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挾本佳代さんのレビュー一覧

投稿者:挾本佳代

127 件中 16 件~ 30 件を表示

紙の本ホブズボーム歴史論

2001/11/14 22:16

歴史は私たちに何を教えてくれるのか。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 歴史とは何か。歴史は私たちに何を教えてくれるのか。この問いを突きつけられたならば、私は迷わず、いま自分が立っている位置を示唆してくれるものだと答える。生命の誕生から考えるとおよそ38億年、人類が文字を使って記録してきたものを考えると(諸説あるが)数千年、人類を含む生物は実にさまざまな過程を経てきた。いまこうして世界的に経済大国となった日本に生活しているのも、米国で同時多発テロ事件が発生したこの時期にめぐり合わせたのも、どのような思想的背景をもって研究者生活をしているのかも、現在から遡って歴史を紐解くことによって見えてくる。歴史をたどっていけば、一見人間個人の問題であるかのように思えたものも、実は長い年月を経て蓄積されてきた人間の営みをふまえたものであったことがわかることもある。ジャレド・ダイヤモンド氏の書いた『銃・病原菌・鉄』などがいい例だ。現在家畜とともに生活をしている1人の人間が、どうしてそういう生活をしているのかにしても、もとをたどれば文明の起源にまで行き着く。家畜が東へ東へと大陸をわたって伝播していった歴史があったから、いまの家畜とともに生きる生活があるのである。

 本書は歴史学の大御所ホブズボームの、未刊行の講義録、基調講演、やさまざまなな雑誌に収録されていた論考をひとまとめにしたものである。特になかなか文字に起こされることのない大学での講義録があるのが興味深い。しかし、カリフォルニア大学での1984年の記念講演で話された「歴史は現代社会について何を教えるか?」にしても、ロンドンのLSEで講演された「先を見通すこと−−歴史学と未来」にしても、とても読みこなすのは難しい。これがスーッと聞こえて消えていってしまう講義や講演なのだから、聞き手である学生や聴衆はさぞやついていくのが大変だったろう、と思ってしまうのは余計なおせっかいだろうか。

 上記前者の講義の中で、ホブズボームは、歴史には「人間はどのようにして洞窟の住人から宇宙飛行士になったのか」といった、これまでに人間が進化してきた方向とその仕組みについての問題が含まれていると主張している。しかし、歴史学はこれから人間がどうなっていくか、という予測や希望的観測をするものではない。これまで人間が営んできた社会の変化の形と仕組みを発見することが、歴史学にできることだという。歴史学の提示する過去の経験や教訓によって、時に暴走しかねない社会の趨勢に歯止めをかけられると彼は確信している。調査や統計データによる実証研究ばかりが、現代社会を支えているのではない。カビくさいと言われることの多い歴史研究の方が、むしろその本質を支えている。ホブズボームはそのことを教えてくれる。要は、私たちの歴史に対する認識の持ち方次第なのである。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.11.15)

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紙の本絶滅寸前季語辞典

2001/09/28 03:15

季節を表す「季語」が絶滅しかかっている!見たことも聞いたこともない「季語」が満載

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 「季語」。俳句や短歌でも作らない限り、真剣に覚えようとはしないかもしれない。著者も中学校の教員生活を経て、プロの俳人になった人だ。けれど、季語のすべてを覚えなくても、季節の折に贈るプレゼントと一緒に、季語を散らした手紙を入れてみるのも、とても粋ではないか。そんな気持ちから、本書を手にとってみた。
 著者は「絶滅寸前季語保存委員会」を設立して、活動を続けている。が、それは、特別どこかで公演をして…といった堅苦しいものではない。見たことも聞いたこともない季語を探し出してきて、いまの時代に生きる私たちが詠むとどうなるか、という観点をもって俳句を詠んでいる。つまり、著者がそういう「絶滅寸前」の季語を一句でも詠みさえすれば、少なくとも著者が生きている間は生き残る。だから、わざわざ珍しい季語ばかりに著者は注目しているのだ。
 本書の面白いところは、著者がおもしろいと思った季語、聞いたことないと感じた季語が、春夏秋冬別に並べられているということ。だから、いわゆる「季語辞典」ではない。季語の解説が加えられた後に、その季語を使って著者や現代人が詠んでいる俳句が挙げられている。だから、季語によっては、新旧世代交代の解釈も登場するような俳句さえある。

 まずは、春。「従兄煮」。『大歳時記』を調べた著者にも、これがしょうゆ味であることしかわからない。「事始」の副題として使われているが、これがどんな場面で、どう食べられていたものなのかが一切わからないのだという。その挙げ句「近親結婚を理由に自分をフッた難い従兄を呪ってやりたいと思う女が煎じる毒薬」か、と著者は考えてしまう。そこで一句。「従兄煮のなかに入れたる黒きもの」。この著者の句にも、なんだかよく分からない、正体不明の「従兄煮」がぼんやり表されている。
 夏。「髪洗う」。毎日毎日髪を洗うのが当たり前になってしまった現在、髪は、夏には川などで洗うもの、といわれてもいまいちピンとこない。確かに、この季語も絶滅寸前なのかもしれない。
 秋。「蚯蚓鳴く」。「蚯蚓」は「ミミズ」のこと。ミミズは鳴かないけれど、秋の夜中に耳を澄ますと「ジーッ」という螻蛄(ケラ)の泣き声のことをいうのだそうだ。初秋のいま覚えておけば、しばらく使うことができるかもしれない。昔の人たちは、実におもしろいことを考えるものだとつくづく思う。
 冬。「インバネス」。男性の和服のための防寒着をいうのだそうだ。知らなかった。もともとはスコットランドのインバネス地方のケープ付き外套を指したのだそうだ。著者はどこかあやしげな、インバネスを着た男が異次元へ抜けていく様子を想像している。
 春夏秋冬にプラスして「新年」の季語もある。「人日」。「じんじつ」という正しい読み方を入れても、ワープロソフトが変換してくれなかった。これも、この季語が絶滅寸前にあるひとつの証拠なのだろう。お正月七日のことをいうのだとか。
 もうひとつ新年の季語「嫁が君」。正月三が日、ネズミを指していう祝い詞なのだとか。ネズミを嫁が君か…。お正月であれ、いつであれ、下水道が完備されたために、ネズミそのものをあまり見なくなった私たちには、本当に使われなくなってしまう季語だろう。それに、著者がいうように、「嫁」という言葉自体も、そのうちなくなってしまうかもしれないし。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.09.28)

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紙の本草原と馬とモンゴル人

2001/07/23 18:15

馬とともに草原を駆け抜けてきたモンゴル人の文化を、遊牧とチンギス・ハーンからみる。

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 チンギス・ハーンを民族的にも深く愛してきた、オルドス・モンゴル出身の著者によれば、日本ほどモンゴルという国を理解してくれている国もないそうだ。というのも、他の外国諸国ではほとんど皆無なのに比べ、日本の本屋には多数のモンゴルについての本が多数並んでいるからだという。そう言われてみれば、私たちは近い系統の民族としてモンゴルに親しみを持っている。相撲界にもモンゴル出身の力士が多く誕生しているし、その影響か、モンゴル相撲の存在を知っている日本人もかなり多い。蒙古斑という子供のおしりにできてやがて消えてしまうアザの名の由来も、モンゴルからきている。

 けれど、そうしたモンゴルの人たちの文化を私たちは正確に知らない。いや、ほとんど知らないと言っても過言ではないだろう。本書はモンゴル人とウマが共に生きてきた、その紛れもない文化・歴史を、ウマを通して描写したものである。

 モンゴル人はウマを大切にする。「ものを乱暴にあつかえば財産が壊れる。妻を乱暴にあつかえば家庭が壊れる。ウマを乱暴にあつかえば国家が壊れる」という古い言葉もあるそうだ。彼らは砂漠にいるウマに水をやると、死後天国にいけると信じている。ウマの寿命は14〜15年ほどだが、彼らは、使役に耐えられないほど老衰したウマを家の近くに放たれて天寿を全うさせる。モンゴル人は自らの家畜の群の中から駿馬が誕生するのを夢見ている。頭がひきしまり、耳がピンと立ち、首筋が太く、胸がたくましいといった外見が秀でていることはもちろんのこと、心臓が大きく、大腸が太いといった外見から判断される内面の力強さも、駿馬の必要条件であるという。将来性のあるウマを猛特訓を重ねて競争に出す。そこで見事、トップに輝いたウマが駿馬としての地位を獲得するのである。

 モンゴルは人間とウマが草原の中で共生している。ウマは家畜であると同時に家族であり、友であり、歴史を語るものである。本書の中には人間とウマとの深い関わりをうたった歌が多数紹介されている。どれもこれも素朴で力強く、感情がストレートに出されている。いくつか紹介してみたい。「ヨモギのある草原に/馬群がとどまる/父母のいるところに/子孫が繁栄する」。「草むらのあいだにのこる/あなたと私の足跡/ウマに乗って別れるときに/鞭をふってウマを飛ばしても匂いがのこる」。「ヨモギのある草原をうしない、/愛する馬群の草がなくなった/清らかな湖をうしない、/愛する女たちの顔を洗う場所がなくなった」。父母への感謝も、恋人への想いも、すべてウマを通して語られる。ここまで愛おしい対象として、人間が生活を共にする動物のことをうたった歌があるだろうか。

 本書を読む途中から、私はすっかりモンゴルの人間とウマを語った歌が気に入ってしまった。もちろんモンゴルには行ったことがないけれど、著者の描写と歌から、目の前には見果てぬモンゴルの地が広がる。美しい緑色の草原をウマが駆け抜ける。ウマには人間が乗っている。人間はウマがいなければ生きていけない。人間の目もウマの目も澄んでいる。時計に追われ、コンクリートばかり見ている目とは違うのだろう。なんだかモンゴルに行きたくなってしまった。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.07.24)

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ファッションについて、まだ「肝心なこと」は語られていない。「問題としてのファッション」を語る。

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 ファッションというと、どうしても、洋服の形がどのように変化してきたか、流行がどのように変化してきたかということだけに議論が集中される。主に服飾史や消費をめぐる現代思想といった分野で取り扱われてきた。けれど、著者や訳者たちは、それには不満なのである。ほとんど明確な定義がなされることがないほど、暗黙のうちにファッションはその現象も言葉も社会に受け入れられているが、成実弘至氏は「われわれの身体とアイデンティティに深くかかわるメディアであること」は間違いないという。こうしたファッションが、本書では3つの観点から論究されている。1)服飾、身体、表象といったファッションにかかわる文化事象を、階級、ジェンダー、セクシュアリティ、人種、国家などのアイデンティティについての問いとして捉える。3)ファッションをめぐる言説が、身体、雑誌、写真、消費空間など、メディアも含めた多様な身体文化として再構築する。4)ファッションにおける表象の問題を、文化研究だけにとどめず、社会学や歴史学など学際的にアプローチする。

 ドリンヌ・コンドーが「オリエンタライジング——日本のファッション」というタイトルで論じた考察が面白かった。1980年代、川久保玲や山本耀司などが中心となって、日本のファッションは一躍世界のファッション界に躍り出ることになった。「ボロ切れのよう」といった突拍子もないデザインに様々な酷評は浴びせられたけれど、それから10年ほどは、日本のファッションデザイナーも海外で評価されていたことは間違いない。しかし、90年代に入ると、日本のファッション業界は資本力でものを言わせて、次々に海外ブランドとの提携を行い、「えっ! この海外ブランドも日本企業の傘下に入ったの」という事態がすいぶんと発生した。しかしその一方で、東京コレクションではこれといったデザインが登場することはなく、どれもこれも特徴のないものばかりになってしまった。つまり、日本のファッションは、海外ブランドと提携して、一見コスモポリタン化した時もあったのだが、結局はそれも長続きせず、海外から「あれはオリエンタルなデザイン」と決められることで、その立場を主張するしかなくなってしまった。日本のファッションが生き残っていく道は、ひたすらオリエンタライジングを突き進めていくしかない。

 それにしても、不思議なことがひとつある。ファッションを文化として捉えるにしろ、何にしろ、かしこまって論者が語れば語るほど、読み手はだんだんつまらなくなっていってしまうということがある。たった1着の服をああでもない、こうでもないと悩んだ挙げ句、買う時の嬉しさ。年々変化する流行に置いていかれまいとして、いくつものファッション雑誌を読みあさり、「今年はこの服」と決めた時の快感。デパートやブティックをはしごする時の何とも言えないウキウキ感…。そんな形にならない人間の意識のフワフワした部分が、ファッションについての言説の中で語られないのはなぜなのだろう。冷徹に徹しようとするあまり、著者らがファッションそれ自体を楽しんでいないのではないか、とすら感じられる。もしかしたら、楽しいとか嬉しいとかといったフワフワした部分は、語れば語るほど、ウソになってしまうからなのかもしれない。ファッションは面白く理論化することができない、そもそも虚構で固められた現象なのだろうか。それなら、いっそうのこと、虚構であれ何であれ、楽しむことに徹したらどうだろうか。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.07.19)

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生命倫理、環境倫理、企業倫理、情報倫理にかかわるガイドラインは、どのように作ったらいいのか。

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 世の中には、自分1人に決断を迫られることが結構ある。事と次第によっては、たとえ家族といえども相談できない問題も発生することがある。こと人間の生命に直接かかわる問題などにそうした問題がある。たとえば人工妊娠中絶や安楽死。前者は恋人・夫婦と、後者は家族と相談することが多い。けれど、妊娠している事実を誰にも相談できない女性だっている。長らく辛い闘病生活をしていた家族以外に、誰も頼るべき身内がいない人だっている。そんなときは、倫理問題に直接関与する問題を自分1人で決断をしなければならない。

 倫理学というと、多少なりとも気後れしてしまう人が多いだろう。「〜すべき」とか「〜しなければならない」と、重圧的に上からものを言われるような気がすると感じている人も多いかもしれない。けれど、現代社会は倫理的に取り上げられるべき問題が多く山積み状態になっている。日々解明され続けているDNA分析の結果は、遺伝子治療を行う医療現場での倫理問題を引き起こす。医者が、患者といえども、すべての遺伝子情報を一手に引き受けていいのか。可燃すれば有害な物質を排出するとわかっている廃棄物が、ごくごく超微量な場合、どのように処理すればいいのか。企業内でセクハラと捉えられるボーダーラインはどこにあるのか。ポルノグラフィをインターネット上で規制しなければならない理由は何か。こうした問題に直面した時、私たちは正しい判断を下せるだろうか。
 その「正しい判断」は、自分1人に有効なものであればいいのか。倫理という場合はそうはいかない。社会の中で多くの人に支持され、納得されるような「合意」を経て初めて、その場その場での柔軟な倫理が形成される。

 著者は千葉大に所属していた頃から、学生に各自のテーマにもとづいてガイドライン作りを指導してきた。死刑や人工妊娠中絶の是非、その許容条件など、誰もに合意されるようなガイドラインが目指すべきものだ。著者が主張するに、自分である問題にガイドラインを作ろうとすると「xは有害だから禁止すべきである」という形に陥りやすい。そんな時はまず「他人に危害を及ぼす」のか、「自己に危害を及ぼす」のかを明確にすることが重要であるという。
 本書は、倫理問題についてのガイドラインの作り方を平易に解説すると同時に、倫理問題が自分に降りかかった場合の身の振り方を決める判断基準を、読者自身が最終的にもてるよう主張されている。そのために必要なのが、ガイドライン作りなのだ。

 当然、さまざまな倫理問題についてのガイドラインは、ただ好き勝手に作ればいいのものではない。自分にとっても、他人にとっても、納得できるものでなければならない。社会は自分だけのものではないし、自分だけが操作することができないものだからだ。本書で、著者が何より主張していることが、ガイドライン作りには最も有効なのだろう。それは、「自分で考えたガイドラインで友だちを説得できるかどうかを考えてもらいたい」ということ。当たり前のようでいて、これが一番難しい。けれど、この関門を通過しなければ、倫理問題のガイドラインとしては通用しない。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.06.15)

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食いしん坊、必見!フレンチとイタリアン、人気の38店が教える評判料理のレシピ。

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 誰もが手っ取り早く幸せになる方法、な〜んだ。長年の夢がかなう? 宝くじが当選する? 想いを寄せていた彼(彼女)と恋人になることができる? もちろん、幸せになる方法は人それぞれだけれど、私は、やはり美味しいものを好きな人と話をはずませながら食べることだと思っている。美味しいものを「美味しいね」とか「これ何だろう」と言いながら食べることほど至福の時はない。もちろん、それは、別にウン万円のフレンチのコースである必要はまったくない。料理人がこだわりを持って、素材を生かした料理を披露してくれるだけでいい。

 けれど、そんなビストロやトラットリアやカフェにそうそう足を運べるものでもない。おまけに、口コミで漏れ聞こえてくる「美味しい」情報をいざ確かめようとするや、予約が「半年先」にしか取れないと店から言われてしまうことさえある。半年先……。「美味しい」幸せを味わうには、あまりに遠すぎる。この時ほど、その店やシェフを必要以上にもてはやしたマスコミを恨みたくなったことはない。こういう時、みなさんならどうします? 別の、グルメ本で情報を仕入れた別の店にしますか。周りのグルメ人間に店情報を尋ねますか。それとも……。

 そんな時には週末に時間を作って、自分でビストロやトラットリアの味を再現してみるのもひとつの手。でも、ビストロやトラットリアがそうそう人気料理のレシピを公開しないだろうって? さにあらず。私たちのために力強い本が出た。はっきり言って、こんな本が以前から欲しかった、と誰もが感激する本だ。その名も『シェフズ レシピ』。「とっておきの一皿」とある。フレンチやイタリアン48店の人気メニューがズラーッと写真入りで並んでいる。もちろんレシピもある。

 全部の店の名をここで挙げることはできないけれど、いま予約困難で(恐らく日本一)有名な「ラ・ベットラ」「レストラン・キノシタ」、レシピを公開したことなんて一度も聞いたことのない「ル・マンジュ・トゥー」「メゾン ド ピエール」……。一度でも行ったことのある人なら、これらの店のレシピがいかに貴重なのかがわかる。私としても、ル・マンジュ・トゥーの「鴨のコンフィ」のレシピがわかっただけでもこの本を手にした甲斐があったというものだ(これは本当に美味しいんだ!!)。本書に収録された406品のレシピは、写真を見ているだけでも食べたくなってくるものばかり。自分なりにアレンジしつつ、ぜひとも挑戦してみる価値はある。女性なら恋人に自分の料理の腕を披露するには申し分ないものばかりだ。

 ただ残念なことといえば、調味料の細かな分量が省略されてしまっているレシピがチラホラあるということ。これはまあ、仕方ないですか……。主たる材料がわかっただけでもいいとしなくては。で、結局、その味を確かめにやっぱりお店に行かなければならないのだけれどもね。でも、そのお店はいずれもレシピを「企業秘密」にしない分だけ、料理人の腕に自信があるところばかりだ。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.03.19)

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福祉、奉仕、介護。なぜ人に仕える仕事を選ぶのか。そもそも人に仕えるということは何か。

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 カネ、モノの力だけで人間が突き動かされるバブルな時代はとっくに終わったけれど、人間はいまそれに変わって何を求めているのだろうか。「癒し」だろうか。「自然」だろうか。それとも「人間」だろうか。いずれもバブルの時代には見向きもされなかったものばかりだが、犬養道子氏はいまこそ人間が「人間」を求めていると強く訴えている。ただしどんな人間でもいいわけではない。彼女が必要とされると切実に訴えているのは、人間そのもの本質をきっちりと見極めることができる「人間」だ。

 本書は四国にある聖カタリナ女子大学と神戸女学院大学での講義を収録したものである。特に興味深いのは、紙幅が割かれている前者の大学での講義だ。この聖カタリナ女子大学は時代に先駆けて、福祉・介護に関する学部を開設していた。ご存じの通り、最近福祉と名の付く学部を新設する大学が急増している。それは介護保険が開始され、ソーシャルワーカーのように資格を必要とする仕事の需要も社会で高まっているからだ。もちろん、こうした社会の風潮を反映して「将来、福祉の仕事に携わりたい」と志望する学生の数自体も増えているのだろう。
 しかし犬養氏が最も懸念しているのは、「福祉とは何か」「人に仕えるとは何か」という問題を深く突き詰めることなしに、ただ何となく大学に入学してきて、漠然と日常を暮らしている学生が多いのではないか、ということだ。そこで犬養氏は講義中に、学生たちに対して「なぜ?」を徹底して繰り返す。「なぜあなたは人を介護する仕事に就きたいのか」。介護されてもロクに感謝もしないで嫌みばかりを言う老人たちもいる。きれい事だけでは済まされない仕事も多い。でもあなたは福祉の仕事に就くという。「なぜ?」。

 これらの「なぜ?」に十分に答えるためには、「人間」について深く知らなければならない。そのためには、宗教、人権、戦争、自由、福祉の成り立ち…といった日頃深く考えることが少ないことを考えてみることが必要になる。一見取っつきにくい問題だが、犬養氏は学生たちと一緒に考えていくスタンスをとりつつ、これらを平易に説明している。

 犬養氏が学生に贈った、福祉や教育に携わりたい「人間」に忘れてはならない言葉は、実は私たち全員に必要なものでもある。ひとつは「ヒューモア」。自分自身を一度突き放してから、まな板の上にのせて笑うことができる人間こそが「ヒューマン」になれる。2つめは「がんばらない」。かたくなに張りつめた人間が外国にボランティアに言っても長続きしない。リラックスすることが大事である。3つめは「イマジネーション」。自己中心的な世界観だけではなく、他人のおかれた立場を理解することが重要である。4つめは「イニシアチブ」。自分の責任でいますべきと判断したことを果たすことが、いまの日本人には最も欠けている。最後は「スマイル」。美しいものに感動する心をもっている人間こそが、心の底から笑顔を作ることができ、他人をリラックスさせることができる。

 コソボやアルバニアといった世界の難民キャンプを支援し続けている犬養氏の現場での体験談を聞いて、「人間」について深く考える機会をもつことができた学生たちは本当に幸せだと思う。私たちもこの学生たちの追体験を本書でしてみたい。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.02.06)

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紙の本ボルネオの森に秘薬を求めて

2001/01/12 18:15

ボルネオの熱帯雨林には、先住民だけが知る秘薬を生み出す植物がある。

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 私たちは風邪をひくと、まず病院へ行き、恐らくビールスに効果的な抗生物質を処方されてそれを飲む。内臓系器官の疾患には外科手術が施される。私たちは近代医学の恩恵を受けつつ、健康を保っている。
 しかし近代医学を信奉することなく、古くから伝承されてきた医術で身体の疾患に対処している人たちもいる。著者が商社に依託された炭焼きのために訪れたマレーシアのボルネオ島北端部サバ州に住むカダザン族もそうした人々だ。このボルネオの先住民族はサバ州の全人口の3割を占める最大部族でもある。本書には彼らに伝わる生薬の原料である薬草や毒草が数十種類解説されている。マラリアに効果的な植物もあれば、それを盛られると確実にゆっくりとやせ衰え、死にいたる毒を持つ植物もある。そのほとんどが近代科学や医学でも解明することができない効果をもっているという。

 カダザン族の部落には、この地に伝わる生薬で病気を治療する村医者と、呪術師がいる。著者が出会ったウォルターもその村医者の1人だ。もちろんここには近代医学を学んできた医者はいない。しかし、それでカダザン族の人々は困ることはないのだ。
 著者がその生薬の威力に目を見張ったのは、こんなきっかけからだった。著者はここでの滞在中、階段で転倒し、第4腰椎と左骨盤を打撲、右足の小指を骨折、その他の足指すべてを捻挫するという大怪我をした。著者は現地の病院にすぐさま担ぎ込まれて、現代医学の処置を受けはしたが、腰椎の激痛は一向におさまらなかった。しかし、ウォルターの師事する老漢方医が調合したたった耳掻き3杯分の秘薬を飲むや、一晩で激痛は嘘のようにおさまり、その鎮痛力はまる1日消えることがなかったという。
 著者は、モルヒネよりも鎮痛力が持続するこの秘薬が、どんな植物から抽出されたものであるのかを知りたかった。けれども、その直後に当の老漢方医が亡くなってしまい、その秘薬の原料であるという小指の先ほどの根っこのかけらだけでは、それが何の植物であるかを知ることはできないという。もっとも、たとえ老漢方医が生きていたとしても、秘薬の正体を明かすことはなかったのかもしれないが。

 現在、世界中の製薬会社、薬学者、医学者が新薬の開発のために、カダザン族のようなボルネオ先住民の伝承してきた薬用植物の知識を獲得しようと躍起になっている。かなりの数の先進国の人間がさまざまな熱帯雨林の植物を標本採集していると聞く。もしかしたら世界中が待ち望んでいる新薬の原材料がボルネオにはあるのかもしれない。しかし、そのような先進国の人間の野望のためにボルネオの熱帯雨林が破壊されてしまうとどうなるか。まず、そこに棲息する多くの生物種が同じように絶滅の危機に曝されることになる。オランウータンなど貴重な大型霊長類も危なくなる。ひいては、地球全体にかかわる環境問題にも発展する。というのも、ボルネオに見られるような、広大な熱帯雨林から生み出される酸素の量がオゾン層の破壊の如何を左右するからだ。もはやボルネオの熱帯雨林の破壊は、ボルネオという限られた地域の問題だけに止まらないことはいうまでもない。

 ボルネオの豊かな土地が育んできた植物本来の力と、自然とともに生きてきた先住民の奥深い知恵に敬意を払いながら、私たちはこの本を読んでみたい。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.01.14)

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豚をめぐるユダヤ教徒とキリスト教との対立。ヨーロッパ農民文化が克明に描かれる。

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 日本人は無宗教である人が多いから、こと豚に関してそれが禁忌の対象となることがあることに違和感を覚える人が多いだろう。私たちは焼き肉屋では豚足を食べるし、沖縄料理の店では豚の耳の炒め物を楽しむし、台湾料理の店では腸詰めをビールと一緒に胃袋におさめてしまう。日本人にとって豚は「デブ」と同じ意味での軽いからかいの対象ではあるけれど、徹底的に忌み嫌う対象ではない。むしろ豚は鶏や牛と同じように昔から家畜化され、日本人と共生してきた動物であるとさえいえる。

 けれどこうした日本人と豚との関係は、全世界で通用するものではない。特にヨーロッパではそうだ。私たちがある外国人に国籍を聞かずに豚肉料理を勧めると、無思慮なとんでもない人と烙印を押されてしまうことになりかねない。そう、ユダヤ教徒と回教徒は宗教上の理由から豚を食べることができないのだ。

 本書では帯に「異形の動物・豚の運命」と堂々と謳われているように、ユダヤ教徒とキリスト教徒との間で弄ばれることになってしまった、何の罪もない豚を中心に話が進められている。実に興味深い本である。

 著者は1970年代の初めからフランスとスペインとの国境近くにある高原のソー地方に、農牧社会の成立をたどる調査を行っていた。豚が祭りの時以外にも、年中殺され、食べられるというこの地方の食文化に目を付けた著者は、逆にどうして豚がそれほどまで食べられるようになったのかを調べることにした。すると、18世紀末頃からこの地方には「豚商人」「豚の舌裏検査人」「豚の去勢師」が出入りしており、村民に豚を売り、病気でないかを確認し、繁殖方法を伝授する彼らがかなりの権力をもっていたことが浮上してきた。当時豚が他のどんな商品よりも金銭的価値があったことを背景に、彼らは地元の女たちをも追っかけ回し、地域の性風俗をも乱した。そのため「豚商人」らは村民にとって「野蛮」「横暴」「残酷」の象徴となり、やがてそれがユダヤ人やユダヤ教徒のメタファーとして用いられるようになったという。ソー地方の村民はキリストを信仰しており、彼らにとってよそ者となるユダヤ人を嫌う、その表れが豚を殺し、食べるという行為に結びついていると著者は導き出している。

 もちろんこうしたソー地方の食文化と信仰との関係は、すべての西欧社会で通用するものではない。しかし、ソー地方の食文化の、日頃はあまり光を当てられない部分が抉られるや、いかに西欧社会でユダヤ教とキリスト教が相剋の関係にあり、根深いしこりを残しているのかということが一気に曝されることになる。著者がキーワードにした「豚」は西欧社会の暗部を表に曝すには格好の材料だったのだ。文化と人間との関わりを濃密に描き出した良書にめぐり会うことが久々にできた。お勧めの1冊である。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2001.01.09)

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紙の本顕示的消費の経済学

2000/12/12 21:15

他人に見せびらかすための「顕示的消費」は、なぜ経済学理論に取り入れられることがなかったのか。

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 私たちは様々なモノを消費している。このよく耳にするフレーズは、実は注意して考えなければならないものである。というのも、ここで使われている「消費」の意味は本来、大別して2通りあるからだ。それは、1)人間が生物として生命を維持するために行う活動、2)人間が貨幣を仲介してモノを購入し使用すること——である。1)の対象はエネルギーや食糧など、2)の対象はブランドバッグ、自動車などを想定するとわかりやすい。
 現代社会に生きる私たちが「モノを消費している」と言われてパッと思いつくのは、環境問題にほとんど関心がなければ、恐らく後者の「消費」である。それだけ私たちの社会は貨幣経済にどっぷりと浸かってしまっている。しかしこの状態は見方を変えれば、前者の「消費」だけに関心が払われていたはずの自給自足の生活から私たちの社会が遠くかけ離れてしまった、と言うこともできるのだが。

 経済学者が執筆した本書が取り上げるのは、もちろん後者の「消費」についてである。アダム・スミス以来、経済学者は「個人の利益(私益)」が「公共の利益(公益)」に直結するかどうかを考えてきた。では、その課題に「消費」は重要な役割を果たすのだろうか。「顕示的消費」という道徳的には好ましくないとされた「消費」を、過去の経済学者はどのように考えてきたのだろうか。
 経済思想における「消費」というと、『蜂の寓話』を著したベルナルド・マンデヴィルを外すことはできない。彼は、人間が競い合って行う奢侈こそが国内の経済を活性化させ、ゆくゆくは国富を増大させることになると主張した。マンデヴィルの奢侈擁護論は、ある意味、17世紀における金持ちの奢侈的消費に正当性を与えることになった。しかし、マンデヴィルの主張した奢侈的な消費とそれにもとづく経済行為は経済学の考察課題にはならなかった。というのも、当時の大方の経済学者がその重要性を無視したからである。マンデヴィルの主張を受け入れてしまうと、階級差異が購買力の差異にもとづくことになり、快楽的な消費行動が社会倫理として通用してしまうことになると懸念されたからである。

 マンデヴィル以降、経済学理論から「消費」理論は一見埋没してしまったかのように見える。従来、再度「消費」が大々的に注目されたのは、ソースタイン・ヴェブレンの主張した「顕示的消費(見せびらかしの消費)」であると考えられてきた。しかし、著者はそこに意義を唱えている。彼はヴェブレンに先駆けて「顕示的消費」の存在を明示し、人間が行う「顕示的消費」の前提条件が他人に対する虚栄心と支払い能力であると提唱した経済学者にジョン・レーがいたことを主張している。けれど、ここで最も興味深いのは、これまでレーがほとんど注目されてこなかったのが、「顕示的消費」の研究を通し、彼が「私益」が「公益」とは異なるものであると主張したからだということである。このジョン・レーの主張は経済学理論にとっては実に不都合だったというわけだ。

 私たちは、例えば人口問題や環境問題の現状を考えてみるならば、「私益」と「公益」が相反するものであることは直観として理解している。けれどその一方で「消費」「顕示的消費」をキーワードに、この両者が直結する方法が模索されている。ここの矛盾を明確にするためにも、経済学の先人たちの「消費」をめぐる考えの歴史を読んでみるのもいいと思う。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2000.12.13)

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紙の本私の喧嘩作法

2000/08/26 00:15

現代にはほとんど見られなくなった男気溢れる喧嘩作法。喧嘩作法は人生にも通じていることがわかる。

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 「ぶっ飛ばす」。誰にだって一度や二度、他人に対してそう言いたくなる時がある。たとえ女であったとしても、だ。
 そのムカムカした憤懣をどう解消するか。それが時間とともに消え薄れてしまうものの場合はいい。けれど最終的に相手と喧嘩するしかないとしたら、あなたはどうするだろうか。正面から真っ向勝負を挑むのか、それとも練りに練った秘策を引っ提げて遠回りをしながら追いつめていくのか。自分だけで解決するのか、それとも誰かに応援を頼むのか——。屋山太郎氏の喧嘩作法は前者のタイプだ。

 彼の喧嘩作法は実に男気に溢れたものである。狙うのは顔面のみ。まず鼻っ柱に一発入れて、相手の戦意を喪失させる。それ以上は殴らない。そして弁解は一切なし。この見事なほどの喧嘩作法! 屋山氏は小学生の頃からずっとこの戦法でやってきた。

 本書には、そんな筋の通った喧嘩作法がどんな風にして培われ、実践されてきたのかが事細かに回想されている。繙くならば、屋山氏の喧嘩作法はすべて、幼い頃からの父親の教育のたまものであることがわかる。物心がつき始めた頃から、彼は男がやってはいけないことについて父親から聞かされ続けてきた。その一つは弁解、もう一つは卑怯。だから相手には必ず素手で立ち向かうし、喧嘩の後にグチャグチャと弁解しない。まず鼻っ柱に一発入れるのも父親直伝の戦法だった。勉強よりも何よりも子供が体得しなければならないのが、喧嘩作法であると父親が考えていたからだ。屋山少年と父親のエピソードはどんな教育書にも優る教えが含まれている。大笑いしてしまうほどの秘話も隠されている。

 一匹狼のように独自の正義を貫き通す喧嘩作法には当然、敵も多くなる。日本では日和見主義で保身に走る輩が多いからだ。しかし時事通信社の記者時代はもちろんのこと、政治評論家として活躍するようになってからも屋山氏は自らの喧嘩作法を曲げることはなかった。彼は必ず実名で論説を書き、相手を攻撃する際には直接名指しで行い、その相手の私生活に一切ふれない。そうだからこそ、述懐されているように、福田赳夫元首相や中曽根康弘元首相にも直々に苦言を呈することができたのだ。
 喧嘩の作法自体が存在していない今、筋を通して生きるのはかなり難しい。けれど殴る殴らないは別として、生き方そのものまでも決定する屋山氏の喧嘩作法には教えられるところが多い。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学講師 2000.08.26)

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紙の本鳥たちの私生活

2000/08/23 21:15

自然に関するTVシリーズ番組の名プロデューサーが描く、野生の鳥の世界。

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 久々に心の底からゆったりとする本にめぐり会った。その本にはページをめくっていくごとに、野生の鳥たちの雄々しくも優雅な姿が写し出されている。デーヴィッド・アッテンボロー氏の『鳥たちの私生活』がそれだ。
 アッテンボロー氏はかつてイギリスBBC放送の名プロデューサーであり、自然に関するシリーズ番組を得意としてきた。彼の番組は日本でもNHKで放映されている。

 アッテンボロー氏が魅了された野生の鳥の生態には、自然の中でいかに生物が生き残っていくかの様々な戦略が織り込み済みである。こんなに小さな鳥がなぜそんな行動をとるのか。アッテンボロー氏が抱いたのと同じ疑問を、本書をめくるたびに私たちも抱くことになる。
 空を飛べる鳥と飛べない鳥がいるのはなぜなのか。コウテイペンギンは、なぜ雌ではなく雄が孵化するまで60日もの間、卵を足の下において温めるのか。オオハシウミガラスは、なぜ絶壁の岩棚に巣を作るのか。コフラミンゴが1日に20リットルの塩水を口に吸い込みつつも、それを全部摂取することなく餌だけを取ることができるのはなぜなのか——。ふつふつとわいてくるこのようなたくさんの疑問にアッテンボロー氏はひとつひとつ答えていってくれる。長い時間をかけて鳥たちを観察してきた彼ならではの愛情に溢れる答えを、私たちは知ることができるのだ。

 現在名前がつけられ分類されている鳥類の数は、約1万種。自然は、生命がおよそ38億年前に誕生して以来、進化の過程でこれだけの興味深い鳥たちを生み出してきた。一口に鳥類と言っても、それぞれの形態や生態は大いに異なる。本書をめくっていくにつれ、進化とは多様化の過程であることがわかる。

 一点だけ非常に残念なことがある。それは、原題の「The Life of Birds」が「鳥たちの私生活」と訳出されている点である。アッテンボロー氏が描こうとしたのは、野生の鳥が雄大でありながらも苛酷な自然の中で、人間よりも長く「群」としてたくましく生きてきた事実のはずである。たとえ彼が本書の中である一羽の鳥の生態に注目しているように見えても、その鳥は紛れもなく「群」の中の一羽なのである。「群」として生きる限り、野生の鳥には「私生活」はないのではないだろうか。この点がどうしても気になった。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学講師 2000.08.24)

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紙の本生殖と世代継承

2000/07/18 09:15

私たちの国家やそれを支える法は、人間の生殖と世代継承に揺さぶりをかけている。20世紀最後の問題作。

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 「生殖と世代継承」は、人間の生命史そのものを言い表わす言葉である。「生殖」によって一個の人間の生命は始まり、「世代継承」によってその生命は時を越えて永遠に続いていく。ひとたび「世代継承」に注目すると、一個の生命によって始まった親族の歴史も浮上してくる。私たち人間がここにこうして存在しているのも、数千年にわたって連綿と続けられてきた「生殖と世代継承」があったからだ。
 もちろん「生殖と世代継承」はそもそも自然に、少し範囲を狭めるならば親族にゆだねられてきた問題である。しかし、この問題に国家とそれ自体を支える法制度が抜き差しならないほどの激しい揺さぶりをかけてきている。人類学者ロビン・フォックス氏は、米国での裁判事例を通して、本来的に合理性が通用するはずのない「生殖と世代継承」に合理性を無理強いしようとする国家や法制度のあり方に強い疑問を投げ掛けている。

 モルモン教徒の警官が解雇されたのは、一夫多妻制が一夫一婦制に比べて社会的な道徳の退廃を意味するからと国家によって判断されたからだ。しかし離婚、再婚が繰り返され、既婚者による様々な恋愛関係が認められる今日において、一夫一婦制だけが社会の望まれるべき道徳を体現しているとは言い難い。そもそも「自然」において結婚という形態は存在しない。それは法制度が人間の生殖行動に規制をかけた結果生まれたものなのである。
 契約に反して子供を渡さない代理母に親権が認められたのも、自然上の母親と子供の結びつきが、国家によっても契約によっても引き裂かれ得ないものであると判断されたからだ。母親という身分が契約に勝るのは、「自然」に従えば当然のことだったのである。
 また本書では親族の結びつきに対する国家介入を、ギリシャ悲劇『アンティゴネー』にまで遡って考えられている。アンティゴネーが弟の遺骸を王の意に反して葬ろうとしたのは、彼女が自然の導く「世代継承」、すなわち親族の一員としての役目を果たしたことに他ならない。彼女は国家の結びつきを強固にしようとするための、「自然」に反する父系制のイデオロギーに体を張って異議を申し立てていたのだ。『アンティゴネー』の冒頭の一行から導出するフォックス氏の論理的な洞察力と、それを的確に伝える訳者の秀逸な翻訳が相まってこのことを読者に知らせる箇所は、本書の最大の読みどころでもある。

 日本において代理母は法制度としては認められてはいない。また日本人で一夫多妻制を容認するモルモン教徒もまだごくわずかな人数しかいないだろうし、それは公然の秘密とされているだろう。しかしだからといって、本書でフォックス氏が行った、人間の「生殖と世代継承」を根底から揺さぶる国家や法制度のあり方に対する問題提起を等閑視していいはずはない。人間は国家や法に絡め取られることなく生きていくことができるのか、できないのか。もはやそうできない状態にまで人間は追い込まれてしまっているのか、いないのか。私たちは大丈夫か。そう考えずにはいられない。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2000.07.17)

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知識社会学を提唱したマンハイムの思想の源を探る

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 一人の思想家に惚れることがある。その思想家を理解し、思想を分析することによって、ひとつの時代を見通すことができたりすることがある。思想家に惚れた結果どうなるかというと、研究者はひたすら、その思想家自身の著書や論文や講演録を丹念に考察し、彼をめぐる言説や事件を調べ上げ、自分だけしか知らない新たな思想家像を作り上げようとする。
 しかし、この作業、言うは易く行うは難い作業である。既存の思想家像も徹底的に研究しなければならないからだ。既存の研究とはどこがどう違うのか。なぜ違うのか。ありとあらゆる言説を洗い出さなければならない。
 秋元律郎氏による一連のK・マンハイム研究はそのように徹底したものである。本書までに執筆された著書によって、マンハイムの思想が洗い出されている。本書では特に、彼の生きたワイマール期の知的状況の中での社会学——なぜマンハイムが知識社会学を提唱しなければならなかったのか——が遭遇しなければならなかった問題点を浮上させている。
 本書が何より興味深いのは、マンハイムをめぐる同時代の知識人がきっちり把握され、マンハイムとの思想的距離を詳細に検討していることである。仲でも「日曜サークル」の中心者であるG・ルカーチとの蜜月と確執。マンハイムとルカーチの確執の根深さを、最後に交わされた書簡の言語から秋元氏は嗅ぎ取っている。二人は同じハンガリー出身の亡命者であり、悪筆で書簡を交わしていた仲のはずである。しかし、最後の書簡はマンハイムは英語で、それもタイプライターで打っている。それに答えるルカーチの返事は、ドイツ語であった。二人共通の母国語を使用しない書簡は、マンハイム側の絶ちがたいルカーチへの思いと、ルカーチとの思想的な訣別を物語っているという。著者の深いマンハイムへの熱意が伝わってくる。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.07.11)

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マリノフスキーによる未開社会に対する深い洞察

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 現代社会は人間の作り出した無数の制度やシステムの集大成であるということができる。つまり、現代人という人間集団は、主に法によってとりまとめられているといえる。もちろん、自分たち自身は愛情や友愛などで結ばれているのだ、と主張する人もいるかもしれないが、自分たちの生活やその生活を根底で支える行政組織や立法組織などを考えてみるや、それらが決して愛情や友愛だけから成り立つものではないことに愕然とする。この状況は20世紀や21世紀に始まったことではない。
 近代社会以降、近代人が人間集団としてとりまとめられる時に用いられる制度や法やさまざまなシステムには、特に人類学者から強い批判が加えられている。表面上は批判という形をとってはいないが、よくよく未開社会に対する言説を読み込むと、近代社会批判になっていることがわかる。
 B・マリノフスキー(翻訳ではマリノウスキー)の未開社会における犯罪と慣習に関する研究もそうだった。未開人の法と秩序を形づくっているものは何なのか。この問題提起をした瞬間に、近代社会に共通する、つぎからつぎへと新たな制度やシステムを作り続けなければ秩序が保たれないとばかりに行われている鼬ごっこに対するマリノフスキーの批判が透かし見えてくる。本書に先立つ『西太平洋の遠洋航海者』によってマリノフスキーはトロブリアンド諸島に伝わる「クラ」を調査している。首飾りと腕輪を反対方向に順々に送っていくものである。この慣習は、トロブリアンド諸島の住民は、自然と対峙して生きている自分たちの生活と、そうした環境の中で生き延びてきたことに対する感謝の念を確認する作業なのである。マリノフスキーは「クラ」を踏まえ、それ以外にもトロブリアンド諸島に伝わる「互恵主義」、呪術、儀礼などを観察することによって、未開人が近代人とは異なる法と秩序を維持していると主張する。メラネシア人は近代法とは異なる「集団感情」や「集団責任」に裏付けられた慣習によって、強く取りまとめられていると説く。マリノフスキーの強い近代批判を読みとることができる。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.07.10)

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