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みゆの父さんのレビュー一覧

投稿者:みゆの父

82 件中 31 件~ 45 件を表示

紙の本

将来の(正解じゃなくて)ヒントを歴史に探る

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

  僕も、もうすぐ平均寿命の半分になる。もちろん今の日本には色々と文句も不満もあるし、自分の身の回りで、自分の出来ることをしなきゃいけないって思ってもいるけど、人生の折り返し点って考えると力が抜けてくるもんだ。でも、まだ大きな問題が残ってる。もうすぐ二歳になる娘だ。平均寿命からいくと、娘にはまだ八〇年以上の人生が残ってる。下手すると、何と二二世紀まで生きるかもしれない。そう考えると、傍観者か評論家みたいに、日本の先は暗いですなあって笑ってるわけにもいかないって気にもなる。そんなことを考えながら、たまたま本屋の店頭でみつけたこの本を読んだ。 
 日本近現代史をめぐっては自由主義史観と自虐史観の間で仁義なき闘いが続いてるけど、この本の著者の板野さんは、どちらとも違った独自の史観から、明治維新以後の日本の政治を眺めてきた。坂野さんの主張は刺激的だし、日本の将来にとっても示唆的だと思う。その特徴は、日本人は中途半端好みなので「実現可能な改革」は嫌うっていう「DNA史観」と、自由主義者や民主主義者や社会民主主義者も結構善戦してきたっていう「敗け組史観」だ。そんな立場から見ると、民本主義を唱えた吉野作造は、天皇機関説を唱えた美濃部達吉以上に、天皇制に対して根本的で現実的な批判を展開したこと、「広義国防」を唱えた社会大衆党は、人民戦線論(共産党)や反戦思想(民政党)以上に、現実的な社会改良の意志を持ってたこと、こういった「民主的伝統」がみえてくる。「伝統」を「敗け組」の側に奪還しなきゃいけない。この本からは、そんな坂野さんの熱い想いが伝わってくる。
 娘の将来が心配な僕は、歴史から新しいヒントを引き出すこの本を、とても興味深く読んだ。でも、一つわからなかった点がある。「民主的伝統」の具体的な内容だ。それは「議会政治を通じての現実の社会改良」(四〇ページ)つまり社会民主主義なんだろうか。それとも「財政経済の構造改革と政治の公明性の回復」(二四二ページ)を訴えながらも「健全財政の貫徹がもたらす社会的犠牲への配慮が、明らかに不充分だった」(二四七ページ)民政党の路線なんだろうか。坂野さんは、この二つの路線が社会改良と対外進出をめぐって昭和初期に激しく対立していたことを指摘しながら、今後の政局にかかわる自分の立場を明らかにする段になると、両者の間で動揺する。つまり、社会民主主義も良いけど、やっぱりまず民政党の路線かなぁというわけだ。政治に信頼を取り戻して利益政治を制約する、社会改良をおこなう、この二つの課題は今でも意味があるけど、両者の間には「あちら立てればこちら立たず」の関係があるってことなんだろうか。これもまた、この本の(隠れた)メッセージかもしれない。
 いずれにせよ、歴史や歴史家に、将来のヒントだけじゃなくて正解まで求めるのは、酷というものだろう。みゆ(娘の名前)よ、自分の将来は自分で決めなきゃいけないのだ。あとは任せたぞ(まだ早いか)。僕も、もうちょっと頑張るけど。

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紙の本

紙の本しろくまちゃんのほっとけーき

2001/08/31 09:45

良くも悪くもグラフィカル

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 ちょっと前まで、娘(もうすぐ二歳)の愛読書だった。もちろん自分で読むわけじゃなくて、僕らが読み聞かせるのを聞くだけだったけど。主人公のしろくまちゃんが、失敗したりお母さんの力を借りたりしながら、自分の力でホットケーキを焼いて食べるまでのお話が、シンプルに描かれてる本だ。
 絵を担当したわかやまさんは元々グラフィックデザインの世界の出身だそうだけど、人の目を引くにはどうすればいいかってことをはっきりわかってると思う。線がシンプルで力強いし、表紙のオレンジ色をはじめとして、何よりも色が鮮やかでわかりやすい。ホットケーキが焼けるところの、フライパンのなかの生地の変化をつなげてみせるところも楽しい。ストーリーがシンプルなのも、きっと読み聞かせの対象になる子供たちのことを考えてるんだと思う。あまり複雑だと、読んでる大人たちには面白いかもしれないけど、聞いてる子供たちにとってもそうだとは限らないだろうしね。
 でも、不思議な点が二つ。第一、しろくまちゃんをはじめとする登場人物が無表情なこと。無表情なことも、ついでに顔の造作も、個人的には僕の好みじゃない。でも、もしかすると、登場人物は無表情なほうが、子供たちが感情移入しやすいし想像力を働かせやすいって理屈があるのかもしれないから、この点は好みの問題だろう。
 第二、絵を重視したせいかもしれないけど、リズムやテンポがないセリフがときどき出てくること。人の目は引くけど、人の耳は引かないのだ。これは、文を担当した森さんとわださんの責任だろう。「ぽたあん、どろどろ、ぴちぴちぴち、ぷつぷつ、やけたかな、まあだまだ、しゅっ、ぺたん、ふくふく、くんくん、ぽいっ、はいできあがり」っていうセリフのリズムは良いけど、たとえば「ひとつ、ふたつ、みっつ、たまご、ぽとん、あっ、われちゃった」ってところをリズミカルに読むのって、実際にやってみると意外に難しい。日本語には七五調とか五七調とか、伝統的なリズムがあって、あまりそこから外れるとリズムやテンポが崩れてしまう。絵とセリフからなり、また読み聞かせることを主な目的としてる絵本としては、ちょっと問題がある。
 このことは、これまた子供たちに人気がある「ノンタン」シリーズと比べてみると、よくわかる。「ノンタン」シリーズは、児童文学の世界では、幼すぎるとか教訓めいてるとか色々と批判されてる。でも、音読してみると、セリフのリズムやテンポが良く練られてることがわかるだろう。これって、読み聞かせのための絵本としては、とても大切なことだと思う。

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紙の本

長すぎる

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この本によると、この世には見えない権力の網の目が張り巡らされてるんだそうだ。うーむ、そんな気もする。でも、そういえば、これってすでにフーコーさんが言ってることじゃなかろうか。

そんでもって、この網の目が世界中に張り巡らされた結果、世界は一つのシステム、つまり「帝国」になったんだそうだ。うーむ、そんな気もする。でも、そういえば、これってすでにウォラーステインさんが言ってることじゃなかろうか。

そんでもって、「帝国」は打倒されなければならないんだそうだ。うーむ、そんな気もする。でも、そういえば、これってすでに古今東西の反体制思想が言ってることじゃなかろうか。

そんでもって、帝国を打倒するのは「マルチチュード」なんだそうだ。うーむ、そんな気もする。でも、その実体は、というと(マグニチュードならわかるけど)よくわからない。「異質」とか「開放」とか「柔軟」とか、そんな形容詞が並んでるけど、つまり何なんだ、これは。

おっと、もちろん面白いことが書いてないわけじゃない。ポスト・モダンとかポスト・コロニアルとかが使えなくなったのはなぜか、とか、マキアヴェリやスピノザやマルクスの思想の生命力はどこにあるか、とか、色々なことがわかるのも高得点。

でも、とにかく長すぎる。読むのに時間をかけたのに、議論としては尻切れとんぼだから、よけい長さが身に沁みる。「帝国」って言葉を新しいラッピングでおしゃれにしたのは、さすがだけど。

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紙の本

哀しき全共闘世代

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僕は「三無主義」と呼ばれる世代に属していて、いつまでたっても全共闘世代に頭が上がらない、というよりも、わからない。「大学解体」と言ってたわりには、知識人になった人が多いし、「連帯を求めて孤立を恐れず」とか叫んでたわりには、エリート街道に乗ってる人が多いし。

この本は、そんな全共闘世代に属する米本さんが書いた半自伝だけど、やっぱりよく分からない。「残る一生は、京大理学部を呪いつぶすために道なき道を歩く」(96頁)と決意して在野の科学者になったそうだけど、ちゃんと恩師(白上謙一さん)は「嵯峨野通い」(110頁)を認めてくれたし、三菱化成生命研究所に就職できたのも一人の大学人(中村禎里さん)がサポートしてくれたおかげだった。それを「アカデミズムの中に共犯者がいた方が、研究がすみやかに進む」(182頁)って言われたら、立つ瀬がないだろうなあ。

おまけにこの研究所は「本社社員と同格の給料が支給され、研究費が認められ、一日二四時間、一年三六五日、研究に没頭してよい」(208頁)そうで、地方の弱小大学の教員が聞いたら、それこそ悶絶しそうな研究環境じゃないんだろうか。

「勝ち馬には乗らない、大勢には迎合しない」(241頁)と見栄を切る傍らで、政府の方針で「国立大学は、二〇〇四年から独立行政法人になる」「いまこそ大学解体論を」(244頁)と叫ばれても困るし。これじゃせっかくの「基本的人権としての真理探究権」(192頁)っていうコンセプトも、どこまで本気なのか疑われてしまうんじゃないだろうか。本当にもったいない。まぁ屈折した自分の気持ちを正直に素直に書いたのは立派だけど、それだけの本。

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紙の本

紙の本女は私で生きる

2002/07/01 23:40

「それで?」

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はっきり言おう。僕は『アエラ』という雑誌が好みじゃない。なぜか。それは、色々なことが書いてあるけれど、突っ込みが浅く、総花的で、一つ一つの話題が短く、そう、まるで松花堂弁当みたいだからだ。だから、そこから生まれたこの本も、やはり好みじゃなかった。

たとえばこの本は、編者によれば「悩みを抱え」つつ「それぞれのやりかたで自分らしい生活を営んで」いる女性たちの「幅広く多くのケースを集め」、「『アエラ』独自の視点でまとめて」(三二六〜七頁)みたものだそうだ。でも、キャリアウーマンや、転職で成功したり失敗したりした女性や、未婚を選んで満足したり後悔したりしている女性や、出産や結婚で悩む女性の短いインタビューをあれこれ並べ、その間にインタビュアーの感想文をはさんでみても、やはり「女性が生きていくうえでの、何かちょっとしたきっかけ」(三二七頁)になるとは思えない。

こんなことになってしまう理由は何か。それは、先に述べた『アエラ』の特徴もあるけれど、「一人の人間として、私は私、と生きる」(三二七頁)ことが女性にも大切だ、というこの本の基本的なメッセージが甘いせいじゃないだろうか。この本のタイトルにもなっている「女は私で生きる」というフレーズは、耳に心地良いけれど、じつは何も言っていないに等しい。私らしく生きるとか、自分を探すとか言うのであれば、それは個人個人によって千差万別であり、他人の経験が「ちょっとしたきっかけ」になるのはなかなか難しいだろう。また「ちょっとしたきっかけ」になるためには、この本の編者がわりと否定的に評価している「解決策的な啓発」(三二七頁)が必要になってしまう、と僕は思う。

こういった基本的なスタンスを採り、また、議論のつっこみが浅いから、読後感は〈色々あることはわかったけれど、それで?〉に留まってしまう。新聞社発行の週刊誌の増刊号の文庫版だから、仕方がない、ということなのかなあ。

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紙の本

愛と幻想のフェミニズム

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本当に日本のフェミニズムは「危ない」(一一頁)んだろうか。僕は、男女共同参画社会基本法ができたくらいだから、フェミニズムは定着したと思ってたけど、そうでもないらしい。そのせいか、アカハラ(アカデミック・ハラスメント)とか、テクハラ(テクスチュアル・ハラスメント)とか、やたらとフェミニズム関係の造語が目立つ。

それにしても、ハラスメントって、よくわからない。被害を受けた側の主観だけで成立する現象らしいから、あったのか否かさえ霧の中。ましてテクストのハラスメント略してテクハラになると、何が何だかわからず、まさに愛と幻想の世界。そんななかで、「ジェンダー中級者」(二四一頁)を自称する長谷川さんが「テクハラのケーススタディ」(一三頁)として書いたのがこの本だ。それによると、テクハラとは「男風呂にはいってこようとする女性に対するバッシングであり、セクハラの活字バージョン」(二五頁)らしい。でも、別のページにはテクハラは「被害者は女性で加害者は男性、という絶対的な図式があるわけではない」(二三頁)と書いてあって、愛と幻想の世界は深まってくのだ。

さて、この本の前半は、原告の小谷真理さん(評論家)と被告の山形浩生さん(評論家)の間で争われた裁判と、女性国会議員に対する週刊誌の取り扱いをルポルタージュする。とくに目新しいことは書いてないけど、テクハラって視角から切ってみせたのが新しいんだろう。でも、新しい視角から見ると、逆に、みえなくなる点もある。たとえば、長谷川さんは女性週刊誌が料理をよく取り上げるのは「オヤジの懐古趣味」(六三頁)だって断言するけど、女性読者の主体的なニーズを無視していいってことにはならないだろう。

この本の後半は、小谷真理、上野千鶴子、斉藤環(精神科医)、北原みのり(エッセイスト)といった、そうそうたる面子をそろえた座談会、だったはずが雑談会。たとえば、上野さんはある社会学者を「一応フェミニストの顔をして」(一七六頁)とテクハラ兼アカハラまがいの表現をするかと思えば、「言ったというだけで不法行為になる」(一九二頁)と自ら認めるテクハラを「私自身はしょっちゅう……やってるんですよ。オヤジ攻撃やオヤジ侮蔑」(二三二頁)と告白する。しかも「家父長制に対する反撃ですから、私としては正当な行為」(同頁)だって正当化するけど、目的が手段を正当化するなら苦労しないよなあ。小谷さんは小谷さんで、これまた「男のフェミニスト学者って、気持ちが不安定なのかな」(一七八頁)ってテクハラまがいの放言をするし、困った座談会だ。

ずいぶん昔だけど、小倉千加子『松田聖子論』(今は朝日文芸文庫)を読んでフェミニズムの切れ味の鋭さに驚き、アイドル本と間違えられながらも、周りの人に薦めてまわった記憶がある。それから一〇年以上経って、この本を読むと、たしかに日本のフェミニズムは退化してて「危ない」のかもしれない、って気になってくる。

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紙の本

仕事の現場から浮いた哲学の本

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 仕事って何だろうか。僕は今の仕事はそんなに嫌いじゃないし、とにかくあと二〇年しがみつくしかないと思ってる。でも、完全失業率五%の時代って、若い人の目にはどう写るんだろうか。これから働きはじめなきゃいけない人々にとって、仕事って何だろうか。こんなことを考えるのも、うちの娘はまだ二歳だけど、親馬鹿のせいでもう将来が心配だからだ。一体どんな教育をすれば「良い仕事」に就けるんだろうか。どんな仕事が向いてるんだろうか。これって例の「早期教育」に走る心理の典型かもしれないって思いながら、この「働くことがイヤな人のための本」を読んだ。
 五人の仮想人物と対話するって形式を採るこの本で、哲学者の中島さんは、働くことがイヤな人にとっての仕事の意味を考える。いかにも哲学者らしく考えて、アドバイスをおくる。つまり、仕事をすることやしないことに居直っちゃ駄目だ。仕事と生きがいと成功は別物だ。失敗しても挑戦を続けるのが充実した仕事人生だ、云々。中島さんにとって大切なのは、仕事の矛盾を受けとめ、理不尽さを見据え、必要悪を自覚し、苦しみつづけ、「なぜか」と問い続けること、つまり割り切らずに矛盾を矛盾として直視することなのだ。そして、仕事は生きるための手段であって逆じゃないことを忘れちゃいけない。
  この本を読んで、僕はいくつかの疑問を持った。第一、仕事するのが嫌いで、仕事をしても空しいって感じる人にとって、この本は使えるんだろうか。中島さんが強調するのは、割り切らないことだ。僕も、一般論としては、簡単に割り切らないことは大切だと思うけど、それってとても辛いことだ。安直に割り切ってしまったほうが、仕事する上ではどれだけ楽なことだろう。僕らにとって問題なのは哲学じゃなくて仕事なのだ。
  第二、仕事と自己実現とか社会的承認とかとの関係を考えてる人にとって、この本は使えるんだろうか。中島さんは、そんなことを考える人は「私と異なった感受性」を持った人だから「またいつか、どこかでお会いしましょう」(五ページ)って言うかもしれないけど、この本の登場人物のうちCさんは、多分このことで悩んでる。これだって仕事がイヤな人の悩みだけど、中島さんに届かないまま終わってしまう。
  第三、上の点と関係するけど、仕事には二つの側面がある。イヤでもしなきゃいけない生活の手段って側面と、自己を実現したり社会に承認されたりするための手段って側面だ。こんな二面性を持ってるから、仕事には魅力というか魔力がある。一九世紀には、人間には「働く権利がある」って主張して命を落とした人々や、人間には「怠ける権利」があるって主張して世間の顰蹙を買った人が出るけど、そんなことが起こったのも仕事が二面性を持ってるからだ。それじゃこの本は仕事の二面性に気付いてるんだろうか。僕には、どうもそうとは思えない。それ以前の、仕事のイヤな側面だけに着目して、議論を進めてる。「働くことがイヤな人のための本」(タイトル)としてはありかもしれないけど「仕事とは何だろうか」(サブタイトル)を考える本としては不十分だ。タイトルを取るかサブタイトルを取るか、それによってこの本の評価は一八〇度かわることだろう。
  仕事は哲学だし、人はパンのみにて生くるにあらず。でも、人はパンがなければ生きられない。仕事の現場から浮いた哲学の本は、仕事には役立たない。僕にとってはこの本は使えないし、感動もなかった。娘が大きくなって仕事で悩んだら使えるかもしれないけど、そのとき僕は不安になるだろう。

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紙の本

偶像破壊者の面目躍如

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厚いし、出版社は「大学出版会」だし、言葉遣いもカタいし、教科書みたいだし、とっつきにくいかもしれない(表紙は綺麗だけど)。でも、著者の柏木さんは、家族の問題については、筋金入りの偶像破壊者。その偶像破壊者が前著『子どもという価値』(中公新書)をさらにバージョンアップし、家族の様々な問題を心理学の視点から、あるいはまた心理学の様々な知見を「家族」という観点から、縦横無尽に論じつくす。

「やっぱり三歳までは母親が必要だ」とか「父親には規律を教え込む役割が適している」とか「非行少年の家庭には片親家庭が多い」とか「専業主婦は楽だ」とか、こういった「通説」を信じてたら即一読。辛抱強く読んでくうちに、理論的に、そしてデータ的に、自分が信じてた「通説」が「偶像」としてがらがら砕けおちる快感を味わうことができるのだ。

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紙の本

まいりました

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田窪さんといったら「林檎の礼拝堂」だけど、昔の礼拝堂を修復するなんてただの懐古趣味なんじゃないの? って思ってた。でも、田窪さんの意図はそんなに単純じゃなかったようで、「まいりました」の一言。

もともと(個人的には怪しげなイメージのある)「現代美術」からスタートした田窪さんがなぜフランスの片田舎の荒れ果てた礼拝堂を修復するために長い年月を費やすことになったのか。そして、ぼくらがこの礼拝堂に興味を惹かれるのはなぜか。美術館や美術展や美術家のアトリエなど、様々な美術の「現場」をめぐる、一見とりとめもない随想から、こういった疑問に対する答えがかすかに顔をのぞかせてゆく。

なんでも今、田窪さんは金毘羅山の再生プロジェクトに取り組んでるんだそうだけど、早くその成果を見てみたい。

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紙の本

センスにぶっとび

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むちゃくちゃマニアックなので、売れないかもしれない。でも、表紙はビジュアル系だし、万が一本屋の店頭で手にとる人もいるかもしれない。でも、一般書としてはかなり専門的なので、途中でほっぽりだす人が多いかもしれない。しかし、だ。

なんたって千年以上も前の、たった一つの資料を読み解き、そこからできるだけの情報を引き出し、当時のヨーロッパで生きた農民の日常生活の実態に迫ろうっていう、その心がけや良し。たった一つしか資料がないんだから、どこまで情報を引き出せるかは、まさに解読者のセンスにかかってる。そして、著者の森本さんのセンスのすごさといったら、もちろんその背後には膨大な学識と努力があるんだろうけど、ぶっとび。

そんな昔の、しかも遠い異国の人々の日常生活を知って何になるんだ、という意見もあるかもしれない。でも「そんな昔の、しかも遠い異国の人々の日常生活」は僕らの生活に無関係だ、と考えるのは了見が狭い。じつは僕らに関係があるかもしれないし、僕らの日常生活を相対化するときの「比較の対象」として使えるかもしれないし、森本さんが展開した解読法をもっと身近な対象に適用できるかもしれないし。

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紙の本

紙の本松田聖子論

2003/02/21 09:59

日本フェミニズムの(いまだに)最高峰

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久しぶりに読み返してみた。ハードカバーの発表(1989年)からもうすぐ15年たつというのに、全然古くなってない。それ以来、日本でもフェミニズム研究者が沢山色々な仕事をしてきたけど、この本を超えた仕事はほとんどない。これをこの本のすごさとみるか、日本のフェミニズム研究の足踏みの結果とみるか、難しいところ。

この本で、筆者の小倉さんは、山口百恵と松田聖子という2人のアイドルを比べる「ふり」をしながら、じつは、山口百恵が体現していた1970年代の日本社会と、松田聖子が体現していた1980年代の日本社会とを比べてる。だから、この本は、2人のアイドル論であり、男女の関係や家族のあり方に焦点を当てた日本社会論であり、また同時に、高度成長後の日本社会の変化(と不変)を追いかけた同時代史でもある。この本が古くなってないのは、小倉さんの同時代を見る目が鋭いからだろう。この本がすごいのは、日本社会に対する焦点がぴったり当ってるからだろう。そして、いうまでもなく、シャープな分析を支えてるのはフェミニズム。フェミニズムは流行りの思想なんかじゃなくて色々と「使える」ツールだってことを、この本はぼくらに教えてくれる。

ただ一つ不満があるとすれば、この本はフェミニズムのパロディ本だと述べてる「あとがき」。この本の、どこがパロディなもんか。「パロディ」って言葉の意味わかってますか、小倉さん?

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紙の本島倉千代子という人生

2002/12/30 10:23

「歌は世に連れ」るのか

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出張先から戻るのに新幹線を乗り継いで5時間ほどかかるから、本でも読んでくか。そう考えて、駅前の本屋で偶然みつけたこの本を買って新幹線の中で頁を開き、たちまち後悔した。とにかく、涙が出てくる。しかし、大の大人が新幹線の中で泣いてるなんて、はっきりいって不気味だよなぁ。

島倉千代子は、もうすぐ不惑になるぼくにとっても「懐メロ」の部類に入るけど、ガラスのように繊細な神経をもち、驚異的な努力を続け、波乱万丈の人生を歩んできたことを知るだけでも、この本を読む意味はある。

でも、それだけじゃない。関係ないようにみえるかもしれないけど、ぼくは前から「井上陽水の曲は今でも通用するのに、吉田拓郎の曲は時代遅れになったのはなぜか」という、一見くだらん問題に頭を悩ませてきた。そして、この本を読んで、答えがわかった気がする。「歌は世に連れ、世は歌に連れ」という言葉があるけど、これは半分しか正しくない。吉田拓郎の「歌は世に連れ」たけど、井上陽水の「歌は世に連れ」てないのだ。つまり、ケース・バイ・ケース。

島倉千代子の歌は、といえば、それは、たしかに「戦後」や「高度成長」という時代の産物だけど、井上陽水の曲とおなじく「世に連れ」る以上のメッセージを孕んでいる。それが何かは、もちろん、この本を読んでのお楽しみ。

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紙の本

タイトルで損をしている名著

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『子どもと歩けばおもしろい』ねえ……。育児に疲れた親たちを自己暗示にかけるマニュアル本か、こりゃ。3歳の娘を持つ僕は、このタイトルに一瞬引いてしまった。だって、そりゃまあ子どもと暮らすのは楽しいけれど、疲れたり辛かったりするときだってあるじゃないか。というわけで、このタイトルのせいで、どれだけ損をしていることか。この名著も、そして、この本を手に取れば心が救われるはずの親たちも。

というのも、この本は「子どもは面白くて可愛いんだから、疲れたとか辛いとか、ぐちゃぐちゃ言うのはなっとらん。要は心の持ち方!」みたいな、時代錯誤の精神論とはまったく違った内容なのだ。幼稚園年長組から小学校低学年あたりの子どもたちが、自己チューだったり親の顔色をうかがうアダルト・チルドレン予備軍だったりしていて、どっちにしろ順調に人格を形成できなくなってきているのはなぜか、という問題から出発して、この本は、3歳頃に始まる第1次反抗期の意味を「2つの自我」という概念を使って鮮やかに読み解いてゆく。そして、幼児期の親の仕事は、子どもが「2つの自我」をきちんと育むのを手伝うことだけだ、と断言する。

「2つの自我」とは何か、第1次反抗期の意味は何か、なぜ「2つの自我」の形成を手伝うだけでよいのか、自己チューやアダルト・チルドレン予備軍が生まれるメカニズムは何か、そういったことを知りたかったら、是非この本を読んでほしい。読みやすいし(少なくとも前半は)。

子どもが「2つの自我」を育むのを手伝う具体的な方法を論じる後半になると、まだ十分研究が進んでいないせいか、議論が抽象的になったり難解になったりして残念だけれど、そこまで一冊の本に要求するのは酷だろう。色々な問題の原因がわかれば、僕ら親も肩の荷がおりるし、自分の子どもに対応する参考にもなるし。

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紙の本学びその死と再生

2002/08/26 23:35

魂を揺さぶる教育書

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教育を論じる、それも専門の研究者が書いた本を読んで、魂を揺さぶられる。そんなことって珍しいんじゃないだろうか。この本は、そんな貴重な経験をさせてくれる。

新聞を見ればすぐにわかるけれど、「ゆとり教育と学力」をめぐる議論が続いている。そりゃそうだろう。教育は、子どもを持つ親にとっては、最大の関心事なんだから。僕も、一児の父として、この議論から色々なことを学んだ。とくに、教育と階層の関係を論じた苅谷剛彦さんの文章には、目を開かされた。

でも、今の小中学校で起こってる事態は、学力云々どころじゃないらしい。知り合いの小学校教師に聞くと、多くの学校で、子どもとのコミュニケーションが成り立ちにくくなっている。それも、一昔のような一部じゃなくて、ごく普通の子どもなのだ。コミュニケーションは教育の基本だっていうのに。

そんな話を聞いたあとでこの本を読んだせいか、僕はなぜかものすごく共感した。教育の場である学校の主人公は子どもたちだ。そして、彼らのために、教師と父母と地域の住民は力を合わせなきゃいけない。でも、現実には、みんながバラバラになり、対立し、疑心暗鬼になり、そしてその影響は子供たちにも及んでいる。そんな、誰もがうすうす感じている事態を解決する方法を求めて、佐藤さんは何千回も学校を訪問し、自分でも模擬授業をし、教師と対話を重ねてきた。

そんな佐藤さんの活動に説得力があるのはなぜか。読む者を感動させる力があるのはなぜか。この本を読むと、その理由がわかる。教育とは、子供たちの全ての人格と教師の全ての人格がぶつかりあうことだ。だから、教育を論じる人も自分の人格をすべて賭けなければならないはずだ。佐藤さんの力は、それを実践しているところから生まれている。

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紙の本

組織経営の優れた教科書

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「コート・ドール」という日本有数のフレンチ・レストランのオーナー・シェフの半自伝。一二年間のフランス滞在中に「ヴィヴァロワ」とか「タイユヴァン」とかいった三ツ星レストランで働き、これまた今は三ツ星レストランのオーナー・シェフになっているベルナール・パコーと一緒に「ランブロワジー」を開いたわけだから、成功談として読むこともできるだろう。フランスで働いているときは朝七時から深夜まで働き通しだったそうだから、修行記として読むこともできるだろう。赤ピーマンのムースとか魚のだし汁を使わない料理とかが説明されているから、ちょっとはレシピ本として読むこともできるだろう。言葉は体を作るものだ」(四七頁)とか「乗り遅れてしまったら、次のバスが来るまで待てばいいじゃないか」(一七四頁)とか「いつもプレイヤーでありたい」(二三一頁)とかいった渋い言葉が詰まっているから、教訓集として読むこともできるだろう。

でも、著者の斉須さんはどう考えて書いたかは知らないけれど、この本はとても優れた組織経営の教科書として読むこともできるし、そうして読むと一番面白い。たとえば「見込まれた人が報いるときに出るパワー」(七五〜六頁)を大切にすること。信頼関係はいさかいを通じて深まること。指導者は従業員以上に働き、彼ら以上の人格を持っていなければならないこと。アイディアと実用性が両方とも必要なこと。「人がちやほやするものはつまらない」(一七九頁)こと。

孤児院で育ち、もしかしたら実の親がどこかで自分と家族の姿を見てくれるかもしれないから「メディアに出るとき、必ず家族で出る」(一八三頁)というパコーのエピソードを聞いて、貯金していつかは「ランブロワジー」に食べに行くぞ、と決心した僕だった。料理には料理人の人生が詰まっているのだから。

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