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死と身体 コミュニケーションの磁場 みんなのレビュー
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死者(他者)と交歓、交換そして、ゴウカン…、
2004/11/22 12:16
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る
内田樹は演題が前もって指定されない時は、「これで日本は大丈夫?」、「身体論」のどちらかにするとのこと。本書はそんな講演で「身体論」をテーマに再構成したものです。時には論理の飛躍があるかもしれないが、とてつもない世界観を仮説提示してくれる。このあたりの破綻スレスレの揺らぎが内田樹の真骨頂です。
内田樹は格闘家武蔵に「リアルファイトの場合、相手から強いパンチを受けたときに身体はどう反応するか?」って訊く。その答えが「時間をずらして対処します」
《相手からパンチを一発受けたときは、逆に、自分がその後のワン・ツーと二発相手の顔面にクリーンヒットしている状態を思い浮かべて、それを「現在」であると「思い込む」というのです。[…]けれども、それはすでに「過去の出来事」なので、もうあまりリアリティがない。それほど痛みもない。》
合気道の達人は先の先と言う。
《『先の先』で動く人間というのはおそらく相手と違う時間の流れを進んで、先の時間にいっているのです。ですから、絶対に勝つ。絶対に勝つに決まっている。「勝ったり負けたり」するものは武芸とは呼ばれない。武芸は必ず勝つ。構造的に勝つ。》
内田樹は哲学者としての自分と、武道家としての振る舞いとは不即不離で、そこから世界解釈をしているわけです。その立ち位置は「死んだ後の自分」を「現在」に想定しているわけです。例えば、現在只今の危機を解決するやりかたに、痛みをなだめる方法とも言ってもいいかもしれない「トラウマ」という物語を過去に想定するやり方もあります。そんなやり方はダメだと言っているのです。挌闘家の武蔵は前未来形で動いている。だから、打撃の痛みを軽減出来、勝つことも出来る。その未来形をどこまでも延ばして行くならば、「死んだ後の自分」という<私>が消失する点です。その点を現在に想定するのです。山岡鉄舟は早い段階で、自分の臨終場面とそのときの自分の体験までをもクリアカットでイメージすることが出来たと内田さんは言う。「先をとっている」のです。相手がブッシュであろうが、勝つことが出来る。
ブッシュの戦略は、資本制に支えられた、出来るだけ儲けて、気持ちのいい社会を実現するために計量化し得る世界市場に忠実で、それは「死なない自分」を想定したものでしょう。「死なない自分」とは何か、それはフーコーの言う家畜化であり、「死体として生きる」、フィギュア、臓器までも商品化する生権力による人口としての人間観でしょう。
今、流通しているヒューマニズムは「死が隠蔽されたもの」、未来を想定していない。時間とは歪んでいるものです。騙すことが出来る。ブッシュの弱点、資本主義の脆さは、僕たち個々が、「死」という地点から世界を日常生活をデザインすれば、崩れ去ってしまうということです。問題はわれわれに、そんな哲学があるか、又は持とうとしているか、ブッシュ的土俵の中でそんな気持ち良さを拒否できるかということです。
もし、ブッシュと戦い、勝つつもりなら、「死んだ後の自分」の体感をクリアにイメージするところから、修練する必要がある。まあ、そんなことを内田さんは言っているのだと思う。本書を読んで、ネアンデルタール人が葬礼によって他者としての死者を発見したことから、旧人類がヒトになったのであり、携帯の意味のないメールのやりとりこそ、ヒトがヒト足る所以であって、無意味性で、交歓のための交換こそが、コミュニケーションの最大の意味であり、デスコミュニケーションを基盤においた言わば交歓としてのコミュニケーションを最大限に評価する。理解し得ない故に交歓できる、そんな世界観は多元文化主義を乗り越えることのヒントになると読後に勇気をもらいました。ブッシュとフセインは交換、交歓できたはずです。でもそうはならなかった。
千人印の歩行器
死者のメッセージの不法代弁者に対する「霊的反撃」
2004/11/21 17:26
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
森岡正博の『無痛文明論』は西欧思想の最深部において「形而上学的な内戦」(あるいは自爆テロ)をしかけようとする異様・異例な書物だった。あれから一年。内田樹は本書で、レヴィナスの哲学と武道とフロイトの精神分析が交差する場──「自分自身が経験していない他者の体感」をよみがえらせる身体(運動性記憶を司る身体的知性)、「死んだ後の自分」という前未来形の消失点から「今」を回想する身体(時間感覚の錬磨に裏打ちされた身体的想像力)、言語活動を起動させる「磁場」、根源的なコミュニケーション(死者とのコミュニケーション)がたちあがる生と死の「中間[medium]」、等々──を活写し、死の恐怖に青ざめた形而上学的テロリストを撃つ。
内田樹は徹底的な(旧石器時代まで射程に入れた)プラグマティストとしてふるまう。「人間は自ら善を創造するまで、善が何であるかを知らない」。「倫理というのは、むしろ計量的な問題だろうとわたしは思います」。「わたしはぴたりとつじつまが合った社会理論より、あちこちに矛盾やほころびのある社会理論のほうを信用することにしています。そういう矛盾は「現場」からしか出てこないことばですから」。「理論の有効期限、賞味期限、地域限定、期間限定についての節度の感覚をもちましょう」。「「死者」という概念を得たことで、人間は「解決できないこと」を考えるという習慣を身につけることになり、それがそれ以降の爆発的な脳の進化に関与していたことは間違いありません」。
プラグマティスト・内田が称揚する闘いは、残響する死者のメッセージを不法に代弁しようとする者に対する「霊的反撃」である。──フッサール現象学は「幽霊学」であり、ハイデガーの存在論はガイスト(祖霊)にこだわる「死者論」(鎮魂論)であった。だが、ハイデガーが体現したキリスト教的西洋二千年の鎮魂葬送のノウハウでは、第一次世界大戦1300万人の死者たちの「祟り」(英霊の無念)を鎮めることができなかった。
《ハイデガーは、ナポレオン戦争の戦後と同じく、死者たちを「大地の霊」にすることで鎮めようとして、結果的にナチズムと親和してしまう。存在論は葬礼ための語法としては破産してしまうわけです。
だから、ラカンやレヴィナスのように第二次世界大戦後の思想的な活動を始めた人たちは、ハイデガーに代表される「ヨーロッパ的な主体」による葬礼を否定していくことになります。「あなたたちにはもう喪主は任せられない。これから後の葬儀は、わたしたちが仕切る」ということです。
結論からいえば、何十万人の死者を正しく鎮魂して二度と災厄を出さないようにするためにかれらが選んだのは、人間が人間になった起源の瞬間にもう一度立ち戻ることでした。つまり、人が人を弔うときの基本的なマナーをもう一回蘇らせる。それは、「死者は死んでいるけれども、死んでいない」「死者は自分たちに語りかけている、けれども、そのことばは聞き取れない」という、旧石器時代に埋葬が最初に始まったときの始原の機能を思い出すことでした。》