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安斎あざみさんのレビュー一覧

投稿者:安斎あざみ

9 件中 1 件~ 9 件を表示

紙の本コーギビルの村まつり

2000/11/05 08:22

丁寧に読むほどにいい味が

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 遅ればせながら、ターシャ・テューダー婆さんに完全にまいってしまいました。一人の作家の本を続けて読んだのは本当に久しぶりです。

 おかげで、気がつくと我が家の愛犬は恨めしそうな瞳でじっと見つめ、ターシャ本のカバーを囓り取ろうと(私が本当に気に入っている本にはヤキモチをやくのです)隙を窺い、このゲームだけはやらずにいられない『風来のシレン2』はまったくはかどりません。

 しかし、読めば読むほどターシャ・テューダーの、強靱な身体と精神(これは切り離せないものですが)、一筋縄ではいかぬ 人柄や知性に魅了されます。 『コーギビルの村まつり』も、著者自ら一番気に入っている絵本と言うだけあって、ターシャ・テューダーの一筋縄ではいかないところが作品にも投影されていて、凡庸な絵本にはない面 白さや残酷さを味わうことができます。
  この本でバーモントの土地を買ったというほど売れたのも、十分うなずけます。

 「大人も読んで楽しめる絵本」。人や絵本そのものをバカにしたこんな言い方をよく耳にし、ついついこの手の惹句につられて読みもするのですが、結局わかったようなわからないような哲学風のものやら、人を煙にまいて悦に入っているようなものが多く、ピンとくる作品にはほとんど出会えずにいました。

 ところが、『コーギビルの村まつり』は、子供向けだとか大人用だとか、絵本であるとかないとか、そんなちまちました分類を吹き飛ばし、とにかく面 白くて、丁寧に読むほどにいい味が出て、その絵をいつまでもながめていたい作品なのです。子どもに読ませるのはもったいないので、絵本とはわからないような地味で品のある装幀にしたらよいと思うほどです。

 しかし、こんないい作品を描きながら、ターシャ・テューダーは言います。
「わたしは商業美術家です。これまでさし絵を描いてきたのは生計をたてるため、食べていくため、そしてもっと球根を買うためです!」
 人から創造性を発揮できていいと言われたことに対するターシャの言葉ですが、このようなある種の覚悟は、自分が思い描いた通 りの生活を実現するためには必要なものです。これは職業というものが自分の中でしっかり位 置づけされた、地に足の着いた女性であることの証明で、単なる夢見る少女の精神とはまったく無縁のものです。

 「職業としての女流作家」については、最近読んだインタヴューではとても面 白かった吉本ばなな氏の「短篇小説のよろこび」(『文學界』十一月号)の中でも触れられていて、作家(美術であれ文学であれ)という職業をきちんと考えてゆく上で、たいへん励みになります。
 ふと、思ったのですが、吉本ばなな氏はターシャ・テューダーのようなすごい婆さんになるのかもしれません。もちろん、精神的な面 でということですが。

 自分の望む人生を明確に思い描き、そのための的確で地道な方法を選択する知性を持ち、おそるべき持久力と意志でそれを実現する。
 そして、人に伝えたいメッセージなど何もない。

 もう、かっこよすぎて、しばらくターシャ本に浮かされていることでしょう。

安斎あざみ

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魂のピアニスト

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「憂愁のノクターン」を聴きながら、雨の日にこの自伝を一気に読みました。本を読むスピードがとても遅いのと、犬も私も長時間じっと座り続ける苦痛に耐えられないのとで、一冊の本を一息に読了することはまずないのですが、久しぶりに五時間も六時間も集中し、感情移入し、たびたび涙も落としそうになりながら堪能しました。

 空模様がわかる犬は、雨で散歩に出られないと知り、膝の中でずっとおとなしく丸まっていました。いたずらもしないのは珍しいことですが、これもフジ子氏の音楽のちからかもしれません。
 人(動物)の心を捕らえることのできるちからのある作品は、余分な力みが抜けていて、おそらく一見手抜きと見紛うほどシンプルなものです。

 この自伝にも、そのようなさらっと書いてる凄さを感じます。
  誕生、父との別れ、母から受けたピアノのスパルタ教育、長く平穏ではないドイツでの暮らしを経て、1995年に帰国して大ブレイク。書こうと思えばいくらでも細かく、執拗に、ドラマティックに書ける人生です。
 ところが、フジ子・ヘミング氏の簡潔な文章によって辿られる人生では、カラヤンやバーンスタインとの奇跡的な出会いも、聴力を失ったことも、一冊の古本に出会った感動や飼い猫の餌の心配と同等に扱われ、とても静かに語られます。

 あとがきには、『長い不遇時代、「ある無名芸術家の自伝」を書こうと何度も考えました。カラヤンやバーンスタインとの夢のような楽しい思い出も書きたいと思いました。』とあります。普通 の自伝なら躊躇いもなく多くのページが割かれる出来事です。しかし、抑制のない苦労話や派手な出来事をあえて書かなかったフジ子・ヘミング氏の恥じらいが、エピソードの選択・描き方のひとつひとつに現れていて、それがこの自伝をすっきりと品の良いものに仕立てています。
  特に最後の一文『猫や犬だけに知ってもらいたいことは、うやむやな結果になっているはずですから、どうぞわかってください。』は、品のない自己顕示欲からは決して出てこない言葉です。

 ポン、と出した音に自分が全部出てしまう怖さを思い、フジ子・ヘミング氏は今でも演奏の当日はドキドキすると言います。音には作った人のふだんの自分や人間性がすべて出る。それを常に肝に銘じて、それこそ一音一音大切にする誠実さ、年齢を重ねるごとにその思いを強くする素直さが、きちんと聴く人に伝わり、たくさんの心を捕らえてゆくのでしょう。

 巻末の絵日記も氏の人柄がよく現れたもので、とてもかわいらしく独自のセンスを味わえます。勤勉に楽しくピアノの練習をしたことや、猫や犬や鳥のことを絶えず気に掛けている文章を読むと、それだけでフジ子・ヘミング氏の作り出すものなら、音でも絵でも文章でも信頼して楽しむことができると思い、嬉しくなります。

 音楽はいまどきの流行りのものばかりをいつも聴いていますが、この本を読み終える頃にはすっかりフジ子・ヘミング氏のピアノが部屋に馴染んでしまい、この音がないとなんだか落ち着かなくなってしまいました。魂のピアニストと呼ばれる所以かもしれません。

 この本を読んだ次の日、犬と散歩に出たとき、フジ子・ヘミング氏の他のCDも迷わず購入しました。CDショップの店内で、バッグに押し込まれていた犬は、おとなしく買い物に付き合ってくれました。
安斎あざみ

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紙の本着せかえ人間第1号

2000/11/05 09:43

モリムラ印の真骨頂。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 美術の領域における森村泰昌は、その作品あるいは作者自身についてすでに多くのことが語られ、あるいは故意に語られずにきた。

 だが、85年にゴッホに扮したセルフポートレイト作品を発表して以来、西洋名画の中の登場人物すべてに扮して入り込み、自ら「モリムラ印」と呼ぶその作品群は、常に人々の狭小な認識を逆転・覚醒させるほど衝撃的であり続けた。特に89年からはスキャニングした写真をコンピュータでハイビジョン合成することによって、「ご先祖様」と敬うレンブラントを始め様々な名画への敬意と愛を表しつつも、それら古典を越える現代性を作品にもたらした。現時点で可能な技術を効果的に使用することで、モリムラ・ブランドは古く閉鎖的なジャンルを超越し、表現の可能性をさらに拡大したのである。森村泰昌はものを創る人として、美術作家としてまさに天才である。そして、天才のまわりには常に優秀なスタッフが集まる。

 『着せかえ人間 第1号』は、解説にあるように書き下ろし小説をもとにした写真絵本であるが、ここには天才の無意識がよき理解者であるスタッフとの連動によって見事に具現化された、プロの仕事が凝縮されている。森村泰昌が作品に入り込むときのメイク・衣装・表情(特に視線と手)へのこだわりは、自らの作品に決して妥協を許さない作家の完璧主義によるものであるが、その変身=着せかえ人間ぶりは、作品の素材あるいは作品に至る前の「自由演技」の段階でも、執拗なまでに徹底している。ベビードールにしても中世の兵士にしても紙幣の中の肖像画にしてもマイケル・ジャクソンにしても、これでもかという過剰な変身ぶりがこそが、見る者に無意識を揺さぶるほどの強烈な何かを感じとらせるのである。そして美術作家は、モデルでもあり、自ら鑑賞者でもあることで、変身型セルフポートレイトの完璧さを貫いている。

 だが、森村泰昌の完璧な天才ぶりは美術の領域にとどまってなどいない。恐ろしく文章がうまいのである。本書中の『着せかえ人間第1号の物語』『「着せかえ寺」探訪記』はもちろんのこと、他のエッセイにおいても筆力・明晰な論理構成・視点の客観性はうまい文章の条件を備え、かつ品格と毒を併せ持つ文体の魅力は凡百の作家をはるかに凌ぐ。わたしはこの文章で、筒井康隆の『着想の技術』を読んだときとよく似た興奮を覚えた。

 かつて悪しきジャンル分けに囚われ、森村作品を写真の変種と見なした美術家たち、完全に無視したという写真家たちの二の舞を演じぬよう、文章を扱うプロの作家たちは心せねばならない。森村泰昌が次から次へと小説を発表したらどういうことになるのか、わたしは想像しただけで震えあがった。

 本書は、小説というかたちで森村が文章の領域にまで進出していることを明確に示すものであり、けっして「なんだかよくわからない」「これ小説なの」などといって済ませられるものではない。これは常にわれわれの前を行く天才作家の、絵画であり写 真であり小説でもある、現代の作品なのである。
安斎あざみ

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主体を消した絵画

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 ヘンドリック・ファン・フリート作「オラニエ公ウィレムの墓碑のあるデルフト新教会内部」。この作品を「フェルメールとその時代展」に出品するにあたり、オランダのデルフト市立プリンセンホフ美術館が修復したところ、教会内の柱の横におとなしく立っている犬が、オリジナルでは片足を上げて柱に小便をかけていたことがわかった。

 新聞で上記の事実を知ったとき、私の脳裏にまず浮かんだのは美術家福田美蘭氏の「絵画の洗浄」(1994年)です。これは、一七世紀の画家ルーベンスの作品を洗浄していたら、下から『不思議の国のアリス』の絵柄が出てきてしまったという痛快な作品です。氏自らの解説を拝借すると、「本来あり得ない過去と現代の時間の逆転を描いたもの。今日の絵画の保存・修復の技術は進んでいて、科学的な調査によって得られた情報に基づいて下される適切な判断と処理は、美術史研究になくてはならないものである。ここでは、その真摯な精神と相対するような諧謔的な仮説を通 して、私たちが疑うことのない、絵画が依存しているさまざまな制度や枠組みを認識しようと試みた。」ということになります。小便をかける犬の下からさらに101匹ワンちゃんが出てきたら、と想像するだけで愉快です。

 「絵画の洗浄」をはじめて東京都現代美術館で見たとき、笑いと敬意と解放感と羨ましさが一緒になったような、思わず拍手喝采を送りたくなる感動を覚えました。そして、一目で福田美蘭氏の作品に惚れ込み、以後発表される度に拍手を送り続けています。氏の作品はすべて、ある明確な制作理念・姿勢に貫かれていて、それは本書『PICTURESQUE 1992〜1998』のプロローグ「時代を映す鏡でありたい」とエピローグ「ドキュメントとしての作品」において、作品同様の明晰さをもって語られています。何らかの形で作品の制作・発表に関わる者、特に現代の作り手には必読の文章です。福田美蘭氏の自作を語りながらのレクチュア(於東京都現代美術館)を拝聴したときも感じたことですが、その表現は常にシンプルで、明快で、端正です。

 もっとも共感するのは、「主体性を消す」というその制作方法です。福田美蘭氏の作品(あるいはモチーフ)はどれも、ほとんどの人がどこかで見た覚えのあるものです(絵がうますぎることの証です)。しかし、どこかが決定的に違います。それまで自分が何気なく見ていたものが、まったく別 の親しさを持って目に迫ってきます。それは有無を言わさぬほどの迫力です。「自分を出したい」という考え方は今までやられてきたことだと、氏は既に1994年のインタヴューではっきりと答えています。そして、この点が天才の天才たるゆえんなのですが、自分を消そう消そうとした結果 、出来上がってきた作品は福田美蘭そのもの、誰が見ても福田美蘭氏の作品であることがわかります。現代の作り手は、個性だの独自性だのといまだもって無自覚になんとかの一つ覚えで唱えている場合ではありません。

 比較的最近の作品で私が好きなのは、「キューピーマヨネーズ」(1997年:ビニールに入ったマヨネーズの、赤いクロス柄の部分の超拡大画、抽象と具象について考えさせられる)、「ごみ収集袋」(1996年:東京都推奨のごみ袋に印字された個々の文字をコンピュータでデフォルメし、女性の笑顔を作ったもの、十枚一組の版画作品)などです。この作品集にはありませんが、「ポーズの途中に休憩するモデル」(1999年:テラスに座って一息つくモナ・リザの全身像、背景なども限りなく史実に忠実)も笑いながら脱帽します。現在、朝日新聞(土曜夕刊)紙上では、作家のエッセイにつけられた面 白い挿し絵が見られます。愛すべき確信犯である福田美蘭氏の、革新的でまじめないたずら心が私にはたまりません。
安斎あざみ

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きちんとした愛情の方向

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 MAYA MAXX氏の描く犬が特に好きです。
 喜んでいたり、安心しきっていたり、すごくいたずらそうだったりするのに、その犬を見ていると、涙が出てきて止まらなくなります。
  この涙の原因は、嬉しいとか哀しいとか、はっきり説明のできるものではありません。おそらく、いい絵、まさしくMAYA MAXX氏のいういい絵を見たときに溢れてくる涙です。

 いい絵には魂がこもっています。小手先の技術や、小賢しい知識を超越した魂が、MAYA MAXX氏の絵にはどれもこもっていて、それが見る方の魂をも揺さぶるのだと思います。

 先日、有楽町阪急のギャラリーで、BINZO FAMILYやSPACEMAN、本の装丁画やCDジャケットなど、いろいろな作品やグッズで囲まれたMAYA MAXX 空間を楽しみ、さらに、ご本人のイラスト付サインまで頂いて、いい作品(MAYA MAXX氏自身も自らの作品といえます)に出会う喜びを生で得ることができました。

 この日の私は年甲斐もなく、ご褒美を前にした犬のように落ち着きなく、朝から楽しいことだけを考えていられました。サイン会に行く電車の中では、吉本ばなな氏の『ハネムーン』(中公文庫版)を開いて、はやくも気分を盛り上げました。 この本は、犬好きの人の心にストレートに食い込んでくるばなな氏のいい文章と、それにあまりにも合いすぎたMAYA MAXX氏のいい絵が、予想以上の相乗効果で涙腺を刺激してくるので、家の中よりも人目の多いところで読む方がよかろうと判断したのですが、それでもこみあげてくるものがあって、いそがしく本を閉じたり開いたりしました。閉じたところで、本のカバーを裏返して付けていたので、そこにはまたたくさんのMAYA MAXX犬が現れてしまったのですが。

 ギャラリーで絵を間近にし、筆の跡やはみ出た絵の具や端が破れた広告紙のようなキャンバスなどを目にすると、MAYA MAXX氏にとってはほんとうにどこでもがキャンバスで、かきたいものをかくという気持ちがよく伝わってきました。

 氏のかきたいものに対する愛情がきちんとした作品群という形になって、人の心をとらえていました。しかしこの点が、子どもや素人の絵とプロの絵との違いで、一回限りなら子どもでも人を喜ばせる絵がかけるかもしれませんが、言われれば何回でも、自分がかきたくないときにでもとなると、そううまくはいかなくなります。
  つねにいい絵がかけるプロは、自分がなにを愛しているか、それをどうしたら的確に人に伝えられるかがわかっています。自分が弱りそうになったときも、どうやったら自分が回復して、かきたいものをかき続けていけるかを知っています。かきたいものをかくときも、決してかきたいようにはかいていません。

 そこらへんのことが、『MAYA MAXXのどこでもキャンバス』のあとがきに 書かれていて、机を例にした話が心に残りました。
 「コドモたちはまだあんまり何ものせていない机で、私はくずれそうなくらいたくさんの物をのせて、そのあと全部はらい落とした机だけど、何ものっていない机同士だ」と。
 とても深みのある、いいことばです。
 そんなMAYA MAXX 氏の会場に飾ってあった犬のポスターを眺めながら、またなぜか、じわりときてしまいました。
安斎あざみ

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紙の本妻を帽子とまちがえた男

2000/11/05 09:40

『原型』ではない「物語」とは。

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 著者のサックス氏は、高名な精神科医であり、映画『レナードの朝』の原作等、既に多くの優れた著作のあるクリニカル・ライターです。この本では、Dr.サックスが診てきた患者達の物語(症例)が二四例紹介されています。  目次には、表題にもなっている「妻を帽子とまちがえた男」を始め、「冗談病」「皮をかぶった犬」「自閉症の芸術家」等、タイトルを眺めただけで襟首をつかまれてしまうものが並びますが、その中で一番惹かれたのが「双子の兄弟」です。

 この双子の兄弟は“知恵遅れの天才”で、二十六歳になっても抜群の記憶力以外、何一つ取り柄がありません。しかし、他の能力が劣っていたからこそ、その代償として逆に高まったと思われる、数に対する能力には目を見はるものがありました。

 彼らは三十桁、三百桁の数字でも易々と記憶し、四万年先(昔)の日付を言われれば瞬間的に何曜日かを答え、百十一本ものマッチ棒の数を瞬時に正確に言い当てます。足し引きも満足にできない彼らには、数字は数えるものではなく「見える」ものらしく、百十一本のマッチ棒を「見た」とき、三十七のかたまりが三つ「見えた」と言います。

 実は、この三十七には「素数である」という確固とした意味があります。「素数」は、彼ら独自の世界を構成し調和を与える特別 な数なのです。彼らは二人で「素数」を言い合う遊びをよくするのですが、二十桁に及ぶ「素数」を交互に言い合う二人の表情は喜びに溢れ、至福の時を過ごしているかに見えます。

 ところが、後に二人は「社会性」をつけるべく引き離されます。そして、ある程度の社会生活は営めるようになりますが、同時に、数に対する天才的で不思議な能力は失われてしまいます。  Dr.サックスは、患者個人の具体的な内面世界をとても重んじ、単純に「社会化」「一般 化」「既成文化へ同化」させることに細心の注意を払います。知恵遅れの人々が持つ「創造的な知性」を理解し、育てようとします。Dr.サックスは言います。患者達の「物語」は、他に類例も比較できるものもない。『原型』といえるものもない、と。

 『原型』でさえない「物語」。意識/無意識という一般化を許さない「物語」。そんな彼らの世界に魅せられ、ほんのわずかの間でも共に生きてみたいと思いますが、安易にそう思うのは凡人の硬直した想像力の限界を示すことに他なりません。
 安斎あざみ

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紙の本アムステルダム

2000/11/05 09:35

すぐれた機能美

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 アムステルダムで暮らしてみたいとまで思っているので、このタイトルを見過ごすことはできません。アムステルダムに限らず、オランダの文字があれば本に限らず反応してしまう為、この本も中身を見もせず購入しました。

 著者は英国ハンプシャー生まれ、オックスフォード在住。作品もアムステルダムが舞台ではなく、ラストで登場人物達の向かう先がアムステルダムというだけなのですが、この小説を一言で表したうまいタイトルです。

 大人のための小説、洗練された文章、流麗な表現、アイロニカルなユーモア、辛口、苦みなどが、この本を評するときに送られる賛辞ですが、文章をないがしろにしない小説家が、異常ではない人間を冷静にとらえて描こうとし、それに成功すればこのような作品が出来上がります。

 翻訳ものは途中で飽きてしまうことが多いのですが、これは他の本に目移りすることなく集中し、読了しました。著者はインタヴューに答えています(『海外作家の文章読本/海外作家の仕事場1999』:新潮社)。読み切るのが惜しくなるような思いをもたらすのは、高いレベルの文章と作家の知性である。読者をそうした感情に導き、好奇心を刺激するのが語り口である。求心力となるのは物語の構造であり、どこか建築と通 じる。

 建築であるからには、たった一カ所の手抜きが致命的な欠陥となり、大人を満足させる商品ではなくなってしまいます。見かけはスタイリッシュでも、実は手抜きだらけ、その場しのぎ、子供だましの欠陥住宅で暮らせない人は、基礎がしっかりし、機能美も考えられた部屋で一度くつろいでみるといいかもしれません。

 私の印象に残るのは、アムステルダムの街の描写(とてもよく雰囲気が伝わります)と、最後に行くところが皮肉であれ、アムステルダムであるということです。

 『オランダモデル/制度疲労なき成熟社会』(日本経済新聞社)の著者である長坂寿久氏は、尊厳死ができるという理由だけでも、オランダは永住したいと思うに足る国だと思った、と書いています。

 また、『トレインスポッティング』(アーヴィン・ウェルシュ著:青山出版社)でも、主人公のレントンはラストでアムステルダムに向かいます。

 それぞれ行く意味合いは異なりますが、なぜかアムステルダムはそういう包容力のある街なのです。

 つまり、アムステルダムに行きたい。
安斎あざみ

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紙の本ロダンのココロ 5巻セット

2000/11/05 09:29

内田かずひろの凄み

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 恥ずかしながら犬バカを自認していますので、“犬本”には目がありません。漫画でもエッセイでも小説でも写 真集でも、犬がチラとでも登場すればパブロフの犬以上の犬らしさを発揮して涎ならぬ 触手を伸ばします。

 とはいうものの、質・量ともに豊富な犬本のなかで、自分の好みと偏見に合い、琴線に触れるものとなると限られてきます。見境なく犬本に飛びついていた私も、“犬本ハンター道”四年目ともなればその鑑定法も身についてきて、表紙や初めの数ページをパラパラと嗅いだだけで、自分が欲しい本か否かを判断できるようになりました。

 私がかなり頼りにしている鑑定法として、犬を擬人化しているものはまず避ける、というのがあります。犬の気持ちや思考が人間のそれと同じように扱われ、しかも犬が心内語を喋る安易な描き方は、犬の魅力や犬を飼う素晴らしさを大いに損なうものでいただけません。ちまたに溢れかえる犬本の多くはこのタイプに属しますので、密かに自負するこの便利な鑑定法によって、好みの犬本をじっくり吟味できることになります。

 ところが、簡便な方法に盲点はつきもので、『ロダンのココロ』について私はミスをおかしていました。この作品も単に犬を擬人化したほのぼの漫画だと思っていたのですが(と言いつつも毎回読んでいたので、なぜ読んでしまうのかきちんと考えるべきでした)、これが大きな間違いでした。それに気づかせてくれたのが、升野浩一氏の漫画評です(『ことし読む本いち押しガイド2000』 中の“「活字好き」にすすめる漫画12冊”)。桝野氏の漫画評は面白くて鋭く、何よりその漫画を読みたい気にさせるもので、朝日新聞紙上で漫画評を読んだときから信頼を寄せています。

 桝野氏は「内田かずひろの基本にあるのはコミュニケーション不全だ。互いに理解し合えない者同士が、一見なんの問題もなく仲良くしていることの可笑しさ、かなしさ。でもそれが人生だと、ほほえんでいるような凄みが常にある。」と見事に喝破していました。私にとって犬と暮らす素晴らしさの一つは、このコミュニケーション不全にあるので、まさに目から鱗でした。

 鱗の落ちた目で『ロダンのココロ』を、さらに『犬々学々丼』(ぶんか社)を読み直すに及んで、内田かずひろ氏の“凄み”をまた新たに知ることになりました。『犬々学々丼』では、主人公(著者)が犬の姿で登場します(他の登場人物も牛、河馬、鳥などすべて動物です)。これは擬人化ならぬ 擬犬化で、犬と化した人間はさらに犬的な視点を得て、コミュニケーション不全はいっそう深まっているのです。まったくもって、内田かずひろ氏はあなどれません。

〈教訓〉簡便な方法は定期的に見直すこと(自戒)。
安斎あざみ

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紙の本バンド・オブ・ザ・ナイト

2000/11/05 08:33

明晰な脳のフィルター

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 いかなるジャンキー作家でも、きちんとした作品を制作しているときは意識は明瞭、思考も整然としていたはずで、クスリをやりながら創作されたかのごとく論じられているのをよく目にしますが、絵画であれ小説であれ、それが一見どんなに支離滅裂、妄想の極限のようであっても、一つの作品として形をなし、しかるべき期間人々の支持を得てきたものは、明晰な脳のフィルターを通 して生み出されています。

 当たり前のことかもしれませんが、ドラッグにのめり込んでいる時は、それだけで満たされた精神状態にあるので、何かを創り出そうという気にはならず、また、自分だけの至福の経験をわざわざ絵なり言語なりに置き換えて他人に教える必要もありません。従って、最強のジャンキー作家が描く究極のジャンキー小説なるものも、“ジャンキーの世界”そのものではありません。

 先日、サッカー欧州選手権がオランダで行われたとき、イングランドの悪名高きフーリガンはマリファナを吸っていたために凶暴化することもなく(知り合いのオランダ人もアルコールはハイ、マリファナはダウンとよく言っています)、逮捕者ゼロだったことをオランダは誇っていました。マリファナのおかげで屈強の暴徒たちも幸せになってしまい、何もする気がしなくなったのでしょう。ちなみに、その次のベルギーにおける試合では、フーリガンたちはまた大暴れしました。

 なんだか、この文章もとりとめがなくなってきましたが、私は残念ながらまだ至福の体験を味わえずにいます。一生に一編ぐらいはもの凄いジャンキー小説を書いてみたいものですが、当然ながら、クスリをやれば凄い世界を目の当たりにし凄い作品が書けると思うのは幻想・妄想の最たるもので、凄い小説を可能にするのは、自己をも冷静に客体視でき、かつその後に言語化できる能力です。

 つまり『バンド・オブ・ザ・ナイト』は著者自らスランプを脱した後に書いたと言う通 り、ひとつのきちんとした小説です。その証拠に、ストーリー性は低いかもしれませんが、いや低いにもかかわらず一文・一語たりとも難解なところはなく、これだけの長さの文章を最後まで引っぱって行けるのです。ただのラリった人の意識の垂れ流しだとしたら、健康な読者がどれだけつき合えるか、想像してみるまでもありません。

 しかし、中島らも氏の本を読むときは、どういうわけか必ずカネテツデリカフーズのCMソングが流れて困ります。♪テッチャン、テッチャン、カネテッチャン、ちくわとかまぼこちょうだいな……。

 そういえば、『啓蒙かまぼこ新聞』なる面 白い本(1987年初版、ビレッジプレス)がありました。村上春樹氏が解説を書いていて、それも今と少し文章の雰囲気が違ってストレートな感じがよくて、と、なんだか私の文章のほうがだらしのない意識の垂れ流しに近づいてきたようなのでこのあたりできりあげたいとおもいます……へい、へい、まいど、ありがとさん♪。
安斎あざみ

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