おばかキャラ登場、喜劇「オンディーヌ」?
2008/07/14 16:16
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投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
フーケーの「水妖記(ウンディーネ)」を題材にした、ジロドゥの戯曲「オンディーヌ」。フーケーの描いたお話は「水の妖精の悲しい恋物語」。人間と結婚した水の妖精が、相手の男が他の女性と結婚したためにその男を殺してしまうお話で、どちらかというと「人魚姫」のようなお話と記憶していた。
ところがジロドゥの作品は幕開けから喜劇的である。そして、1939年の作品とは思えないほど、登場人物の性格・行動が驚くほど現代人にもあてはまるので、心の情景が安々と伝わってくる。
他人の言葉を聞かず、奔放・無邪気に振舞う主人公の水の妖精は、訳者いわくのジロドゥらしいヒロインの典型、「世間から見ると変な娘」である。第一幕でも、ハンスとずっと傍にいるために体をつないじゃおう、といいだしたりするなど、随所に彼女の「奇抜な」考えや行動が笑いを誘い、時にはどきりとさせる。
お相手のハンスもとても「フツー」の男性であるようで、魅力的な女性にはつい心が動く。出会った途端にオンディーヌに魅かれてしまうと思えば、美しい女性姿の妖精たちが誘惑すると鼻の下が伸びる。ちょっと高慢なベルタにさえも、オンディーヌの仲間たちの不気味さも手伝って、心が戻っていく。こういうあたりは、「恋の喜劇」そのものである。
舞台としても、妖精たちの見せる不思議がたくさんあり、楽しめる。特に第二幕の宮廷の場では、叔父である水妖の王がいきなりトロイの木馬やヴィーナスを出現させたり、時間を三ヶ月飛ばしてしまうと見ている人の髯が伸びるなど、初演の時(1939)ではどうやってやっていたの?と驚きの内容である。この前後の場面は侍従との掛け合いなどなかなかドタバタ喜劇風である。この幕でもオンディーヌは、宮廷のしきたりを教えられている場面ですぐに傍らの詩人と話を始めてしまうなど、大いに笑える無邪気な奔放さをみせてくれる。
喜劇の奥には悲劇が透けてみえる。笑いっぱなしで場面は進んでも、なぜか幸せなカップルでは終わらない。三幕最後になりベルタと結婚式を済ませたハンスが死んだ瞬間、オンディーヌの記憶がなくなって無邪気な言葉を話す時、人間の性(さが)や愚かさの悲劇の姿が見えてくる。笑ってしまうほど悲しい、とびきりの劇である。
解説には「異種婚姻」の話としての民話解析や、人間の精神への価値観についての分析がかなりページ数を割いて論じられている。しかし、これらを考えなくても充分楽しめ、「人の心」を考えさせる作品である。こういうのがきっと名作なのだ。
最近人気がある奔放で陽気な「おばかキャラ」。オンディーヌやハンスを彼ら、彼女等に是非演じて欲しい。きっと面白い。
水の精の日常を描く
2022/01/07 22:53
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
波打ち際に打ち上げられたり、漁師の網に引っ掛かったりはしないんですね。人間社会に溶け込みつつも、時おりトンデモな行動に出ていました。
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恋に落ちた水の精のお話。 新幹線の中で読む本を持っていき忘れたので慌てて選んだこの本。 最初は「この娘あかんわ!」と叫んでしまったくらいだったけど、読み進めるうちに夢中になった。
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裏表紙の説明文には「究極の愛」とあった。異種婚姻譚という物語のパターン自体が究極の愛と結びつきやすいと思うけど、その中でも確かに「究極の愛」と呼ぶのにふさわしい作品だった。
あまりに純粋で偉大すぎる魂とあまりに卑小な魂とが惹かれあってしまったことがそもそもの悲劇の始まりなんだろう。
でも卑小な魂といっても、それは人として普通にもつ魂。人としてまともであるがゆえに、水の精オンディーヌの魂には及ぶべくもなく卑小なんだと思う。だから、オンディーヌが愛したハンスは、日と一般にまで拡大できて、人それ自体がいかに卑小なものなのかを思い知らされる。
そして、一方の純粋で偉大な魂は、決して神のような絶対的な存在ではなく、どこまでも澄み切った一人の女性として描かれる。悩み怒り悲しむとオンディーヌの言動自体は普通の人とそう変わらないはずなのに、どこまでも純粋さも偉大さも失わないで、かえってくっきりと際立っているように思う。
この越えられないくらいに激しい落差が必然的に悲劇を生むし、だからこそ究極の愛なんだろうなあ、とぼんやり思う。
かなり昔にエッセイか何かでラストシーンが紹介されていて、それ以来読みたい本の一つにずっとなっていた。でも一冊4500円のジロドゥ戯曲全集しかなくてなかなか手が出せないでいた。光文社古典新訳文庫のおかげで、こういう作品がとても手にしやすくなったと思う。「カラマーゾフの兄弟」のように他社でも出ている作品ではなくて、他では手に入らない隠れた名作をどんどん出していってほしい。
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フランスの文人ジロドゥ(1882-1943)の手に為る恋愛悲劇、1939初演。フーケーの「ウンディーネ」を下敷きにしているが、ジロドゥの描く水の精は、この19世紀ドイツの作家のそれよりも、もっと奔放で天真爛漫で、魅力的だ。幾分砕けた躍動感のある訳文が、ジロドゥ作のオンディーヌの性格をうまく表現していると思う。僕はオンディーヌのこの口調が好きだ。
幼子のように裏表の分裂のない、"永遠の15歳"である精霊の言動は、「みんなの大きな魂を、ほんとうに愚かに、こまぎれにしてしまった」人間社会に在っては、喜劇的に響いてしまう。この、動物的とさえ云える無邪気さ一途さが、オンディーヌだ。しかし、透明で純粋な魂こそが、我々の社会の中では、悲劇を引き寄せてしまう。
透明で純粋な自他未分離の愛情に忘我することを、人間は一方で求めているようでありながら、他方では確かにそれを恐れている。それは死の際の一瞬に於いてのみ可能となる、成就ならざる成就。
騎士は死に、精霊は忘却する。永遠に隔てられた二人の間に、オンディーヌの嘗てと変わらぬ無邪気な言葉が響くのが、切ない。
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ジロドゥといえばルイ・ジュヴェで、解説にはジャン・ルイ・バローも登場するから、「映画に恋して」に配架。王妃に語るオンディーヌの言葉『そこでは最初にむかえた男が、つねにただひとりの男です。』と、ラストが哀しいですね。最初にベルトランに会えたらよかったのに。そうしたら、お話が成り立ちませんが。えっ、ハンスって自然を踏みにじる人類の代表なの!?
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オンディーヌ、純粋無垢で明るくてキラキラしてて本当にいい子で。
最終的には悲恋だけど愛ってこういうものだよなって思いました。
小説で久々に泣いちゃった。
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なんとなくデジャヴを感じでしまった。何故?
ラストまで読み終わった時、この二人がまた何処かで出会うことはないのかと一瞬考えてしまった。
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私にとって一番好きなパターンなので、いつも以上に冷静さを欠いてしまいます。きっと感じたこと全てを誰かに話したら「何言ってんだコイツ?」と思われるのは間違いないでしょう。そのくらい、好きなタイプの物語です。どこか間の抜けたキャラクターたちが笑わせて、その台詞を良く考えると裏があって考えさせられて、気がつけば目が潤んでいる事に気付く結末。喜劇なのか悲恋なのか。オンディーヌとハンスは、私にとって愛すべきキャラクターとなりました。ただ、この戯曲をもし演じる機会があるとすればやってみたいのはベルタの役ですけれどね。
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先日読んだ或る小説で言及されていて、その引用文がひどく印象的だったので読んでみた。
訳の違いで随分ライトな感じになってはいたけど、最後の展開は凄くドラマチックでロマンチックで、わりと好きです。
愛した人のことをすっかり忘れて生き続けるのと、
何もかも覚えているまま、その記憶とともに死ぬことは、
どちらが幸せなのだろう。
毎日のあらゆる瞬間の中に刷り込まれたそのしるしさえ、オンディーヌは忘れてしまうのだろうか。
しるしが残ったままだったとして、その意味を、もしくはそこに意味があること自体を、オンディーヌは忘れてしまうのだろうか。
魔法にかかったかのように。
もしくは、魔法が解けたかのように。
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まさに悲劇の体をした作品。
人間の弱さをとことんまでに
痛感できる作品でしょう。
実際にハンスは欲に負けて
オンディーヌ以外の女性に恋をし
婚約してしまいます。
オンディーヌは汚れなき、うそなき
透明な存在。
しかしながら人はそう生きることはできないのです。
別のバージョンも読みたいですね。
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水妖記の戯曲版としてあまりにも有名であり、ラストシーンは傑作である。
水の精霊オンディーヌと騎士ハンスの悲劇的な恋愛を描いた物語で、人と人に非ざる者との恋は始まりから破局を予感させる。
これは東西の異類婚の物語同様、予定調和ともいえる筋書なのであろうか。
水の精霊といえば人魚姫を思い出すが、オンディーヌのように悲劇的な結末を辿る。人魚姫ばかりでない。日本の昔話で言えば、「鶴女房」「天女の羽衣」「雪女」など、異類婚の行く先は幸せなものではない。
ハッピーエンドに終わる物語は果たしてあっただろうか?(美女と野獣は元々どちらも人間だし)
人は異種と結ばれるということにロマンを感じる一方、心の底で「禁忌」を覚えるものだ。禁忌だからこそ惹かれ、また、激しく拒絶する。そのような相反した心理が数多くの異類婚譚を生むのではないか。
そしてこの物語は単なる異類婚による祖語だけにはとどまらない。魂というものは決して分かち合うことが出来ない、永遠にわかり合うことの出来ない男女の虚無的な愛がある。
女の純粋さは自らの魂の死を招く。オンディーヌは自分の魂を破壊することにより、愛から救われるのである。
この物語は愛からの救済なのだろうか?冷たく横たわるハンスを艶然とした表情で見つめるオンディーヌ。そこに果たして希望はあるのだろうか。
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戯曲は初めて読んだ。会話文ばかりの文章なんて果たして本当に楽しく読みこなせるのか不安だったのだが、この作品に限ってそんな心配は不要だったのだと思い知った。小説のように視点が固定された地の文がないため、台詞の一つ一つが切実で、素直で、情熱的、そしてそれらの掛け合いはまるで音楽のようにリズミカルに私たちの胸に響く。その躍動感は、時に心理描写をつぶさに描く小説よりもダイレクトに、登場人物の感情を我々に届ける。その濃密さを知れただけでも、今回「オンディーヌ」を手にとって良かったと思った。
加えてこの「オンディーヌ」、勘違いに勘違いを重ねて殺したり殺されたりするよくある異類婚姻譚の悲恋物語かと思いきや、内実はまるで違う(悲恋ではあるが)。主人公のオンディーヌに悲恋物語のヒロインらしい影がつきまとわない。素直で、活発で、直情的で、嘘やお世辞が言えなくて(そのため社交界=人間界には溶け込めない)、それゆえに彼女のひたむきな愛と赦しが遂げられなかった、その悲嘆が胸を衝く。オンディーヌが水の精として自然そのものを表しているのなら、ヒーローのハンスは、終盤本人が言及しているとおり、凡庸な人間そのものである。
オンディーヌとハンスの関係を、近代の人間と自然の関係を示唆しているとの見方もあるようだが、私にはそこまで感じ取れなかった。ただ、人間の愚かさ、弱さ、矮小さ、そしてそれを包み、赦し、愛す水の精(=自然)のひたむきさは溢れるほどに伝わった。ハンスが死んで、人間界でのできごとをまるごと忘れたオンディーヌが、水底でひとり、その行動の意味も忘却の彼方に、まるで人間のように生活をするその悲哀が、古典的な悲劇における「死」よりも酷く悲しく、そして美しいと思った。いつか実際に公演を見てみたいなあ。
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大雑把なあらすじは、異種婚姻譚。遍歴の騎士ハンスと水の精オンデイーヌ。ハンスには結婚相手のベルダという貴族の女性がいたが、城内で「サランボー」の劇(劇中劇)の最中に、オンディーヌが元いた漁師の娘であることが判明する。だけど、徐々にハンスはオンディーヌよりベルダの方に近づき、オンディーヌは行方不明になり、ベルダと結婚する。その朝、オンディーヌが現れ、ハンスはオンディーヌとの愛に復活して、ハンスは死に、オンディーヌはこれまでの記憶を消去されてしまう。
といったようなもの。なんか複雑でかつ若干の矛盾あるような気もするけど、フーケの元ネタの他、メーテルリンクが戯曲にした「ペレアスとメリザンド」(メリザントはこれもオンディーヌと同じく古くから伝わる水の精)やイゾルデ、ヘラクレス伝説などなど様々な要素を「○○尽くし」みたいに流し込む戯曲でもあるから、それっぷりを楽しめばいい(シェークスピアとかもそういう要素ある)。あとは原調は悲劇なんだけど、自分なんかは喜劇っぽく読んだ。これも初心者でもすぐ笑えるところと、古典文学嗜んでいる人がほくそ笑む上級な?ところ(ヘラクレスの災難の順番とか)と各種ある。
第1幕から第3幕。第1幕は漁師の家、ハンスとオンディーヌとの出会い、第2幕は城内、オンディーヌの叔父という水の精の王と城の侍従が取り仕切るハンス、ベルダ、オンディーヌの三角な関係の早回し再生、及び「サランボー」の劇中劇でのベルダの出生の秘密。ちなみにこの幕で全く筋とは関係なく、漁師のオーギュストと(瞳に砂金がある)ヴィオラントの小幕が挿入されていて、自分はこういう小ネタ好き。第3幕はハンスの城、ハンスとオンディーヌの別れ。というようにシンメトリック。劇中劇の「サランボー」にはストレットという前に別々に提示されてきたモティーフが最後に重ね合わされるという、クンデラの「冗談」などで使われた手法が効果的。
以下各幕での引用を少しだけ(それも喜劇的なところも入れて)
あれの声や、笑ったところも思い出せます。あなたさまの鱒をほうり投げてるところ、五十フランはする鱒をですな。ですがあの子がもう、なにか、合図としてしか姿を見せなくなっても、わしは驚かんです。小さな稲妻とか、ちょっとした嵐とか、そういうもの。この足をおおう波とか、カワカマスの梁にかかった一匹の魚とか、そんな合図でわしらを好きだと伝えてくるようなやりかたですな。
(p60)
第1幕。多少酔っ払ったオーギュストがハンスに話す。この辺のなんだかわからない苦笑を誘うおしゃべりはそれだけで充分楽しい。後でもつながってはくるのだけれど。あとは、この五十フランの鱒というの。ジロドゥが仕事仲間のルイ・ジュヴェ、マドレーヌ・オズレーらと昼食した際、この鱒の茹で上げを注文し、それをオズレーが嫌って「鱒を街路に投げ捨てる」と脅したという。そのシーンが投影されている(この二人はジロドゥ作品の常連で伴侶といってよい関係、自分はこの注を先にチラ見した為、なんかこの戯曲の印象の最初の大きなものになっている、この鱒が)
ものを忘れたり、気が変わったり、見逃したりするこ��があるのは、人間の社会だけです。それはこの宇宙のなかでは、ごく一部なんです。水の世界は、けものたちの世界や、植物の世界や、虫たちの世界とおなじです。あきらめることもないし、ゆるすこともありません。
(p140)
人間たちには、みんなの魂というものがないのよ。魂のこんな小さな分け前が並んでいるだけで。そこからは貧相な花や貧相な野菜がはえてくるだけ。あなたが持つにふさわしいような、人間のすべてがこもった魂、すべての季節がそこにあって、風そのものがあって、まるごとの愛がある、そういう魂はほんとうに稀なものなの。
(p143)
第2幕。オンディーヌと王妃イゾルデとの対話(上がオンディーヌ、下がイゾルデ)。ここでは割と真面目な?ところを。解説ではフーケの作品ではまだ自然を人間の魂が感化させるというような考えがあるが、ジロドゥはそれを裏返して、分割された人間社会には既に自然の全体性は理解不能になっているという。
あのとき、わたしは生まれて初めてひとりでいられた。人間としての孤独を味わうことができたんです。乗り合い馬車の角笛が響いても、そこになんと裁きのラッパの音がまざっていない。騎士どの、わたしの人生であの一瞬だけでした。精霊たちはこの地上に人間だけを残して、行ってしまった。なにか予想外の呼び出しでもあって、ほかの星へ移動したのかもしれません。
(p182)
第3幕。こう語るのは裁判官。ここにも何か暗示的なものもあるかもしれないけど、なんかそれ(人間と精霊)とは無関係に、なんか平和で落ち着く箇所、でもすぐ精霊戻ってくるんだよね。この作品1939年初演(ちなみに「トロイ戦争は起こらない」、「クック船長航海異聞」(同時初演1935年)より後)。
いなくなったら一瞬も生きていけないと思い知ったとき、いなくなるんだ。やっと相手をとり戻した日、相手のすべてを永久にとり戻したときに、姿を消す。
(p216)
ハンスの言葉。まさに「劇」的な言葉だと思う。
とにかく、ジロドゥという作家、引き出し多くて、技巧もふんだんで思っていた以上に面白い作家。「トロイ戦争」など、他にも読んでみたい。フーケ読んでるようにドイツ文学に親しく、また大学教授資格試験(アグレガシオン、フーコーが一回落ちたヤツ)に落ちて在野の作家になったという経歴、この2点はミシェル・トゥルニェに似ているとも思う。第二次世界大戦中の親ドイツの作家の対応は別々であったけれど(ジロドゥは1939年、フランス政府情報局長官職に任命)。
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ジロドゥの戯曲。
水の精オンディーヌと、騎士ハンスの恋を描く。
オンディーヌの奔放すぎるキャラクターが強烈だが、それは本心とは裏腹な社交辞令や政治に満ちた貴族の社交界と対比させるためのものなのだろうか。
展開が読めずイライラする場面もあったが、大六場、第七場での物語の畳み方は素晴らしかった。最後のセリフが強烈に残る作品。