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みなとかずあきさんのレビュー一覧

投稿者:みなとかずあき

1,436 件中 1 件~ 15 件を表示

デスノートのノートそのものの面白さは、もうどこかへ往ってしまったのですね。

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

敵役インフレーションに陥ってしまったと思ったら案の定、話はドンドンあらぬ方向へ行ってしまい、LでもNでもMでもいいけれど誰がどうなっているのか教えてくれという感じの第8巻です。そうそう、死神もまた活躍しそうで、話をそっちへもっていってくれるとまた面白いのではないかしらと思うのは私だけでしょうか。
相変わらず月(ライト)の心理というか内言語を延々文章で綴ると言うパターンも、これだけ文章だらけになると読み飛ばすわけにもいかず、かと言って字面を追っているだけでストーリーが頭に入ってこないという思考停止に陥ってしまいます。これって『名探偵コナン』の謎解き場面みたいなもんで、ただひたすら「そうですか」「そうだったんですか」って読んでいくしかないですね。しかも文章で解説されては、マンガのマンガたるところを無視しているようで、正直疲れてしまいます。
そろそろ、終わりにしましょうよ。でないと、少なくとも私は読む気が失せてきています。

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栗本薫と丹野忍の対談を読みたければどうぞ

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

栗本薫の代表作3作をコミック化したものですが、いずれも途中で終わっています。どれもが長い話なのでとても1冊に収まるわけはないのはよくわかりますが、それにしても・・・。と思って最後を見ると、2007年1月にそれぞれB6版のコミックスで刊行されるという広告が載っているではありませんか!
どうも、新手のコミックスの前宣伝を本にしてしまったというわけのようです。これでは何とも評価のしようがないですね。
『グイン・サーガ』「伊集院大介シリーズ」『夢幻戦記』が収められているわけですが、表紙は『グイン』のかつての挿絵担当の加藤直之の絵を使い、タイトルも「グイン・サーガ」を使い、あたかも『グイン』のコミック本のような体裁になっているのも、何となくだまされたようですっきりしません。
この頃は漫画家も誰もが知っている人は少なくなったので、ここに描いている人たちがどこでどんなマンガを描いていたのか私は知りませんが、どれも原作の雰囲気をうまく伝えているかというと「?」がついてしまいます。特に『グイン』は、長年それぞれにイメージが出来上がってしまっているのでどのような絵にしても何かしら文句が出てしまうのはわかるのですが、やはり表紙に負けてしまっている印象が強いですね。今までコミック化を避けてきた栗本薫がこれを許したのだとすると、寂しいものがあります。もっともすでに20年も書き継がれている話なので、今更何が出てきても平気なのかもしれません。
となるとこの本のお得感は、栗本薫と丹野忍の対談が載っているというところかもしれません。
「栗本薫ファン必携バイブル!」なんて書かれていると買ってしまうのがファンの哀しいところですが、もう少しそのコピーにふさわしい内容にしてほしいものです。

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この本がベストセラーになったということだけは、記憶にとどめておかなければいけない

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

発行が2005年9月とありますから、もう2年たとうとしているわけです。あれだけ実書店で沢山平積みにされていたり、ネット書店でもベストセラーをキープしていたのが嘘のようです。
だいたいベストセラーなんて胡散臭そうで、いつも手にしないことにしているのですが、自分の興味・関心分野と近いものもあるので、この『下流社会』はいつか自分の目でその胡散臭さを確かめておかなければいけないとは思っていました。
すでに、多くの書評などで内容についてはある程度理解もし、実書店で斜め読みもしていたのですが、今回改めて読んでみてやはり「こんなもんか」という印象を持ちました。
今更私が繰り返すこともないのでしょうが、気づいたことをいくつか。
この本の論旨のもととなっている3つの調査はどれも対象が1都3県在住者であること。要は首都圏で生活している人たちだけの話を、日本全国の話にすげ替えているわけです。情報化社会で情報が均一化しているとも言われている時代なので、首都圏生活者を日本人の代表としても構わないと思っているのでしょうが、それこそ恣意的な論旨で根拠も何もないということは一目瞭然でしょう。
さらにこの3つの調査が主に消費動向に注目しているものであるということ。人間の活動の中で消費行動は確かに大切なものでしょうが、だからと言ってそれですべてを語ることができるほど人間は単純ではありません。
そして、ここで取り上げられている消費動向も、実は被調査者の自己評価あるいは評価とも言いにくい自分に対する気分しか見ていないというものであること。「上流」「中流」「下流」という位置づけも、本人が自覚している評価であって、あまり客観的な指標ではないようです。そもそも消費行動しか見ていない上に、その行動自体も主観的な評価に基づいていてるのでは、単に「私はあれが欲しい」「これなら買える」「こんなのがもっといいんだけれど」といった欲求を尋ねているだけということになります。
まあこの本の著者はもともとマーケティングリサーチを仕事としている人ですから、そういう目で見た今の世の中という程度のものだと思っておけばいいのでしょうが。
それよりも考えなければいけないことは、このような本がベストセラーになってしまう、もっと言えば『下流社会』というタイトルの本が売れてしまうというこの世の中って一体何だろうということではないでしょうか。実際にどうなのかは別としても、「下流社会」と言われて「ああそうだよね。そんな感じだよね」とか「やっぱり下流になっていくのか」と思わせるような今の世の中であり、そう感じさせる社会背景があるのでしょう。そこをうまく説明してくれるものこそ、私たちにとって必要なものであるように思えます。

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多重人格だと言っている文書をもとに話を展開しても、多重人格と言う答しか出てこないに決まっている

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

どんなに凶悪残忍な事件であっても「人の噂も75日」で、言われれば思い出すけれども常に覚えていることなど不可能だ。それはこの連続幼女殺人事件も例外ではない。
だが、何かの機会に必ず人の口にのぼる事件と言うものもある。それもまたこの連続幼女殺人事件だ、と言うのは言いすぎだろうか。少なくとも私にとってはこの事件は、そのような位置づけにある。だから、何かある時にこの事件関連の本を読みたくなってしまうのだろう。この本は、そのような本の中の1冊だ。
刊行された時期は前後するが、すでに『宮崎勤 塗り潰されたシナリオ』や『M/世界の、憂鬱な先端』なども読んでいるし、この本自体読むのが2度目になるので、この事件そのものがどこまで行っても不可解なものだということはわかる。
その上で、なぜこの本では多重人格との診断を下した精神鑑定書のみで話をしようとするのか、というところが理解できない。これでは始めに多重人格ありき、ではないのだろうか。
多重人格であるとしている精神鑑定書を読み込んでいくだけでは、どこまでいっても多重人格であるとしか読めないはずで、それ以上でもそれ以下でもない。しかもこの本では、わざわざ現実の多重人格者の話を入れているのだが、そんなものは傍証にも何もなっていないと思う。
精神鑑定書を全部読むことはできないので慎重な判断が必要だとは思うが、ここで述べられている鑑定書を読むだけでは宮崎勤に解離症状はあったりするものの、積極的に多重人格と言えるだけのものはないと思える。
それに、私たちがこの事件にいつまでも関心を持ち続けるのは、宮崎勤が正常で残忍な犯罪者か精神病者か多重人格者かということではなく、この事件が起きた時に大きな関心を呼んだという時代の問題なのではないだろうか。そして、その点からみてもこの本は私たちが持ち続けている関心に応えているものでもない、と言わざるを得ない。

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ここらで看板を掛け替えてもいいのではないでしょうか

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

石ノ森章太郎が亡くなってはや10年。
いくつかの石森/石ノ森作品がリメイクされている。若い人たちにとってはそれなりに楽しめるのかもしれないが、オリジナルを知っている者からするとどれも今ひとつ魅力にかける。
そんな中で、リメイクとは少し言いにくいが、石ノ森自身のペンによらないものという意味では同列にできるかもしれないのが、石ノ森の死後も描き続けられているこのシリーズだ。しかも描いているのは石ノ森のアシスタントだった人たち(?)である。それなりに期待もしてこれまでのシリーズを読み継いできた。
けれどももう止めた方がいいかもしれない。と、思わせられてしまったのがこの「ミレニアム・サービス編」だ。
何がいけないかと言えば、絵柄とストーリーだ(と言うことは、すべてか)。
アシスタントだったとは言え石ノ森自身ではないわけだから、絵柄が違ってしまうのは仕方ない。だが、かつてのキャラクターが全然変わってしまっている。いや、似ているけど違うのだ。例えて言うならば、声優が替わったドラえもんと言った感じか。そんな感じならばいっそ、新しいキャラクターで新しいホテルを舞台にして描いてくれた方がいい。
そしてストーリーだ。石ノ森自身の手になるものはコミックスにして35巻も数えたのだから、ある意味ホテルに関係するストーリーは描きつくしていたのかもしれない。だから、この「ミレニアム・サービス編」では、昔どこかで読んだようなストーリーが続いてしまう。かろうじて、21世紀と将来を見据えた話くらいがオリジナリティがあると言ってもよいだろうか。
確かに石ノ森の遺産(?)をよく10年描き続けてきたと思うし、ホテルを舞台にした話は描きようによってはこれからも続けることはできるだろう。だが、そろそろ石ノ森の「ホテル」という看板は下ろしても良いのではないだろうか。作っている人たちもしんどくないのだろうかと、心配してしまう。

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著者も意図していなかった題名なのかもしれない

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 最近の新書は、体裁だけは専門家が最新のトピックスを一般市民にわかりやすく解説したり、新たな問題提起をするという形を残しているけれども、内容は瑣末な事柄を大げさに取り上げていたり、それを誇張するようなキャッチコピーのようなタイトルだけが目立つペーパーバックと化しているように見えるので、よほどでないと読むことはしないし、ましてや購入などしないようにしている。新書の「新」はそのものズバリ新しい事柄を取り上げているということを表しているのに他ならないし、新しいことというのはその後の評価によっていくらも古びれてしまったり、間違いであることがわかるものだということを肝に銘じておかなければならない。
 だからこの「サル」シリーズ(?)も売れていることは知っていても、立ち読み、流し読みで済ませるつもりでいた。が、やはり数十万部も売れた本を見逃しておいてはいけないとも思って、遅ればせながら読んでみた。
 サル学、霊長類学が、その究極の目標としては、私たち人間がいかにして人間になったのかを知ることにあるのは、ある意味当然のことであり、だからこそこの正高氏のように、普段はサルを相手にしていても興味関心がヒトへ向かっていくのも当然だとは思う。だが、その興味があくまでも個人レベルの感想のようなものである限りは、あまり普遍性を持つこともないのではないだろうか。
 ここで取り上げられている現在の若者状況は、すでに多くの人たちが指摘し、さまざまな角度から評価、解説されている問題でもあるが、それを自分の専門に引きつけて説明しようとするのならば、できるだけ思い込みや偏った見方を排除して語るべきと思う。
 この本で述べられているものは、サルに(人間と同様の)家族はないとの話から始めて、マザコンやひきこもり、母子密着の家庭、コミュニケーション能力と、現在の(特に日本の)若者のサル化をこれでもかと並べ、その原因に専業主婦の存在などを持ってくるというものだが、これはあくまでも著者の感想であり、自分が知っていることに引きつけて考えた時の一面的な見方であるとしか言いようがないと思えてしまう。だいたい今時ここで語られているような専業主婦はどれくらいいますか。
 そして、最後は少子化の話にまで持っていくのだから、何だか著者が日頃疑問に思って、たまっている鬱憤をすべて吐き出してやれといった感じに見えてしまう。
 もちろん森羅万象をすべて一人で、ある学問一つで説明し尽くすことはできないので、どうしてもある一面を切り取った話にはなるのだろうけれども、ここで語られていることだけで「人間らしさの崩壊」なんて言ってほしくないと思う。
 と言うことをいちいち指摘するまでもなく、刊行から4年を過ぎようとした今では、誰もこんなことを言っていないように思うが、どうだろう。それに何よりわずか4年で若者もまた変化しているように思えるのだが。

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いかにもモーニングのマンガです

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 少子化の時代を迎えて、昔に比べて進学とか受験というものが変わってきているとは聞いている。睡眠時間が四当五落とか三当四落とか言っていたのが嘘のようだとか。入学試験の内容や方法もずいぶん変わった点もあり、子どもに自分の頃の経験を話しても通用しないということとか。それでも、やはり受験勉強と言われるものがあり、進学塾は流行っているし、いったい何が変わって何が変わっていないのか、よくわからない。
 と思っていたら、このマンガだ。私の住んでいる地域の某進学校で密かに(?)ベストセラーらしい。学生だけでなく親までも知っているし、この第1巻にはあまり出て来ないが、この作品に出てくる参考書などを順に買い漁っていくという話も聞いた。そうか、やっぱりこうまでして東大を狙おうと思うんだね、という感じだ。
 話は三流の経営難の高校の再建に乗り出した弁護士が、三流高校生を東大に合格させると豪語し、そのための受験テクニックを披露していくというもので、そこに話に乗ってきた二人の高校生のそれぞれの家庭の事情や弁護士自身の野心が絡んでいるのだろうというところがこの第1巻で語られていく。そういう意味ではこれはイントロダクションで、第2巻以降に期待(?)すべきなのかもしれない。だが、当面語られている受験テクニックはことさら新しいものでもなさそうで、昔の予備校でもこれくらいのことは言っていたよなあと思う。むしろ話をおもしろくさせそうなのは高校生の家庭の事情だが、それぞれの家庭の事情だけではたして東大を目指そうと本当に思うのだろうか。なんだか説得力に欠けるというか、ありがちな話のようにも思える。
 これで絵がきれいならば許せるが、いかにもモーニング系といった画風で、少々読みにくい感じもする。
 モーニング系ということで言うならば、ある意味で現代社会の問題を取り上げているという点でもいかにもモーニングらしいマンガだ。
 

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私が想像し、期待していたものとは異なった内容の本でしたが、明治時代の雰囲気を掴むには興味深い本でした

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『明治の精神異説−神経病・神経衰弱・神がかり』というタイトルを見て、どんな内容の本だと想像できるだろうか。また、「病む精神に、明治の暗部を読む。知識人の神経病・神経衰弱・脳病、民衆の神がかり・憑依妄想——明治精神の陰の系譜を掘り起こし、日本近代を捕らえた負の構図を明るみに出す」という帯の文を読んで、本の内容をどれくらい想像できるだろうか。私は、明治時代の精神障害史というか、当時の精神病観について新たな視点を提供してくれる内容ではないかと思ってしまった。
で、読んでみた。
序章では、明治時代というよりも江戸末期に「神経病」などの言葉が誕生したいきさつなどが原典を踏まえて紹介されている。人間の心や精神の病気を表す言葉が実は100年ほど前に誕生したものだということ、そもそも精神の病気を当時の人々がどのように捉えていたのかなどがよくわかる内容であった。
ところが、第一章以降になると病気の話だけでなく、明治という時代の雰囲気というか社会状況や個人の心理などを含めた話になってしまう。精神保健福祉に関わる者にとっては有名な相馬事件が出てくるかと思えば、新渡戸稲造や正岡子規などをめぐる話、果ては森鴎外の『舞姫』にまつわる話まで出てくる。第二章になると憑依から新興宗教の話へと巡っていく。そして第三章、第四章と「神経衰弱」と称される状態を巡る話から夏目漱石のロンドン留学にからめた文明批評にまで話は至り、終章では現在の日本人の精神状態にまで触れられている。
この本の著者はもともとイギリス近代文学を専門とする人らしい。魔女裁判の研究を通じて、精神障害と呪術と宗教と政治が絡まった西欧文化観の手法を日本の明治時代に通用させようとしたらしいことが「あとがき」に書かれている。その時のキーワードが「神経病」「神経衰弱」「神がかり」「憑きもの」ということだったようだ。そうか、どうも私が想像していた本の内容とは違っていたし、もともと著者は精神病観というより文化論を展開したかったようだ、ということが「あとがき」まできて初めてわかった。
門外漢と言っては語弊があるが、専門外の人が自分の得意とする領域から新たな視点を持ち込んで、従来からの学問を大きく転換させるということはないわけではないだろう。専門家というのはある種「専門バカ」なところがあるので、自分たち仲間内では当然と思っていることが実は当然のこととは限らないということをだんだん忘れてしまう。だから、時々専門外や異領域の人たちから新たな視点を得ることは、学問全体の活性化にも役立つことだろう。そういった意味で、この本のように異領域の人が精神病や精神障害にアプローチをしてくれるというのは興味深いことではある。
しかし、異領域からアプローチをする以上は、その専門領域で明白とされていることはきちんと押さえておいて欲しい。そうでないと、せっかくの新しいアプローチも受け入れがたくなってしまう。この本の場合、例えば基本的な疾患統計の数値がどうみても間違っていたり、病気の定義があいまいであったりする。自殺統計なども、警察と内閣府で数値が違うということはある意味当然のことで、それを「面白いことに」の一言で片付けられてしまっては実も蓋もなくなってしまう。
また膨大な注や出典文献が巻末に載せられているが、精神障害に関する文献が妥当なものかどうか考えさせられるものもある。そもそも、「神経衰弱」とか「精神錯乱」とか、用語として定義するのもむずかしい面がある言葉が、あいまいなままで論が進められているように読めてしまった。
もっとも、私自身がこの本に期待していたものと、著者が著そうとしていたものが異なっていたようなので、いたしかたないのかもしれない。でも、だったら期待させるようなタイトルや、帯の文をつけてほしくないなあ。

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もう読むのを止めようと思いながらも、つい読み続けてしまうところはこの作者のすごいところだとは思います

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

およそ半年ぶりに刊行された『~よろしく』ビッグコミックス版第8巻です。うーん、まだ【移植編】です。しかも終わりません。この調子だといつ終わるのか(でも確か斉藤先生も今いる泌尿器科で2年のローテート研修が終わることになっていたはずなので、この【移植編】が終わるということは大きな一区切りになるわけですが)。
雑誌連載で読んでいない私としては、こうして単行本で刊行されるたびに前のストーリーを思い出さなければいけないので少々やっかいです。それでいつも自分の書いたビーケーワンの書評を見直すのですが、見ていたら何だか今回は書くことがなくなってしまいそうな気がします。ストーリーが進もうがどうしようが、読んで思うところは変わらないということに気がついてしまいます。お暇な方は第1巻から2、3、4、5、6と第7巻まで見ていただければと思いますが、少々視点が異なることを書いているのは第5巻くらいなものであとは自分でも嫌になるくらい同じようなことを書いています。それは、ストーリーが研修医と言う立場から見た現代日本の医療の問題を取り上げようとしているはずのこのマンガが、研修医という立場ではない存在から告発しようとしているかのように見えること。研修医のビルドゥングスロマンのように見えて、主人公である斉藤先生がちっとも成長していなかない(あるいは、敢えて成長させない)ということ。取り上げられている医療現場が斉藤先生が研修しているはずの診療科の枠を超えてしまっているような問題に終始していることと言ったストーリーの問題があります。
またマンガとして見た時の紙面構成の問題として、暗さだけが強調される画面(あたかも、現実の風景と言うよりは心象風景であるかのような構成のようにも見えるのだと、今気が付きましたが)であることも何度か取り上げています。
そして、こうしたストーリーと絵の両方で以前から感じていたことを第8巻でもやはり感じてしまうのです。
表面的なストーリーとしてはこの【移植編】で当初からメインの話題となっていた他人間生体腎臓移植がついに行われることになって、大きな展開を見せます。その移植のドナー、レシピエントの関係をやたら複雑にしていたり、執刀医たちの問題を絡めたりするのはストーリーとしての面白さを狙ったものと考え百歩譲ればまだ許されるものかもしれません。
そうやってできるだけ肯定的に読んでいこうと思っていても、どうしても私には理解できないところが残ります。
主人公斉藤先生は腎不全の友人(?)赤城さんの命を救うために他人間生体腎移植が必要と考えるのは良しとしましょう。しかし、そこでどうしてドナーが自分にならなければならないのか。この巻の半ばあたりで悲壮な顔つきで斉藤先生は「僕は医者です……。赤城さんを助けたいだけです…!」と言いますが、何度読んでもこれでは斉藤先生がドナーになる理由にはならないと思ってしまいます。じゃあもし他にも自分の臓器を提供することで助かる可能性のある人がいたら、どんどん自分の臓器を提供するのか?あるいは赤城さんだから自分の臓器を提供して命を救うことにするのなら、どうして同じ時期に死に瀕している他の患者には提供しないのか?
医者を20数年やってきた身では、すでに一般人の感覚を失っているのかもしれませんが、作者は次巻以降でこの私の疑問にどう答えてくれるのでしょうか。

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ペンキ木馬っていう言葉があるんですか?

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ある程度予期していたことではありますが、読み終えてみてため息が出てしまうのはやはりさびしいです。
勝気に見えて弱いところを多くかかえ健気でもある女性。その女性が恋焦がれる(?)自分の生き方を全うする一種生活破綻者の男性。一方、優柔不断なことが多いのだけれど時に一所懸命さを発揮する男性。その男性にからんでくる情緒不安定な女性。
思い返してみるとどの柴門マンガにも必ず出てきていたようなキャラクターが、また同じように絡まりあって恋愛模様を描き出すというパターンを繰り返した1冊のように思えます。もちろん、それに共感できるところが多くて読んでいた時代もあったのですが、それにしてもねえと思ってしまうのは 『ペンキ木馬の恋人1 』 でも書いたとおりです。
最初と最後に出てくる遊園地のメリーゴーラウンドも、私が読みこめていないのか「それが何なの?」という感じです。
文句ついでに。もともと緻密な絵とは言いにくい柴門マンガですが、最近はさらに雑になったようにも思えます。坊主憎けりゃ袈裟まで、でしょうか。

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主人公をマンガの外へ追い出してまで作者が描きたいものとは

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

連載する雑誌を変えてからの6冊目。
未だ臓器移植の話が続いている。そう、自ら「移植編」と名のっているように、このシリーズは泌尿器科での腎臓移植を取り上げてはいるが、実態は脳死移植であり、生体移植であり、それらを含めたいわゆる臓器移植にまつわる問題をしつこく取り上げている。
だから、この6冊目では時間を遡り、永大泌尿器科教授に過去の腎移植の話を延々とさせるという技に出てしまった。おかげで斎藤くんの出ているページは44ページしかない。主人公が出てこないページが100ページ以上もあるのだ。
臓器移植にまつわる様々な問題を論じようというのなら、それはそれで意義あることかもしれないし、それをマンガで表現しようという努力は買おう。だがそこには、医学、医療のはらむ暗黒面だけが強調された世界しか見えない。問題は問題としてきちんと論議されなければならないが、そこだけを強調するのは単に医学、医療を貶めようとしているようにしか見えない。外部から見ていると暗黒面だけが目について仕方ないのかもしれないが、「それだけではないんだけどな」と思ってしまい、だんだん読むのが辛くなってくる。面白いマンガだけがマンガだとは思わないが、これだけ延々と読む者を辛くさせるだけのマンガというのもそうあるものではないし、こんなことばかり描いていて作者は楽しいのだろうか。
この巻の最後の方、教授が過去の腎移植の話を終えたところで斎藤くんが教授に聞いている。
「結局教授は、何のために脳死腎移植をおしすすめようとしたんですか」
これに対して教授は、
「自分のためだよ」
と言い、
「私が最後まで捨てられなかったものの名前、それは自我だ」
と言う。そして、問われることもないままに過去の話をした理由として、
「見たいんだよ、エゴの行き着く先に希望はあるのか?君のエゴが誰かを幸せにすることができるのか?それとも自らのエゴに焼かれて“君”が消滅してしまうのか?」
と言っている。
これは泌尿器科教授の言葉ではあるが、実はこのマンガを通じて延々と斎藤くんが悶々としている問題ではなかろうか。
そして、同様に医学、医療の暗黒面を延々と描き続けている作者の問題そのものを語っているのではなかろうか。

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紙の本宮崎駿の原点 母と子の物語

2008/08/11 23:32

これをオリジナルのノンフィクションと言ってよいものか

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 一連の宮崎駿作品の底に宮崎自身の母親への想いがあるということ、を、特にマンガ版『風の谷のナウシカ』を取り上げながら、宮崎の半生を追うノンフィクションである。だが、これをオリジナルのノンフィクションと言ってよいものか。
 著者自身が「エピローグ」で、やや言い訳めいて次のように述べている。
「できるだけ多くの人に会ってたくさんの話を聞く、というのがノンフィクションの基本だが、今回は最新の資料を生かすため、ご本人のインタビュー、対談等を読み込むという手法を取った」
 実際、本書に頻繁に出てくる宮崎駿自身の発言や、関係者の証言は、『出発点』『風の帰る場所』『時代の風音』などすでに出版されている書籍や、キネマ旬報臨時増刊、アニメージュ増刊などの雑誌に収録されているものからの引用がほとんどであり、新証言と言えるのは宮崎駿の兄の話くらいである。
もちろん引用されている書籍等は、文中だけでなく最後にも「参考資料」として挙げられているので盗用とは言えないだろうが、それにしても、である。
宮崎アニメを何作か見ていると、女性というより女の子や母なる人が重要な意味を持っていることはわかってくるし、その意味を宮崎自身の生い立ちの中に見出したくもなる。それが宮崎アニメの魅力だからこそ、知りたくもなるのだ。それを宮崎自身の言葉で探っていこうとする姿勢は理解できるが、それにしてもすでに出版されているもの(特に著者自身の過去の文章まで!)を並べて再構成するのでは何をか言わんやである。著者は宮崎駿に嫌われているのか、何かまずいことが書いてあるのか、などと勘ぐってしまう。
ノンフィクションの醍醐味は、正攻法で見せてくれるからこそ味わえるものだと思う。世界の宮崎駿を相手にするのなら、それなりの覚悟で臨んでほしかった。

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紙の本NHKにようこそ!

2006/12/20 20:58

初!ひきこもり者によるひきこもり小説

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ひきこもり経験者(?)による「驚愕のノンストップひきこもりアクション小説」らしい。ひきこもりのことはひきこもり経験者に聞くのが一番だとは思う。だからたとえ小説とは言え、ひきこもりの実態を知るには適切な作品かもしれない。
確かに日常の生活の様子、特にエロゲーに嵌まり込んでいくあたりは圧巻だ。小説とは思えない。これは著者の実体験だろうと思わせられてしまう。宗教の勧誘や集会の描写も、リスカの少女岬ちゃんの言動も、何となくそれらしく見えてくるからすごい。ともかく、ディテールはこれぞひきこもりといった感じだ。
だが、結局この小説はそこまででしかない。主人公はともかくも、高校の後輩で隣人の山崎は家の事情で消えていくし、岬ちゃんも現実感の薄い子だし、何より題名がこの小説の何も表していないとってつけたようなタイトルだし。
著者は別作品で第5回角川学園小説大賞特別賞を受賞しているらしいが、従来の小説とは違うものと思わないと読んでいられないところが多い。それが若い世代の小説とか文学だと言われてしまえばそれまでなのだが。

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紙の本墨攻 8

2005/09/11 11:29

刊行時帯コピー「趙の都・邯鄲落城!最期に残された仕事とは?壮大な史劇巨編堂々の完結!!」

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

秦との戦いを共にしてきた蘭鋳の死が描かれた後、唐突(?)に水木しげる様キャラクターが登場します。どんなに頑張ってみたって歴史事実として邯鄲は落城し、趙が破れ、ということは革離だって負けてどうにかなってしまうということは分かっているのですが、そこへ至るまでのドラマを期待している者には、この山かい(漢字が見つけられなかった)という水木様キャラクターは異質です。悲劇の中に放り込まれたマンガです。しかも、適当に暴れまくったあげく、どこかへ消えていってしまうのです。長いドラマの中の小休止か隠し味のようにしたつもりかもしれませんが、かえって結末へ向けての緊張感を欠いているだけのような気がします。
同じように、山かいに続いて乞食が登場します。よくわからないキャラクターのまま殺されてしまいます。それとなく墨者であることが示されていますが、ともかくよくわからないまま1話のエピソードになっています。これも、こんなところで足踏みしないで、結末へ行きなよっていう感じです。
邯鄲は落城し、趙は負け、でも革離たちは目的をある程度達し、この長い物語は終わりになります。と誰もが思うと思うのですが、これがそうではなかったんですね。そこまで話をつなげるのか?という感じです。原作小説からは、ずいぶん遠いところへ来てしまったなあ。

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紙の本未来創造 夢の発想法

2011/01/03 18:24

これを最後まで読み切るのはつらいなあ

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

タイトルを見て「夢の発想法」とあり、「本書のテーマ(というのがこの角川oneテーマ21には書かれてあるのだ)」にも「発想法」とあり、「自分の“夢”のイメージをカタチに変える方法とは?」とあれば、マンガ家の作画術とかストーリーの作り方とかを想像してしまってもあながち間違いとは言えないと思う。
例えばこのビーケーワンでも「未来をイメージし、現実のものにするには? 「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」などで人類の未来を予見し、物語としてカタチに変えてきた著者が教える、宇宙レベルの“発想”と“創造”の技術」とあるので、まあマンガだけでなくもう少し広い意味での創造をする時のコツとか秘訣を書いたものかと思っても間違いではないと思う。そう言えば、松本零士の作画術とかマンガ作劇発想法とかをあまり見たことがないようにも思う。それだけでも、ある種期待してしまうところはある。
だが、この本を読んですぐに思ったのは、「ああ、歳はとりたくないものだ」という残念な気持ちだけだった。
ここにあるのは、すごく意地悪な言い方をすれば、70歳を超えた年寄りが、自分が50年以上やってきた仕事の自慢をしているだけのように読めてしまう。どんな話でも、自分はこんな風にやってきた、自分の作品がこんなところで読まれている、マンガ以外のこんなところにも自分の作品の影響が出ている、というような話だけのように感じてしまう。それでもどこかで気づくのか、各章の終わりがけには発想法のようなことが書かれてはいるが、どの章も同じようなまとめ方になっているようにも見える。どうもこれは松本零士が自分の手で文章を書いたというより、松本の話をライターがまとめたといった感じだ。年寄りがどんな話をしていても自分の話になって、最後も同じような自分の頃は良かっただの今時の若い者はこんなことが足りないだのという話になってしまう。
なので、ついつい詮索をしてみたくなってしまうのだが、これは『宇宙戦艦ヤマト』の実写映画化に便乗して、松本零士に何でもいいから話をさせて、ともかく映画公開に乗り遅れないようにしようということかなと思ってしまう。
だとすると、良くないのはこの本の編集者だ。
松本の話の中には、これまでの彼のマンガ家生活の中で体験した貴重な話もあったし、「発想術」として見た時にも役に立ちそうな話もあるにはあるのだ。話をさせてそれをそのまま文章に起こして、ただ1冊の本にしてしまうのではなく、同じ話はカットしながらこれはと思う話についてはきちんとまとめて章立てするくらいやったら、もう少し読める本になっていのではないか。そうすれば、『ヤマト』に便乗していたとしても、その原作者はこんな人なんですということを知らしめることができる本になっていたように思う。

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