。
本人の自己決定により医師ほう助自殺を選んだとしても、残された家族には、まだ何かしてあげられたのではないか、というしっくりこないものが残るのではないか。
患者の死にたい、という言葉をそのまま受け取ることは理解とはみなさない。医師は要件に合っているかを判定する前に、苦しみに伴走する姿勢が必要。
患者の考えや意思は揺れ動く不確かなもの。
すべり坂現象が、医療職の命への畏怖を失わせることにならないか。
1回目と2回目の判断の時間が短く緩和されるること、安楽死の日常化によって、医師ほう助自殺が例外から通常に行われる医療行為になってしまうこと、への恐れがある。
投稿元:
レビューを見る
著者自体が障害者の親でありケアラーとしての立場での著作も多い人物。
前半は各国の動向や範囲が拡大するすべり坂傾向について。タイトル通り程よくまとまってはいる。
後半は1人に向き合う介護者と多くの患者を抱える医療関係者との意識の溝とそれによる殺される危険への懸念。当事者であるが故の限界ではあるのかもしれないが一方的。表紙の懸念が広がっているというのが主題。
投稿元:
レビューを見る
安楽死が合法となっている国で起きている問題を説明しながら、安楽死という制度の現状、問題点を挙げ、もしも日本で安楽死が導入された場合どういった問題が起きる可能性があるのかを考察した評論。
現代日本において生きづらさを抱えている人は多く、死にたい、安楽死制度があればいいのに、と考える人も少なくないだろう。かくいう私もその一人で、安楽死制度があったら楽に死ねるのにな、と思っている。また、たとえば急性放射線障害になった人が死までの二週間前後の時間を地獄の苦しみに耐えなければいけないくらいなら、安楽死制度があった方がいいんじゃないか、と思っている。
しかし、本書を読んだことにより、実際に安楽死を制度として導入することによって発生する問題はとても難しく、「楽に死にたい」程度で導入を決めていい話ではないな、とも思わされた。
自己決定が原則の安楽死で、意識がない人や、意思表明ができない人などについても安楽死が適用されかねないのが恐ろしい。
安楽死が根付いていく先にあるのが「死ぬ権利」ではなく、「選民」になっていく可能性も高い。障がい者は安楽死した方がいい、ホームレスも安楽死した方がいい、家族に迷惑をかけるくらいならさっさと死んだ方がいい、と、どんどん「生きるのが難しい人」達が自らの意思という体裁で安楽死を選んでいく可能性は高く、その問題を解決するのはとても難しいと感じた。
そうやって社会的に弱い人達が淘汰されていくことは、どんどん自分達の首が絞まっていくことに繋がるのではないだろうか。
安楽死後臓器提供についても問題の難しさを加速させている。家族を助けたいから安楽死して臓器提供します、みたいな世界がやってくるのかもしれない、と思った。
「社会に不要な人には安楽死してもらおう」という思想が日本で発生しそうな感じがすごく、安楽死制度は難題だな……と感じた。
他人に死ねと押し付けることなく、真の意味で死を自己決定できるような人間達だけの世界になる気がしない。人間はとても愚かだ。
投稿元:
レビューを見る
2023/12/23予約 28
安楽死を望む人ができるように、という考えを持っているため合法の国であればよかったのに、と思う。
それは自分の揺るぎない意志で行われるもので、医療者や家族間の都合で決められるものではない。
でも合法の国で起こっていることは、このような危惧していることだったりする。
危険もはらむ法律だろうが、デメリットだけでもないと思う。
超超高齢化社会の日本でこそ、待ったなしの法整備が求められているのではないだろうか。