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じゃりン子@チエさんのレビュー一覧

投稿者:じゃりン子@チエ

67 件中 1 件~ 15 件を表示

極上の職人芸、これにて完結

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

よしながふみはとことん自分の技に自覚的な職人だなあ。ということをしみじみ実感した完結編。美形の男4人を主役にしたケーキ屋さんのマンガ、という設定自体が女の子の願望の集約である本作。しかし、夢物語的な設定に依拠せずに、サスペンスと心理ドラマの同時進行というややこしい展開をしっかりまとめ上げ、ラスト、晴れ晴れとした寂しさを描ききった手腕はホントーにお見事でした。
 物語は、橘がかつて被害者として関わった少年誘拐事件の解決と共に終わりを迎えます。4巻では物語のラストスパートの為に、登場人物たちが少しずつ、着実に変化して行く様子が丁寧に描かれています。特に、修行の一環としてフランス語を始めたエイジのエピソード。「おれいらない子だったから」と告白し、自分がこの店に必要なのかがわからない、といって泣き出すエイジを小野が勇気づける展開は非常にこの人らしかったです。
 よしながふみは愛情に全幅の信頼を置き、その信頼の力でハッピーエンドを描く作家です。で、彼女のボーイズラブ(この言い方謎…)作品の一つ、「ジェラールとジャック」に象徴的な話があります。貴族の子息で借金のために娼館に出されたジャックと、その客のジェラール。色々あって最終的には二人が恋人同士になる話なんですが(ボーイズラブですから)このなかに、ジャックが家族に見捨てられた、と言うのを聞いたジェラールが“問答無用”でジャックを抱きしめて「俺が愛してやるから」(家族として)みたいなことを言うシーンがあるんですね。
 ポイントは“問答無用”。この人の作品では愛情というものがものすごく高い位置に置かれています。その中で最も強いのが無償の愛。だから、無償の愛なんて不条理なものを提供できる家族、またはそれに近い関係性を結んでいる人間は、常に相手に対し「救い」として作用します。そして、愛の力によって物語はハッピーエンドへ着地。
 …で、まあ何が言いたいかというと、「安易だなあ」と。「間違ってないけどさあ、なんか、こうもっとややこしくかかないの?」と。この人はもっと容赦ない人間関係を描くことが出来るし、実際描いたこともあったのに(あんまり面白いと思わなかったが、大学の先生とその後妻?だったかの話。「ある五月」という題だったと思う)。でも、よしながふみは確信犯的に安易さを選び取ります。なんでか。きっと「そのほうが気持ちいいから」でしょう。登場人物の平穏と、読者の快感を選んだ結果としての安易さ≒エンターティメントとしてのハッピーエンド、になるのですね、この場合。安易なハッピーエンドは白々しくなるのが常ですが、エピソードの選び方とエンドへの導き方が絶妙なので、気持ちよく物語に埋没できます。
 そして、過去の事件に一応の解決を見た橘が締めくくるラスト数ページ。晴れ晴れとした画面と橘の表情が絶妙で、まさに「きれいな幕引き」でした。もう一度言いますですが、よしながふみは間違えません。だから、ラストでも「描けないもの」は描きませんでした。そのいさぎよさと、自身の能力に対する自覚の正確さは、やはり職人としての冷静さに近いと言っていいでしょう。そして、彼女の職人芸を味わうのは極上の快感を伴った経験なのです。
 上質のケーキを頂いたような満足感と、エスプレッソを飲み終えたような軽い苦みが絶妙の後味でした。ごちそうさまでした。

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実は色々描けるんですよ照れ屋の天才による作品集

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 はるき悦巳という人は照れ屋らしく、「じゃりン子チエ」本編ではウェットな演出を行わない。同じ理由で、ヒーローヒロインも登場させない。その距離感がはるきマンガの魅力でもある。
 しかし、そんなはるき悦巳が唯一ヒーローを登場させるマンガ。それが実は「猫たち」のマンガなのである。
 「じゃりン子チエ」の名脇役である小鉄とジュニア。本編でも時々、人間たちの日常とは全く違った次元で、ささやかな活劇を繰り広げていた2匹。その2匹の、活劇のみならず恋愛話までが収録されているのがこの本である。アントニオとお好み焼き屋のオッちゃんの出会いから、チエちゃんの家では隠居を決め込んでいる小鉄が風来坊だったころの話等々。特に印象的なのは、はるき作品中唯一の、と言っていいだろう。「恋愛」がテーマの「ジュニアの初恋」だ。いつもの「チエちゃん」の屋根の上。小鉄の恋愛話を聞いてみようとたくらみ話を振るジュニア。ところが、小鉄に上手く話をかわされ、いつのまにか自分の初恋の話を始めることになる…。

「ぼくは その…」「名前がいる程の大した男やないです」

 薄幸の美猫といった趣の年上の猫に恋をするジュニア。自分を慕ってくれる彼女をなんとか幸せにして上げたい、と切望するジュニアが、健気で痛々しい。小津安二郎映画の長まわしを思わせるコマ割が、淡々とした会話の間の緊張感を静かに主張する。

「ふ… 不幸だったんですか」
「不幸っていうのかしら…」「ただシアワセじゃなかっただけ…」

 そんな会話のあと、急速に仲良くなる二人だが、初恋というタイトルからも推察できるように物語は切ないラストを迎える。特に詩的なイメージを強調するわけではないのに、哀切のこもった詩情を感じさせる話だ。
 アントニオとオッちゃんが博打場を開いていたころの話もいい。毎夜通ってくるテツに、潰されかかる遊興倶楽部。テツの顔を一切描かない演出が見事だ。そう、忘れそうになるがテツは迷惑な無職のチンピラなのだ。作者の冷静さが反映された印象的な話である。黒沢の「用心棒」のパロディーの「どらン子小鉄」(西部劇でもある痛快アクション!)を自ら揶揄した「『月の輪の雷蔵』を訪ねて」も、ばかばかしくて好き。
 「じゃりン子チエ」のみが世に知れ渡っているはるき悦巳は、実は引き出しの多い作家なのである。もちろん、独特の距離感を持ったあの個性はそのままで。様々な形ではるき悦巳の技が実感できる本書。隠れた名作としておきたい。

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東京休憩中

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「東京以外と死んでないじゃん」と、思いました。逆に死んでいる都市とは京都やサンクト・ペテルスブルグです。あの辺の街は人が生活しているから街があるのではなく、街のために人が生活しているという不健康な都市です。ひょっとすると、それ故美しいのかも知れませんが、とにかくああいう都市の観光地なんかにゆくと、「おお、死んでる」と感じます。
 東京という都市は普段人の行き交いそのものによって生きている、とイメージしていたので、人いなくなったら死ぬかな、と思っていましたがなかなかどうして、結構生きてます。「東京から人がいなくなったらどうなるんだろう」という考えようによっては攻撃的な欲望を実現させていながら、この本なかなかのんびりした余裕が漂ってます。それはやはり、ネガには写らない人間の存在が背景にある。生活感が背後に漂っているからでしょう。廃墟でも空でも人が住んでる限り街は生きているのね。何だか嬉しいぞ。
 からっぽになった風景は、街が休憩しているようにも見えます。東京の寝顔を独り占めするような快感がエロティック(?!)ううむ、不思議な本です。

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紙の本おばけのてんぷら

2002/09/14 23:58

ああてんぷら、てんぷら。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 魅力的な子供の本のための重要な要素は一つに「食べ物」にある。「食べ物」が素晴らしく描かれていればその本は7割は成功していると言っていい。
「ぐりとぐら」を見よ。あの本のクライマックスは何より、ふたを開けた瞬間にふわんと出現するカステラにある。あのカステラを見てしまった後には、現実社会長崎あたりでどんなにおいしいカステラを食べても駄目だ。「ぐりとぐら」のカステラを目に焼き付けてしまった人間の、頭の中にあるカステラ以上に美味しいカステラはおそらくこの世に無いからだ。ことほど、「食べ物」が与えるインパクトは強烈なのである。
 「ぐりとぐら」とはまた違うが、この本も「食べ物」の感動をこちらに与えてくれる。テーマは「てんぷら」だ。
 うさこちゃんは山でこねこ君のお弁当を味見させてもらい、自分で作ることにする。においにつられたおばけが小さくなってうさこちゃんの家に侵入。ぱくぱくてんぷらを食べ始めるが …。
 全部が全部そうなのかは知らないが、せなけいこの絵は大体貼り絵だ。この本も貼り絵。その貼り絵が作り出すてんぷらのリアリズムがいい。歯ごたえが口の中に浮かび上がってくるような絵は、シンプルでありながら正確。本当にてんぷららしい。いつでものんびりマイペースなうさこちゃんの振るまいが物語の縦糸ならば、てんぷらの持つ簡潔なリアリズムとその魅力は、強固に織り込まれた横糸なのである。
 うさこちゃんのてんぷらに最敬礼。まこと「食べ物」は偉大である。
 

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紙の本活字狂想曲

2002/11/28 22:35

文化系肉体労働、それが校正?

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 校正という仕事。文化の裏方という聞こえはいいが、その実体は厳しいものらしい。なんせ「正す」なんて厄介なことがお仕事なんだから、その厳しさは推して知るべし。
 奇妙な文章にいらだちを覚える著者の様子がおかしい。が、読んでいるこっちが思わず笑ってしまうのは印刷会社の間違いで何百という印刷物が紙屑になる瞬間である。著者は車のカタログの「なんとかかんとかZ」という車を「なんとかかんとか2」としてしまい、カタログを刷り直すことになったそうだ。一瞬で膨大な量の資源がゴミに! ああ痛々しい。でも、笑える。
 他に印象的だったのは「ら抜き」言葉を腹立たしく思い、チェックを入れていた著者がある日「ら、を取って」という支持に直面する瞬間だ。言葉の移り変わりに直に接し、呆然としながら、それを歴史的瞬間と評しているのがなにやら感慨深い。
 幾度も登場するこの手のエピソードの他に、会社社会の様子も読みどころだ。自ら奇人と称する著者は、社員旅行もQCも大嫌い。ずばずばその矛盾と内実を言い当てる。いや、矛盾と内実の中身そのものは、どこかで聞いたようなモノばかりだが、それを語る為の筆力が段違い。佐高信を軽妙にしたような語り口がいい。私は自宅で読み切った学生だが、通勤電車の中で読んだらどんな気持ちがするのだろう。

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紙の本究極超人あ〜る 1

2002/11/19 23:17

文化部にも青春はあるのだ

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「青春」というと、体育会系の特権のようだが、文化部にも「青春」はある。と、いうのがこのマンガのテーマというと大げさだが、まあ、キモなのだと思う。
 春風高校光画部撮影会の現場に、湖の中からいきなり現れたガクランねぼけ目の青年あ〜る。彼は実はアンドロイドで、さらに地球征服のために作られていたのだが、そんなこととは無関係に光画部では騒がしい日常が続いて行くのだった…。
 舞台は高校の写真部だが、登場人物たちが私服で登校しているせいか、何となく大学を思わせる。卒業後も遊びに来るOBや、写真を撮っているところなんぞ滅多に見られない部員たち。写真も焼かずに野球にいそしむ彼等の日常は、しかし、確かな文化部的な青春話だ。友人、先輩とばか話をしながら、過ごす毎日。毎回なにかしら起こる事件は起こるけれど、何となく日常から逸脱せずに楽しく過ぎて行く。部活の様子はそれぞれではあるのだけど、この雰囲気は確かに写真部的だ。
 この作品、悪く言ってしまうと非情に内輪的な閉じたマンガなんだけれど、高橋留美子の作品がワンダーランド=閉じた世界でぐるぐる遊び続けることを選択し続けているのに比べると、ゆうきまさみはもう少し、何というか、オトナだ。主人公たちは毎年年をとって、きっちりそれぞれ就職、進学、浪人と違った進路を選びながら卒業して行く。そういう意味でまっとうな作家だ。ちょっと珍しい。
 ゆうき節とでも呼ぼうか。独特のテンポから繰り出されるギャグはこの人ならでは。結構ドタバタやっているのに絵もギャグも非情に安定した印象を与える。似たようなギャグを書けるのはあとあずきひよこ位かもしれない。
 ここからは余談。読んでしみじみ感じるのはその80年代的雰囲気。高卒のたわば先輩やさんごが、あっさり公務員になってしまえるところや、女の子の人数比率が低いところなどか。舞台は大学ではあるが、今現在の写真部を描いた「ヤサシイワタシ」と比較するとおもしろい。女の子が多くなってくるし、就職は死活問題になる。社会の状況は大分変わっているのだ。
 学校の中にある同質の人間たちによって作られた共同体がユートピアである可能性は、この時期よりずいぶん少なくなっている気がする。それが本当にユートピアか?は置く。取りあえず「あ〜る」ではユートピア的に書かれているからだ。一概にそれが良い悪いというわけではない。しかし、この作品のまったり感はやっぱりちょっと80年代を感じさせるのだ。まあ、だから作品の面白さが下がるのかというとそうでもないけど…。
 思った以上に褒めにくい人だ…。上質な作家なのに…。文化部所属、もしくは文化部的な雰囲気が好きな人にはオススメ。

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高野文子は何を描こうとしているのか

4人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「黄色い本」が出版されたとき、マンガに関わる人たちはこぞってこの本を絶賛した。でも、それのどれも物足りなかった。みんな話すことが技術論なんだもの。「このコマ割はすごい」等。よく覚えてないが、「高野文子は何を表現しようとしていたのか」に言及する人が見あたらなかった。そういう私こそが、何が描かれているかをきちんと見定めることが出来ず、だからこそプロの批評家がどう読むかが知りたかったのだが。高野文子が見せようとしているものは「彼女が作り出した文法によってのみ語れる何か、なのかなあ」などと思ったりした。
 高野文子は特別なマンガ家だ。商業誌デビューは1979年。以来ずっと単行本発売の度に注目を集め、マンガ読みにとって重要な作家だが、単行本数は「黄色い本」を含めてわずか6冊(るきさんの文庫版を入れると7冊)。その全てが発行当時と変わらぬ状態で発行され続けている。彼女の作品は発表の度にマンガに新しい方法を与えてきた。しばしば引き合いに出される「田辺のつる」。
 一コマ目に人形。二コマ目にそれをつかむ手。3コマ目に人形を抱いてほほえむ、きいちのぬり絵のようなかわいらしい童女が出現する。読み進める内に、この少女が実は老女で、画面はぼけた老女の妄想のフィルターを通した世界であることがわかる。いつの間にか、かわいらしい童女の振るまいがどこか恐ろしく感じられる。
 「田辺のつる」はマンガ独特の視覚効果によってのみ、表現できる世界があることを提示した。常にマンガ読みにとってスリリングな快感を与えてくれる彼女は、マンガ表現の可能性そのものだったのだ。
 舞台は大正初期の女学校、開校記念祭のために歌劇「青い鳥」の準備をする少女たち。一見本当にささやかな少女の心の揺らめきが、一こまの無駄もない画面構成と、時折挿入される歌曲の導き出す流れによってスペクタクルに描かれる「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」。宇宙人と称する女性の登場によって、日常の細部がゆっくりと分解され、再生されてゆく不思議なSF?「奥村さんのお茄子」あー、きりがないぞ。
 「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」に類する西欧的などこかを舞台とするファンタジーを除くと、作品の舞台は常に日常だ。誰もが共有している、しかし、それがなんなのかは説明しがたい感覚、もしくは時間。高野文子が描いていたのはそういうものだった。誰もが共有しているんだったら、すぐに言わんとしているところはわかりそうなものだ。でも、わからないのだ。
 この本を読むと、少なくとも「なんで高野文子はわかるのに解らないのか」を知ることが出来る。大友克彦との対談での高野の言葉。「ジャックがでてきてふわっと現実から離れるシーンですよね。まず一コマ目で目がいくのはエプロンのアップリケの黒いとコロンなんですね。次に二コマ目の暖簾の黒に目がいって、3コマ目も同じく暖簾に目がいくわけですね。そうすると、二コマ目の暖簾に目がいったときに、これがこれから動きますよ、ここから誰かでてきますよ、と言う合図が送られるわけですね。さらに、人物の高さを変えることで、ふわーんと地面が浮いて気持ち悪い感じがでる」。
「(略)もう一つ言うとですね、一コマ目はパースを狂わせているんです。左端にジャックが腰掛けている机のところと、右奥の畳の部屋のところで焦点が二つあるんですね」(「黄色い本」について)。
マンガってそんなに考えて描くものだったのか!? いや、普通はやらない。でも、高野文子は三年かけてそれをやった。そりゃ、従来のマンガの読み方ではおいつかないはずだ。誰も高野文子を読めていないから、論じられないのだ。何だか申し訳なく、そして、悔しい。
 高野文子自身の言葉が、どの評論よりショッキングなこの本。「奥村さんのお茄子」の雑誌掲載版が載っていることも含め、マンガ読みにとっては絶対買いの一冊。

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そのうちブックオフで100円!とかになるんだろうなあ…

4人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 世界というものの大きさを測りかね、TVの向こうで毎日のように死んでゆく自分より不幸な人々について想像し得ない私たちのために、世界の大きさを明確に示してくれる本です。まあ、中身はいいんです。
 でも、これものすごく売れましたね? はっきり言ってそんなに売れるべき本かあ?というのが私の疑問なんですが、どうですかね。
 いきなりとんでもないこと言い出しますけど、この本買ってるお金あったらそれ直接アフガンの人にでも寄付した方がいいわけでしょ。立ち読みできるし、ネット上で受け取れるものなのになんでこんなに売れる必要があるの?
 いや何が言いたいのかっつーと、マガジンハウスという消費社会の先導者の一つだった出版社が刊行しましたね。この本。「絵本」といういつのまにか「おしゃれ」とか「癒し」とか言う訳のわからん文脈で表現されるようになったジャンルにメッセージを取り込む形で。そのことで、この本は「世界の人々を思いやるこころやさしい私を確認するためのかわいくてためになる本」になっている気がするんですけど。
 本自体の良い悪いじゃなくて、読まれ方。偽善のための良書になってない? なってるよなあ、絶対。
 それで、マガジンハウスもその売れすぎた分寄付でもすればかっこいいと思うんですが。無茶言うなって? ううむ、確かに無茶ですね。会社だもんなあ。でもやる人もいるんですよ。「サブカルチャー反戦論」を見よ。
 そういえば5月に東京ブックフェアに行ったときに、「世界が100人」のテーマソングを歌ってる歌手のミニコンサートみたいなのがあって(記憶のみで書いているので詳細はあやふやですが)あれはちょっとしみじみかっこわるいなあと思いました。
 まあ、そんな感じで。             

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紙の本女には向かない職業

2002/10/08 00:21

いしいひさいち最強ヒロインの活躍、ここに集約!

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いしいひさいちのキャラクターの中でダントツに面白いのはナベツネと藤原先生だと思う。で、ナベツネはモデルがいるが、藤原先生はいしいひさいちのオリジナルなので彼女がいしいキャラのNO.1だ。
 もともと推理ものや、「ののちゃん」の脇役としてちょこちょこ作品に登場し、そのたびにメインキャラのお株を奪う活躍ぶりを見せてくれた彼女。その彼女の破天荒ぶりが一冊にまとまった。酒呑みで、推理小説家で、元小学校教諭の藤原先生。先生はいつでもどこでも同じだ。小学校も二日酔いで行って生徒に心配されるし、作家になってからは、酔っぱらってペコちゃんの立ちんぼ人形を持って来ちゃったりする。現実社会でもマイペースな人間というのは笑いを誘うものだが、彼女くらいになるともはや尊敬の域に達する。酔っぱらったときの為に玄関すぐ前にベッドが置いてあるのだって、見合い写真に小学生並みの落書きして気分転換するのだってこの人の場合は武勇譚の一環なのだ。「1P一笑」のこの本、買いの一冊です。

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「わからないなにか」という恐怖

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「ホラー映画の基本はハッピーエンド」という言葉を聞いた。なるほどである。恐怖の正体が最終的に暴かれることになっているから、みんな見に行けるのか。私なんかそれでも怖い思いはしたくないから、見たがる人たちが不思議だ。
 が、しかし、そんな私がなぜか持っているこの本は、いわゆる「ホラー映画」とは比べものにならないくらい怖い。この本の恐怖は「正体の分からないなにか」がそっと、しかも唐突にすり寄ってくる種の恐怖なのだ。
 4本の短編が収録されているこの本。その内の1編。財産目当てで富豪の娘と結婚した男が、海難事故に遭い彼女を見捨てて殺してしまう「ネジの叫び」。これだけが“そんなに”怖くない。復讐されるのは彼女を騙した男だけ、だからだ。絵もラストもぞっとするけど、眺めていられる怖さだ。
 しかし、残り3編はそんな余裕を与えてくれない。特に「わたしの人形は良い人形」。これは本当に怖い。割り切れない念というのがそこにあるからだ。物語は戦後すぐの東京から始まる。一人の少女がジープに当たって死んだ。少女の友達の母親は、死んだ少女が安らかに往けるように、と市松人形を供養に捧げる。死んだ少女の追突を知っていたのに、報せるのを忘れていた罪悪感からだ。しかし、残された女の子も死んだ少女に呼ばれるように事故死してしまい…。
 最初に死んだのは一人の女の子。そして、その友達の女の子。妙な言い方だが、普通は死ぬのはこの二人だけで済むはずなのだ。直接の因果関係があるのはこの二人のみだからだ。しかし、人形に乗り移った怨念は読者の想像を超えて不条理に暴走してゆく。物語の終盤、登場人物たちが怨念の正体を知る段階になっても、その不条理さはそのまま恐怖として残る。
「人形にとり憑いているのはその二人であって/もはやその二人ではないんだ」。
 怨念のみの力によって動き回る人形。それまでそっとすり寄ってきた人形が、その正体を現すがごとく飛びかかってくる瞬間のコマは、本当に心臓が凍り付く。山岸涼子の重さを感じさせない描線と白い画面構成が、かえってこちらに逃げ場のない恐怖感を与える。これを読んだ直後は、全ての人形がなにかしらの念につきまとわれているような妄想に駆られたものだ。
 ところが、「わたしの人形は良い人形」はそれでもエンターテイメントとして読むことが可能な作品なのだ。
 「汐の声」これは怖いなんてものじゃない。おそろしい。霊感少女タレントとして売り出し中の17才の少女サワ。両親から全く自立できていない彼女は、取材先の屋敷で奇妙な子供の幽霊を見る。が、“それ”が見えるのは彼女一人で…。
 子供の影が少しずつ少しずつ明らかになってゆくその過程はもちろん怖い。しかし、真に恐ろしいのは彼女一人に幽霊が見える理由。血の気が引く…。そしてあのラスト…。二重三重の恐怖が絡まったこの作品は、恐怖というのは人間自身が生み出すものなんだということを自覚させる。って、こんな言い方じゃこの作品を評するに正しくないのだあ! 力及ばずで作者に申し訳ない。それはともかくとして、
 本当の恐怖というのはその不条理さ、いや「わからなさ」によって恐ろしいというのが実感できる、本当に怖い本です。

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紙の本サブカルチャー反戦論

2002/07/15 02:37

9月11日からずっと私たちが曖昧にしていた事柄について

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 感傷的、かつ個人的な話から始める。
 2001年9月11日の夜、私は芝居を観ていた。演目は坂手洋二作・演出「ブレスレス」主演の柄本明が、都会のゴミの山の中で暮らす新興宗教の教祖を演じていた。時代の変化か、役者の力量か。主題がぼやけてしまったような半端な印象を残す芝居だった。釈然としない気分で劇場から帰ると、「目の前で起こっていることが理解出来ない」事件が起こっていた。次の日、図書館で何冊かの本を読んで気持ちをいくらかでも整理しようとした。が、何にも分からないまま、家に帰った。
 自分の頭ではとても考えることすら追いつかないのでは、という気にさせられる事件。坂手洋二も柄本明も自分たちのやっていることの意味を問い直さずにいられなかっただろう。あの後も続いた公演はどうなったんだろうか? そして、私も考えなければいけなかった。しかし、問いに対する答え、考えに対するヒントを私たちの前に誠実に明示してくれた人間が、あのとき一体何人いたのだろうか? 記憶する限りでは、かなりの数の人が口を噤んでいた。「戦争反対」でも「賛成」でもない、意見表明の無い感傷的な文章。政府の思慮の浅い決断を糾弾しないメディア。
 私には当時、「自分が失望していた」という自覚はなかった。それより混乱に巻き込まれずに考えるには、一体どうすればいいのか、それを漠然と追っていた。
 しかし、この本を読んで気付いたのだ。私は、あの事件の後、混乱した社会に何のヒントも与えられない識者と呼ばれる人たちに失望していたし、政府に寄り添って、「戦争反対」という言葉をまるで時代遅れの叫びのように受け取らせてしまったメディアに対して悲しんでいた。
 この本が私にそれを気付かせたのは、この本の著者が「戦争反対」という一つの意見をきちんと明示していたこと。そして、物書きとして、彼の表現するところの「あなたたち」に対してまさしく語りかけたことによる。自身のアニメ誌での連載小説を勝手に差し替えての同時多発テロ評論。それには「これは多分、たった今、君たちがきちんと考えておく必要のある問題だからだ」とある。
 そう、あの事件は考えるべき問題だった。しかし、その事実を考えるべき世代の人間に伝えた物書きは、「『文学』はいかに戦争を語らなかったか」というこの本の章で証明されているように、ほとんど存在しなかった。物書き、メディアと呼ばれる世界の人間の不誠実さに、私は怒っていたのだ。この本で著者は、何度も同じことを繰り返し話す。若者には「戦争について考えろ」、物書きと呼ばれる人々に対しては「どうして語ろうとしないのか」そして、「戦争をしてはいけない」。
 あまりに当たり前の事じゃないか。どうしてみんなそれ位のことすら口に出してくれなかったんだ?
 この本は読まれるべき本だ。こういった強制的な言い方はかえって本に対する興味を失わせることがあるし、何より「大きなお世話」感がまとわりつくので使いたくないんだけれど、でも、そういう本だ。
 著者が受け取ることになる印税は全額NGOに寄付されるという。その、あまりに優等生な決意だけでも評価して欲しい。
 この本を買って、手に取ってくれ。

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紙の本全日本食えばわかる図鑑

2002/05/25 01:23

海外旅行のポケットに

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 友人に「椎名誠のエッセイではこれが一番だと思うね」と言ったら、彼は「うん、俺海外旅行に持ってって、日本食恋しくなったときに読んだ」と言う返事が返ってきた。 
 そ、そうかそういう使い方があったか。なんかくやしい。気付かなかったぞ。しかし、彼の使い方はきっとこのほんのスバラシサを再確認させてくれるはずだ。この本ほど全編食欲を誘う本を私はまだ知らない。
 ここに出てくる食事はその全てがありふれたものだ。カツ丼とかおにぎりとかラーメンとか、いつも食べているもの。しかし、だからこそこの本は圧倒的な共感を誘う。おいしさが分かり易い。おいしく食べてる作者がうらやましい。まず椎名さんの情熱もばかばかしいほど並じゃなくてかっこいい。東海林さだおさんとの、究極のラーメンを作る話なんか、無意味に真剣だ。その無意味さがうらやましい。
 夕飯の残りの活用法とか、ただしいのり弁の思い出話とか、中国のお粥の話とか、作者の愛情がうれしい。
 でも、私が個人的に一番笑ったのは、ある日雑誌記者の人から電話がかかってきて、グルメなことなんか全然知らないのに相手の女性がとてもしっとりしたいい声だったので、電話を切りたくないな、と思ってしまったら…、と言う話だ。なんだかとってもアホっぽい椎名誠がおかしい。沢野ひとしの絵も一番脂がのっている(つまり一番おかしいときということだが)。彼の描く、あのじっとーとした目のお兄さん。お兄さんが一番元気な、つまり変な時期の絵はここに集結している。椎名・沢野の楽しい共作としても、これはスバラシイ本なのだ。

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紙の本行くぞ!冷麵探険隊

2002/10/29 22:02

ショージ君旅に出る。ショージ君いつも通り。

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 東海林さだおが旅に出ました。食べ物探険です。盛岡、ハワイ、寿司食べ放題、讃岐、小樽、博多、アフリカ・ケニアと、行き先はさまざまです。讃岐ではうどんを食べ、小樽では「慇懃無礼」で名高い(?)寿司屋に行き、博多でフグの肝(ちょっと毒が残っているそう)を食べ、屋台をはしごし、白濁でギトギトのラーメンを食べて同行者と感激を分かち合う東海林さだおはとてもいつも通りです。
 旅に出ると突然、哲学者になったり宗教家になったりする人たちもいますが、そういうところはゼロでした。ハワイでのショージ君は「ディナーにビールがない」ことを嘆きます。ケニアでは、ごろごろ寝ているのに雌がエサを取りに行ってくれるライオンの雄をうらやみます。その感覚を、スケールが小さい、と表現することも可能でしょう。でも、東海林さだおのすごいところは、そういうささいな実感を楽しく演出することで、日常や身の回りの新しい楽しみ方を発見させてくれるところなのです。だから、どこに行っても気負うことなく、いつも通りの視線でモノを見ている作者はかえってかっこよい気がします。それは、どこに行っても同じように楽しむことが出来るということだからです。
 ハワイで観光客用のピストル打ち場に行き、締めに「鍋焼きうどん」を食べるショージ君。そこでの会話が私は何となく好きです。
「ピストルをぶっ放したあと鍋焼きうどんという流れは…」
「きわめてハードボイルドだと思います」。
 かっこいいですねえ、やっぱり。

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紙の本プーチン、自らを語る

2002/09/05 13:10

素材としてのインタビュー集

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 プーチンの大統領就任は2000年5月7日。当時の「Putin who?」と言う世界中の人間からの質問に答えるために、ロシアで出版された本がこれだ。プーチン本人のインタビューで構成された本書は、必ずしも彼の実像を正確に伝えるものではない。解説の「『民主的』な手続きを踏んだプロパガンダの書」と言う表現が適切な、彼自身のある程度の計算に基づいたインタビュー集である。
 貧しい少年時代から、KGB時代を経て、大統領就任までの経過をかなり事細かに返答している。彼の家族や友人のインタビューも時折挿入され、彼の人間的イメージを具体的に想像させる記述も多い。プロポーズの経過から、スポーツやペットに関することまで。登場するエピソードをストレートに受け止めていると「プーチンって魅力的だな …」なんて思ってしまうかもしれない。彼の口の旨さには本当に感嘆させられる。この表現力も外交の強さの一端をになっているのだろう。
 この本のインタビューアはしかし、時に彼に対してかなり厳しい詰問を浴びせる。特に、チェチェン紛争の悲惨さを報道してきた“反政府的”ジャーナリスト・バビツキーに関する対話は興味深い。それまで冷静に自身を紳士的人物として表現してきたプーチンがチェチェンへの憎しみを隠さず、強硬な政策を全面的に肯定している様子を見ると、なるほど「彼が全体主義体制を復活させるのでは」と考えたロシアのマスコミや、各国の専門家達の疑念も理解できる(「彼は悪党どものために働いてきた」等、過激な発言を隠そうとしない)。
 インタビューから読みとれること以外にも、プーチン自身によるロシア社会への認識と、政治姿勢に関する記述もある。ヨーロッパ社会、具体的はNATOへの関わり方、大企業と国の関係、中央集権的な権力機構と地方との関係、他の政治家との関係、経済政策。ただし、この時点では目標に対して彼がどう対処するかはわかっていないので、あくまで指針を説明しているに過ぎない印象が強い。
 しかし、上記した不足は本書の価値を下げるものではない。この本はあくまで素材なのだ。インタビューとモノローグと、プーチンの簡略なレポートのみ、というシンプルな構成から何を読みとるか。この本はむしろ個々人のリテラシーを問う。疑念を抱かせる応酬や、今後の政策の方向についてはこちら側がある程度の知識と読解力を持たねばその真意を推察することはかなわない。
 大統領就任から2年が経過したが、プーチンの今後、いやロシアの今後を考える上でこの本は未だに重要な素材である。彼の発言の真意も、ロシアの未来もまだまだ明らかにならないからだ。

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紙の本ニッポンの猫

2002/07/31 23:07

猫がのびる

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 乏しい経験であるのを承知で、私の経験から言わせていただくと、猫の写真は彼等がこちらを意に介していないときの表情が一番猫らしい。
 それはこちらの存在に気づいていないとき、攻撃を仕掛けられない、仕掛けてこないだろうと言う確信のあるとき、寝ているとき等、まちまちである。共通しているのはそういった表情を撮るのが容易ではない。撮り貯めるのも容易ではないことだ。
 猫は絵になるし、どこにでもいるから誰もが撮る。商売になるから本もたくさんある。しかし、彼の作品はそういったアマチュアの「猫満足」や、商業主義的な「ネコちゃん」のイメージから抜け出ている。それは、おそらく氏の写真のあり方が正しく写真家だからだろう。
 岩合氏の写真は割とのんびりとした「縁側の猫」というイメージを喚起させる物が多い。それは氏の心のあり方と、動物写真家として大事な、相手に緊張を強いない存在の仕方を想像させる。そうやって、日本の風景ともに写し込まれた写真には、通りすがりの人間が通りすがりの猫を撮らせていただいた、という敬意が感じられる。
 写っているのは猫だけでなく、猫のいる風景そのものである。夕方、影がのびやかに長くなってゆく写真には、日本という土地の季節の表情、時間の表情がやわらかに盛り込まれている。
 「ニッポンの猫」に写っている猫が愛おしいのは、そこに日本という国の時間をのびやかに生きる猫たちに対しての、ちょっぴりの羨望とそこはかとない敬意が感じられるからである。スタンダードでありながら、今のところオンリーワンな写真集。

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