サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. 北祭さんのレビュー一覧

北祭さんのレビュー一覧

投稿者:北祭

114 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本國破れてマッカーサー

2005/08/22 22:21

開かれた極秘資料

22人中、21人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

1974年当時、アメリカのワシントン大学大学院に留学していた著者は「ニューズウィーク」誌の小さな記事に目をとめた。そこには「1945年度のアメリカ政府の機密文書を公開する」とあった。
一週間後、アメリカ国立公文書館へ直行し閲覧を申し出た著者のまえに十数個もの灰色の箱が置かれた。「これらの箱の上には、うっすらと埃が積もっており、それには指紋がついていない。どの箱にもついていない」 それらは、アメリカの日本占領が始まった年の貴重な生資料であった。
本書で著者は、このアメリカ政府の極秘資料を使い、戦後日本の原点といえる「マッカーサーによる占領政策」がどのようなものであったのかを明らかにしている。「戦勝国アメリカの肩をもたない」「敗戦国日本の弁護もしない」という姿勢で事実の追求を旨とし、生資料による「話」によって本文は進められる。

アメリカ大統領トルーマンから史上空前の権力を与えられたマッカーサーは、厚木に上陸するなり日本の「憲法」に手をつける。マッカーサーは、はじめ、日本国憲法は日本国民が書くべきだと考え、幣原首相に明治憲法の改正を命じたが、その後、日本の憲法学者による数ヶ月の懸命の努力を結集した草案をみて落胆かつ激怒。いきおい「私自身が、憲法草案を用意する」と決断し直筆のノート(マッカーサー・ノート)を民生局長ホイットニーに渡した。その直筆ノートには次のような一文があった。
「国家の権利としての戦争行為は放棄する。日本は、(国際)紛争解決、および自衛のためでさえも、その手段としての戦争を放棄する。国の安全保障のためには現在世界に生まれつつある高い理念、理想に頼る。陸、海、空軍は決して認められない。またいかなる交戦権も与えられない」
マッカーサーの権威に屈した日本政府はこれとそっくりな「内閣草案」を作成し採択することになる。日本国憲法第二章第九条は生まれた。幣原首相と閣僚はその内閣案を読んで涙に噎んだという。
マッカーサーは自分が原案を出した第九条と自分との関わりを否定しようとした。なぜなら、終戦後、冷戦は激化し、中国が共産主義の下に革命を成功させ、朝鮮半島が戦争になるという、その現実を見せつけられ、自らの「読みの甘さ」をさらけ出してしまったからだと著者はみる。朝鮮戦争が勃発するに及んであわてたマッカーサーは吉田首相に「七万五千の警察予備隊の創設」と「海上保安庁の八千人の増員」という緊急指令を出す。ここですでにマッカーサーお手製の最高の理念は崩壊している。
著者はいう。
<私が何故これほどまで強く第九条に反対意見を突きつけるのか。第九条は「平和の美徳」や「戦争の悪」という「善悪の問題」以前の問題であると思うからだ。
第九条は、「生きる本能」、命を護る「自衛本能」を否定する。
第九条は、男が女や子供を護る「本能」を「悪」とする。親が子を護る、子が親を護るという「生命」の自然な「本能」を、「戦争」「武力の行使」と卑下した幼稚な空想が第九条。
人間の本能を無視しているが故、第九条の非現実性が我々の日常生活を脅かし、歪めている。>

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本日本文学史

2004/04/17 12:59

二百枚の原稿が啓く文藝史

21人中、21人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ドナルド・キーン氏が大著『日本文学の歴史』を刊行するにあたり、その刊行を励ます会におけるスピーチで、小西甚一氏は「日本人に本当の日本文学史が書けないはずはありません。キーンさんのよりも良い文藝史を、わたくしが書きます」と宣言し、事実、大著『日本文藝史』を書いたのは有名である。この知的な戦いには背景があった。

 ドナルド・キーン氏が京都に留学していた昭和二十九年のことである。キーン氏は京都から東京に向かう列車のなかで読む本を探しに駅構内の本屋に入った。そこに全然目立たない小さい本(本書)に気がつく。列車の中でキーン氏は本書を読みすすめ、感銘を受ける。この邂逅はキーン氏に絶大なる影響を与えたのであった。本書の解説でキーン氏はそう語るのである。
 それまでキーン氏は「愛国的文化論は客観性に乏しく、他国人が日本文学史を書いたほうがより客観性がでるだろう」と考えていたものであったが、本書を読んで全くその自信がなくなったという。本書のいたることろに鉛筆のマークを走らせた。「私の蒙を啓いてくれた恩人である」、これがキーン氏の小西氏とその著作への思いを伝える言葉である。
 まもなく小西氏はキーン氏の来訪を受け、お互いに良い意味で意識しあう仲となる。やがて、キーン氏の大仕事に触発され、野心を動かし発奮の先述した宣戦布告へとつながるのであった。
 
 本書は、古代から現代までの文学史が四百字詰め二百枚にまとめられたものである。たった二百枚である。それを可能としたのは小西氏の書誌に対する基本姿勢にあるように思われる。
 キーン氏も指摘することであるが、一般に文学史を書く学者は数々の事実の無味乾燥な羅列に終始するきらいがあるという。そのような目録作成に陥る学者に対して、書誌学の面から谷沢永一氏は『日本近代書誌学細見』のなかで次のように戒めた。曰く「故に私は世の目録作成者に告ぐ。読め。読んで判断せよ。…最も避けるべきは、内容も知らない文献を、いちおう恰好よく並べるペテンの業である。これからの書誌学は評価あるのみ」。
 小西氏は読む(キーン氏が読もうとしても難しくて読めないものまで読んでいる)。読んで「評価に値するもの」のみ極々少数を取り上げ、そしてキーン氏の言葉を借りるならば「至るところに学問的でありながら読者をびっくりさせる新鮮な見解」に満ちた論考をすすめるのである。

 印象深い見解をひとつ挙げてみたい。それは、「物語」と「小説」との違いについてである。

「ところで、作り物語は、一般的にいって小説とはたいへん違った特性をもつ。それは、小説が人生の<切断面>を描くものであるのに対し、物語は人生の<全体>を述べる面であるという点である。つまり、小説は、…作者の描こうとする中心があり、それを適切に描き出すため、いろいろな周辺的事実を配置してゆくのだが、物語は、むしろ、周辺的な事実をこまごま書いてゆくことが本体なのである。…小説ならば、失敗として非難されるであろう無統一性が、物語においては、かえって本来の性格をなる。小説をよむときの批判基準は、物語には適用できないのである。」

 小西氏はこのような視点から作り物語『源氏物語』を語る。近代小説の構成に慣れた眼にはあきれるほかないような「むだ」、統一性を志向せずにこまごまと書かれる主人公の生活。そのような無限定性が、実は「全体」として主人公の生活をいっそう広く深く暗示する。それが『源氏物語』を物語の史的展開において頂点をなす物語足らしめるという。
 まことに本書は蒙を啓いてくれる一品である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

碩学の読書

16人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 安岡正篤氏は昭和の碩学、昭和最後の教養人といわれ、その漢学の知識には想像を絶するものがあったという。中国の一流の学者にもひけを取らない学識は、いったい何によって養われたのであろうか。もちろん、それは、読書であった。稀代の教養人の読書に対する心持ちとは如何なるものであったのか。本書にある極めつけの寸言からその心を覗いてみたい。

▼読書百遍「私は数えで六十四歳だが、七歳のときに四書『大学』『中庸』『論語』『孟子』の素読を始めてから、もう五十七年も本を読んでいるわけだ。そうすると思想的な書物、精神的な書物は、手に取って見ると、この本はいいとか、この本はだめだということを直感する。読んでみてから、いい本だなと思うようでは、そもそも話しにならない。感が鈍い。」

▼本当の読書「読書して疲れるようではまだ本当でない。疲れた時読書して救われるようにならねばならぬ」

▼無心の読書「読書、思索は無心でやるのがよい。金剛経にいう『無住心』だ。ためにするところがあると、折角の読書、思索も害になる。少なくもわずらいとなる。昔の学生は大部の書を読むことを一つの楽しみとし、誇りとした。『史記』や『資治通鑑』などはその格好の材料だ。良い意味での猛気といってもいいが、この気迫がないと学問もものにならない」

▼座右の書「心を打たれるような身に沁むような古人の書をわれを忘れて読み耽けるときに、人間は生きるということは誰もが知る体験である。それを積んでおると、しだいに時間だの空間だのという制約を離れて真に救われる。いわゆる解脱をする。そういう愛読書を持つことが、またそういう思索・体験を持つ人間として一番幸福であって、それを持つのと持たぬのとでは人生の幸・不幸は懸絶してくる」

▼三上の読書「つまらぬ小説や愚論に類するものはなるべく読まぬようにすると共に、心が浄化されるような立派な書を読むべきである。特に朝、それも一時間とは言わぬ、三十分でよい。昔の人も枕上・馬上・厠上の三上の読書ということを言っておるが、私は長年必ず厠で読むことにしておる。厠で読むだけの時間であるから、何枚も読めるものでもないが、十年、二十年と経つと、自分でも驚くほどの量となる。しかもこれは量の問題ではない。その時に受けるインスピレーションというものは、到底書斎の中で何々研究などやっておって得られるものではない。況やこれから安眠熟睡しようという枕のほとりにおいておやである。寝る前に週刊誌等を読むのは最も愚劣なるものである」

 たとえ不幸にして佳(よ)い人に出会えなくとも、佳い食物を得られなくとも、佳い書物とは出会いたい。書物は常にそこにある。どのような境遇にあろうとも、ただ佳書のみが、自分の志ひとつで、いつでも手に取ることが出来る。安岡氏の言葉を噛みしめつつ、あらためて襟を正した。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本銀の匙 改版

2003/10/15 23:32

人は皆心に“銀の匙”をもっている

17人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 誰でも、ひとつくらいは幼い頃の想い出の品を手元に置いているのではないだろうか。引越しのどさくさで一切合切処分したとしても、想い出の品はせめて記憶に残っていないだろうか。

 主人公には大切にしているもの—銀の小匙—があった。おりおりこれを収めた小箱から取り出しては丁寧に磨きあけず眺めていた。やがてそれは幼き頃の記憶へとつながっていく—。
 病弱であった幼き頃に伯母から受けた深い愛情、大好きだった担任の先生、かわいいお譲さんとの初恋。想い出は鮮明である。それらが句読点の少ない例えるなら淀みのなく流れる水のように澄んだ文章(物語)で綴られている。

 驚きは、すべての想い出が子供の目線で語られることである。それは大人がとうに忘れてしまった目線。本書を読み進めると次第に古い記憶が呼び戻され、とてつもなく懐かしい感情に満たされていく—。人は皆心に“銀の匙”をもっている。それはいつでも“古い戸棚”の中にある。

 和辻哲郎の解説によれば、この作品を最初に高く評価したのは夏目漱石であったという。

—漱石はこの作品が子供の世界の描写として未曾有のものであること、またその描写がきれいで細かいこと、文章に非常な彫琢(ちょうたく)があるにかかわらず不思議なほど真実を傷つけていないこと、文章の響きがよいこと、などを指摘して賞賛した。—

 この解説をうけてはもはやここに継ぐべき言葉もない。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

皇統の永続を願う

16人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 日本の歴史は、天武天皇が編纂を命じた『日本書紀』に始まるといわれる。天皇の天命、すなわちその正統性は「父系の血統」によって伝わる万世一系であるという歴史観がそこにある。昨今、その伝統の変革(女系天皇論)が拙速になされようとしている。だが、ことは途方もなく長い歴史に関する。まずはじっくり腰をすえて、皇統の永続を願う者として皇位継承のありかたを問う著者の言葉に耳を傾けてみたい。

 現在の「現・皇室典範」の元になった明治の「旧・皇室典範」を起草したのは井上毅という碩学であった。井上毅は、皇統二千年の伝統と習慣の中に「古来からの不文の皇位継承の”法”」を発見し、「皇室典範」としてこれを成文化したのである。時の政治家が身勝手に法律を作り、皇室の在り様をそれに合わせたのではなかった。「祖先がつくった過去の”法”を現在のわれわれがまず尊敬をもって相続し継承し、そして未来の子孫へとさらに”相続”させていく」という伝統の精神によるものであった。「現・皇室典範」とは、この「旧・皇室典範」の骨格を継承しているのである。

 「皇室典範」の第一章「皇位継承」の第一条「継承の資格」には「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」とある。日本の皇室史には八人十代の女性天皇があられたことは知られている。なのに、なぜ、井上毅は「男子」と定めたのだろうか。

 実は、歴代の女性天皇には想像を超える厳しい律があった。女性天皇は、一人の例外もなく「お独りの身」であられ、「ご懐妊」は絶対的に禁じられてきたのである。女系(女性天皇が皇婿をとってのお子様)の天皇が存在しなかったことも明白。これは不易の”天皇の家憲”であった。井上毅が男尊女卑という思想で「男系男子」としたのではない。もし仮に、女性天皇を認める条項を入れたとして、「儲君になられた内親王に対して生涯独身を強制する法的条項」などつくることができるであろうか。そんな天理の情に反することができようか。井上毅には、「先例には存在された女性天皇」そのものを禁止するしかなかった。

 著者はいう。「女性天皇論は、愛子内親王殿下に対して生涯独身を強制しようとする、まさしく非人間的な冷酷さなしには口に出せるものではない。「もはや一つの選択肢しか残されない。1947年に皇籍離脱された十一の旧・宮家−うち五宮家が男系男子として現在も存続−に皇族復帰をして頂くことであり、その男子の中から儲君になって頂くことである」と。皇位は「祖宗の皇統」と定められ、直系・傍系をいっさい問わないのだともいう。

 本来なら、このような畏れ多い拙文など書くべきではないかもしれない。古来、我が国は言霊の国であり、起こってほしくないことや縁起の悪いことなどは言葉にしないものであった。それが世間の不文の法であった。しかし、先日、この皇統の危機に際し、寛仁親王殿下が「国民一人一人が歴史と伝統に対しきちんと意見を持ち発言をして戴かなければ」と述べられたのである。本書は、そのお言葉に答えるための土台となる重要な一冊である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

努力の伝説

14人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本多静六翁は、慶応二年、埼玉県の片田舎に生まれ、十一歳のときに父を失い、百姓や米搗きをしながら苦学、十九の春に東京山林学校(東大農学部の前身)に入学した。ところが、第一期試験に落第、悲観して古井戸に投身したが死に切れず、思い直して決死的勉強の末、優秀な成績で卒業。その後ドイツに留学、わが国最初の林学博士となり、帰国後、東京帝大農学部の助教授となる。日本の林学の父とうたわれ、その著書は三百七十冊余り。国家公園事業に尽力するなど、多大な功績を残している。
 ここからが凄い。本多静六翁は、東京帝国大学教授として教鞭をとるかたわら、独特の方法で蓄財に励み、やがて東京・淀橋区の最高多額納税者になるほどの巨富を築くのである。そして停年退職のときに、その財産を匿名で公益のために寄付してしまい、もとの貧乏生活に戻る。伝説の億万長者といわれる所以である。(渡部昇一著『読書有訓』p150に拠る)

 実業之日本社はこのたび本多静六翁による人生訓の名著三作(『私の財産告白』『私の生活流儀』『人生計画の立て方』)を新しい廉価装訂で復刻した。本書は、本多翁が八十六歳でこの世を去る前年に書かれた一冊。本多翁は自序でこう語りかける。

<いまここに、長い過去をかえりみて、世の中には、あまりにも多く虚偽と欺瞞と御体裁が充ち満ちているのに驚かされる。私とてもまたその世界に生きてきた偽善生活者の一人で、いまさらながら慙愧(ざんき)の感が深い。しかし、人間も八十五年の甲羅を経たとなると、そうそう うそいつわりの世の中に同調ばかりもしていられない、偽善ないし偽悪の面をかなぐりすてて、真実を語り、「本当のハナシ」を話さなければならない。>

<ことに財産や金儲けの話になると、在来の社会通念において、いかにも心事が陋劣(ろうれつ)であるかのように思われやすいので、本人の口から正直なことがなかなか語りにくいものである。金の世の中に生きて、金に一生苦労しつづける者が多い世の中に、金についての真実を語るものがない少ないゆえんもまた実はここにある。
 それなのに、やはり、財産や金銭についての真実は、世渡りの真実を語るに必要欠くべからざるもので、最も大切なこの点をぼんやりさせておいて、いわゆる処世の要訣を説こうとするなぞは、およそ矛盾もはなはだしい>

 本多翁は、素寒貧の身から如何に財産を積んでいったのか、その顛末をざっくばらんに披露する。ここで書いておきたいのは、本多翁の蓄財の動機である。本多翁は学生時代、ひどい貧乏生活によって苦痛と屈辱をなめさせられたのだという。そこで「なんとしてもこの貧乏生活から脱却しなければ、精神の独立も生活の独立もおぼつかない」「経済上の安定なくして精神の安定なし」と考え「貧乏征伐」の決意を固める。この「貧乏征伐」という言葉が心に強く響く。

 そして、本多翁がまずはじめに行なったのが<本多式「四分の一」貯蓄>である。月給その他の決まった収入の四分の一を何がなんでも貯金するという手法。本多翁はいう。

<何人も「貯蓄の門」をくぐらずに巨富には至り得ない>

 平凡である。しかし、平凡なゆえに、「蓄財」の結果よりも、そのために必要な「不断の努力」という精神の尊さが浮びあがる。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

思想の本籍を問う

13人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『皇統廃絶』を初級とすれば、中級にあたる続編の登場である。旧皇族の方々に皇籍へ復帰をしていただけさえすれば、今まで通りに何の問題もなく皇位継承を護持できる。それなのに、それゆえにか、伝統の道を塞ぎ、あえて女性天皇・女系天皇を立てて皇室を自然に消滅させようと目論む者がいるという。中川八洋氏は、皇統について書かれた報告書や書物をひも解く際には、その執筆者の思想の本籍、すなわち皇統の護持かそれとも廃絶か、を知っておくことの重要性を説く。

 本書には、皇統の廃絶を狙う人たちが随所にリストアップされている。その人たちが書くものには、おしなべて共産主義が顔を出すようである。その恐ろしい思想の末路は歴史が証明している。人間性の本質や古い信仰への無理解と、歴史や伝統の否定がその思想の特色でもある。歴史の流れを断ち、未来を自分たちだけで決めようとするその身勝手で傲慢な態度は、先人たちが経験によって培ってきた叡智を無視するだけに留まらず、子孫に伝えるべき選択の自由をも摘み取ってしまうものである。

 中川八洋氏のみるところ、皇室典範有識者会議の座長の吉川弘之氏とは、計画政治という妄想の持ち主であるという。文明の自由な社会を、人知で計画的に創造できるという思想である。吉川氏は東大在学中の四年間、民青に所属し、その書記局員としてリーダーだったとの噂があるともいう。
 
 また、座長代理の園部逸夫氏は、無神論者として極端な反宗教、反神道の人物。名うての天皇制廃止論者であるらしい。その園部氏は『皇室法概論』という書物に「天皇制の自然消滅」を確実にする数多の学説を集大成している。それをそのまま援護しているのが有識者会議の提出した『報告書』であったというのだ。

 このような反神道の人たちが、皇室のための重要な会議に有識者として出席してよいものだろうか。それは論外であろう。潰そうと考えている人たちに、永続の道を託せるわけがない。その反神道の人たちがこぞって謳い上げるのが女性天皇・女系天皇容認論なのである。そこに隠された罠、その真意を、中川氏は引用文や参考文献によって浮き彫りにする。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

読書を否定し名著となる

13人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「天は自ら助くる者を助く」

 この格言から幕を開ける本書は、明治四年に『西国立志編』として翻訳出版され、当時の青年に広く読まれた名著である。
 独立自尊を呼びかける本書は、自助の精神、忍耐、仕事、意志と活力、時間・金の知恵、自己修養といった命題について語る。古今東西の優れた偉人の生きかたや残された言葉を引用した知恵の宝庫ともいえよう。とくに「勤勉」の重要性を力説する。とぎれることのない努力。
 そして、「人生の最高の目的は、人格を強く鍛えあげ、可能な限り心身を発展向上させていくことである。p.179」と喝破する。昔から我が国では「勤勉」が美徳であった。明治の青年が奮い立ったのも頷ける内容である。

 しかし、ひとつ気になる点がある。“活字文化に対する痛烈な批判”である。

「活字文化の重要性は、いささか誇張されすぎるきらいがある。p.197」

 これは一見穏やかでない。俄かに心の隅では「異議あり」との小声が疼く。

「いくら万巻の書物を読もうとも、それは酒をちびちび飲むような、知的たしなみにすぎない。その時は快適な酔い心地をあじわえるものの、少しも心の滋養にはならないし、人格を高める役にも立たない。p.197」

 ここまでいうのである。
 しかし、そういう本書も何あろう立派な書物である。著名とはいえ、普段から本を読まない人が偶然に紐解くたぐいの書物ではない。しからば読者は多くの書物を読む中で、本書に出会い、この文章に行きつくはずである。そして今まさに取り組んでいる「読書」という行いを、唐突に完全に否定されるのである。これは何としたことか。

 ずばりいって、この矛盾をものともしないところに、本書が今日まで生き残った稀なる書物になった理由があるのではなかろうか。
 著者は高らかにいう。「最高の教育は日々の生活にある」「他人の思想を鵜呑みにしてはならない」「知識の量より知識を得る目的のほうがはるかに重要である」「本など読む暇があったら、とにかく一生懸命働いて節制に努め、人生の目的をまじめに追求せよ」
 この本を閉じた瞬間から、ふり返らずに立ち上がり「勤勉」なる精神のもとに日々修養に励まなければならない。そして、友に語ろう。“面白い本があるよ”と…。

 あえて読書をばっさりと否定するところから始めるこの「潔さ」が本書の迫力を強め、ために読者を増やしていくというこの逆説。ねらったにしては出来すぎである。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本内田百間集成 9 ノラや

2006/03/26 23:38

涙は心が流すもの

12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ある日のこと、内田百閒先生の自宅の庭にいついた野良猫が子猫を生んだ。その中の一匹に、なんとなく御飯をやるうちに、その子猫がすっかり百閒夫婦になついてしまった。そこで、本来猫には何の興味もなかったけれど、追っ払うのも可哀想なので、野良猫のまま飼うことになった。飼う以上名前があったほうがいい。野良猫だからノラと名付けた。

 飼い始めてみると、百閒先生、ノラが可愛くなってしょうがない。ノラの一番の好物は、寿司屋の卵焼き。そのよろこぶ様子ったらない。魚屋から旨そうなアラをもらったなら、まずはノラのために薄口で煮てあげる。余ったアラは濃口にして自らの食卓へ。万事そんなふうで、いつもノラの好物を一番に考える始末である。寝ているノラに顔を寄せては「ノラや、ノラや、ノラや」といいながらその背中をさすってやる百閒先生。

 ノラが二度目のさかりを迎えた三月二十七日のことである。ノラはいつものようにそわそわと外に出ていったのだが、不吉なことに、その夜は肌が凍るほどの雨風となる。そんな中、必ず帰るはずだのに、一晩まってもノラが帰らない。ノラが、帰ってこない。

「三月二十九日 快晴夕ストーヴをたく。
朝になつてもお天気になつても、ノラは帰つてこない。ノラの事で頭が一ぱいで、今日の順序をどうしていいか解らない・・・。

「三月三十一日 快晴風吹く。
 今日も空しく待つて又夕方になり薄暗くなつた。気を変えようと思つても涙が流れて止まらない。ニ十八日以来あまり泣いたので洟を拭いた鼻の先が白くなつて皮が剥けた。

「四月十一日 雲 風吹く。
 書斎の窓を開けてノラやノラやと呼んで見る。さはさはと風が吹くばかりでノラはゐない。夜が更けて、もう寝なければならない。寝る前になるとノラがゐないのが堪えられなくなる。今頃はそうしてゐるのだらうと思つて涙が止まらない。

「五月四日 快晴午薄日午後半晴。夕ストーヴをたく。
 夜家内にノラが出て行つた三月二十七日の事を更めて聞き、今日は三十九日目だから或はもう帰らぬのではないかと云ふ事も考へなければならぬかと話し合つて泣いた。

「五月七日 雨。
 晩の食膳で、確かにノラが鳴いたような気がしたと思つたら、一両日前から咽喉に障害があつて、風邪気味で、喘息が起こりかけてゐる、その咽喉の音であつた」

 百閒先生の涙は止まない。八方手を尽くしてみても、ノラは見つからない。何ヶ月経っても、ノラは帰らず、百閒先生の涙は止まない。

「ノラやノラや、お前はもう帰つて来ないのか・・・」

 ノラは、百閒先生の心の一部分を持ち去ってしまった。そうして、ぽっかり空いた心の傷からこぼれる涙を止められない百閒先生。日々、悲しくて読み返すことのできない日記を書き連ねつつ、時は行き過ぎてゆく。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

人の情(なさけ)に導かれ

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 執筆論というタイトルからまず始めに想像したのは、文章作法とか文章読本の類であった。ところがそれはとんだ早とちり。この本には、谷沢永一氏がこれまで上梓してきた『紙つぶて』や『人間通』といった著作を執筆するその過程で得た編集者との絆や、骨を折ってくれた人たちへの忘れ難い思いがこもった執筆の歴史が綴られている。谷沢永一氏はいう。そのような自分自身の経験を、ありのままに要点をかいつまんでゆくことで、おのずから生じた心持ちの舵とり工合、つまり呼吸と勘所と気合いを読者に読みとっていただきたいと。

 はたして、誰もが成功する執筆の方法論などあるものだろうか。たとえば、美学という言葉があるけれど、もし本当に、いつでも誰にでも美を創造できる方法があるのだとしたら、美とは何とつまらないものになることだろう。あるいは、小説家のこころの内を読み解く方程式があったなら、小説など新聞よりもつまらなくなること請け合いである。ことほどさように、方法論は、その対象に秘められた不可思議な美と趣を消し去るもののようである。じつは、文章作法の類を読んだあとに残る味気なさの理由がここにある。思えば、そのことを誰よりもよく知っているのが谷沢永一氏なのであった。というより、そのことを教えてくれたのが谷沢永一氏であったというべきか。

 谷沢永一氏が語る執筆の勘所を二つあげておきたい。

 一つは、多数の各方面にわたる人の情(なさけ)によって機会を与えられ優しく導かれたことである。人の情を得ずして人が生涯を送ることなどありえない。文章を書く勇気、本を出版できる幸運、それらはすべて、人と人とのつながりから生れる。谷沢永一氏は、幸田露伴の言葉を引いている。「人は相憐み相愛しては生き、生きては相憐み相愛し、相憐み相愛せずして損つるに至りては死し」而して「風止みては火おのずから滅えんとし、雨と遠くしては草ようやく枯れんとす、愛のある間にのみこそ人の世はあるべけれ」

 二つは、つねに、そのときの気分に合う本を探して読んできたことである。谷沢永一氏は、ある人から「あまり天才の名作ばかり読んでいると、知らぬ間に気が挫けて臆病になり、結局は何も書けなくなるよ」と訓されたのだという。以来、名文至上主義から脱却。自分は名文家でも天才でもない。大切なのは、人に理解してもらえる文章を書くことだろう。そのためには、これまで人に読まれてきた書物から教わる必要がある。天下の名文何するものぞ。遠慮も気兼ねも一切無用。自分が名著と思った本が名著である。読書こそは栄養素。それが執筆の要であるとは、さすがに稀代の読書人・谷沢永一氏らしい言葉であった。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

反日と戦い抜く覚悟

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者は横浜に生まれ、慶応義塾大学で東洋史を学んだのち、ソウル大学師範大学国語教育科に学び、韓国で日本語講師を六年間務めた経験をもつ。中国韓国北朝鮮が好きで、李氏朝鮮の儒家文集をかき集めたり、北朝鮮の党機関紙『労働新聞』なるものを何十年も読み続けたり、はたまた韓国の映画ビデオやCDを集める趣味をもつほどの東アジア愛好家であるらしい。最近まで日韓歴史共同研究委員会のメンバーでもあった。このような著者の東アジア政治思想の研究における視点は、右左に傾くことのない水平なものである。「朝鮮植民地、日中戦争、この二つははっきり言って侵略です」と言い切るのだからその点は察しがつくであろう。

 「東アジアに対する愛情と熱意にかけては人後に落ちない」という著者は次にこう言葉を続ける。「いかんせん最近の中国韓国北朝鮮の行動はあまりに見苦しい」と。なぜ、侮日なのか。なぜ、反日を国是とするのか。著者は、その反日の構造を新書という限られた枚数の中で理路整然と読み解いてゆく。

 論考の柱は、中国の中華思想、韓国北朝鮮の小中華思想とナショナリズム、さらに深いところにある民族の思想、社会主義が機能しなくなったがために新たな近代化へ向けて歩みを進めようとする国としての苦悩である。問題の根源は、中国韓国北朝鮮の中にある。日本は、仮想敵となった己を自覚し、これに毅然として立ち向かう必要があると説く。著者は自問する。東アジア諸国の伝統である中華思想によってお互いのプライドを傷つけあうというような、国家理性の欠如した情況を精算し、他者を尊重しつつ自らの国家の尊厳を守ってゆくことができないものかと。

 本書の付論には靖国神社への思いが綴られている。日本と東アジアの間には霊魂観の大きな相違があるという。日本においては、神道にせよ、仏教にせよ、その根本精神は「祓う」ことにある。霊魂の穢れは祓うことができ、宗教すらも無化してしまうのだという。岡本太郎が『沖縄文化論』の中で「日本人の血の中、伝統の中に、このなんにもない浄らかさに対する共感が生きているのだ」と語ったことを思い出す。

<ここには、高橋哲哉さんが『靖国問題』(ちくま新書)で発散しているような「憎しみ」は存在しない。同書中に、「靖国の論理は(中略)、その悲しみを正反対の喜びに転換させようとするものである。靖国の言論は戦死の美化、顕彰のレトリックに満ちている」とあります。「靖国の論理は、この『当たり前の人情』である悲しみを抑圧し、戦死を喜びとして感じるように仕向けるのだ」と。これはおかしい。「祓へ」は、こういうものを無化することですから、これでは無化にならない。これでは神道の意味がない。要するに憎しみや悲しみ、そういったものを祓ってしまう。喜びだって祓ってしまうのですからね>

 そのとおりである。神社へお参りにいき、本殿の前に立つときの心情には、およそ憎しみとか喜びといったふうな喜怒はふさわしくないものである。そこに哲学は無用であろう。昔から日本人のこころにある、ものの哀れや哀悼の念。その霊魂観を、東アジア諸国の人たちに、たとえ頭の中だけにもせよ理解してもらうために辛抱つよく伝えてゆくことの大切さを著者は説いている。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本超バカの壁

2006/01/24 00:05

ホンネで答える

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 養老さんは『バカの壁』『死の壁』を出版してこのかた、いろいろな相談を受けるようになったのだそうです。本書は、そうした質問を編集部の人がまとめて、それに養老さんがホンネで答えたもの。全十二章、読みきりです。
 第一章は「若者の問題」と題され、若者の凶暴化、ニート、個性などについて語られます。ニートやフリーターが増えていることは現代の大きな問題です。現状に満足せず、何かを求める若者達。ある調査によれば、働かないのは「自分に合った仕事を探しているから」という理由を挙げる人が多いとか。しかし、「これがおかしい」「二十歳やそこらで自分なんかわかるはずがない」という養老さんは、さらに続けてこう語ります。
「仕事というものは、社会に空いた穴です。道に穴が空いていた。そのまま放っておくとみんなが転んで困るから、そこを埋めてみる。ともかく目の前の穴を埋める。それが仕事というものであって、自分に合った穴が空いているはずだなんて、ふざけたことを考えるんじゃない、と言いたくなります」
 養老さんは想像でいっているわけではありません。自らの経験から出た言葉です。解剖という仕事は、死体の引き取り、研究室での解剖、お骨を遺族に返すまで全部含まれるといいます。それのどこが私に合った仕事なのか、そんなことに合っている人間なんているはずがない、そういうのです。だいたい、養老さんは大学院を決める時にジャンケンで負けて解剖にいったという逸話があるくらいですから。始めはそんなものでしょう。ともかく、解剖という仕事が社会に必要であってそういう穴がある。それを埋め、がまんして一生懸命やっていれば社会が大学を通して給料をくれるんだと。
「合うとか合わないとかいうよりも大切なのは、いったん引き受けたら半端仕事をしてはいけないということです。一から十までやらなくてはいけない。それをやっていくうちに自分の考えが変わっていく。自分自身が育っていく。そういうふうに仕事をやりなさいよということが結論です」
 自分の考えはどんどん変っていく。そこが肝心なところです。養老さんは、ある講演会でいっていました。モノを作るわけでもない解剖という仕事を一生懸命にやって、いったい何が出来上がるのか。。。それは自分自身なんだと。仕事というものの本質をついた養老節でありました。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

実像に迫る資料批判

12人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 支那事変が勃発した昭和十二年、日本軍は上海を激戦の末に占領したのち、国民政府の首都「南京」に進軍した。首都を落とせば戦争が終る、「終らせたい」という一念のもと、長雨による泥沼のなか一分一秒を惜しむ必死の強行軍であったといわれる。昭和十二年十二月十三日、ついに首都「南京」は陥落。しかし、戦争は、終らなかった。

 南京陥落後、日本軍による三か月間にわたる軍事占領期間に「南京大虐殺」があったとされる。戦後、南京で行われた国民政府国防部戦犯軍事法廷では三十万人以上の中国人が殺害されたと判決、東京での極東国際軍事裁判では十万人以上であったと認定されている。

 本書は、その判決書の内容の分析、証拠資料の整理を行い、どのような論理の積み重ねで「南京で大虐殺があった」と認識されたのか、それを「常識」で捉えなおす試みとなっている。

 「南京大虐殺」について、まず知りたかったのは次の二点であった。

1.裁判での証拠資料はどのようなものであったのか。
2.遺体の処理はどうしたのか。

 これらの点について本書にある情報は次のようなものである。

1.「南京事件」を世界に最初に知らしめた資料に、マンチェスター・ガーディアン特派員のティンパーリーが著した「WHAT WAR MEANS:The Japanese Terror in China(London,1938)」というものがある。この資料は、裁判開始の前提となり、これを維持する基本的枠組みとして機能し、重要資料として「判決書に特筆された」ものであったという。裁判当時は、ジャーナリストという第三者的立場からの告発であると見なされていた。
 しかし、本書によればティンパーリーとは実のところ国民党中央宣伝部顧問であった。

2.日本人の遺体は日本人によって、中国人の遺体は中国人によって手厚く埋葬された。判決書によれば、「大虐殺」による遺体埋葬の事実は、中国による「敵人罪行調査報告(略記)」に基づき、紅卍会による埋葬数が43,071体、崇善堂による埋葬数が112,266体であると裏付けられる。この厖大な遺体の数が裁判の決め手となったようである。
 崇善堂提出の埋葬統計表によれば、一月から三月までが7,549体、四月の一か月で一挙に五十倍の104,718体になっているという。埋葬された地名は記されていない。著者が調べた当時の報道資料によれば崇善堂の自動車所有台数は1台に過ぎなかった。

 「南京大虐殺」は無かったと著者は捉える。

 しかし、南京市西北郊外の幕府山一帯で降伏した二万人近い戦争捕虜の処刑が行われた可能性は否定されていない。食糧が無かった。餓死と隣り合わせの究極の選択。兵站線の確保を重んじない日本軍が招いた悲劇の実体とはいかなるものであったのか。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

直なる戦争の語りべ

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者(おじいちゃん)は、長野県更埴市で生まれ、陸軍士官学校に学ぶ最中に終戦を迎えたという。厳格教育の極致を経験し、敗戦の絶望に苦しみ、そして立ち上がり、アサヒビールで日本経済の復興に尽力、現在は名誉顧問という地位にある。

 ある日、著者のもとに、アメリカのマスターズ・スクールに通う孫娘(景子)から一通の手紙が届く。その手紙には、「戦争に関する質問状」が同封されていた。…著者は、うなった。
 現在、日本の学校教育の場では、近現代史については殆ど触れられていない。あの時代に体験した事実がそのままに語り伝えられてはいない。それを系統立てて娘や孫に語ってこなかった…著者は、齢七十にして自らの怠慢を戒め、そして決意する。
<私は孫娘一人に向いあう気持ちで、あの戦争で体験したことを、自分史を刻む気持ちで語ろうと思った。いろいろな禁忌や思惑にとらわれることなく、ありのままに。>
こうして、著者は孫娘からの質問について心を込めて答える厚い手紙を書いた。

 孫娘は、九つ目の質問で、著者に問うている。
<「1941年12月8日、日本とアメリカは戦争に入りました。この戦争をおじいちゃんはどう考えますか。日本にとって正しい戦争だったと思いますか。」>
 著者は、この質問について幾つかの思いを述べたのち、孫娘に語りかける。
<さて、あの戦争は正しかったと思うか、という景子の質問に答えなくてはならない。これまで述べてきたことで、もうわかるだろう。戦争の正邪は軽々しく判断すべきではないし、またできるものでもない。ただ一つ、確かにいえることは、戦争はあってはならないものだということだ。勝つにしろ負けるにしろ、戦争がもたらすものは悲惨でしかないからだ。>
戦争の責任は、日本にもアメリカにもあった。戦争に関しては日本がすべて悪かったとするのではなく、もっと歴史を正しく認識して、日本もいうべきことはきちんと主張しなければならないと説く。

 本書を読み進めるとき、是非、孫娘になった気持ちで、著者の言葉に素直に耳を傾けてみてほしい。すると、著者の語りの内にある力強い優しさと温かさに、なにほどか圧倒される瞬間があるはずである。ここには、著者の孫娘への信愛と、日本への憂国の念が共に満ちあふれている。「歴史に正邪はない」とする姿勢を貫く本書は、「直なる書」として広く読み継がれるに足る一冊である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本本の背中本の顔

2007/06/17 16:56

魅力の秘密

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

出久根達郎さんは、もと腕利きの古本屋店主である。
その古本職人として書かれる作家への思いや書物談は、それだけでも十分に面白いのだけれど、出久根さんのエッセイは、それだけに留まらない。

本書に「書物の音」と題するエッセイがある。

<ある時、図書館に入ったら、隣りのテーブルを、六人の僧侶が囲んでいて、皆、熱心に百科事典を読んでいる。静かにページをめくる音がする。バラバラに聞こえていたその音が、ふいに、いっせいに揃ったので驚いたのである。偶然だったのだろう。揃ってページを開いた音は、その一回きりだった>

不可思議な光景である。そんなことが本当にあるのだろうか、と思う。そこで、はたと思い出す。美しい嘘をつくのが小説家。これは、ただの古本屋店主ではとても書けない文章なのだ。そして、出久根さんは小説家なのであった。古本屋店主と小説家との間を、音もなく、移りかわってみせる。そこが出久根さんのエッセイにある魅力の秘密なのではなかろうか。わけても、古本屋店主としてのエッセイの上に、ほどよく小説家としての味付けがなされたものがよい。それは、他の小説家のエッセイでは読めないものである。

<悲しんでいる音もある。ある晩、夜中に、私の店の書棚で物音がした。何の音か、わからなかった。
・翌朝、店を空けたとたんに、客が飛び込んできて、昨夜ここで見つけた本が無い、と騒いだ。昨日閉店まぎわに確かに見たのだ、と言う。・・・
・時々、店をのぞきに来る客だが、本を乱雑に扱うので、ありがたくない客である。客がほしがっていた本は、書棚の後に落ちていた、昨夜の不審な音は、本が隠れた物音だったのだ。買われたくなくて、ひそんだのだろう>

こういう文章に出会うとき、出久根さんが小説家になってからも、古本屋店主としての目線を忘れずにいてくれることに感謝せずにはいられない。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

114 件中 1 件~ 15 件を表示
×

hontoからおトクな情報をお届けします!

割引きクーポンや人気の特集ページ、ほしい本の値下げ情報などをプッシュ通知でいち早くお届けします。