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安原顕さんのレビュー一覧

投稿者:安原顕

398 件中 46 件~ 60 件を表示

野口久光が戦前戦後に描いた「ヨーロッパ映画のポスター集」

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は映画、ジャズ、ミュージカル評論家として知られる野口久光(1909〜94)が戦前戦後に描いた「ヨーロッパ映画のポスター集」である。他に美校(現・芸大)時代のポスター、装丁、レコード・ジャケット、映画スターやジャズメンらのスケッチも載っている。初版は1959年、92年に増補版も出たらしいが、これはその復刻版である。野口久光は1933年、美校を卒業して東和映画の前身に入り、退社する1970年までの約30数年間に『天井桟敷の人々』『第三の男』『肉体の悪魔』『禁じられた遊び』『フレンチ・カンカン』『大人は判ってくれない』『黒いオルフェ』等々、洋画ポスターを数多く描いた。
 彼とは長年の友人で、当時ユナイトに勤めていた淀川長治は本書の冒頭で、「四〇年からの仲間だから野口君のいいところ悪いところをいろいろ知っている。悪いところは原稿が遅いことである。悪いのはそれだけで、あとは、すべてほめなければならぬ純粋の人だ。(略)『大人は判ってくれない』のポスターは、監督が来日した時、野口君のポスターを激讃、フランスの彼の部屋に現在も飾られている。フランス人、しかもその感覚、鬼のごときトリュフォーが「日本製」の映画ポスターを見て感激したことは、野口君の画歴伝説として残るだろう」。
 ぼくも編集者時代、何度か野口さんに映画に関する原稿を頼んだことがあるが、制作年度からキャストまで、すべて書いてくるのが特徴だった。またもう一つ忘れられぬのは名刺である。彼の名刺は名前のところが空白になっており、人に渡す時、そこに鉛筆で書き込むのだ。
 もう一度、淀川さんの文章に戻ると、彼は、野口久光のポスター美術を育てのは東和だと書き、「『にんじん』や『白き処女地』の頃、あのような香り高いポスターは他社では興行価値として許さなかったと思う」と回想している。また彼は、野口久光はさらに多くのポスターを描いている筈だが、私と性格が似ていてコレクションの才能がなく、すべて失くしてしまったようだ。私自身、チャップリンのサインを5枚もなくしている。誰かに貸し、その貸した人間が誰だったかすら忘れてしまうからである。おそらく彼も、映連文化祭その他のポスター展用に気前よく貸し出し、そのままになってしまったのだろう。
 淀川長治はまた野口久光が青年の頃、日本は何度か戦争をし、第2次大戦の空爆で、日本人の大半は焼け出されたため、『制服の処女』(1933年、昭和8年)から1941年(その後は洋画そのものが輸入、上映ともに禁止になる)までのもの、戦後の1947年からの5年間ほどの混乱期のポスター計207枚が残っただけでも、ぼくには奇跡に近いような気がすると書いてもいる。

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紙の本講談社日本人名大辞典

2002/01/29 18:15

座右に置いておくと、何かと役に立つ

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 定価は3万2千円だが、2002年5月末までは4千円引きの2万8千円である。6万5千名もの人物を網羅したこの大辞典の類書はない筈である。腰帯に「10大特色」とあるので、幾つか引いておくと、「神話・伝説、文学・芸能に登場する人物」「日本の文化、技術に貢献した外国人」「女性も5000余人」「肖像写真、集合写真、絵画など写真も2800点余」「名言、名句なども収録」。巻末特集には「日本の姓氏500」「日本史年表」などもある。この手の『大辞典』に完璧などあり得ぬが、若い作家や批評家たちが大部抜け落ちているのがいささか残念。ランダムに挙げれば小川洋子、川上弘美はあるが田口ランディがない。松浦寿輝、町田康、藤沢周、重松清、福井晴敏、花村萬月はあるが堀江敏幸、阿部和重、内田春菊らはない。作曲家の細川俊夫はあるが吉松隆はない。ノンフィクション作家吉岡忍や佐高信はあるが高山文彦、岩瀬達哉、佐野眞一、一橋文哉(覆面作家ではあるけれど)はない。出口裕弘、上野昂志、三浦雅士、柴田元幸、四方田犬彦はあるが小森陽一、鷲田清一、鹿島茂、中条省平、野崎歓などはない。平田オリザはあるが松田正隆はない。出版界は社主のみだが、編集者の例外として滝田樗陰、原田奈翁雄、車谷弘、粕谷一希などは載っている。著名なブックデザイナー菊地信義、版画家・画家山本容子もない。ジャズ批評家の油井正一はあるが岩浪洋三や寺島靖国はない。なにやら揚げ足取りっぽくてイヤらしいが、なぜこんなことが出来したのだろう。5年に1度くらい「増補改定版」を出して欲しい。記述見本の一例を挙げておくと、 [イサムノグチ]<アメリカの彫刻家。1904年11月17日生まれ。野口米次郎の子。パリでブランクーシに師事。のち中国、日本で書、造園、陶芸などを学ぶ。1946年、「14人のアメリカ人展」にえらばれ、以後、造園、家具デザイン、舞台設計など幅ひろい分野で活躍した。1988年12月30日死去。84歳。作品はパリのユネスコ本部庭園など>。ドウス昌代の評伝『イサム・ノグチ』(平成12年、講談社ノンフィクション賞)についての言及はないが、ドウス昌代自身は載っている。ついでに[野口米次郎(1875〜1947)]も書いておくと、<明治−昭和の詩人。明治8年12月8日生まれ。イサム・ノグチの父。明治26年渡米。ウォーキン=ミラーに師事。29年「Seen andUnseen」を発表。英米詩壇で名声をえる。37年帰国、翌年慶大教授。39年あやめ会を結成して日英米の詩人の交流につくした。昭和22年7月13日死去。73歳。英詩人としての筆名はYone Noguchi。詩集に「From the Eastern Sea」「二重国籍者の詩」など>。
 座右に置いておくと、何かと役に立つが、大型図書館は2、3冊は仕入れて欲しい。

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紙の本転生

2002/01/09 22:16

長篇、短篇、クリスマスの絵本、そしてこの『転生』と、田口ランディは、何を書かせても巧いので感心

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 言うまでもなく書籍とは厚さではなく内容である。そんなことは百も承知だが、本書の版元は何やら胡散臭く、佇まいも怪しげなので、しばらく放っておいた。しかし気になるので、先日読んでみると、これは「転生の物語」を借りた現代文明批判、終末論と知り、10月に出た本だが、紹介する。扉に「I was born」「私は生まれた。西暦二〇〇一年の秋のことです」とあり、次のような物語が展開する。「なぜなのか理由はわからないけれど、とにかく私は生まれたのです。/祝福もなく呪いもなく、ただ、ある瞬間から私は存在を始めたのでした。/存在、存在とは何でしょうか。私が私として在る、ということの不思議。/強い意志の力のようでもあり、法則のようでもあり、でたらめのようでもありました。たゆたうような生命のうねりのなかで、私は限りなく細胞分裂を繰り返しながら何者かになろうとしていました」「とても強烈な力が私を引き寄せて、私は形になろうとしている。複雑な形です。六十兆もの細胞が集まって、何かとてつもない存在を作ろうと無数の神経繊維を張り巡らせていきます」。しかし、私は誕生から二か月半めに死ぬ。次は奇形の鳥に転生するが散弾銃で撃ち落とされ、ただちに殺されず、自宅に連れ帰られたため、「傷はじくじくと膿(うみ)を出し、蛆がわき、生きながら腐り」、一年間、苦しみぬいて死ぬ。三度目は昆虫だったが、農薬により、これまたすぐに死ぬ。次は雄犬に生まれるが、兄弟三匹と一緒に毒を吐くゴミの山に捨てられ、毒の水を飲んだ二匹はただちに死に、自分だけ生き残る。しかし、都会の公園内で交尾中、子供らに撲殺される。次は農夫に生まれ、結婚して二児まで成すが、子供の一人は肝炎で夭逝、自分も40歳を前に原因不明の癪(しゃく)を数度繰り返し、あっけなく死ぬ。その後も何度か転生するが、長生きはしない。ある時、人間の女に生まれるが、放射能か化学薬品のためか脳に障害があり、日に日に記憶が失われ、結局、19歳で死ぬ。さらに海鳥、獣、昆虫、魚と転生は続くが、すべて短命。再度、犬に生まれた時、初めて天寿をまっとうする。次は、農夫の女に転生するが、ある冬、「闇の光を浴びて祖母が死に、/黒い雨が何日も降り続き、/それから家族が次々と死に、私一人だけが残る」。世界は終わったが、草花は咲く。やがて私は、全身から血を流して死ぬ。そして微生物となって地下水に浸透し、その水は木の根に吸われ、水蒸気が雨となり、風ともなって「世界」そのものになる。どれほどの年月が経ったのか。「私はまたしても形あるものへと転生しようとしていた。/この力は何なんだろう」と考える。昔々、私がまだ人間だった頃、この力を知っているような気がした。「それは愛だ」で、この不思議な物語は終わるのだ。長篇、短篇、クリスマスの絵本、そしてこの『転生』と、田口ランディは、何を書かせても巧いので感心する。

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紙の本放哉全集 第1巻 句集

2002/01/09 22:16

自由律の俳人として知られた尾崎放哉の全集

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 まずは『文学辞典』を借りて、尾崎放哉(1885〜1926)の略歴から紹介しよう。ぼく自身、ほとんど馴染みのない俳人だからだ。本名は尾崎秀雄。鳥取県生まれ。県立一中、一高を経て、明治42年、東京帝大法学部を卒業。東洋生命保険会社で約10年間勤務して退社。ついで、朝鮮火災海上保険会社支配人として渡鮮するが酒で失敗、一年でその地位を追われる。大正12年、みずから無一文となって京都鹿ケ谷(ししがたに)の一燈園に身を投じ、下座奉仕の生活を始めるが、ここにも落ち着けず、諸々の寺を転々とする。小豆島の札所南郷庵にようやく安住の地を見出し、孤独無言、句作三昧の生活を送り、この地で没する。
 放哉は自由律の俳人として知られるが、それらの作品は『層雲』に投句された。『層雲』は荻原井泉水が河東碧梧桐らと共に新傾向俳句運動の機関誌として明治44年に発刊したものだが、ドイツ文学の紹介、瀧井孝作や久米正雄の小説、石川啄木の歌なども載せる異色の俳句雑誌だった。大正3年頃、季題の超克、定型の打破の自由律が確立する。その後、碧梧桐らが去り、荻原井泉水の主宰誌として尾崎放哉、種田山頭火らを輩出。井泉水の没後は伊藤完吾が編集発行人、昭和60年、通巻860号を越えた。
 尾崎放哉の句が光り出したのは没する2年前に過ぎぬが、この間に彼は、近代俳句史上不滅の作品を残した。その特色は虚飾を排し、ものの核心を道破した点にあると言われている。本全集(全3巻)は、「新発見」の句も相当量載っているが、ここでは最晩年の大正14年、15年の句からぼくが好きな句を幾つか挙げておこう。
    ただ風ばかり吹く日の雑念  傘干して傘のかげある一日  めしたべにおりるわが足音  落葉たく煙の中の顔である  烏がだまつてとんで行つた  病人よく寝て居る柱時計を巻く  淋しいぞ一人五本のゆびを開いてみる  つめたい風の耳二つかたくついている  馬が一疋走つて行つた日暮れる  底がぬけた杓で水を呑もうとした  ころりと横になる今日が終って居る  すばらしい乳房だ蚊が居る     大正15年の句より        火の無い火鉢が見えている寝床だ    爪切つたゆびが十本ある    咳をしても一人     ひどい風だどこ迄も青空    墓のうらに廻る    一つの湯呑を置いてむせてゐる

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紙の本鎮魂歌 茨木のり子詩集

2002/01/09 22:16

絶版になって久しいオリジナル版を、新装版で世に問う姿勢、大いに支持したい

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 いつだったか、朝日新聞「天声人語」が取り上げたことで、芝木のり子の「新詩集」(たしか版元は筑摩書房)が妙に売れたことがある。それに便乗した企画かどうかは不明だが、「現代詩文庫」で読めるが、絶版になって久しいオリジナル版を、新装版で世に問う姿勢、大いに支持したい。童話屋はこれまでにも『見えない配達夫』『対話』『鎮魂歌』と、芝木のり子の昔の詩集を三冊出し、2002年6月には『人名詩集』も刊行予定とある。著者「あとがき」によれば、この『鎮魂歌』、詩人の第三詩集で、1965年、思潮社から出版された。ぼくが最も感心感動した長篇詩「りゅうりぇんれんの物語」の初出は1961年、書肆ユリイカ。社主の故伊達得夫が「特別ですよ」と言って、秘蔵の中国の剪紙(きりがみ)をカットして使ってくれたとのこと。1958年(昭和33年)、北海道でりゅうりぇんれん氏が発見された折、新聞報道は大々的に報じ、当時は誰もがこのニュースを知っていた。従って、渦中での詩の執筆には逡巡したようだが、たちまち風化したため、いまとなっては「書いてよかった」と思っている。りゅうりぇんれん氏は2000年9月、87歳で逝った。損害賠償訴訟は2001年に勝訴し、「国は原告に二千万円支払え」との判決が下るが、控訴され、裁判は子息に引き継がれた。彼は「強制連行のシンボルであり、生き証人であり、彼のうしろには無念の白骨累々なのである。/一九四五年八月十五日の日本国の負けっぷりの悪さが、今に尾を引いていると思い知らされることが実に多い。/五十六年間という歳月は何だったのだろうか。苦い苦い思いを噛みしめながら、まだ二十代の若い編集者ーー渡辺とものさんとともに、改めて校正刷りに目を通したところである」とあった。まったく同感である。ぼくはうかつにも、りゅうりぇんれん氏の話を知らず、この詩を読み、控訴も教えられ、日本政府及び日本人への憤りも新たにした。劉連仁(りゅうりぇんれん)は六尺の偉丈夫だったが、昭和十九年、「ばったを掴まえるように」日本軍に狩られ、日本軍に連行された。結婚したての妻は七か月の身重だった。六日の船旅、八百人の男たちは「家畜のように玄海灘を越えた」。門司から二日、汽車に乗せられ、更に四時間の船旅。死の部隊は「ハコダテ」から更に一日北へ。炭坑へと追いたてられた。逃亡者はすべてリンチの後、殴り殺された。彼は便所の汲取口から脱走し、穴に潜って12年間生き続け、それ以上は数えられなくなる。遂に、日本人漁師に発見された時、戦争は終わっていた。「昭和三十三年三月、劉連仁は雨にけむる東京についた」「かつてこの案を練った商工大臣[岸信介]が/今は総理大臣となっている不思議な首都へ」「ぬらりくらりとした政府/言いぬけばかりを考える官僚のくらげども……」。資料は欧陽文彬/三好一訳『穴にかくれて十四年』(新読書社)に拠ったとある。是非、読んで欲しい! 

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常連客の辻邦生や小林秀雄、白洲次郎の話など、とにかく面白い

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 新聞広告で知り、早速読んだ。「きよ田」とは銀座の路地裏にあった、旨いが、すこぶる高い鮨屋である。著名人の行きつけの店、店主はテレビで「天才!」と評された新津武昭。取材・構成は伊達宮豊、2000年春〜01年2月にわたって行なわれたようだ。なぜ読む気になったのか。一つには常連客の一人辻邦生や小林秀雄の逸話が出てくるからだ。こんな高級店、ぼくなどは生涯無縁と思っていたが、何度か辻邦生さんに連れて行ってもらい、吉本ばななが山本周五郎賞を受賞した夜、ばななと故嶋中鵬二社長らを案内し、帰り際に、新津さんに無理を言って、ばななの土産用に「折り詰め」まで作ってもらったことなど、回数は少ないが、思い出深い店だからでもある。「目次」には辻邦生、白洲次郎、白洲正子、小林秀雄、神山繁、井上靖らの名がある。2000年12月28日、「きよ田」は店を閉めてしまう。前年の7月29日、辻邦生が急逝、翌年、1周忌があった。ぼくもその席で背広姿の新津さんと会ったが、この時を機に、店を辞める決心をしたようだ。その折会場で、北杜夫に、「辻先生の一周忌も終わるし、僕、店を辞めます。今日ここに来てお参りして僕は決めました」と決意を述べるや、北杜夫は、「そりゃ、辻が泣くよ。辻がいるとこなくなっちゃうじゃないか」「だって先生、張り合いがなくなったら、もう、どうしようもないじゃないですか」といった会話が交わされたようだ。ここ五、六年、人嫌いになったことにも遠因があったとも書いている。九月、軽井沢に行き、佐保子夫人にも報告する。
 小林秀雄が「きよ田」に来たのは62歳の時、永井龍男と一緒だった。永井龍男を連れてきたのは池島信平だった。4月11日、小林秀雄の70歳の誕生日に、新津武昭は鎌倉を訪ねる。24歳の時である。小林は午後から仕事があったのか、「僕は飲まないけど、おまえさん、飲みな」と、昼間だったがウィスキーを出した。その折新津は、「鮨屋にとって何が一番大事なことですか」と問うと、「おめェなっ。それは勘だよ」と、それだけ言ったそうだ。文士らが訪れるようになったのは文藝春秋の田川が池島信平を連れてきたことから口コミで広がり、「小林さんが行ってる店だから、大丈夫だろう」と多種多様な客が来るように。小林は酒を二本も飲むと左手が脇の下に入り、右手で前髪をくるくるといじり始め、そのあたりから絡みが始まる。誰も口ごたえせず、泣くか、黙るしかなく、中には大の男がおんおん泣いた。「おまえはもう、ものなど書いちゃいかん」「おまえの今書いてるものはなんだ」。親友だろうが誰だろうが、かまわずだった。永井龍男、石川淳、谷川徹三、小林勇、今日出海など、みんなやられた。そのためノイローゼになった編集者もいた。初台に住んでいた頃の石川淳の逸話にも痺れた。古くからの知人夫妻に結婚話はしてあったので、「武ちゃん、来週よね? 結婚式」と夫妻が声をかけた。たまたま一人で来ていた石川淳は何も言わなかったが、帰り際、彼は白い封筒を置いていった。封筒には「初台 石川」と書いてあり、中に20万円!が入っていた。この他にも白洲次郎の話など、とにかく面白い。ただ、求龍堂ともあろう老舗出版社にしては誤植が気になった。ちょっと気づいただけでも35頁と114頁「辻邦夫」、129頁「長谷川康子」、232頁『フランドルの笛』(これって「冬」だと思う)。じっくり読めばまだまだあるだろう。しっかり校正して欲しい! 

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昔の文士たちの「のんびりした姿」が彷彿される

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『第二巻 1958〜75』を紹介しなきゃなと思っていたら、早くも『三巻』が出てしまった。この巻には1975年〜78年までの作品、「白い舞踏会」から単行本『桐の花』(日本経済新聞社)まで小説12篇、志賀直哉『白い線』、井伏鱒二『場面の効果』、川端康成『月下の門』、瀧井孝作『俳人仲間』の「解説」が載っている。この中の「白い舞踏会」(1975年9月号)、「一石橋幻景」(1977年8月号)、「妙高の秋」(1978年1月号)の3作は、ぼくも関わっていた文芸誌『海』に載ったものである。島村利正は1912年生まれだから、63歳〜66歳、ぼくは30代の半ばだった。「妙高の秋」は、こんな風に書き出される小説なのだ。「色づいた欅の落葉が、音もなく散りはじめている。気候不順の夏もすぎて、漸く、多摩川沿いの杜も、秋の気配がふかくなった感じである。旅先でひいた風邪も漸く癒ったようだ。志賀直哉先生が亡くなって七年になる。去年も都合で命日にお伺い出来なかったので、今年は青山のお墓に参ってから、澁谷の志賀邸に伺おうと思っていた。しかし、そのときはまだ、咳と微熱がどうしても除(と)れなかった。こんな身体で命日に伺って、皆さんに風邪を伝染(うつ)したら大変である。結局、断念して、連絡を下さったM氏にそのことを電話で話す……」。ここで欲張って、『第二巻』にある随想「三浦哲郎氏の初印象」も引いておこう。彼が三浦哲郎に会ったのは昭和36年2月のこと。「忍ぶ川」が芥川賞に決まった直後のことだった。その日は井伏鱒二たちと集まる会があり、新庄嘉章、浅見淵、小沼丹、村上菊一郎ら7、8人と神田の露地中の小料理屋に行く。その店に三浦哲郎も招き、初対面の挨拶をしたようだ。この7、8人、ぼく自身もすべて知っているので、妙に懐かしく読んだ。小沼丹の話も出てくる。島村利正が彼と会ったのは昭和30年代初頭、「竹の会」に入った時からだった。この会に誘ったのも井伏鱒二と浅見淵、それに志賀直哉を介して知り合った谷崎精二だった。上林暁の話もある。彼とは戦後、阿佐ヶ谷、荻窪、高円寺界隈に住む文士の集まり「阿佐ヶ谷会」に加入した時から親しくなった。この会は青柳瑞穂宅で開かれたが、多い時は20人もの文士が集まったようだ。青柳瑞穂とこの会について知りたい向きは、お孫さんでピアニスト=作家の青柳いづみこ『青柳瑞穂伝』(新潮社)に詳しい。いずれにしても、こうした随想を読むと、昔の文士たちの「のんびりした姿」が彷彿として、「羨ましいな」と思ってしまう。

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紙の本ペンネームの由来事典

2001/11/02 18:16

人はなぜペンネームや芸名を付けるのか

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 二葉亭四迷(本名、長谷川辰之助)の号は、父親の「くたばってしまえ」から来ているが、坂口安吾(本名、炳吾)の筆名が中学時代、学習意欲を失った際、「おまえには炳吾なんてもったいない。炳は明るいという意味だが、おまえは暗だ。暗吾だ」と教師に叱責されたことから来ていること、あまり知られていないと「まえがき」にあった。また巻末の「日本ペンネーム考」には、人はなぜペンネームや芸名を付けるのか。1、本名が平凡で印象が薄い。2、読みにくい。3、本名を隠したい。4、本名が嫌いなどを挙げ、昨今は双葉十三郎(小川一彦)、ジェームス三木(山下清泉)のように氏名ともにペンネームの人は珍しいとも書いている。さらに、村上春樹のような超売れっ子の場合、銀行や医院の窓口で「ムラカミ・ハルキさあああああん!」などと大声で呼ばれるとプライバシーが保てぬので、「ペンネームを付けておくんだった」と、春樹のエッセイからの引用もある。以下に、ペンネームに関する著名な二人作家の逸話を紹介しておくと、「三島由紀夫」は学習院中等科時代、『花ざかりの森』が師清水文雄の関係する同人誌『文芸文化』に載ることに。しかし作者が中学生、家庭のことなどを考慮した清水は、伊豆の修善寺温泉で編集会議が開かれた折、乗換え駅の「三島」と、そこから仰ぐ富士の「雪」を組み合わせらどうかと考え、帰京して本人に提案すると、「本名の平岡公威ではいけませんか」と難色を示した。なおも説得するや、「三島由紀雄」ならいいとの返事。「雄」では字面が重いので「夫」にしたらどうかと示唆、ようやく納得したのだそうだ。自決する一年ほど前のインタヴューで彼は、「三島由紀夫という名前は、若いイメージだから、五十、六十代になって由紀夫はてれくさい。いっそ白髪とでも名前を変えようか」と語ったと由。「大佛次郎」の本名は野尻清彦。英文学者で天文学にも詳しかった野尻抱影は長兄にあたる。筆名の起源は『太平記』の巻十、鎌倉合戦の箇所の「大佛陸奥守貞直」から取ったというから格調高い。「だいぶつ」「おさらぎ」の読みともにokだったようだ。当初はフランスの象徴詩人アンリ・ド・レニエをもじった安里礼次郎、時代小説を書き始めてからは流山竜太郎、白馬亭去来、須田紋太郎など、15ものペンネームを使いわけていた。中でも『鞍馬天狗』執筆時に用いた大佛次郎が最も有名になった。その頃、鎌倉の大仏裏に住んでいたこともあり、本家の「大仏」と混同せぬよう「おさらぎ」読みにする。ちなみに大仏は新しい木材「さらき」で作るため、ここから「おさらぎ」という読み方がきたと著者紀田順一郎は書いている。

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紙の本わが読書散歩

2001/11/02 18:16

最も頻繁に高橋英夫宅を訪れた編集者は長谷川郁夫

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 ぼくは作家や批評家のエッセイ、それも人物について綴られた文章が好きなので、『わが読書散歩』、とても面白く読んだ。中でも本書には友人知人が何人か出てくるので、さらに興味深かった。例えば長谷川郁夫だ。彼は『柴田宵曲全集』『吉田一穂全集』等々の全集や単行本など、それも、昔の第一書房のような美麗な本造りで知られる小沢書店の社主=編集者だった。2001年、残念ながら倒産したが、本書の「蕩揺と結晶」によれば、長谷川郁夫は最も頻繁に高橋英夫宅を訪れた編集者らしい。小沢書店の創業は昭和47年(1972年)というから、27年間もやったことになる。ぼくも小さな出版社メタローグを編集面のみ仕切ったことがあるが、二、三年で逃げ出した。従って、小出版社を27年間切り盛りするなど想像の外で、偉いなあと感心していた。高橋英夫と長谷川郁夫の付合は長く、『詩神の誘惑』(昭和53年)から始まり、高橋英夫のエッセイ集だけでも12冊も出したらしい。余計な話だが、印税はきちんともらったのだろうか。ぼくが立ち上げたメタローグも、経営者が無能で、結局支払えず、著者に多大な迷惑をかけたからだ。〈[長谷川郁夫は]、菓子に手を出さなかったが、ある時期から甘辛両刀使いになってきた。だいたい家に姿を現すと、七分三分で彼の方が喋る。喋るうち、いつの間にか甘いものも口に入れるようになったのかもしれない。お茶を出す女房は「この頃、張り合いがあるわ」と喜んでいた。「甘党」長谷川郁夫を育てたのは、われわれ夫婦なのであろうか。/自著以外で忘れられないのは『大原富枝全集』のことである。ある時かなり思いつめたような電話がかかった。全巻解説を引き受けてほしいという。「人生意気に感ず」である。その二、三年は近畿大学通い、「新潮」の引用論、時々「群像」のドイツ文学エッセイ、その上に大原全集と重なり、別の重圧も加わって、どうやって切抜けたのか分からない〉と書いている。ここ近畿大学の名が出たが、彼の場合は教授だったのだろうが、ぼくの場合は非常勤講師、前日、ゲストハウスに泊まり、翌日朝10時半から四コマ(6時間)やり、最終の新幹線で帰宅。家には夜12時頃帰宅、これを隔週やったら身体を壊しそうになり、数回で強引に辞めた。高橋さんはどんな状態で授業をしたのだろう。日本の大学の「知」を馬鹿にしたこの態度、一生忘れない。それはともかく、長谷川郁夫、倒産後、何をしているのか気になっていた。先日、共通の友人、作品社の高木卓に電話をした折、訊いてみると、「元気でやってるよ」というので、ちょっと安心した。

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紫禁城の内部を探った疑似探偵小説

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 『セガレン著作集』(全八巻)が水声社から刊行され始めた。偉い! ヴィクトール・セガレン(1878〜1919)はフランスの詩人、作家である。生まれはブルターニュ地方の軍港都市ブレスト。海軍軍医になった彼は1903年、船医としてタヒチ島に滞在、翌04年、ゴーガンの死後間もないヒヴァ・オアなどを訪れ、ゴーガンの遺作を通し、ポリネシアのマリオ族の「失われた歴史」に啓示を受け、長篇小説『記憶なき民』(1907年、筆名はマックス・アネリー)を書く。以後、当時の流行作家ピエル・ロチやファレールの異国趣味(エグゾチスム)を排し、「還元不能、根源的に異(い)なるもの=エグゾチック」の深化、内化を生涯の仕事にする。また彼は「中国」に特権的な「他者」を見出す。1909年、北京を訪ね、その後、友人の作家ジルベール・ド・ヴォワザンらと共に数度、中国各地で考古学調査を行ない、中国の文物、歴史、風景などに想を得た作品も書く。代表作に『碑』(12)、『絵画』(16)、旅の体験を綴った散文集『軽挙』(29、没後刊)、小説『ルネ・レイス』(22、没後刊)、『天子』(75、没後刊)などがある。『碑』は、中国各地に見られる碑群の、内容より形態と存在を言語化した試みであり、日記体小説『ルネ・レイス』は清朝末期の北京を舞台に、ベルギー生まれの謎の青年ルネ・レイスの言動を通し、紫禁城の内部を探った疑似探偵小説である。光緒帝はセガレン贔屓の人物で、『天子』は光緒帝の年代記になっている。以上が、『集英社世界文学大事典』(豊崎光一)や『全集』のパンフレットを借りたセガレンの略歴である。今回の『全集』の内容は以下の通り。
・1巻『記憶なき民』(小説)2002年3月刊行予定・2巻『ゴーガン礼讃/異教の思考』(評論・短篇小説・日記)・3巻『二重のランボー/オルフェ王』(評論・中篇小説・戯曲)・4巻『天子』(小説)・5巻(本書)『ルネ・リイス』(小説)。なおこの巻には、「モーリス・ロワに基づく   秘録と1909年6月〜7月の書簡抜粋も載っている。
・6巻『碑/頌/チベット』(散文詩)2001年11刊行予定・7巻『絵画/想像のものたち』(散文詩・短篇小説・エッセー)・8巻『瓦礫と瓦』(旅日記) 全国の図書館は、是非全巻予約して欲しい! 

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紙の本不幸な子供

2001/10/02 22:17

その不幸を自覚、それをバネにして何かを産み出す者も現われるが、「その逆はない」というのがぼくの持論

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 ぼくはゴーリー贔屓なので、『ギャシュリークラムのちびっ子たち』『うろんな客』『優雅に叱責する自転車』(いずれも柴田元幸訳、河出書房新社)の既刊3冊、すべて紹介し、「他の作品も出して欲しい!」と書きもした(『読書狂いも ほどほどに』双葉社所収)。その願いが通じたのか、さらに、彼の絵本3冊の刊行が決まった。『不幸な子供』(9月)、『蒼い時』(10月)、『華々しい鼻血』(11月)の順に出るようだ。しかも、既刊本3冊の判型は1990年代の新装版(小型本)からの翻訳だったが、今回の3冊は、初期の私家版(倍の版型)になっている。9月刊行の『不幸な子供』も、ぼく好みの絵本で、またしても痺れ直した。本書はゴーリーの8冊目の絵本、刊行は1961年である。「訳者あとがき」によれば、モチーフはレオンス・ペレ監督のフランス映画『パリの子供』(1913)。映画の内容は「孤児となった女の子がつらい寄宿舎に耐えかねて脱走、無頼漢にさらわれるが、ラストは死んだ筈の父親との再会があり、めでたしめでたし」というもののようだ。訳者はさらに、いずれにしても裕福な子供が不幸のどん底に突き落とされた末に幸福を取り戻すといったストーリーは、ヴィクトリア朝の物語の定型であり、ディケンズ『骨董屋』のリトル・ネルや、ストウ夫人『アンクル・トムの小屋』のリトル・エヴァなど、可憐でひよわな少女がはかなく死ぬ話にしても、これまた、もう一つの定型と言う。『不幸な子供』はハーヴァード大学の友人バニー・ラングに捧げられている。彼女は詩や戯曲を書く魅力的な女性で、ゴーリーも大いに気があったらしいが33歳で他界する。また『不幸な子供』という名のレコードも出ているというから驚く。作曲はマイケル・マントラーで、カーラ・ブレイ(p、他)、ジャック・デジョネット(ds)らをバックに、ロバート・ワイアットがゴーリーの『不幸な子供』『うろんな客』を歌っているという。LPは1975年、現在はECMからCDが出ている。さっそく聴いてみるつもり。いつものようにストーリーは紹介しないが、『不幸な子供』、実にぼく好みの絵本、不幸の連続話で、まったく救いがない。絵も、たまらなく良い! なぜ不幸話が好きなのか。幸福な話はドラマにはなりにくく、なっても陳腐に堕しがちだが、不幸であればあるほど、話は盛り上がり、読者の心にも永遠に染みつくからだ。それに、実人生を取ってみても、おおむね気付かぬだけで、アンハッピーの人が多いような気もする。しかし時に、その不幸を自覚、それをバネにして何かを産み出す者も現われる。そして、「その逆はない」というのが、ぼくの持論でもあるからだ。小説にしろ映画にしろ、人はハッピーエンドを望むがゆえにそうするが、ぼくはそのことにも不満なのだ。実社会では「悪」のみが勝利するにもかかわらず、フィクションになると、なぜか勧善懲悪だからだ。

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紙の本図書館逍遙

2001/10/02 22:17

図書館と本を巡る、古今東西の逸話を自在に逍遥した無類に面白いエッセイ集

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 図書館と本を巡る、古今東西の逸話を自在に逍遥した無類に面白いエッセイ集である。著者は、異色の出版社パピルスの社主小田光雄である。このパピルス、出版不況など何のその、旧幕臣、メソジスト教会牧師、日本民俗学の祖、山中共古『見付次第/共古日録抄』を5年の歳月を費やして刊行、かと思えばドミニック・オフレ『評伝アレクサンドル・コジェーヴ』を出すなど、いまどき信じられぬ真っ当な出版社なのだ。「良書は必ず売れる!」とのこの強い信念、読書人にはまことに頼もしい限りである。小田光雄、冒頭の「図書館大会の風景」では、いきなり怒りを爆発させもする。読めば彼の怒りは当然で、「もらい怒り」してしまった。数年前筆者は、ある県の「図書館大会」のパネリストに招ばれ、自社本の宣伝になればと出席するが、控え室でパネリストらと話をする内、いやなムードを感じる。彼が出版社社主と知っても、「どんな本をお出しなんですか」と問うた者は皆無、彼は大会のアリバイ工作のために招ばれたのだと悟る。予想は的中で、この大会、単なるスケジュール化された文化的セレモニーでしかなく、本、読者、図書館をめぐるものとは無縁だった。主催母体は県の教育委員会、その下の県立中央図書館、周辺の日本図書館協会と図書館学科の大学教師らから成るものだった。教育委員とは都議、県議らが任命権を持つ、まったく不要なものだが全国に約8166人、各人に年収120万円ゆえ、血税から毎年98億円!もの大金が支払われていることを知る国民、いないに等しい。件の「図書館大会」は、教育委員及び関連者の中から司会者、パネリストらが選ばれ、上意下達のもと、市町村図書館館員ら7、800人が動員され、読者、市民にはまったく開かれておらず、その「ふりをする」ため、時には小田光雄のような小出版社の人間を入れ、県単位で毎週のように開かれているようだ。「何たる血税の無駄遣い! これらの金は、すべて図書購入費に回せ!」と、著者は怒りをぶちまけている。また小田光雄は、日本図書館協会、全国学校図書館協議会らの選ぶ「選定図書」とは如何なる基準で選ばれるのか不明、第一、こんなもん不要だろうとも書く。最後に発言を求められた著者は、「出版目録を持ってきております。図書館にうってつけの本ばかりなので、是非入れて欲しい」と話すが、「目録を欲しい」と言ってきた図書館員、一人もいなかった。また、鉄鋼王カーネギーの話も出てくる。彼は1901年、モーガンにすべてを売却(当時の米国の国防予算に匹敵する2億5千万ドル)、さまざまな財団を設立して社会や教育のために資金を使った。中でも特筆すべきは図書館で、米国全土に2800余、米国以外の英語圏にも300の建物と図書を寄贈した。1875年当時、公共図書館数188しかなかったことを考えると、この数は驚くべきものと、著者は書いている。「戦争と図書館」の章は、17世紀に創設されたベルギー、ルーヴァン大学の図書館の話である。この図書館、第一次大戦で焼失するが、1918年、ドイツが敗北するや賠償金で30万冊を復元する。ここでもカーネギー財団が建設費10万ドルを提供、1922年に再開館したところで第二次大戦が勃発、またもや焼失、その時の蔵書数90万冊が灰になる。ここまででちょうど半分である。興味のある向きは是非、読んで欲しい。本書を出した編書房も偉い!

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のっけから小説や映画のような乗りで読者を引き込む

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 上・下巻合わせて、1100ページの労作である。本書を店頭で見かけた時、取り立ててカラヤンのファンではないぼくは、まずヴォリュームに圧倒され、多少興味は持ったが、「こんな大部な伝記を読む時間はないよな」と、手にも取らなかった。ところが数日後、『レコード芸術』編集部の旧友と電話で話をしていた折、「次回の吉田秀和さんの連載、何を取り上げてた?」と訊くや、意外にも『カラヤン』が面白く、冒頭で書いていると言うではないか。ぼくは若い頃の吉田秀和、好きではなかったが、彼が85歳を過ぎたあたりから大ファンとなり、『朝日新聞』や『レコ芸』のエッセイも、きちんと読むようになった。批評精神、文章ともに、よりラディカルになり、好奇心も無類に旺盛、新人に対する目配りもしっかりしているからだ。そこで『カラヤン』、早速繕いてみた。なるほど、のっけから小説や映画のような乗りで読者を引き込み、上巻は1日で読了した。しかし、本誌のための書評が20本もあるため、『カラヤン』にばかりに時間を割くわけにもいかず、下巻は、とりあえず走り読みして、この原稿を書いている。締切に間に合わなくなったからだ。カラヤンは1954年から88年までに9回訪日しているらしい。ぼくはたまたま最後の、ベルリン・フィルとのコンサートを聴いているが、不思議なことに、その日の演目や演奏についての印象は、すべて霧の中だ。ところが演奏が終わり、彼が客席に向かって首をちょっと傾けて挨拶した姿だけは、今なお鮮明に覚えている。その仕草が、とても艶っぽかったからだ。彼は1908年生まれだから、その時80歳だった筈だが、とても若々しく見えた(翌89年に他界)。『カラヤン』の著者は1943年生まれの英国人。何年か教職に就いた後、1968年から『レコード&レコーディングス』で音楽評論を始め、翌年からBBCラジオのキャスター、74年には『グラモフォン』の評論執筆陣にも加わる。カラヤンに関する著書はもう1冊『カラヤンの遺言』(89年、原題は『カラヤンとの対話』)がある。本書の執筆は93年1月〜98年4月まで5年以上に及んだ。というのはカラヤンに直接関わりのある演奏家、歌手、オケのメンバー、レコード会社の人、友人、家族など100 の人々から証言を取り、これまで埋もれていたレコード会社の膨大な資料、初期の外国での批評記事などを収集、出来得る限り「公正な視点」を心がけたからと「訳者あとがき」にあった。一般的にはこうしたアプローチ、客観的すぎて、つまらぬ本になるケースも多いが、その点本書は筆力があるため、実にヴィヴィッドに描かれており、読み出したら止まらない。こんなに面白い本、滅多にあるものではないので、音楽ファンはむろんこと、一般読者にも是非薦めたい。

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紙の本大江健三郎・再発見

2001/08/31 22:16

大江はいま、最もラディカルな作家といっていい

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 好きな作家ではないが、『取り替え子 チェンジリング』にしろ、『「自分の木」の下で』にしろ、大江健三郎の本は、出れば一応みな読む。ひょっとすると秀作かもしれぬからだ。ところが実際は、がっかりさせられることの方が多い。大昔の小説やエッセイに比べ、パワー、才能ともに枯渇してもいる。とはいえ、またしても読んでしまった。「彼自身による大江健三郎」と書いてあったからだ。結論を先に書けば、この本、なかなか面白かった。目次は「アルバム」「小説家自身による広告」「小説の神話宇宙に私を探す楽しみ」、座談会「大江健三郎の文学」(聞き手・井上ひさし、小森陽一)、シンポジウム「ノスタルジーの多義性」、「資料」(年表・作品案内)となっているが、中でも二つのエッセイと座談会が興味深かった。座談会の冒頭、2人の聞き手が、愚作『取り替え子』の大絶賛大会をしているので、ゲーッとなったが、その後は初期作品から最近作まで、大江自身の「自作解説」となり、教えられることも多かった。その中にこんな逸話も出てきた。若い頃、大江の頭を一瞬、自殺の考えがよぎったというのだ。その帰り道、江の電の中での蛸の話、大江一流のサービス精神、作り話とは思うが秀逸で、思わず大江が好きにもなった。彼は20歳の時、東大駒場教養学部の雑誌に「火山」(銀杏並木賞受賞)を発表。昭和32年5月(22歳の時)、『東大新聞』に「奇妙な仕事」も載せる。この2作をはじめ初期作品は、義兄伊丹十三に読ませるために書いていたらしい。短篇「奇妙な仕事」の中に「私大生」という言葉が出てくる。大江の考えでは、私立校は入学金の高い特権階級の師弟の行く学校との印象が強く、その意味で使ったが、この「私大生」とは差別的表現と批判された。また『東大新聞』で「奇妙な仕事」を読んだ文藝春秋新社編集者(後に社長)池島信平が、「面白いから『文藝春秋』に再録したい」と当時の編集長に手紙を出させ、編集長は彼に、「書き直せ」と書く。もし「私大生を取れ」との指摘なら削ったが、「一つの作品として発表したものだから」との理由で「書き直し」を拒否する。田舎出の貧乏学生にとって、多少の稿料でも生活のタシになったろうし、「天下の『文藝春秋』からの依頼を断った大江って、偉かったんだなあ」と思わず感心もした。他の広島や沖縄に関する発言も、右傾が激化する現在のクズ日本の中で読むと、みな正論で、実に気持もいい。しかもこの正論、昔の大江とは違い、ヒステリックではなく、冷静かつ客観的なのである。ノーベル文学賞を受賞したことでコンプレックスが吹き飛んだのだとすれば、彼にとってはこの賞、大いに意味があったことになる。また、66歳になり、「死」が身近になったことも大きいような気がする。いずれにしても大江は、保守国日本の中で、最もラディカルな作家と言っていい。

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紙の本花筐 帝都の詩人たち

2001/08/02 18:16

〜いつの日か「花筺」という名の本を出したい〜久世光彦の詩人及び詩(歌)を巡るエッセイ集。

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 98年1月号〜00年1月号まで雑誌『東京人』に連載された、詩人及び詩(歌)を巡るエッセイ集である。対象になった詩人は北原白秋、三好達治、西絛八十、佐藤春夫、伊東静雄、津村信夫、萩原朔太郎、中原中也の9人、各3編ずつ、愛唱歌が選ばれている。「あとがき」で著者は、本書の執筆動機に付き、以下のような感動的な文を書いている。端折って、内容だけ記しておくと、いつの日か「花筐」(はながたみ)という名の本を出したいと強く願うようになっていた。しかもそれは、詩集になる筈だったが、20歳になるかならぬうちに、自分は詩作を断念した。自分の中に<物狂い>とか<風狂>といった眩(まぶ)しく狂奔するものがないことを知ったからだ。しかし「花筐」については諦めなかった。「花筐」が典雅にして夢を誘う言葉だからである。むろんそれは、昭和19年に出版された三好達治の詩集『花筐』に負うところが大きい。「そのころの私は、少年というよりは、少女だったのだろう」。20歳を過ぎた彼は、もう一つの『花筐』と出会う。それは昭和11年に出た、壇一雄の最初の創作集、「激しく瑞々しい青春小説」だった。壇一雄は後に、なぜ自分は、ちゃんとした長篇小説に書き直さなかったのかと悔やんだようだが、この中篇、構成も乱暴、人物たちのキャラクターにも矛盾がある。しかし、「ひたすらに風に逆らって疾走する若い男女の、高鳴る動悸や目の輝きは、もし書き直されたら失われたことだろう。それほどに呼吸(いき)弾ませた清新な作品だった」。「花筐」は、もともとは世阿弥の狂女物の一つである。そしてさらに、自分はもう、ここに取り上げた詩人や詩作品について、「あるいは彼らの狂乱の日々について書くことはないだろう。五十年にも及ぶ長い歳月の間、自分の中に燻(くすぶ)っていた<詩>への恋情は、本書を書きおわったいま、嘘のように消えてしまったようだ。ーーこれから足音もなくやってくるのは、<死>と親しむ季節である」。おそらく今の気持としてはそうだろうが、久世光彦の好きな詩人、詩作品がわずか9人、あるいは27編などで終わる筈はない。最低でも、この三倍はあるに違いない。ほくがもし現役の雑誌編集者なら、「続編」を書いてもらうべく、ただちに口説きに走るだろう。エッセイそのものについても、一節だけ紹介しておくと、久世光彦は北原白秋の詩「紺屋のおろく」がよほど好きらしく、過去の文章にも何度か登場する。この「紺屋のおろく」についての文章、以下のように結ばれている。「私は齢をとるにしたがって、この歌が好きになってきた。博多帯を解(ほど)いたおろくの裸まで、イメージすることができるようになった。くぐもった笑い声も聞こえるし、ちょっと酢っぱい息の匂いだって吸い込むことができる。私にとっては、どんな《femme fatal》たちも紺屋のおろくには適わない」(以下略)と。

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