怒り、この私をむしばむ感情
2009/02/01 20:42
20人中、20人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ゆうか - この投稿者のレビュー一覧を見る
ローマ皇帝ネロー(よく見る表記は「ネロ」だが、本書では「ネロー」)に仕えた哲学者、セネカの著作のうち、「摂理について」「賢者の恒心に
ついて」「怒りについて」の三篇をおさめた新訳。
友人ノウァートスが、どうしたら怒りを和らげることができるかについて、執筆を求めたのに応じる、という形で書かれている。
怒りとはどのようなものか、結果や害悪、先人たちがどのように論じたか、怒りを肯定的にとらえる意見への反論や補い、歴史上の怒りの実例などが語られる。
「家族を傷つけられても怒らないのか?」という問いには、「怒らない。だが、報復するだろう。守るだろう」「善き人はみずからの義務を、うろたえず怯えず遂行するだろう。(中略)すべきだからであって、悲しいからではない」と、怒りにまかせた行動と、なすべきことを鋭く分ける。
セネカは、突発的な衝動である怒りによって、暴走することを退け、理性にしたがって行動する、賢者たらんと欲する。「幸福な心に宿る不動の静けさ」を得るために、どのように考えるべきかを追求する。
日常生活において、怒りにとらわれることがある。本書には、「怒りに占領された者が正気を喪失していることを知るには、そうした者の顔つきを眺めればいい」とあり、続けて、「不敵で脅迫的な目つき、険しい眉、捩れた顔、せわしない歩み」云々と描写が続く。
怒っているときの自分はそんな顔をしているのか、とか、職場のあの人は
確かにそんな顔になる!とか、思わず我が身にひきつけてしまった。
怒りは伝染する。怒りは怒りを呼ぶ。そんなマイナスな感情をどのように
見つめ、克服していくか。私は毎晩少しずつ味読しました。
人生の指針が重厚に記載されています
2018/06/17 00:51
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:one story - この投稿者のレビュー一覧を見る
怒りが有害でしかないことが述べられた後、怒りへの対処法が説明されています。特に第3巻の対処法の部分は、今後参考にしていきたいと思いました。
アンガーマネージメントの本をハウツー本とすると、本書は人生の指針が重厚に記載されている感じで、今後も人生の節目に読み返していきたいと感じました。
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怒りはダークサイドの第一歩だと言います。セネカは、実はジェダイの思想を私たちに伝えているのかもしれない。そのくらい普遍的な感情コントロール法を伝えています。
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人間について、医学的なことは少しは進んだのかもしれないが、人間じたいについての考察は、ここから、一歩もすすんでいない。
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古代の王がどんなに残酷な仕打ちをしていたかということがよくわかった。
王を諌めた家臣が、自分の息子を殺され、その肉体を饗応されるに至っても、なお怒りを持つことを自重する。
とても自分にはできそうにないけれど、そんな心持ちも必要なのだと訴えかけられる。
古代ローマも現代も、人間の本質的なところはあまり変わっていない。
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以前読んだけれど考えさせる言葉が多い。たとえば、「他人の悪徳に目を留めるが、己の悪徳を背に負っている」、夜の眠りに退くとき、己に尋ねよ「今日、お前は己のどんな悪を癒したか。どんな過ちに抗ったか。どの点でお前はよりよくなっているのか」。怒りを感じたとき、自分を省み状況を見守る
、あるいは故意に遠ざかる、そんな気持ちの間合いを持とうと思った。
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◯摂理について
・善き人たちが苦労し、汗を流し、険峻な途を登攀するのに対して、劣悪な連中が自堕落に暮らし、快楽に酔いしれているのを目にしたときは、「息子は厳格な訓練で律せられるのに対して、奴隷の身勝手は育つがままにされるものだ」と考える。
・障碍を知らぬ幸福は、どんな打撃にも耐えられない。だが、絶えず逆境と格闘した者には、受けた不正で厚い皮が育ち、いかなる悪にも屈しない。
◯賢者の恒心について
・彼が所有のうちに置いているのは唯一、徳だけであって、ここからは何一つ奪い取ることはできないからである。
・犯罪は、遂行の結果以前に、範囲が十分である限り、すでに完了しているのである。
・人からの侮辱を賢者が児戯とみなすのも、至当というより他はない。
◯怒りについて
・最善なのは、怒りの最初の勃発をただちにはねつけ、まだ種子のうちに抗い、怒りに陥らないように務めることである。
・それは有益だとか不可避だとか言って自分の弁護と身勝手の口実を求めてよいわけはない。
・怒りに陥らないようにすること、それから怒りの最中に過ちを犯さないことである。
・子どもを早いうちから健全に躾けることこそ、何よりもためになる。
・モノは我々の怒りに値しもせず、それを感じもしないのに、怒るとは何と愚かなことだろう。
・われわれのうち、罪のないものは一人としていない。
・全部取り去ろうとしてはいけない。一部ずつ摘みとっていけば、怒り全体を征服できるだろう。
・「思っていなかった」とは、人間にとって最も恥ずかしいいいわけだと思う。あらゆる事態を思い、予期しておきたまえ。
・怒っているとき、鏡を見たことが役立った。
・何かを試みるときはいつも、あなた自身の力と、あなたが準備していてあなた自身がその準備になっている計画と秤にかけたまえ。
・あなたの中でどこが弱いか、そこを最もしっかり守るために知っておかねばならない。
・誰でも気持ちを傷つけられた時はいつでも、自分にこう語りかけるといい。「私にピリッポスより強大な力があるとでもいうのか、彼ですら、黙って悪口を浴びた。私がふるう力は神君アウグストゥスが全世界にふるった力より大きいとでもいうのか。彼ですら、自分に罵言を浴びせるものから遠ざかることで満足したのに。」
・夜の眠りへ退くとき、己の心に向かって尋ねる。「今日、お前は己のどんな悪を癒したか。どんな過ちに抗ったか。どの点でお前はよりよくなっているのか。」
・死の定めを思うこと。「気高い喜びに費やすこと許されている日を、他人の苦痛と呵責へ移して、何が楽しいのか。」
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とてもしょうもない感想で,ごめん.たまにぱらぱらっとページをめくると,古代ローマってとんでもないなーって思うエピソードがあり,今悩んでいることなんですっごく小さなことに思える.そんな勇気をくれる本でした.いやあ,怒りをそのままぶつけては,だめですよね.
あとやっぱり訳文が辛いので夜はそのまま眠ってしまいます.
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表題の他に「摂理について」「賢者の恒心について」の二篇収録。
前1年頃~65年のローマの哲学者
まず、全文読んでの感想は「それが出来たら苦労しないな」である。
「賢者の恒心について」では「賢者に不正は届かない」と述べている。
つまり、暴力も、悪意も賢者を害しようとするもの全ては賢者の持つ何物も奪えないということ、それは例え吊し上げられ、家、肉親全てを失おうとも賢者からは何も奪ったことにはならないというのである。
なぜなら賢者は全てを自らの内に託し、自らの善きものを盤石のうちに保ち、徳に自足しているから。と述べる。
しかし、では、そんな人が存在し得るのかという問いにセネカは「おそらく、それはごく稀に、長い年月の隔たりを置いて一人しか出てこない」と言うわけで理想的に過ぎるかと感じてしまうのが本音。
賢者について言えばこれまた理想論過ぎると思わずにはいられないが、それでも凡人が学ぶに当たって参考になるのは、最終盤の侮蔑への軽蔑には良識の人であれば済むというところだろうか。
セネカは言う「私にそうしたことが降りかかるのは至当なのか、それとも不当なのか。至当なら、侮辱ではなく判定である。不当なら、恥ずべきは正しくないことを行っている者のほうだ」。
至当か不当かの判断はとても難しい事ではあるが、何故私はそんなこと言われるのだろうと、一呼吸置いて冷静に省みることは良識の人でありたいならば必須に思える。
そして本書の半分を占める「怒りについて」だが、セネカは怒りを「怒りとは、不正に対して復讐することへの欲望である」としている。
「賢者の恒心について」と絡めて言えば、自身が不当に害されたということへの復讐、報復の欲望ということになろうか。
長くなるので気になった点を拾うことにするけど、怒りは生来のモノでは無いけれど誰もが持つモノであるとしている。自分は怒らないと真面目に言う人は案外要注意かも。
まあ、簡単に言えば怒りの衝動を認めなさいということなのだが、怒りというのは何かを言われた、聞いた瞬間に起きる興奮のことでは無くその後に沸き起こる感情を指している点に留意。
カッとなってやったは興奮状態であり、怒りとは分ける。興奮から覚めた時にもあいつをどうしてくれようと思う感情(欲望)が怒り。
似たようなことは現代でも度々聞くように思うけど、言ってることは大差なくて怒る前に怒りを「遅延」させろと言う。
セネカから言えば怒りや怒りから発せられたものは悪徳以外の何ものでもない、それを「理性」によって立ち止まらせてみようということ(だと思う)。
怒りの衝動(欲望)のままに行動しても良いことなんて何もないよということ。
あとは簡単に要旨だけ
・時に怒りが勇気ややる気をくれたりするのではないか?という問いに対して断固としてそれは違うと言う
・怒りは自身を正当化する道具にも化すし自らを凝り固まった信念を持つ人にしてしまう。さらに「善意」も怒りから生じた善意は自己満足に過ぎない。
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ちっぽけなことに心を乱されないように力をつけたい。
『摂理について─摂理が存在しながらも、なぜ善き人に災厄が起きるのか』
『賢者の恒心について─賢者は不正も侮辱も受けないこと』
『怒りについて』
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セネカの「怒りについて」を読了。
理不尽、不条理…人生とはそういうものであると思う。そうした現実を受け入れながら、自身の想いを如何にぶつけ、実現していくのかなのだろう。
強くそう思うし、ここまでについて書いてある本にはこれまでも何冊か出会ったように思う。
ただ、「なぜ」理不尽なのか?、「どうすれば」辛く苦しい現実を受け入れられるのか?、こうした部分にまで踏み込んで書かれた本は、私が知っている限りでは少ない。
そんな「なぜ」や「どうすれば」にまで踏み込んだ作品。
ちょっとした転機を迎えている自分の状況と照らし合わせながら、「よくまあ、ここまでの境地に至れるものだ」と感じた。
ローマ帝国頃の歴史にもっと詳しければ、様々なエピソードの記述も、より読みやすかったことだろう。
これが2000年近く前に書かれた本だというから恐れいる。
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原書名:DE PROVIDENTIA, DE CONSTANTIA SAPIENTIS, DE IRA(Seneca)
摂理について
賢者の恒心について
怒りについて
著者:ルキウス・アンナエウス・セネカ(Seneca, Lucius Annaeus, 前1頃-65、スペイン・コルドバ、政治家)
訳者:兼利琢也(1957-、西洋古典文学)
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怒り、もしかすると私の原動力はこれかもしれない。もしくは報復。
人間は相互扶助のために生まれたが、怒りは相互破壊のために生まれた。前者は結合を望み、後者は離反を望む。
でもちょっと古臭い二元論かな。怒りがない人は深い愛もないんじゃないか。いくら治めようとも自己の生命保存のために怒りや離反という作用は必要でさえある。
もちろん他者への攻撃でなく、別のものに昇華できたらいいのだけれど。
そもそもこの人は怒りに怒ってるじゃないか。
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怒りとはどんなものか。それを爆発させるべきなのか、反対に抑え込むべきものなのか。どんな困難な状況にあっても怒りを怒り任せの自由にしてはならないとのまとめ。
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著者は恐らく当時(ローマ帝国初期)の最高レベルの教養と頭脳の持ち主。さすがと言うべきか、現代にも通じる本質的な議論を展開している。