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  3. ナンダさんのレビュー一覧

ナンダさんのレビュー一覧

投稿者:ナンダ

59 件中 31 件~ 45 件を表示

紙の本面々授受 久野収先生と私

2008/05/28 01:30

多数派がささえるファシズム

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 哲学者・久野収を弟子を自認する佐高が師の姿をえがく。
 戦前から軍国主義と徹底してたたかいながら、共産党のような独善的な正義におちいらず、形式的な闘争方法におちいることも拒否し、自らの弱さを直視し、大衆文化のなかに新たなヒントを探しもとめた。
 だから自分の思想すらも疑い、敵の思想のなかに敵をうち破る契機を見いだそうとする。左翼が「ナショナリスト」と唾棄する北一輝のなかに、下からの革命的な思想の萌芽をかんじとり、北を一定程度評価したうえで「ファシズムによってからめとられてしまった」と説く。
 官僚批判も、佐橋滋といった異色な官僚を評価することで説得力をもたせる。外からの言いっぱなしの批判ではない。
 「ファシズム=人民は苦しんでいる」というステレオタイプを批判するのも印象的だ。軍備に力をいれるなかで、逆に経済的に豊かになる面もでてくる。実際に「独裁政権」の国をおとずれたら、けっこう裕福だったりする。
 ファシズムの権力者は、民衆をうまくあやつりながら批判的な人たちを孤立させ、そこを徹底的に弾圧することで政権を持続させる。それでもごまかせないようになると、戦争に流れこむ。
 戦前の日本、いや、今の日本にも似ている部分があるのではないか。
 「ファシズム=苦しい人民」というステレオタイプの危うさは、南米の準軍事政権の国をおとずれたときに実感した。「飯もうまいし、ディスコも楽しいし、女の子もかわいいし、けっこういいところじゃん」と、のめりこむ日本人旅行者は多かった。
 ファシズムの国でも「多数派」はそれなりの生活をおくっている。少数派を切り捨て、のこった多数派のなかから少数派をつくりだして切り捨て、さらにのこった多数派のなかからまた少数派をつくって切り捨て……気がついてみたら自分が少数派だった、という構図こそがファシズムのこわさなのだろう。

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紙の本「源氏物語」に学ぶ女性の気品

2008/05/19 13:01

平安貴族のセックスを解説

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 源氏物語は、超一流の恋愛小説でもありエロ小説でもあるってことがよくわかる。登場する女性を1人1人生き様を紹介する。
 当時の貴族は妻問婚である。セックスするまでは顔をみることができず、だから、噂話を収集し和歌の交換によって相手の人品をおしはかる。女の家族も娘をいかに高く売るかかんがえて、和歌を代筆したりする。
 夜這いに成功してあこがれの女性と寝ることができたとしても、部屋は真っ暗だし、夜が明ける前には女性の部屋を退去するから、はじめて顔をみたときに「なんでこんな不細工なんだ!」とおどろくこともある。姉妹をまちがえて寝てしまうこともあった。
 他人の妻をうばったり、強姦してモノにしたり、三角関係に悩んだり……と、平安貴族の性は奔放だ。
 主人公の光源氏はマザコンであり、母の面影をしたって次々に女に手をだす。幼い紫の上に目をつけてかこってしまうところなどはロリコンだし、義理の母にも手をだす。とんでもないプレーボーイなのだ。
 「女性の気品」というより、「平安貴族の恋愛セックス教本」とでも言ったほうが売れるのではなかろうか。

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弱さ故の感受性が強さに転じる

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 十数年前、「風成の女たち」という筆者の本を読んだ。火力発電建設に反対する漁村の女達の物語だ。それまで読んできた社会問題の本にはない情感が印象的だった。
 「豆腐屋」を読んで、なぜあれだけ美しい文章が書けるのかわかった。
 金がなくて進学できず、病弱なのに入院もできない。貧しさ故に兄弟の仲も険悪になる。自殺を考えるどん底で、短歌をつくりはじめる。
 朝日新聞の歌壇に、日々の暮らしをつづる歌をのせるのを唯一の励みにした。10歳下の19歳の妻(妻が中学生の時からみそめていたという)をめとった愛の歌、老いた父とのかかわり……、どれも心に染みわたる。
 歌がみとめられ、毎日新聞の地方版や地元テレビに紹介され、「それでも自分は豆腐屋だ」と何度も自戒する。
 体が弱く、暴力に弱く、貧弱な体を見られるのがいやで上半身裸になることもなかった。自分が弱いからこそ周囲にやさしくあらねば、と思いつづける。寂しさと弱さ故に、自然の美しさや他人の気持ちを鋭敏に感じとる。そんな感受性の強さが、後に、死刑廃止運動や火力発電廃止運動に先頭を切ってかかわる強さに転じていく。
 加藤周一は「どんな強い人でもゴリラにはかなわないのだから」と、暴力にたいする劣等感を理性で克服していた。松下は、自分の弱さを骨の髄まで味わったうえで、それを超克したように思える。
 人間の弱さや寂しさを感じ尽くしているからこそ、あれだけの文章を書けるのだろう。日々のぬるま湯のような生活に安住していては、彼の境地には達せられまい。恵まれてるのはいいことだけど、「守り」に入ったら感受性の扉を閉ざすことになってしまう。そのことが、ひしひしとわかる。

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アウトローだからこそ見える「人間らしさ」を追求した論考

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 どの論考も新鮮で、古さを感じさせない。現代の日本にあてはまる個所がいくつもある。テーマを5つほどにしぼって感想を記したい。
 □言葉
 あらゆる体制の支配者がみずからの国を「民主主義国」であると主張し、政治的文章は党派の左右を問わず、「民主主義」「階級」「全体主義」「進歩的」などの抽象語に走る傾向にある--。
 こうした「政治と英語」におけるオーウェルの指摘は、抽象語を「大文字言葉」と呼んで批判する佐野眞一と似ている。「環境」とか「地球にやさしい」とか「官から民へ」とか「改革」も大文字言葉だ。これに対して、具体的でわかりやすい言葉を「小文字言葉」と佐野は名付ける。オーウェルはまさに「小文字言葉を使え」と説いている。
オーウェルに言わせれば、政治的混沌は言語の堕落と結びついており、言語を改善することで政治も一定の改善を図れるという。
 今の日本も同様ではないか。メディアやお役所に氾濫する、わかったようでわからない抽象的な言葉を具体的で平易な言葉に置き換えることは、日本の政治や社会を多少なりとも改善することにつながるのではないか。
 「文学と禁圧」では、「現代における政治的文章は……ボルトで締められた出来合いの語句から成り立っている。平明な力強い言葉で書くためには、恐れ臆することなく考えなければならない。そして恐れはばからずに考えるならば、政治的に正統ではあり得ない」と書いている。小文字言葉を書きつづけるためには、権威に依存してはならない。アウトローでなくてはならない。換言すれば、表現者はどこまでも「人間的」でなくてはならないのである。

 □ナショナリズム
 オーウェルは愛国心を肯定し、ナショナリズムを否定する。愛国心は自分で大切だと思っても他人にまで押しつけようとは思わず、本来防御的なものという。一方、ナショナリズムは権力欲と結びつき、「自分たち」以外をおとしめる。自他の姿を客観的に比較し判断する目も曇らせてしまう。
 彼によれば、ソビエトを崇拝する共産主義者や、政治的カトリシズムやシオニズム、反ユダヤ主義などもナショナリズムに含まれる。「ナショナリスト」は、自らの目で現実を見て判断・行動することができない。頼るべき権威なしには生きられぬ存在である。
 こうした視点は魯迅に似ている。魯迅は「展望があるからたたかうのではない。暗闇だからこそたたかうのだ」といった主旨の文章を書いていた。1970年代までの学生運動はマルクス主義という「展望」に依存して盛り上がった。その展望が崩れると、依存対象を「会社」にかえて猛烈サラリーマンが生まれた。会社が安住の地でなくなると、石原都知事や小泉元首相のような「頼りになるボス」に依存した。戦後60年たっても、(オーウェルの言う意味での)ナショナリズムから日本は抜け出せていないことがよくわかる。
 □行動者と表現者
 表現するためには、あらゆる党派や組織や個人に依存してはならない。だが、政治にはコミットしつづけるべきだとオーウェルは言う。
 「政治においては2つの悪のうち、より小さな方を選ぶだけ」であり、党派に属すればそのために命をも賭す。一方、表現においては、党派に属さず客観性を徹底的に追求し、表現をつぶそうとするグループがあれば、たとえ味方でも批判する。
 「ナチスとのたたかいでイギリスが踏みとどまれたのは、左翼知識人たちが目の敵にしていた愛国心という古色蒼然たる感情のおかげ」と書くオーウェルは、行動者の立場から左翼知識人を批判している。「ナショナリズム」に対する論考は「表現者」の立場から全体主義を批判している。

□人物評、書評
 ダリは性的倒錯で死体愛好症で、恋人に会う前に山羊の糞を油で煮立てた軟膏をを体中にすり込むという変質者だった。
 ダリの芸術を好む人は、ダリの変態性をも許し、ダリの変態性を許せぬ人はダリの芸術をも認めないという構図があった。オーウェルは、「我々はダリがすぐれた画家だということと、嫌悪すべき人間だということと、2つの事実を同時に把握できなければならない。芸術家も市民であり人間であるからだ」と説く。
 政治的には正反対といえるチャーチルの政治的回顧録を「文学性においても率直さにおいてもつねに抜群のもの」と高く評価し、「彼とその党が1945年の選挙で勝利を収めなかったことをどんなにありがたく思おうとも、彼のなかにある勇気ばかりでなく、度量の大きさと人間的なあたたかさは、たたえなければならない」とも書いている。
 自らの政治的な「敵」に対しても、「坊主憎けりゃ袈裟まで」的な、いわば「ナショナリスト」的な態度はオーウェルは取らなかった。

 トルストイの生き方に対しては「人間」対「聖者」という図式で批評する。
 トルストイはシェークスピアのリヤ王をこっぴどく批判した。世を捨てたリヤ王はすべてを失い絶望のなかで死ぬ。実はトルストイも同様に領地・称号・著作権を放棄し、百姓生活を送ろうと試みた。神の意志をおこなうには地上の快楽や野心を捨て去って、ひたすら他者のために生きなければならない……と考えた。彼はすべてを捨てたが、子にも裏切られ妻とも不仲になり……リヤ王のように野垂れ死する。
 トルストイは、あらゆる愛も楽しみもなくしてしまえれば、苦痛に満ちた過程は過ぎ去り、神の王国がやってくると言う。しかし普通の人間は神の王国よりも、この世での生活がつづくことを欲している。
 「天国」「涅槃」に永遠の安らぎを見いだすキリスト教的な考え方は、地上の生活の苦痛に満ちたたたかいをのがれるという意味で享楽主義的である。ヒューマニズムの態度とは、「苦」だらけの人生を戦いつづけるほかないのであり、死とは生が支払うべき代償だという態度である。
 シェークスピアの悲劇は、人生は悲哀に満ちてはいるが、なお生きるに値するという人間主義の前提から出発している。トルストイとちがって、シェイクスピアは「聖者」ではなく「人間」だった。オーウェルは「人間」としてたたかうシェークスピアを高く評価する「人間」だった。

 「聖者」や「来世的態度」をきらうオーウェルは、左翼や平和主義者が称揚するガンジーを好きになれない。ガンジーは、禁煙・禁酒を説き、特定の人への愛情をもってはならないとする。こうした態度は「崇高ではあっても非人間的」とオーウェルにはうつる。
 だが子細にガンジーの生き方を追うと、惹かれる部分も出てくるという。
 「暴力の放棄を誓った後でさえ、彼は誠実にも、戦争の際には普通どちらか一方の味方となる必要があることを見抜いていた。いずれが勝とうと問題ではないと主張するような、不誠実な態度をとることはしなかった」
 「インドとイギリスが穏当な関係に落ち着くとすれば、これはガンジーが憎しみをもたずに自己の闘争をつづけることにより、政治の空気の消毒を行ったからではなかろうか……私同様、ガンジーには一種の嫌悪感を催すものでも、彼をほかの政治家と比較するなら、彼はなんと清らかな匂いを後に残しえたことだろう」

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有名な事件事故を独自の視点で描くすごさ

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「すごいよ、この人、被災者じゃないのにそのまんま気持ちが伝わっている感じがする」と言われて読んでみた。
 「事件事故の現場はノンフィクションを目指す者にとって、いつも最高の習練の場だ」という。大きな事件事故現場の取材は難しい。どこからどんな角度で取材したら、自分しか見いだせない視点で描けるのか、なかなか見えてこなくて途方にくれる。
 たとえばアメリカの今回のハリケーンにしても、貧富の差、格差社会、繁栄のなかの貧困というありきたりのキーワードは浮かんでくるが、じゃあそれを描くためにどこから切るかというと、はたと迷ってしまう。
 だれもが知っている有名な事件・事故の現場を舞台にしながら、佐野氏にしか描けない事件・事故を描いてしまうすごさ。その土台は、「今」だけではなく「歴史」という縦軸を絶えず意識していることと、徹底した現場へのこだわりにあるのだろう。
 たとえば阪神大震災のルポでは、関東大震災のひと揺れが、その後の昭和テロ事件を誘発させる要因となったという歴史的な視点を提示している。
 JCO事故では、専門家の次のような証言をひきだしている。
「専門家ならすごい被爆量だとすぐわかる。放医研でも、助からないだろうな、と思ったそうです。でも本人は、いつごろ退院できるんでしょうか。会社にいったら怒られるだろうなあ、と言ったそうです。彼らには自分がどれだけ危ない仕事をしていたかという自覚はなかったんでしょう。自分だったら、青い光を見た瞬間、これで死ぬとわかるし、動転したでしょうが、(彼らは)こぼしてすらいないんです」
 核の怖さと、怖ささえも知らぬままに真正直に働かされ死んでいった労働者。その対比が そらおそろしかった。
 なぜこんな大事な証言が新聞やテレビには出てこなかったのだろう。

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赤軍に巻きこまれた仁義の人

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 泉水博といえばダッカ事件で釈放された日本赤軍活動家というおどろおどろしいイメージしかなかった。その像を一気に覆される。
 泉水の不幸な生い立ちに寄り添い、共感し、体温のある人間として描く。
 泉水はもともと「思想」のかけらもなかった。
 殺人事件の共犯として無期懲役をくらった(これさえも本人は否認し物的証拠もない杜撰な裁判だった)。仮釈放間近、刑務所の仲間が死にそうなのに医者にみせてもらえないことに怒り、立てこもり事件をおこした。それを知った日本赤軍が、勝手に釈放リストに指名したのだという。
 しかも、釈放に応じたのは、「自分が行かなければ人質が殺される」という義侠心によるものだった。「釈放要求が来ているが、どうだ」と刑務所当局が持ちかけ、悩みに悩んで決断した。もしハイジャック犯の要求を泉水につたえなければ、泉水は釈放要求リストにはいっていることさえ知る術がなかった。国家が決めるべき決断を、何も知らない個人に負わせ、それが結果として、泉水を赤軍側に追いやったとも言える。
 1988年に潜伏先のフィリピンで旅券法違反で逮捕された。
 政府も、警察発表をうのみにするマスコミも「刑事犯あがりのテロリスト」というイメージをふりまいた。赤軍に参加することの是非はともかく、政府がそういう立場に追いやったのに、「逃亡」とされて無期刑の「つづき」をくらい、獄中にいる。
 作者はできあがった記事を獄中の泉水に差しいれた。だが感想は黙して語らない。作者は「その沈黙の重さの前に、作者はたじろいでいる」と結んでいる。「たじろいでいる」という部分に共感とを感じる。
 泉水は、日本赤軍のなかでも貴重な人材で、左翼学生あがりの理屈っぽい活動家に人間的なものを吹きこんでいたとという。
 以下、その抜粋。インテリ的な左翼運動の欠点と、泉水の人間性が如実にしめされている。
 重信房子の発言「泉水さんが『こうやったら勝てるわ、いけそや』と、非常に創造的なわけ。ところが学生あがりは理論的であろうとして『そんなことレーニンがいってない』などといって観念的になってしまう」
 泉水の自己批判書「自分のダメさ、同志のダメさを出し合って共に克服すること、誰もが本音をぶつけあうこと、それが互いにかえあっていく根本であると」
 「私はその同志の人間性の貧しさに気づきました。時に、やくざ組織にいた人間の方が義理も人情もわきまえていたと思うことが幾度かあります」
 丸岡修の著者への手紙「彼の方が常識的な判断をするので、組織内では上の同志でもしばしば彼の判断をあおいだくらい。彼の投票の基準は、同志に嘘をつくか否か、行動が普通の人から見て常識的か、理屈ではなく実際に行動しているか、だった。機械の補修などは完全に彼に任されていた」

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紙の本平和と平等をあきらめない

2008/05/05 12:08

「能力主義」蔓延の恐ろしさ

8人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 どの業界でも「能力に応じて」給料や退職金、ボーナスの差をつける「能力主義」が蔓延している。
 他人の評価を必要以上に気にする必要はないとは思っても、平均点を超えればうれしいし、下回ればいい気分はしない。上司に気に入られる仕事もしないといけないかなあ、とか考えてしまう。
 昔のちょっと大きな会社には、いつも窓際で鼻くそをほじっているような奇人・変人社員がいたもんだが、今はそんな存在は払拭された。そういう人が消えたあと活力ある職場になったか? むしろ「仕事をしない」とレッテルをはられたら居場所がなくなる、という恐怖感だけが広まったのではないか。
 自分が「勝ち組」だと信じているのか、能力評価をする上司の力量を信じているのか、多くの会社員は能力主義を支持しているという。そんななかでは、「能力主義反対」は負け犬の遠吠えとしか思われない。
 時流に乗らない仕事、上司の気に入らない仕事をしていたら飛ばされるから、萎縮する。人権やら憲法やらは「時流に乗らない」最たるものになりつつある。国立大学法人化のとき、あまりに流れが速いのでもはや抵抗できないと教員たちは思いこんでしまったという。
 職場でも、地域でも、国レベルでも、戦後「当たり前の価値」と思われてきた平和と平等が危機に瀕している。そんな今だからこそ、せめて教育者やマスコミや弁護士といった一定の教育をうけてきた人間は、ちゃんと声をあげよう、それが責任じゃないのか、と本書は問いかけている。
 警官の巡回連絡で勤め先をたずねられて回答をことわるとき、NHK受信料を「うちは払わないことにしています」と断るとき、君が代斉唱のときに座りつづけるとき……上気して顔がかっかとしないだろうか。興奮とも恐れともビビリとも言えるそんな気持ちを、一人一人が体に刻みこみ乗り越える必要があるのだろう。

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「展望」や「正直」を拒否する生き方

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「必ず社会はよくなる」「正しいことは必ず認められる」といった安易な「展望」を廃し、絶望のなかでも最も適切と思われる手段をえらび、抵抗しつづける。それが魯迅の生き方だという。
 「展望」という言葉を指導者とかヒーローと置き換えてもよい。左翼勢力が衰え、社会変革という「展望」がなくなった今、世界的にカリスマ的な指導者がもとめられているからだ。
 「展望」に依存してきた人は、展望が崩れた途端に羅針盤を失う。指導者やカリスマに傾倒する人、宗教にのめりこむ人と、ある意味で同じである。
 日本人は戦後、米国からの民主主義に触れて、天皇や家父長という権威への依存から脱した。だが、社会変革という「展望」への依存に移り、その展望が崩れると今度はまた「指導者」への依存にもどった。それが宗教ブームであり石原慎太郎や小泉首相の人気なのだろう。
 だれがなんと言おうと、どんな状況だろうと、自暴自棄になることなく冷静に自分の進むべき道を歩める「個」は、戦後半世紀たっても育っていなかった。
 「依存」という意味では、誠実やマジメを称揚する「道徳への依存」も筆者は批判する。「自分に嘘をつけないから」と相手が傷つくことがわかっていながら、「素直に」気持ちを表現する自称まじめ主義者は、自分の背負うべき苦悩を無責任に相手に背負わせているだけだ、という。「素直」「正直」というのは「愚か者」とある意味で同義語なのだ。

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紙の本冒険者カストロ

2008/12/01 12:51

おぼっちゃまの楽天性が冒険者を生んだ?

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 人気のあるゲバラではなく「冒険者」としてのカストロを描く。
 裕福な家に育ち、大学で政治にめざめる。モンカダ兵営襲撃に失敗し、片腕のアベル・サンタマリアも含めて多くの同志を失い、逮捕されるが、その法廷をも自らの信条をアピールする場として利用してしまう。刑務所では学校を設立し、法や哲学を勉強する場をつくる。
 メキシコに亡命し、グランマ号で逆上陸した直後に戦闘で大敗北を喫し生き残ったのは86人のうち16人だけ。フィデルはたった3人で山をさまようことに。それでもラウルと再会を果たした山中で、「ライフルは何挺ある」「5挺だ」「こっちは2挺だ。全部で7挺になった。われわれは、戦いに勝ったぞ」という楽天性というか能天気さだ。
 32歳で革命を成功させ、最初は共産主義者のそぶりもみせずにアメリカをだまし、社会主義革命を開始してアメリカと反目するようになると、ソ連を利用して互角にわたりあって守った。楽天性とたぐいまれなしたたかさを描いている。
 フィデルにしてもゲバラにしても、おぼっちゃま出身だ。やはり金持ちのボンボンのほうが、生活の厳しさを知らないぶん冒険に踏み切れるのかもしれないな。

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紙の本市町村合併と地域のゆくえ

2008/12/01 12:45

「自治」ではなく「支配」が目的だった市町村合併

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 平成の合併の真っ最中に読んだ。「サービス水準は下げない」という政治家たちの約束は、この本が書いたとおり画餅に終わった。
 「旧町村には支所をおき、サービス水準を維持・向上させます、といった合併推進論者の説明は、住民をサービスの受け手としかみておらず、サービスのあり方を決める主権者として意志決定に参加する住民をまったく想定していない」
 この指摘には目を開かされた。
 合併を推進する政府は「地方自治の強化」を理由とし、サービス水準がさがることはない、と言う。実際はどうなのか。
 篠山市の支所(旧町役場)は年々職員を減らされ保健婦もいなくなる。あきるの市では国民健康保険税が引き上げられる。「サービスは高く、負担は軽く」というスローガンは守られたためしがない。むしろ逆になるという。
 明治と昭和の合併の説明も興味深い。それぞれ小学校の義務教育化と中学の義務教育化の負担を経済的に支えるためだったと説明されることが多いが、それは表面しか見ていないという。
 明治の合併は自然村を約7分の1に減らした。自由民権運動が民会(地方議会)開設を要求を強めるなか、地主に自治権を与えることで政府が統治機構を掌握しようとしたのが合併の理由だという。「地主的地方自治」を土台とする中央集権を目指したものだった。ちなみに機関委任事務は明治維新の数年後には生まれている。
 昭和の合併も同じ構図だった。シャウプ勧告では、機関委任事務の廃止などの地方分権をはかるなかで合併も認めるという記述があった。ところが官僚の抵抗によって分権はなされず合併だけが推進された。
 戦後、地主制度が崩壊したあとの農村統治機構を整備するためだった。だから、合併の御褒美だった各種事業は、約束とちがって大幅に縮小され、安上がりに期待はずれなものに終わった。地方自治力の強化ではなく、中央政府による支配力の強化が目的だった。実際その後、地主支配にかわって補助金による中央集権的支配が強まっていく。
 では平成の合併はどうか。グローバル化によって日本の政治は農村を捨てた。財政的に補助金による支配は継続できない。そこで、「効率よく」支配するために自治体の数を減らすことになった……。
 昭和の合併よりいっそう「安上がりの合併」になる可能性が高いという。

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右にも左にもおぼれず中道にも流されぬ孤独で冷静な知性

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 戦前、大正デモクラシーがあっという間につぶされ、知識人が次々転向するなかで、自分にこもることで理性の立場を守った。1940年前後という大変な時期に、真理の使徒であるソクラテスと彼を殺したソフィストの逸話をつかって、言論人がすべて順応主義に陥っていく状況を暗示するなどしていた。
 戦後、世の中が大きく革新の方向にふれたときも、そのブームに流されない。共産主義というものにある種の希望を抱きながら、ソ連の実態や共産党の実態などを冷静に観察し、批評する。真理の探究という立場から、右にも左にもおぼれず中道にも流されず、冷静な目を貫いた。
 1950年の段階で、以下のように書いている(要約)。
「シベリア抑留などによってソ連という新世界へのおめでたい期待が見事にうらぎられた。……ラジオを発明したのも、蒸気機関を作ったのも、飛行機をつくったのも、実はすべてロシア人だった……と教えるソ連の学校教育のなかに、強烈で滑稽なナショナリズムを見て、その逆に、プラハの春のように衛星国のナショナリズムはたたきつぶす。学問・芸術の分野でも次々と粛清していく。特権というものが人を変えるというメカニズムがある。クレムリンが中世末のビザンチン色を帯びたとしても驚かない。政権が共産主義的人間を『内』から危機に陥れるおそれがあるのは、教権がキリスト者を『内から』危機に陥れたのと同様である。野呂榮太郎のごとき素晴らしい共産主義的人間もいるが、こうした英雄は、キリスト教世界でいえば聖者の系列に入るべき純粋型であり、共産主義者の政治ボス型とは、同じ共産主義といえでも実は雲泥の差がある。ローマ教皇や枢機卿、大司教にして聖者となったものがまことに少なかったのと同じだろう」
「抽象的人民の愛のために献身することはたやすいが、生身の人間のかけがえなさと重要さを尊重し、それらの人々の一切の欠点を長い目で導いて、幸福と安泰を具体的にはかることがいかに至難の業か。手に余る異分子を『人民の敵』『祖国の裏切り者』と排除することほど、権力にとってたやすい誘惑はない」(1951年共産主義的人間)
 日本の旧革新陣営の人や組織と接したり、「社会主義政権」が統治する国々を訪ねて疑問に感じてきたことが、50年も前に解き明かされていたことに驚かされた。

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紙の本若者の法則

2008/11/18 12:02

若者の生態を「大人」向けに解説

7人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 敬語を使わない。入試にまで親が見送りをする。オリンピックでも日常生活でも「楽しみたい」とばかり口にする。やけに大げさに自分の体験を語ろうとする。身近な人にはやさしいのに、(少年犯罪の被疑者ら)「外」に対してはやけに厳しい。何かと大泣きするくせに、失恋でも立ち直りが早くあっさりしている。「有名になりたい」と臆面もなく言う……。
 「今の若者はぁ」と大人はいつの時代でも語るが、「いつの時代でも」と言うだけでなく、実際に大きな変化があるのではないか--というスタンスで描かれている。
 まるで別の生き物のような「若者の生態」を大人向けに説明している。

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紙の本キャパその青春

2008/10/03 12:40

重苦しい時代を、破天荒な青年の生き方を通して描く

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ハンガリー生まれのユダヤ人のキャパの青春時代を描いている。いいかげんで楽天的で、ハッタリが大好きで、女好きで。典型的なラテン系。定職につけず、借金は踏み倒し、家賃は払わず、人に迷惑ばかりかけているのに、愛きょうがあるから許されてしまう。
 第1次大戦と2次大戦の狭間。ハンガリーでは左翼政権がつぶされ、左翼活動にかかわっていたキャパは、ワイマール憲法下のドイツへ逃げる。しかも徒歩で。
 亡命ハンガリー人をたより、左翼勢力とつきあう。が、世界恐慌を背景にして、ナチスが勢力を拡大する。当時のドイツ共産党はナチスが政権をとることで矛盾が増して革命につながる、という甘い読みをしていた。ナチスが台頭するにつれて、ユダヤ人への差別がひどくなる。身の危険を感じてパリへと逃げる。
 一文無しでの暮らしのなかで、毎日新聞の記者や岡本太郎らとも親交を結んだ。社会党と共産党が手を結んで人民戦線政権が誕生した。一方で、ナチスが政権を握ったドイツの脅威がひたひたと迫っていた。
 そんなときに、スペインで内戦が勃発して取材に出かけ、「崩れ落ちる兵士」を撮影することになる。ただ、この写真も「やらせ」疑惑があるという。
 スペイン内戦の描き方も、オーウェルとは微妙にちがう。オーウェルはアナキストたちの動きを評価し、ソ連からの武器を独占して人民戦線を牛耳るスターリニストを批判した。この本の筆者は、どちらとも距離を置き、人民戦線側の急進的な革命路線によって、処刑された人々についても描写している。ちなみにキャパは、オーウェルと同じようにアナキスト系にシンパシーを抱いていたという。
 破天荒なキャパの生き方を通して、重苦しい時代を描いているのがおもしろい。

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紙の本同時代ゲーム

2008/09/30 14:28

故郷のムラへの愛と、画一化を強いる権力への反発をコテコテに描く

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 時制がばらばらで、読みにくいこと極まりないが、がまんして字面を追っているうちにひきこまれ、時間をかけて読んでしまった。
 メキシコの大学で教える「僕」の今からはじまるかと思えば、故郷の「村=国家=小宇宙」が何百年か前に成立する神話に飛び、「僕」の子供のころの体験に移り、「村=国家=小宇宙」が長らくの鎖国が破られて藩に吸収される場面にかわり、第2次大戦前夜「50日戦争」によって大日本帝国に徹底抗戦する場面に飛ぶ。
 「村=国家=小宇宙」の現場は大江の故郷の大瀬村(現内子町)であり、彼が描く神話の世界は実際に先祖代々伝わってきたものを素材にしており、その神話世界をつぶす巨大な力として大日本帝国があり、天皇がある。
 あるいは文化大革命を暗喩するような記述もある。柳田国男の影響か、民俗学的な逸話もふんだんにもりこまれている。
 たしかなのは、故郷の村と森への限りない愛情と、画一化という形でそれを踏みにじる力への反発であろう。それが天皇権力だろうと高度成長だろうと。
 文学も宗教も民俗学も哲学も歴史も、何もかもをコテコテに詰めこんで、混ぜ合わせてつくったような作品であり、大江自身の思想の遍歴と混乱と成長を時制を無視して詰めこんだような印象を覚える。

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「科学」の客観性が崩れ、宗教や哲学と融合する時代に

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 現代の科学は、中世的なキリスト教の迷妄から脱することで
生まれた。
 客観的な「データ」を蓄積することで理論が生まれる。技術
や学問の進展によってより多くのデータを獲得することができ
るようになり、科学は発展をつづけてきた--
 これらが一般的な「科学」の見方である。

 これらの俗説は本当だろうか? というのが筆者の問題提起
だ。
 キリスト教の迷妄から脱することで科学が生まれた、という
説については、ニュートンやガリレオやコペルニクスやケプラ
ーといった、近代科学の父とされる人々はいずれも熱心なキリ
スト教信者だった、という事実が提示される。自然界
にはたらく神の摂理を知るために、彼等は天体を観測し、理論
化し、重大な発見をした。
 キリスト教からの離脱が科学を生んだのではなく、キリスト
教的な「偏見」こそが科学の基盤になったのではないか。そう
考えると、全世界のなかでヨーロッパだけに近代科学が生まれ
た理由の説明もつく。キリスト教と、ギリシアやイス
ラム圏域の文化がまじりあった特殊な状況が科学を生んだとい
う。
 科学がキリスト教から離脱するのはフランス啓蒙思想の時代
になってからのことだという。
 では、客観的「データ」というのはあり得るのだろうか。老
女にも若い娘にも見える絵を示し、見る人によってデータの受
け取り方は異なることを示す。
 同じ景色を見ても、人によって見ているもの、見えるものは
異なる。個々の人の理論や感受性といった枠組みがまずあって
データもそれによって変化する。「客観的なデータ」はあり得
ないのではないか……という。
 でも、そう断じてしまっていいのか、という疑問もないわけ
ではない。
 デカルトは「目の前にあるこの景色は夢かもしれない。自分
の手も指も夢かもしれない。でも、夢かもしれないと考える私
、の存在は確かだ--」と考えてコギト(我思う故に我あり)
にたどりつく。デカルトがもうひとつ「確か」と考え
たのは「延長」だ。色やにおいや音といった感覚器官によって
感受するものは不確かだが、「長さ」や「広さ」という空間(
延長)は確かなものではないか、と考えた。
 「若い娘にも老婆にも見える絵」は、「○○の絵である」と
いう定義は感受性というフィルターを通すぶんだけ「不確か」
だが、「幅10センチ高さ20センチの紙に延長50センチほ
どの線が描かれている」といえば「確かなデータ」と
言ってもよいのではないか。デカルトの考えだとそうなるはず
だ。
 カントはもう少し緻密に考えた。自らの感受性と知識の蜘蛛
の巣にひっかかるものだけを人間は「事実」として認定できる
が、そのほかは認識さえできない。
世の中には「客観的事実」はたしかに存在するのだけど、人間
ははずすことのできない色眼鏡をかけてそれらを見ている(自
分の蜘蛛の巣にひっかかるデータだけを感じとる)から、「事
実はこんなものだろうな」と想像するしかない。
 ではデカルトのいう「延長」は「確かなデータ」なのか?
 ユークリッド幾何学をはじめとする近代の科学では、三角形
は三角形であり、1メートルの長さは1メートルであり、1時
間は1時間である。それを覆したのが相対性理論だった。光速
に限りなくちかい世界では、速度によって「長さ」も「時間」
も伸縮し、その状況を外から見れば、図形の形はピカソの絵の
ようにゆがむことになる。
 「時間」でさえも絶対的ではない、という結論になってしま
った。
 だから、「どの時代にもつうじる客観的なデータなどありえ
ない」という筆者の結論は科学的にも正しいのかもしれない。
だって、地球の速度が変化すれば、長さも時間も変わってしま
うのだから。

 科学的データの客観性は崩れ、データの蓄積によって科学が
進化する、という考え方はこうして崩れた。哲学の分野では、
歴史の進化を前提とする近代哲学に疑問を呈して、どんな認識
も理論も科学も、その時代の認識の枠組みの影響をま
ぬがれることはできず、絶対的に客観的な認識などできようが
ない、という「構造主義」が生まれる。
 自然科学と社会科学と宗教がもう一度融合する時代になりつ
つある、と考えたほうがよさそうだ。

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