読了後に沈思黙考する一書
2021/06/07 21:22
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投稿者:岩波文庫愛好家 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は序章と終章を含めると15の章から成り立っています。どの章も静かな或いは熱い意気を沸々と感じました。特に第6章から第12章は顕著に心を揺さぶられました。またそれらの章以外で琴線に触れた内容は以下のセンテンスです。
『人間には誰しも担わなくてはならない人生の問いがあり、それは他人に背負ってもらうことはできない。自己を生きるという使命においては、優劣な意味の大小は存在しえない。』(第一章)
→徳川家康の『人生は重荷を背負うて行くが如し』に似ている気がします。
『古典の言葉は過ぎ行かない。過ぎ行くのは時代であって、言葉ではない。』(第四章)
→出口治明氏を始め、多くの人達が口を揃えて古典の大切さを説いています。
安易に「哲学」という言葉を使うなかれ
2023/05/23 10:46
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投稿者:パトリシアちゃま - この投稿者のレビュー一覧を見る
社会が複雑化し、生きることすら辛いと感じることが多くなってきた昨今、多分「哲学」という言葉に惹かれてこの本を手にする読者も多いと思うが大学一年から演習で哲学を学び、その後の人生でも偉大な哲学者(と言われてきた)の著作を読み込んでも彼らの哲学を理解することは容易ではない。本書序章に「真に「哲学」と呼ぶに値するものがあるとすれば、それは私たちが瞬間を生きるなかでまざまざと感じることにほかならないからだ。」とあるが「哲学」は「感じること」とは一線を画すはずだ。「ソフィア」を愛し追及していくことは「感じること」ではない。体力、知力ともに使い果たすつらい作業だ。安易に「哲学」とか「哲学者」などと使うなかれ!
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自分の生きている場所は狭い。しかしそこは全て自分の大切な人々のかけがえのない毎日とつながっている。
人間が手を広げれば、神はそこに豊かに恩寵をもたらした。祈りとは何かを年次、願うことではなく、神の訪れを待つことだった。
肉体という現象を支えているのは、魂という実在。
人格者に出会った時、あの人には哲学があるという。このときの哲学とは血肉化された叡智の異名である。
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生と死が繋がる悲しみの豊かさ。
その一点、その一筋をどこまでも、何度も辿っていく。
石牟礼道子の苦海浄土が本書の頂点か。
読む側の態勢、状況、構えを問う著書である。
ある時のわたしならば、すごく震えただろう。
しかし、疲れ切った今、彼の言葉は遠くでしか響かなかった。
しかし、良心は感じた。
しかし、したたかさがなかった。一面的すぎるのだ。
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若松英輔(1968年~)氏は、慶大文学部卒、「三田文學」編集長(2013~2015年)等を歴任した批評家、随筆家、詩人。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。2016年以降、NHK番組「100分de名著」で、 石牟礼道子の『苦海浄土』、内村鑑三の『代表的日本人』、神谷美恵子の『生きがいについて』、西田幾多郎の『善の研究』などの解説も担当している。
本書は、古今東西の14人を取り上げて、それぞれにとっての「哲学」をひとつの「動詞」に関連付けて捉え、洞察した随筆をまとめたものである。尚、初出は、月刊誌「文學界」の2013年6月号~2014年7月号。
なぜ、「動詞」が「哲学」なのか。。。著者は、序章で池田晶子の思想を引いて、「分るということは変わるということだ。ある出来事にふれ、真に分かったとき人は、どこかで変貌しているのである。これは素朴な理法だが、ときに厳しく迫ってくる。変わっていないのであれば、じつは分かっていないことが露呈してしまう。」と語り、須賀敦子の章で「本論を「生きる哲学」と題した。ここにおいての「哲学」は、・・・状態である。人間が自身を超える何ものかにむかって無限に開かれてゆく在り方を意味している。「哲学」とはそもそも、机上で学習する対象であるより、私たちが日々、魂に発見するべき光のようなものではないだろうか。人生の岐路に立ったとき、真剣に考え、誰に言うでもなくひとり内心で、これが私の哲学だ、とつぶやく。そうしたときの「哲学」である。」と書いている。
そして、「万人のなかに、「哲学」が潜んでいることを思い出させてくれる人物」、「迷ったとき、自らの進むべき道を照らす光は、すべての人に、すでに内在していることを教えてくれる人」として、14人を選んだのである。
その14人は、歩く~須賀敦子、彫る~舟越保武、祈る~原民喜、喪う(うしなう)~孔子、聴く~志村ふくみ、見る~堀辰雄、待つ~リルケ、感じる~神谷美恵子、目覚める~ブッダ、燃える~宮沢賢治、伝える~フランクル、認める~辰巳芳子、読む~美智子皇后、書く~井筒俊彦である。また、それぞれの章で、池田晶子、和辻哲郎、デカルト、ヴァレリー、高村光太郎、小林秀雄、白川静、ゲーテ、遠藤周作、マルクス・アウレーリウス、石牟礼道子、柳宗悦らについても語られている。
そして、著者は「あとがき」でこう締めくくる。「哲学を研究、勉強することなくても、深遠なる哲学を有する人は世の中に多くいる。この本で取り上げた人々にとって何かを語るとは、そうした市井に生きる無名の人々に宿っている、本当の意味での「哲学」の代弁者になることだった。・・・ここでの「哲学」は、哲学者によって語られる言説に限定されない。それは、人間が叡智とつながりをもつ状態を指す。このことは、「生きる」ことが不断の状態であることと深く呼応する。同時に、「哲学」とは、単に語られることではなく、生きることによって証しされる出来事だとも言える。」
一篇一篇がとても深い随筆集である。私はこれまで、取り上げられている少なからぬ人たちの著作を読んできたが、著者の洞察の中には消化できるものもあれば、消化しきれないものもあった。本書を頼りに、改めてそれぞれの著作に戻り、それぞれが体現し���「哲学」とは何だったのかを考えてみたいと思う。
(2020年11月了)
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若松さんの数多い本の中でも、私の一番のお薦めの一冊で、何度も読み返した愛読書。
この本に出逢ってから、自分の中で大きな変容が起こりました。(じん)
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心に残ったところをピックアップします。
「生きるとは、自分の中にすでにあって、見失っている言葉と出会うための道程だとも言える」P12
「世界は人間に読み解かれるのを待っている」P13
「どんなに慄き、恐れても、死を免れることはできない。自分の思うように人生を生きようと、どんなに思いを描いてみたところで虚しい。結果は常に思いを裏切る。思うことに労力を費やさず、ただ、あるがままを見、生きよというのである」P166
「人間は、人格を宿しているという事実において平等であり、すべての人は、人格という不可視なものの働きによって、人間として存在している。別な言い方をすれば、肉体をもって在ることが、人格の実在を明示している」P208
「人は単に生きているのではない。生きることを人生に求められて存在している。人生が個々の人間に生きることを求めている。人生はいつも、個々の人間に、その人にしか実現できない絶対的な意味を託している」P211
「私たちが<生きる意味があるか>と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません」P212
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さほど厚くない新書なのに、中身が重いので読むのに時間をかけた。さらっとは読んではいけない、と思いながら読んだ。再読しなければならない本、タイトルは知っていてもじっくり読んだことのない本がまだまだたくさんあることに気付かされた。積読本もまだあるというのに、是非読まねばと思う本に次々と出会える。幸せなことだが、一生かけても読みたい本を読み切るなんてことはできないのかしら、などと考えながら、やっぱり今年の夏は何としても、夏の花は読まねばならないと固く誓う。