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北祭さんのレビュー一覧

投稿者:北祭

114 件中 31 件~ 45 件を表示

努力の伝説

14人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本多静六翁は、慶応二年、埼玉県の片田舎に生まれ、十一歳のときに父を失い、百姓や米搗きをしながら苦学、十九の春に東京山林学校(東大農学部の前身)に入学した。ところが、第一期試験に落第、悲観して古井戸に投身したが死に切れず、思い直して決死的勉強の末、優秀な成績で卒業。その後ドイツに留学、わが国最初の林学博士となり、帰国後、東京帝大農学部の助教授となる。日本の林学の父とうたわれ、その著書は三百七十冊余り。国家公園事業に尽力するなど、多大な功績を残している。
 ここからが凄い。本多静六翁は、東京帝国大学教授として教鞭をとるかたわら、独特の方法で蓄財に励み、やがて東京・淀橋区の最高多額納税者になるほどの巨富を築くのである。そして停年退職のときに、その財産を匿名で公益のために寄付してしまい、もとの貧乏生活に戻る。伝説の億万長者といわれる所以である。(渡部昇一著『読書有訓』p150に拠る)

 実業之日本社はこのたび本多静六翁による人生訓の名著三作(『私の財産告白』『私の生活流儀』『人生計画の立て方』)を新しい廉価装訂で復刻した。本書は、本多翁が八十六歳でこの世を去る前年に書かれた一冊。本多翁は自序でこう語りかける。

<いまここに、長い過去をかえりみて、世の中には、あまりにも多く虚偽と欺瞞と御体裁が充ち満ちているのに驚かされる。私とてもまたその世界に生きてきた偽善生活者の一人で、いまさらながら慙愧(ざんき)の感が深い。しかし、人間も八十五年の甲羅を経たとなると、そうそう うそいつわりの世の中に同調ばかりもしていられない、偽善ないし偽悪の面をかなぐりすてて、真実を語り、「本当のハナシ」を話さなければならない。>

<ことに財産や金儲けの話になると、在来の社会通念において、いかにも心事が陋劣(ろうれつ)であるかのように思われやすいので、本人の口から正直なことがなかなか語りにくいものである。金の世の中に生きて、金に一生苦労しつづける者が多い世の中に、金についての真実を語るものがない少ないゆえんもまた実はここにある。
 それなのに、やはり、財産や金銭についての真実は、世渡りの真実を語るに必要欠くべからざるもので、最も大切なこの点をぼんやりさせておいて、いわゆる処世の要訣を説こうとするなぞは、およそ矛盾もはなはだしい>

 本多翁は、素寒貧の身から如何に財産を積んでいったのか、その顛末をざっくばらんに披露する。ここで書いておきたいのは、本多翁の蓄財の動機である。本多翁は学生時代、ひどい貧乏生活によって苦痛と屈辱をなめさせられたのだという。そこで「なんとしてもこの貧乏生活から脱却しなければ、精神の独立も生活の独立もおぼつかない」「経済上の安定なくして精神の安定なし」と考え「貧乏征伐」の決意を固める。この「貧乏征伐」という言葉が心に強く響く。

 そして、本多翁がまずはじめに行なったのが<本多式「四分の一」貯蓄>である。月給その他の決まった収入の四分の一を何がなんでも貯金するという手法。本多翁はいう。

<何人も「貯蓄の門」をくぐらずに巨富には至り得ない>

 平凡である。しかし、平凡なゆえに、「蓄財」の結果よりも、そのために必要な「不断の努力」という精神の尊さが浮びあがる。

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思想の本籍を問う

13人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『皇統廃絶』を初級とすれば、中級にあたる続編の登場である。旧皇族の方々に皇籍へ復帰をしていただけさえすれば、今まで通りに何の問題もなく皇位継承を護持できる。それなのに、それゆえにか、伝統の道を塞ぎ、あえて女性天皇・女系天皇を立てて皇室を自然に消滅させようと目論む者がいるという。中川八洋氏は、皇統について書かれた報告書や書物をひも解く際には、その執筆者の思想の本籍、すなわち皇統の護持かそれとも廃絶か、を知っておくことの重要性を説く。

 本書には、皇統の廃絶を狙う人たちが随所にリストアップされている。その人たちが書くものには、おしなべて共産主義が顔を出すようである。その恐ろしい思想の末路は歴史が証明している。人間性の本質や古い信仰への無理解と、歴史や伝統の否定がその思想の特色でもある。歴史の流れを断ち、未来を自分たちだけで決めようとするその身勝手で傲慢な態度は、先人たちが経験によって培ってきた叡智を無視するだけに留まらず、子孫に伝えるべき選択の自由をも摘み取ってしまうものである。

 中川八洋氏のみるところ、皇室典範有識者会議の座長の吉川弘之氏とは、計画政治という妄想の持ち主であるという。文明の自由な社会を、人知で計画的に創造できるという思想である。吉川氏は東大在学中の四年間、民青に所属し、その書記局員としてリーダーだったとの噂があるともいう。
 
 また、座長代理の園部逸夫氏は、無神論者として極端な反宗教、反神道の人物。名うての天皇制廃止論者であるらしい。その園部氏は『皇室法概論』という書物に「天皇制の自然消滅」を確実にする数多の学説を集大成している。それをそのまま援護しているのが有識者会議の提出した『報告書』であったというのだ。

 このような反神道の人たちが、皇室のための重要な会議に有識者として出席してよいものだろうか。それは論外であろう。潰そうと考えている人たちに、永続の道を託せるわけがない。その反神道の人たちがこぞって謳い上げるのが女性天皇・女系天皇容認論なのである。そこに隠された罠、その真意を、中川氏は引用文や参考文献によって浮き彫りにする。

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読書を否定し名著となる

13人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「天は自ら助くる者を助く」

 この格言から幕を開ける本書は、明治四年に『西国立志編』として翻訳出版され、当時の青年に広く読まれた名著である。
 独立自尊を呼びかける本書は、自助の精神、忍耐、仕事、意志と活力、時間・金の知恵、自己修養といった命題について語る。古今東西の優れた偉人の生きかたや残された言葉を引用した知恵の宝庫ともいえよう。とくに「勤勉」の重要性を力説する。とぎれることのない努力。
 そして、「人生の最高の目的は、人格を強く鍛えあげ、可能な限り心身を発展向上させていくことである。p.179」と喝破する。昔から我が国では「勤勉」が美徳であった。明治の青年が奮い立ったのも頷ける内容である。

 しかし、ひとつ気になる点がある。“活字文化に対する痛烈な批判”である。

「活字文化の重要性は、いささか誇張されすぎるきらいがある。p.197」

 これは一見穏やかでない。俄かに心の隅では「異議あり」との小声が疼く。

「いくら万巻の書物を読もうとも、それは酒をちびちび飲むような、知的たしなみにすぎない。その時は快適な酔い心地をあじわえるものの、少しも心の滋養にはならないし、人格を高める役にも立たない。p.197」

 ここまでいうのである。
 しかし、そういう本書も何あろう立派な書物である。著名とはいえ、普段から本を読まない人が偶然に紐解くたぐいの書物ではない。しからば読者は多くの書物を読む中で、本書に出会い、この文章に行きつくはずである。そして今まさに取り組んでいる「読書」という行いを、唐突に完全に否定されるのである。これは何としたことか。

 ずばりいって、この矛盾をものともしないところに、本書が今日まで生き残った稀なる書物になった理由があるのではなかろうか。
 著者は高らかにいう。「最高の教育は日々の生活にある」「他人の思想を鵜呑みにしてはならない」「知識の量より知識を得る目的のほうがはるかに重要である」「本など読む暇があったら、とにかく一生懸命働いて節制に努め、人生の目的をまじめに追求せよ」
 この本を閉じた瞬間から、ふり返らずに立ち上がり「勤勉」なる精神のもとに日々修養に励まなければならない。そして、友に語ろう。“面白い本があるよ”と…。

 あえて読書をばっさりと否定するところから始めるこの「潔さ」が本書の迫力を強め、ために読者を増やしていくというこの逆説。ねらったにしては出来すぎである。

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紙の本内田百間集成 9 ノラや

2006/03/26 23:38

涙は心が流すもの

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 ある日のこと、内田百閒先生の自宅の庭にいついた野良猫が子猫を生んだ。その中の一匹に、なんとなく御飯をやるうちに、その子猫がすっかり百閒夫婦になついてしまった。そこで、本来猫には何の興味もなかったけれど、追っ払うのも可哀想なので、野良猫のまま飼うことになった。飼う以上名前があったほうがいい。野良猫だからノラと名付けた。

 飼い始めてみると、百閒先生、ノラが可愛くなってしょうがない。ノラの一番の好物は、寿司屋の卵焼き。そのよろこぶ様子ったらない。魚屋から旨そうなアラをもらったなら、まずはノラのために薄口で煮てあげる。余ったアラは濃口にして自らの食卓へ。万事そんなふうで、いつもノラの好物を一番に考える始末である。寝ているノラに顔を寄せては「ノラや、ノラや、ノラや」といいながらその背中をさすってやる百閒先生。

 ノラが二度目のさかりを迎えた三月二十七日のことである。ノラはいつものようにそわそわと外に出ていったのだが、不吉なことに、その夜は肌が凍るほどの雨風となる。そんな中、必ず帰るはずだのに、一晩まってもノラが帰らない。ノラが、帰ってこない。

「三月二十九日 快晴夕ストーヴをたく。
朝になつてもお天気になつても、ノラは帰つてこない。ノラの事で頭が一ぱいで、今日の順序をどうしていいか解らない・・・。

「三月三十一日 快晴風吹く。
 今日も空しく待つて又夕方になり薄暗くなつた。気を変えようと思つても涙が流れて止まらない。ニ十八日以来あまり泣いたので洟を拭いた鼻の先が白くなつて皮が剥けた。

「四月十一日 雲 風吹く。
 書斎の窓を開けてノラやノラやと呼んで見る。さはさはと風が吹くばかりでノラはゐない。夜が更けて、もう寝なければならない。寝る前になるとノラがゐないのが堪えられなくなる。今頃はそうしてゐるのだらうと思つて涙が止まらない。

「五月四日 快晴午薄日午後半晴。夕ストーヴをたく。
 夜家内にノラが出て行つた三月二十七日の事を更めて聞き、今日は三十九日目だから或はもう帰らぬのではないかと云ふ事も考へなければならぬかと話し合つて泣いた。

「五月七日 雨。
 晩の食膳で、確かにノラが鳴いたような気がしたと思つたら、一両日前から咽喉に障害があつて、風邪気味で、喘息が起こりかけてゐる、その咽喉の音であつた」

 百閒先生の涙は止まない。八方手を尽くしてみても、ノラは見つからない。何ヶ月経っても、ノラは帰らず、百閒先生の涙は止まない。

「ノラやノラや、お前はもう帰つて来ないのか・・・」

 ノラは、百閒先生の心の一部分を持ち去ってしまった。そうして、ぽっかり空いた心の傷からこぼれる涙を止められない百閒先生。日々、悲しくて読み返すことのできない日記を書き連ねつつ、時は行き過ぎてゆく。

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人の情(なさけ)に導かれ

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 執筆論というタイトルからまず始めに想像したのは、文章作法とか文章読本の類であった。ところがそれはとんだ早とちり。この本には、谷沢永一氏がこれまで上梓してきた『紙つぶて』や『人間通』といった著作を執筆するその過程で得た編集者との絆や、骨を折ってくれた人たちへの忘れ難い思いがこもった執筆の歴史が綴られている。谷沢永一氏はいう。そのような自分自身の経験を、ありのままに要点をかいつまんでゆくことで、おのずから生じた心持ちの舵とり工合、つまり呼吸と勘所と気合いを読者に読みとっていただきたいと。

 はたして、誰もが成功する執筆の方法論などあるものだろうか。たとえば、美学という言葉があるけれど、もし本当に、いつでも誰にでも美を創造できる方法があるのだとしたら、美とは何とつまらないものになることだろう。あるいは、小説家のこころの内を読み解く方程式があったなら、小説など新聞よりもつまらなくなること請け合いである。ことほどさように、方法論は、その対象に秘められた不可思議な美と趣を消し去るもののようである。じつは、文章作法の類を読んだあとに残る味気なさの理由がここにある。思えば、そのことを誰よりもよく知っているのが谷沢永一氏なのであった。というより、そのことを教えてくれたのが谷沢永一氏であったというべきか。

 谷沢永一氏が語る執筆の勘所を二つあげておきたい。

 一つは、多数の各方面にわたる人の情(なさけ)によって機会を与えられ優しく導かれたことである。人の情を得ずして人が生涯を送ることなどありえない。文章を書く勇気、本を出版できる幸運、それらはすべて、人と人とのつながりから生れる。谷沢永一氏は、幸田露伴の言葉を引いている。「人は相憐み相愛しては生き、生きては相憐み相愛し、相憐み相愛せずして損つるに至りては死し」而して「風止みては火おのずから滅えんとし、雨と遠くしては草ようやく枯れんとす、愛のある間にのみこそ人の世はあるべけれ」

 二つは、つねに、そのときの気分に合う本を探して読んできたことである。谷沢永一氏は、ある人から「あまり天才の名作ばかり読んでいると、知らぬ間に気が挫けて臆病になり、結局は何も書けなくなるよ」と訓されたのだという。以来、名文至上主義から脱却。自分は名文家でも天才でもない。大切なのは、人に理解してもらえる文章を書くことだろう。そのためには、これまで人に読まれてきた書物から教わる必要がある。天下の名文何するものぞ。遠慮も気兼ねも一切無用。自分が名著と思った本が名著である。読書こそは栄養素。それが執筆の要であるとは、さすがに稀代の読書人・谷沢永一氏らしい言葉であった。

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反日と戦い抜く覚悟

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者は横浜に生まれ、慶応義塾大学で東洋史を学んだのち、ソウル大学師範大学国語教育科に学び、韓国で日本語講師を六年間務めた経験をもつ。中国韓国北朝鮮が好きで、李氏朝鮮の儒家文集をかき集めたり、北朝鮮の党機関紙『労働新聞』なるものを何十年も読み続けたり、はたまた韓国の映画ビデオやCDを集める趣味をもつほどの東アジア愛好家であるらしい。最近まで日韓歴史共同研究委員会のメンバーでもあった。このような著者の東アジア政治思想の研究における視点は、右左に傾くことのない水平なものである。「朝鮮植民地、日中戦争、この二つははっきり言って侵略です」と言い切るのだからその点は察しがつくであろう。

 「東アジアに対する愛情と熱意にかけては人後に落ちない」という著者は次にこう言葉を続ける。「いかんせん最近の中国韓国北朝鮮の行動はあまりに見苦しい」と。なぜ、侮日なのか。なぜ、反日を国是とするのか。著者は、その反日の構造を新書という限られた枚数の中で理路整然と読み解いてゆく。

 論考の柱は、中国の中華思想、韓国北朝鮮の小中華思想とナショナリズム、さらに深いところにある民族の思想、社会主義が機能しなくなったがために新たな近代化へ向けて歩みを進めようとする国としての苦悩である。問題の根源は、中国韓国北朝鮮の中にある。日本は、仮想敵となった己を自覚し、これに毅然として立ち向かう必要があると説く。著者は自問する。東アジア諸国の伝統である中華思想によってお互いのプライドを傷つけあうというような、国家理性の欠如した情況を精算し、他者を尊重しつつ自らの国家の尊厳を守ってゆくことができないものかと。

 本書の付論には靖国神社への思いが綴られている。日本と東アジアの間には霊魂観の大きな相違があるという。日本においては、神道にせよ、仏教にせよ、その根本精神は「祓う」ことにある。霊魂の穢れは祓うことができ、宗教すらも無化してしまうのだという。岡本太郎が『沖縄文化論』の中で「日本人の血の中、伝統の中に、このなんにもない浄らかさに対する共感が生きているのだ」と語ったことを思い出す。

<ここには、高橋哲哉さんが『靖国問題』(ちくま新書)で発散しているような「憎しみ」は存在しない。同書中に、「靖国の論理は(中略)、その悲しみを正反対の喜びに転換させようとするものである。靖国の言論は戦死の美化、顕彰のレトリックに満ちている」とあります。「靖国の論理は、この『当たり前の人情』である悲しみを抑圧し、戦死を喜びとして感じるように仕向けるのだ」と。これはおかしい。「祓へ」は、こういうものを無化することですから、これでは無化にならない。これでは神道の意味がない。要するに憎しみや悲しみ、そういったものを祓ってしまう。喜びだって祓ってしまうのですからね>

 そのとおりである。神社へお参りにいき、本殿の前に立つときの心情には、およそ憎しみとか喜びといったふうな喜怒はふさわしくないものである。そこに哲学は無用であろう。昔から日本人のこころにある、ものの哀れや哀悼の念。その霊魂観を、東アジア諸国の人たちに、たとえ頭の中だけにもせよ理解してもらうために辛抱つよく伝えてゆくことの大切さを著者は説いている。

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紙の本超バカの壁

2006/01/24 00:05

ホンネで答える

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 養老さんは『バカの壁』『死の壁』を出版してこのかた、いろいろな相談を受けるようになったのだそうです。本書は、そうした質問を編集部の人がまとめて、それに養老さんがホンネで答えたもの。全十二章、読みきりです。
 第一章は「若者の問題」と題され、若者の凶暴化、ニート、個性などについて語られます。ニートやフリーターが増えていることは現代の大きな問題です。現状に満足せず、何かを求める若者達。ある調査によれば、働かないのは「自分に合った仕事を探しているから」という理由を挙げる人が多いとか。しかし、「これがおかしい」「二十歳やそこらで自分なんかわかるはずがない」という養老さんは、さらに続けてこう語ります。
「仕事というものは、社会に空いた穴です。道に穴が空いていた。そのまま放っておくとみんなが転んで困るから、そこを埋めてみる。ともかく目の前の穴を埋める。それが仕事というものであって、自分に合った穴が空いているはずだなんて、ふざけたことを考えるんじゃない、と言いたくなります」
 養老さんは想像でいっているわけではありません。自らの経験から出た言葉です。解剖という仕事は、死体の引き取り、研究室での解剖、お骨を遺族に返すまで全部含まれるといいます。それのどこが私に合った仕事なのか、そんなことに合っている人間なんているはずがない、そういうのです。だいたい、養老さんは大学院を決める時にジャンケンで負けて解剖にいったという逸話があるくらいですから。始めはそんなものでしょう。ともかく、解剖という仕事が社会に必要であってそういう穴がある。それを埋め、がまんして一生懸命やっていれば社会が大学を通して給料をくれるんだと。
「合うとか合わないとかいうよりも大切なのは、いったん引き受けたら半端仕事をしてはいけないということです。一から十までやらなくてはいけない。それをやっていくうちに自分の考えが変わっていく。自分自身が育っていく。そういうふうに仕事をやりなさいよということが結論です」
 自分の考えはどんどん変っていく。そこが肝心なところです。養老さんは、ある講演会でいっていました。モノを作るわけでもない解剖という仕事を一生懸命にやって、いったい何が出来上がるのか。。。それは自分自身なんだと。仕事というものの本質をついた養老節でありました。

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実像に迫る資料批判

12人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 支那事変が勃発した昭和十二年、日本軍は上海を激戦の末に占領したのち、国民政府の首都「南京」に進軍した。首都を落とせば戦争が終る、「終らせたい」という一念のもと、長雨による泥沼のなか一分一秒を惜しむ必死の強行軍であったといわれる。昭和十二年十二月十三日、ついに首都「南京」は陥落。しかし、戦争は、終らなかった。

 南京陥落後、日本軍による三か月間にわたる軍事占領期間に「南京大虐殺」があったとされる。戦後、南京で行われた国民政府国防部戦犯軍事法廷では三十万人以上の中国人が殺害されたと判決、東京での極東国際軍事裁判では十万人以上であったと認定されている。

 本書は、その判決書の内容の分析、証拠資料の整理を行い、どのような論理の積み重ねで「南京で大虐殺があった」と認識されたのか、それを「常識」で捉えなおす試みとなっている。

 「南京大虐殺」について、まず知りたかったのは次の二点であった。

1.裁判での証拠資料はどのようなものであったのか。
2.遺体の処理はどうしたのか。

 これらの点について本書にある情報は次のようなものである。

1.「南京事件」を世界に最初に知らしめた資料に、マンチェスター・ガーディアン特派員のティンパーリーが著した「WHAT WAR MEANS:The Japanese Terror in China(London,1938)」というものがある。この資料は、裁判開始の前提となり、これを維持する基本的枠組みとして機能し、重要資料として「判決書に特筆された」ものであったという。裁判当時は、ジャーナリストという第三者的立場からの告発であると見なされていた。
 しかし、本書によればティンパーリーとは実のところ国民党中央宣伝部顧問であった。

2.日本人の遺体は日本人によって、中国人の遺体は中国人によって手厚く埋葬された。判決書によれば、「大虐殺」による遺体埋葬の事実は、中国による「敵人罪行調査報告(略記)」に基づき、紅卍会による埋葬数が43,071体、崇善堂による埋葬数が112,266体であると裏付けられる。この厖大な遺体の数が裁判の決め手となったようである。
 崇善堂提出の埋葬統計表によれば、一月から三月までが7,549体、四月の一か月で一挙に五十倍の104,718体になっているという。埋葬された地名は記されていない。著者が調べた当時の報道資料によれば崇善堂の自動車所有台数は1台に過ぎなかった。

 「南京大虐殺」は無かったと著者は捉える。

 しかし、南京市西北郊外の幕府山一帯で降伏した二万人近い戦争捕虜の処刑が行われた可能性は否定されていない。食糧が無かった。餓死と隣り合わせの究極の選択。兵站線の確保を重んじない日本軍が招いた悲劇の実体とはいかなるものであったのか。

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直なる戦争の語りべ

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 著者(おじいちゃん)は、長野県更埴市で生まれ、陸軍士官学校に学ぶ最中に終戦を迎えたという。厳格教育の極致を経験し、敗戦の絶望に苦しみ、そして立ち上がり、アサヒビールで日本経済の復興に尽力、現在は名誉顧問という地位にある。

 ある日、著者のもとに、アメリカのマスターズ・スクールに通う孫娘(景子)から一通の手紙が届く。その手紙には、「戦争に関する質問状」が同封されていた。…著者は、うなった。
 現在、日本の学校教育の場では、近現代史については殆ど触れられていない。あの時代に体験した事実がそのままに語り伝えられてはいない。それを系統立てて娘や孫に語ってこなかった…著者は、齢七十にして自らの怠慢を戒め、そして決意する。
<私は孫娘一人に向いあう気持ちで、あの戦争で体験したことを、自分史を刻む気持ちで語ろうと思った。いろいろな禁忌や思惑にとらわれることなく、ありのままに。>
こうして、著者は孫娘からの質問について心を込めて答える厚い手紙を書いた。

 孫娘は、九つ目の質問で、著者に問うている。
<「1941年12月8日、日本とアメリカは戦争に入りました。この戦争をおじいちゃんはどう考えますか。日本にとって正しい戦争だったと思いますか。」>
 著者は、この質問について幾つかの思いを述べたのち、孫娘に語りかける。
<さて、あの戦争は正しかったと思うか、という景子の質問に答えなくてはならない。これまで述べてきたことで、もうわかるだろう。戦争の正邪は軽々しく判断すべきではないし、またできるものでもない。ただ一つ、確かにいえることは、戦争はあってはならないものだということだ。勝つにしろ負けるにしろ、戦争がもたらすものは悲惨でしかないからだ。>
戦争の責任は、日本にもアメリカにもあった。戦争に関しては日本がすべて悪かったとするのではなく、もっと歴史を正しく認識して、日本もいうべきことはきちんと主張しなければならないと説く。

 本書を読み進めるとき、是非、孫娘になった気持ちで、著者の言葉に素直に耳を傾けてみてほしい。すると、著者の語りの内にある力強い優しさと温かさに、なにほどか圧倒される瞬間があるはずである。ここには、著者の孫娘への信愛と、日本への憂国の念が共に満ちあふれている。「歴史に正邪はない」とする姿勢を貫く本書は、「直なる書」として広く読み継がれるに足る一冊である。

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紙の本本の背中本の顔

2007/06/17 16:56

魅力の秘密

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出久根達郎さんは、もと腕利きの古本屋店主である。
その古本職人として書かれる作家への思いや書物談は、それだけでも十分に面白いのだけれど、出久根さんのエッセイは、それだけに留まらない。

本書に「書物の音」と題するエッセイがある。

<ある時、図書館に入ったら、隣りのテーブルを、六人の僧侶が囲んでいて、皆、熱心に百科事典を読んでいる。静かにページをめくる音がする。バラバラに聞こえていたその音が、ふいに、いっせいに揃ったので驚いたのである。偶然だったのだろう。揃ってページを開いた音は、その一回きりだった>

不可思議な光景である。そんなことが本当にあるのだろうか、と思う。そこで、はたと思い出す。美しい嘘をつくのが小説家。これは、ただの古本屋店主ではとても書けない文章なのだ。そして、出久根さんは小説家なのであった。古本屋店主と小説家との間を、音もなく、移りかわってみせる。そこが出久根さんのエッセイにある魅力の秘密なのではなかろうか。わけても、古本屋店主としてのエッセイの上に、ほどよく小説家としての味付けがなされたものがよい。それは、他の小説家のエッセイでは読めないものである。

<悲しんでいる音もある。ある晩、夜中に、私の店の書棚で物音がした。何の音か、わからなかった。
・翌朝、店を空けたとたんに、客が飛び込んできて、昨夜ここで見つけた本が無い、と騒いだ。昨日閉店まぎわに確かに見たのだ、と言う。・・・
・時々、店をのぞきに来る客だが、本を乱雑に扱うので、ありがたくない客である。客がほしがっていた本は、書棚の後に落ちていた、昨夜の不審な音は、本が隠れた物音だったのだ。買われたくなくて、ひそんだのだろう>

こういう文章に出会うとき、出久根さんが小説家になってからも、古本屋店主としての目線を忘れずにいてくれることに感謝せずにはいられない。

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紙の本すぐに稼げる文章術

2007/01/28 17:49

すぐに稼げるわけがない

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日垣隆氏は、思想や観念だけでもの書くことがない。
面白そうだったり疑問に思うことがあれば、まずは行動に出るのが常である。その結果、実感を得た事柄について思考を深めて書くのである。気になる物があれば、とにかくそれを触って口にふくんで確かめるという、親泣かせではあるが、子供がモノを知るうえでは欠くことのできない衝動を今も持ち続けているかにみえる。ただし、それは努力してのことだろう。日垣氏みずから「取材」は嫌いなのだと明かしているからである。書評を書くときには、その著者の作品をすべて読んで取り組むというような姿勢からも、生半可な知識でものをいうことへの慎みがうかがえるのだ。

そういう日垣氏の文章には説得力がある。本書では、名文を書くという夢物語は脇へのけ、言葉、書評、エッセイ、社内文書、ブログにメールと実践を想定した書き方のアドバイスが次々と披露されてゆく。読み進めると、「案外、すぐに稼げるのかな」という気分になりかける。

ところが、本書の頁も中ほどをすこし越えたころ、次の言葉が立ちはだかる。

<何かでお金を取ろうと思ったら、目安として最低1万時間はやり続けなければならない>

これが日垣氏の本音の部分か。最低1万時間と聞けば驚くが、ピアノでも何でも毎日3時間の練習を9年間続けることに匹敵すると聞けば頷ける。楽器の演奏でお金を稼ぐにはそれくらいの練習は必要であろう。お金を払って読んでもらう「文章」を書くのも同じこと。いかにもこれが筆一本で身を立てるプロの言葉でもあろうか。

「すぐに稼げる文章術」というタイトルは、実のところ幻冬舎の担当者の意向で追っ付けられたものであるらしい。さもありなん。すぐに稼げるわけがない。けれども、本書に書いてあることを、すぐに始めることならできそうだ。そのように前向きな気持ちにさせてくれるものが本書にはある。それは、実際にできることを書くという日垣氏らしい文章の力によるものであろう。

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紙の本木に学べ 法隆寺・薬師寺の美

2004/01/08 23:01

樹齢千年のヒノキよ、千年もってくれ!

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 「わたしに何か話せゆうても、木のことと建物のことしか話せませんで。p.12」

 これが本書の冒頭の一句である。
 本書で語るのは、生前、当代随一と謳われた宮大工棟梁・西岡常一(にしおかつねかず)翁。法隆寺金堂の大修理、法輪寺三重塔、薬師寺金堂や西塔の復元を果たした最後の宮大工棟梁であった。95年4月死去。享年85。

 本書の原稿は、アウトドア月刊誌『BE-PAL』に1985年4月から連載されたものである。当時聞き手の塩野米松氏は、奈良に一年半にわたり通いつめ、西岡棟梁の話の内容をテープに録音し、それを起こし、話し言葉に原稿を仕上げ、西岡棟梁自身による修正、確認をおこなっての連載であった。こういっても塩野氏はあくまで黒子に徹する。本書はすべて西岡棟梁の「語り下し」という形で貫かれている。読者は、何者にも邪魔されることなく西岡棟梁の語りに耳を傾けることができるのである。

 「棟梁」というものについて西岡棟梁は語る。

「棟梁いうものは何かいいましたら、<棟梁は、木のクセを見抜いて、それを適材適所に使う>ことやね。…
 木のクセを見抜いてうまく組まなくてはなりませんが、木のクセを上手く組むためには人の心を組まなあきません。
 絵描きさんやったら、気に入らん絵は破いてまた描けばいいし、彫刻家だったらできそこないやったらこわして作り直せます。しかし建築はそうはいかん。大勢の人が寄らんとできんわな。だから、できそこないがあってもかんたんに建て直せません。そのためにも<木を組むには人の心を組め>というのが、まず棟梁の役目ですな。職人が50人おったら50人が、わたしと同じ気持ちになってもらわんと建物はできません。p.12」
 
 純粋な木造建築の千三百年にわたって受け継がれるこれが極意である。
 また、自らの棟梁の仕事を画家や彫刻家といった藝術家と比べ論じるあたりが実に興味深い。法隆寺を建てた大工がいったい何を考えていたのか−。西岡棟梁の言葉は、時の重さを感じさせる。

 「宮大工」としての心構えについて西岡棟梁は語る。

「それじゃあ、ふつうの大工と宮大工どこが違う言われましたらな、ふつうの大工さんは坪なんぼで請け負うて、なんぼもうけてと考えるやろ。わたしらは堂や塔を建てるのが仕事ですがな。仕事とは<仕える事>と書くんですわな。塔を建てることに仕えたてまつるということです。もうけとは違います。そんだけの違いです。そやから心に欲があってはならんのです。彫刻する人が仏さん彫るとき、一刀三礼といいますわな。わたしたちは<一打ち三礼>ですな。<千年もってくれ、千年もってくれ>と打つわけですわ。p.14」

 「千年もってくれ、千年もってくれ」と一心に打ち、無になって伽藍を建てるその姿。樹齢千年のヒノキを使えば伽藍は千年もつという。その時を超えた敬虔さに軽いめまいすら覚える。

 「法隆寺や薬師寺のような魂のこもる寺に、観光でなく心から参拝して祈ってみて下され−。」これが本書の最後に西岡棟梁が語った言葉であった。

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紀貫之は女性のふりをしていない

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古典文学の前文は、「春はあけぼの〜」(枕草子)、「祇園精舎の鐘のこゑ〜」(平家物語)、「行く河の流れは絶えずして〜」(方丈記)と、いずれ劣らぬ名文ぞろい。その中にあって『土左日記』の前文は実に奇妙である。

をとこもすなる日記といふものをゝむなもしてみむとてするなり

現代語訳を引けば「男の人も書いていると聞いている日記というものを、女の私も書いてみようと思って書くのである」とある。これは、紀貫之が女性のふりをして日記を書いたとされる原拠となった一文である。実は、この通説には誤りがあるという。著者によれば、前文を除く「土左日記」全体を通して、紀貫之が女性のふりをしているどころか、逆に、それを否定する証拠ばかりが上げられるというのだ。そうだとすれば、あの前文は、いったいどう解釈すればよいのか。著者はいう。

<名文家として知られる貫之らしくないどころか、バカでも書かないような文を冒頭に据えて、この裏にナニカあるぞと読者に悟らせ、そのナニカがナニであるかを突き止めさせようという貫之の計算だった>

ここには、定説を覆すことを拒む古典文学の専門研究者への痛烈な批判が込められている。一つの文章を読解する際、必要以上に古典文法にこだわるのみで、テクスト全体や前後の文脈からのアプローチを欠く粗忽な研究手法への苛立ちを、著者は隠そうとはしない。

著者は、「そのナニカ」を解き明かしてゆく。一字一句おろそかにせず、論考はすすめられる。読解のヒントは、『古今和歌集』の和歌にみられる文字遊び。先の前文に織り込まれた、をとこもす(=男文字=漢字)、をむなもじ(=女文字=仮名)、という言葉の複線構造が鍵となる。

紀貫之によって仕組まれた計算が、おおよそ一千年ぶりに解かれたとき、『土左日記』の前文は、上っ面をなでた場合の評価から一転、練り上げられた名文であることが明白となる。著者は語っている。

<『土左日記』の前文に、日記を「女文字」で書こうと断わっているのは、事柄を忠実に記録する漢字文の日記ではなく、これから旅の出来事を雅の視点で捉え、それにふさわしい仮名文で描写しようという意思の表明ですから、この作品は、漢字文による俗の日記と異なる「雅の日記」という、新しいジャンルの開拓でした。貫之が試みたのは雅の和文を、雅の極致である和歌と融合して表現することでした。 以上のように考えるなら、女性に仮託したという従来の説明が、どれほど浅薄であったか理解できるはずです>

今後、『土左日記』を女性仮託とした教科書や注釈書は、すべてその内容を書き改めねばならない。

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自然治癒力を引き出す断食

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 石原結實氏は、断食とニンジンジュースによる食事療法指導というユニークな治療法を実践する医学博士。本書は、その治療法の劇的な効果を体験したという渡部昇一氏と、英語学者としての渡部氏に畏怖の念を抱いていたという石原氏との間に実現した、健康維持と長寿をめぐる対談である。

 人類の歴史を振り返ってみると、つい最近まで三百万年の間はつねに飢餓の時代であった。氷河期、日照り、洪水、など幾多の困難の時代を生き抜いてきた人間の身体には「餓え」に対する生命維持能力が備わっている。人間の身体は、ある程度の餓えには十分に耐えられるようにできている、と石原氏はいう。
 
 ところが、数十年前から人類は「飽食」の時代を迎えた。過食を繰り返すことに人間の身体は適応できていないという。石原氏は、過食による血液の汚れが、現代の数多の病の原因であると見る。そうであるならば「断食」によって、本来、人間の身体がもつ自然治癒力を引き出し、血液をきれいにすることで病気の進行を食い止めることができるのではないか。これが断食療法の発想である。

 実は、人間は誰でもプチ断食をしているらしい。それは睡眠である。夕食後から朝起きるまでの間に、体中の排泄臓器はせっせと仕事をこなしている。その証拠に、朝、目覚めると誰しもがおそらく次のことに気がつくだろう。すなわち、汗をかき、目やにが出て、息がくさくなり、痰が出たり、色の濃い尿や便が出ることに。これらは排泄反応によるものであり、人間の身体が汚れた血液をきれいにしようと頑張っているというわけである。睡眠が断食であるというのは言い得て妙である。「断食」が自然な療法である所以ともなろう。

 東洋医学は、身体が自ら求めるものに着目する。風邪をひいて熱が出たなら、葛根湯で身体を温める。食欲が無いなら、食べずにおいて、胃腸に回る血液を減らし、免疫のために回す。解熱剤とか点滴とかを多用する西洋医学の常識とはまったく異なっているのだ。

 増加の一途をたどるガン、心筋梗塞、脳卒中、難病、奇病。いったい、これらを現代医学は撲滅することができるのであろうか。病気の予防法や治療法はこのままでよいのか。誤った医療に対する危機感を強め、国の行く末を憂えう石原氏は本書を次のようにしめくくる。

<東洋医学、東洋の智恵は「病気」や「病んでいる臓器」ではなく「病んでいる人」を見て治療するという、分析的な現代医学とは対極の哲学を持っているのです。つまり、行き詰まった現代医学の盲点を正す方法は、日本人の生活や日本の民間療法のなかに古くから息づいてきた身近な「東洋の智恵」にあるのです>

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或る力の存在

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 歴史資料というものは「現地性」と「同時代性」という基準に照らされなければならない−とは林屋辰三郎の言葉である。この言葉は現代史の資料にもあてはめることができよう。ただし、山本七平氏のみるところ、仮に、ある記録が二つの基準を満たしていたとしても、そこに対人関係や対社会関係、あるいは時勢への配慮などがあれば、その記録の信憑性には疑問が生じるという。その点では横井・小野田両氏の記述ですら例外ではない。それなら大東亜戦争における兵隊の体験についての正確な記録はあるのか。それがあったのである。小松真一氏による手記『虜人日記』である。

 小松真一氏は、軍人ではなかった。陸軍に動員され、ガソリンの代用となるブタノールを粗糖から製造する技術者として、昭和十九年一月に比島(フィリピン)に派遣を命ぜられたのであった。その戦地で他の軍人と共に辛い体験を重ね、終戦を迎えた。昭和二十年九月一日に投降してPW(捕虜)となり、ルソン島の労働キャンプに投げ込まれた。小松氏は、毎日の労働から解放される夕暮れ時に、記憶を呼び起こしてその日記を書き連ねたのだという。

 『慮人日記』が「現地性」と「同時代性」を備えているのは言うまでもない。さらに、小松氏は、軍に属しながらも軍隊という組織に組せぬ技術者であったがゆえに、組織への配慮や、責任を回避する必要がなかった。また、捕虜の身なれば、内地の情勢はいっさい知らされず、軍部の圧迫とかアメリカ民主主義の圧力とも無縁であった。ただ、小松氏は自由に常識で考えて日記を書いたのだった。それは、まさに稀有な記録といえるかもしれない。

 小松真一氏は日本の敗因を分析して見せ、それを二十一ヵ条にまとめた。餓えに苦しむ兵隊が、あろうことか友軍をせん滅せしめてその肉を食うという修羅場を見たり聞いたりした人の言葉である。そこに見られる諸要素は、厳しい弾劾に終始し、弁護は一切ない。そして、日本人には大東亜を治める力も文化もなかったとの結論にいたるのである。ただし、反戦思想とか、戦争の恐怖をあおる類の記録ではない。小松氏は祖国のために、比島のブタノール試験工場の設立に向けて全力で奮闘したひとであった。一介の化学者として、冷静に、人間の本質を見たまま聞いたまま感じたままに日記の中に書き残したのであった。

 山本七平氏は、その『慮人日記』の敗因二十一ヵ条に沿い、日記本文の要所を引用しつつ、ときに自らの体験と重ね合わせながら、日本陸軍の敗れたる行動を白日のもとにさらしてゆく。そして、『慮人日記』を綴る小松氏の態度から感ぜられる「或る力」の存在へと論をすすめてゆく。常識を破壊し、軍人にあらぬ行動をとらしめた「或る力」とは何か。山本七平氏は、この厚めの新書に収められた全篇をかけて「その力」をあぶり出してみせる。自由を束縛する「その力」は、未だにわれわれを拘束し続けているとの指摘で本書は結ばれている。

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