残された時間が限りあることは誰もが同じ
2018/05/24 13:13
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ペンギン - この投稿者のレビュー一覧を見る
人が死ぬのは、大変なことだ。生きることも楽ではないが、死に至る過程というのは、本人も、周りの人にも、しんどい。心をかき乱すものがたくさんある。大きな決断を何度も迫られる。そして、最終的な結果は誰にも避けられない。
現代社会で死は忌み嫌われ、不当に悲惨な扱いを受けているが、誰もがもっといい形で死を迎えられるずだ。という著者の強い自信を感じた。著者自身が外科医として、ある時は患者の家族としての体験を通じて、試行錯誤しながらもそれは実現できると言っている。
健康な人にも読んで欲しい一冊。人生の優先順位は本当は死ぬ間際になってから考えることじゃないはずだ。
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
死を忌み嫌うものとしてとらえていないところがよかった。誰しもにくる最期をいかにしてむかえるか、考えさせられる。
投稿元:
レビューを見る
原題は、being mortal.。mortalの単語だけで、死すべき定めを意味する。日本語の単語の中にもし同じ言葉を当てはめるなら、なにかしっくりくる単語があるだろうか。探したが見つからなかった。
この本は人類の生死感を変えると思う。いや、西欧社会における生死感が東洋思想に相いれない部分があったのかもしれないし、単に医学の極端な発展が私たちの生死に関する考えを変えざるを得ないのかもしれない。
いずれにしても、私が探していた答えがこの本には書かれている。その問いは、病院で人工的な生をもたらすことは、人々の死ぬ権利を阻害していないだろうか?ということである。死ぬ前に読んでおいて損はない本である。
投稿元:
レビューを見る
読みながらいろいろと考えた。考えさせられた。
劇的に医療技術が進歩・発展したおかげで、高齢化した。それと引き替えに、「死」というものが先延ばしになり、老化に伴うことにより、困難な病気に罹り、“人間らしい”余命を送ることも難しくなった。
副題にあるように、「死にゆく人に何ができるか」がテーマであり、筆者の祖母のエピソードや、多くの他のエピソードなどを上げながら、“人生の最期までをいかによりよく送らせるか”ということが述べられている。
人はいずれ死ぬ。
医療従事者(医師)の「死にゆく人に何ができるか」という
問いかけとともに、家族や自分がいかに最期を迎えるかという問いを考える貴重な一冊となった。
投稿元:
レビューを見る
人生の最後に、人はどうやって生きがいを見い出すことができるか。どうやって尊厳を保つことができるか。
僕自身も祖父母と両親を病院で見送り、四人四様の最後を経験してきたので、人間の死に方というものにはいろいろと思うところがある。
「あなたも歳をとればわかると思うけど、人生で一番いいことは自分でおトイレに行けるときなのよ」
今の自分にはまだ実感としてはわからないが、この言葉は本当にそうなんだろうなぁと思う。
厳しい現実と、しかしながら希望も感じる著。
投稿元:
レビューを見る
”Being Mortal” - 『死すべき定め』。「Mortal」という単語は、高校のときにお世話になった『試験にでる英単語』、いわゆる「しけ単」に、”試験によく出てくる単語”のひとつとして載せられていたのを見て知った。日本語には、これを一言で表すことができるような単語はない。こんな言葉が試験によく出るとは彼我の死生観の違いを表しているのではないかと強く印象に残った。結局「Mortal」という単語を試験で見ることはなかったけれども。本書は米国で大変なベストセラーになっているという。英語における「Mortal」という言葉の存在が死に対する感受性を上げているせいなのだろうかと思った。
それにしても、”Being Mortal”という表現は、人間という存在をある意味で見事に一言で示している。言うまでもなく、われわれの死亡率は100%だ - 今のところ。
本書は、医学の進歩により最期の刻を人工的に長く引き延ばすことができるようになったという新しい事態に直面したわれわれが、どのように大切な人の死を看取っていくか、そして自らはどのように死んでいくのか、についての本だ。しかし、そのことに対して何らかの明快な答えはこの本の中にはない。そもそも、適切な答えがあるかどうかすらわからない。そして、少なくとも今のところ、医学も社会もうまくそれを扱っているようには思われない。
「科学の進歩は老化と死のプロセスを医学的経験に変え、医療の専門家によって管理されることがらにしてしまった。そして、医療関係者はこのことがらを扱う準備を驚くほどまったくしていない」ー 医師である著者も含めての実感をこのように表現する。1945年にはほとんどの人が自宅で死んだのに対して、1980年代にはその割合はたった17%になっている。そういえば、1970年代になくなった祖父は自宅で往生したが、それ以降に亡くなった他の親類はほぼすべて病院に入院し、そしてそこで亡くなっている。
「この本は、死すべき定めについての現代の経験を取り扱う」ものだという。「衰え死ぬべき生物であることが何を意味するのか、医学が死という経験のどこをどう変え、どこは変えていないのか、そして人の有限性の扱い方のどこを間違えて、現実の取り違えを起こしてしまったのかを考える」- 考えるその先に答えは用意されない。われわれも著者と同じようにそれぞれに考えるべきなのだろう。考えたその先もそれぞれどのようなものになるかはわからない。この本は、それがこれまで人類が経験してきたものとは異なる体験になっていることについて多くの人が見て見ぬふりをしていることを教えてくれる。
本書では、多くの死に直面した人の最期の刻が描かれる。その中には著者の父も含まれる。そういえば、自分の父も比較的長い闘病の末に亡くなった。当時はがんであることを本人に教えるかどうかの選択は親族に任せされていた。母は伝えないことを選んだ。それは当たり前のことのようにも思えたが、それが父にとっても母にとっても正しかったのかはわからない。しかし、今では許されることではないだろう。
「死はもちろん失敗ではない。死は正常である。死は敵かもしれないが、同時に物事の自然な秩序である」
自分なりに理解することは、老いというものが徹底して確率的な事象の統計的な表れだということだ。それは比喩ではなくエントロピーの増大のように不可避で不可逆的な現象だ。優れた複雑なシステムはその中に多くの冗長性やフェイルセーフとなる機構を備えているが、統計的にはいくら冗長が取られていてもある確率でその機能は壊れていく。そして過剰な冗長性はコストを生じるがゆえに冗長度は適切に最適化される。人間の脳神経系システムも循環器系も細胞系も同様だ。小さな障害は起こっているが、初期のころはそれは問題なくカバーされる。しかし、いつか蓄積されたダメージは、システムがカバーすることができる冗長度を超えていく。現代の多くの死因となっているがんについてもDNAシステムに蓄積された損傷が閾値を超えて正常性を破壊することで顕現する。老化とは、がんがそのようなものであるのと同じ意味で不可逆で不可避的なものである。
そう思っていると、同じように表現しているところが見つかった -「複雑なシステムでも故障が積み重なると、たった一つのさらなる故障だけでシステム全体を止めてしまうようなときがくる。衰弱状態と呼ばれるものである。発電所や車、大組織で起こる。そして、人にも起こる」
細胞システムについていうと次のとおりだ。
「リポフスチンと酸素フリーラジカル、DNAの突然変異、そのほか数えきれない細胞内のトラブルが体に蓄積するのだ。このプロセスはゆっくり確実である。」
老いと死が確率的な事象であるというのは、本書でも個人の寿命に対する遺伝子の影響が驚くほど小さいとされていることからも裏付けられている。「平均よりもどれだけ長生きできるかについて、親の寿命から説明できるのは三パーセントに過ぎない」や「遺伝子が同じ一卵性双生児でも寿命は大きく違う - 十五歳以上異なることが一般的である」という事実から老化や老衰は、遺伝子による決定論よりもむしろ確率論や統計論に従う事象であると考えるべきだろう。
老化に関して自分の身にすでに起こった目のトラブルについては次のとおりだ。
「目はまた別の理由でやられていく。蛋白質が結晶化した水晶体は高い耐久性を持つが、時間が経つにつれて化学的に変化し、柔軟性を失う。それが四十代に大半の人が起こす老眼につながる。同様に色が黄変する。白内障(加齢や紫外線への過度な暴露、高コレステロール血症、糖尿病、喫煙などによって水晶体に起こる白っぽい濁り)が起きなくても、網膜に到達する光の量は、健康な六十歳で、二十歳の場合の三分の一になる。」ー ふむ。
すでに自分も実感することができる記憶力の低下などは脳神経に積み重なった故障のせいだろうな、と考えるとあるレベルでは諦めもつくものだ。エントロピーの増大の法則がある意味では抗うことのできない絶対的な法則であるのと同じように、老化の法則をそのようなものとして受け入れるべきなのだろう。少なくとも自分が生きているタイムスケールにおいては。
そして、最期の刻に向かっていることがわかっているときに、延命治療を行うか、ホスピスに行くのか、それ以前に認知症や身体機能が衰えたとき、在宅で介護を行うのか、ナーシング・ホームに入るのか、 どのような��ーシングホームを選ぶのか。社会はどのように現代の老いと死と医学の問題を扱うべきなのか。本書ではこのことを丁寧に説明している。著者の父という身近でタフな事例にも触れている。医者としても事実を知ったとしても、身近なものとしても、その本人にしても、死を受け入れるということは難しいことだということがわかる。
読者が何歳で、その家族がどのような状態にあるのかによって、ずいぶんと受け取り方が変わりそうな本。そして現代を生きるものにとっては誰もが目を向けざるをえない内容が扱われた本である。
ある種の統計においては、積極的な治療を行わずに、緩和治療としてホスピスでのケアを受けた人の方が長生きをしているという。そして、最後にはすべての人が死んでいる。- なぜならといって、われわれは”Being Mortal”であるのだから。
----
本書をもとにした米国の番組がある。
http://www.pbs.org/wgbh/frontline/film/being-mortal/
いつか見たいと思っている。
---
われわれは”Being Mortal”であるのだから、自分もいつかは死ぬ。色々な本を読んで知識を求めているのは、いつか死ぬことを自らに色々な形で納得させるためにあがいているのかもしれない。脳神経科学、宇宙論、生物学、哲学、歴史。そう思うようになっている。
投稿元:
レビューを見る
医療技術が進歩した結果、生きながらえることができるようになったが、死なせないことが目的となり、幸せな最期を遂げられなくもなった。
回復の見込みのない絶望的な状況でも今を幸せにすごすにはどうすべきか。
多くの終末のケースが出てきて読み進むのが辛い本だが、スピリチャルではなく、淡々と事実ベースで書いていてる。
人生の後半にさしかかった人や老い先の長くない家族を持つ人は心構えとして読んだ方がいい。
〈読書メモ〉
最期に向かって確認すべきこと
- 置かれた状況とこれからの可能性を本人がどう理解しているか、
- 恐れていることと望んでいることは何か、
- 何を犠牲にしてもよく何を犠牲にするのが駄目なのか、
- この理解を深めるのに役に立つ最善の行動とは何か。
「今を犠牲にして未来の時間を稼ぐのではなく、今日を最善にすることを目指して生きることがもたらす結果を私たち目の当たりにした。」
ピーク・エンドの法則: 苦痛または快楽のもっとも強い瞬間と終了時の感覚とで経験を代表させる。
死にゆく者の役割: 記憶の共有と知恵や形見の伝授、関係の堅固化、伝説の創造、神と共にある平安、残された人たちの安全を願う。
投稿元:
レビューを見る
ネットで書評を読んで興味を持つ。
http://www.bookbang.jp/review/article/517575
投稿元:
レビューを見る
重いテーマ。頭ではわかっても、いざジブン自身や身内のことになったら"正しい"判断ができるか、、、ということか。そもそも何が"正しい"のかも難しい。
投稿元:
レビューを見る
原題は"Being Mortal --Medicine and What Matters in the End"。
著者は現役の甲状腺外科医であり、ハーバード大学関連病院であるブリガム・アンド・ウィメンズ病院に勤務するかたわら、文芸誌「ニューヨーカー」の医学・科学部門の執筆も務めている。本書は同誌に連載されたエッセイが元になっている。
臨終に際して、人と医療がどう関わるか、またどう関わるべきかがテーマである。
類書は数々あろうが、本書を際だったものにしているのは、多重性がある視点であり、その柱は3つある。
1つは、患者とその家族の「その日」に向かう日々を描くルポルタージュとしての側面。1つは、医療界の内幕も知る医師ならではの臨終期医療が孕む問題についての鋭い分析。そしてもう1つは、死を間際にして、よりよく生きるとはどういうことかに関する著者自身の深い思索である。
現代医療の発展は、かつてないほど人を長生きにした。しかし、終末期医療は、必ずしも人を幸せにはしない。ところどころで落とし穴にはまりながら坂を転がっていくような経過を辿ることも珍しくない。治癒する可能性はゼロではないものの限りなくゼロに近い治療を続け、「こんなはずではなかった」最期を迎える人もいる。
なぜそうなのか、そうならないためにはどうすればよいのか。多くの実例、分析、考察を示す本書は、示唆に富む。
病院は、基本的に病気を治すところである。患者の体調に不具合が生じれば、何らかの対処法を示し、実践することになる。その際、示される治療法は、効く可能性もあるが、効かない可能性もある。病気を治そうと頑張る患者は自分が治る方に賭けようとする。医療者が余命はあと数年と思っている場合でも、患者と家族は10年、20年単位で考えている。患者の期待に反する告知をするのは、医師にとってもつらい。こうした認識の相違は容易には解消されない。
老人ホームは、歴史的に、「医学上の問題」を「長期間」抱えている人の受け皿として発展してきた。慢性疾患や加齢から生じる問題に、従来の病院は十分には対処できなかったため、受け止めきれなかった人々を「ケア」する場所として生まれてきたのである。余命わずかとなった人が残りの人生を豊かに過ごすことを目的とはしてこなかった。
こうした流れに疑問を抱き、自ら施設を立ち上げた人々の例が本書で紹介される。
なるべく自分の家と同じように過ごすことを可能にし、本人が望まない医療行為や過剰な管理を止める試みである。もちろん、世の流れに反すると言うことは、簡単なことではなく、こうした施設もすべて丸く収まっているわけではないのだが、可能性を感じさせる事例である。
これらの施設や緩和医療を中心としたホスピスを見ていくと、「攻め」の医療を施した際よりも、場合によって、余命が伸びる傾向が見られるという。実現可能かわからない未来を目指して現在つらい治療を続けるより、現在を心地よく過ごすための最善の策を採る方が、結果的に、よい効果を生じる場合もあるということだ。
終末期医療がテーマであるので、出てくる患者はほぼ最期を迎える。患者も家族もつらい時を過ごす。出口が見えない日々、胸を締め付けられるような話も多い。
著者自身の父も、終末を迎える1人である。著者も両親も医師である。そうした家族にとっても、終末期は簡単なものではない。著者の父は脊髄腫瘍を患った。放っておけば四肢麻痺になるという。化学療法や放射線療法を採ることもできるが、効果はさほど望めない。手術はこれらより効果的と考えられるが、かなりのリスクを伴う。息子である著者はよりよい選択肢を求めて奔走する。父は自分の望む生活と治療のリスクを天秤に掛け、選択をする。
選択は一度では終わらない。人生は続く。状況は変わる。ときどきの病状に合わせ、治療の効果を見ながら、患者と家族のぎりぎりの選択が何度も何度も行われることになる。
臨終期が近づいていると感じても、死を前提にした会話をすることは難しい。けれども、患者が本当にどうしたいのか、聞きにくくても聞いておくことは、後の選択に重要だと著者は言う。
出来るだけ食べたいものを食べたいのか。友人や家族との会話を楽しみたいのか。外へ出ることが大切なのか。ペットとふれあいの時間を持ちたいのか。何気ない希望でも聞いておけば、患者本人の意志を尊重した決定をする一助となる。
日米の制度上の違いはあろう。そのまま当てはまらないことも多いだろうとは思う。
しかし、著者の学識と温かい人柄が感じられる本書は、家族の看取り、自身の終末を考える上で、重要な示唆を含んでいる。
誰しもが「死すべき定め」を負っている。臨終を考えさせ、深い余韻を残す好著である。
投稿元:
レビューを見る
医科学の進歩は人の生物としての限界を先に延ばし、この能力が持つ有限性を疑わなくなっている。医療者の仕事は健康と寿命を伸ばすことであるが、それよりも大事なのは人が幸福でいられることである。そして幸福でいるということは、その人がどのように生きたいかということである。これは終末期や要介護状態のになったときだけでなく、一生を通じて必要なことである。残念ながら、そのような事がわかるのは、重大な病気になったり死期が迫ったときであり、そのような患者に対するケアとして緩和ケアが始まった。緩和ケアが特別な領域である時は決して喜ばしいことではなく、すべての医療者が担当するすべての患者にこのようなアプローチが取れるようになったときにより良い医療が提供できるようになるのだろう。著者は外科医としてそのような場面に出会ったことで、そして身内の最後に出会ったことで思索を進めた。死すべき人を目の前にしたとき、色々な悩みや困難が生まれてくるが、今、その現場にいるような筆致で読ませる本であった。訳文もこなれて読みやすく、一気に読みきり、深い余韻を残した。
投稿元:
レビューを見る
今までの医療は病気に対してかなりいい成績を出してきた。数多くの疾病を克服し、寿命を延ばしてきた。しかし、老化を防止することはできず、人生の最後の時間を病との戦いに当ててしまうことになっている。
医者はまだそのことに十分には立ち向かっておらず、政府や患者側および家族も理解は進んでいない。メディケアの支出の25%は5%の対象者の最後の年に使われるものらしい。
この本にはナーシングケア、アシステッドリビングや、ホスピスなどの数多くの例で患者の生きる理由を見据えそれに対してどういう治療をするか(あるいはしないか)を考えることが終末期のQOL(という言葉は使っていない)を上げるのには重要だとしている。医者側としても、1パターナリズム、2情報提供者、3患者側に寄り添った解釈をする医者というものをあげ、3によって患者のことを理解しそれをサポートすることが目指すべき道だとしている。家族もまず患者が本当に大切なのは何か?を知りそのためには何を失ってもいいかをはっきりさせておくことが、無駄に患者の時間と体力を摩耗し後で皆が後悔しないことにつながる。
投稿元:
レビューを見る
アトゥールガワンテ2冊目。終末期医療についてで、重苦しく目を背けたくなるエピソードも多いが、それでもなお多くの人に読んでほしい。前半は各種類の老人ホームについて。 患者サイドが手作りで理想の施設を作っていくというあたりはアメリカのすごさだなあ。後半は緩和ケアについて。現実を直視することの難しさ。完治するかもしれないが、成功率が低く苦痛も伴う選択肢を選び続けることから逃れられない。きちんと患者に判断材料を与え、優先順位を聞いて、それを守ること。バランス感覚の優れた著者がホスピスを選択したエピソードばかり選んでいることからも、現在の医療は戦うことに偏っているのだろう。
投稿元:
レビューを見る
母の闘病と看取りに迷いや後悔があって、それがこの本の序にあることと重なった。トルストイの「イワン・イリイチの死」を取り上げた授業からの提起。
投稿元:
レビューを見る
現役医師ガワンデ氏が実際関わってきた人達のエピソードが書かれている。死に行く人にどう向き合うか。気持ちの整理ができる。
姉の余命をしりこの本に救われた。