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投稿者:福原京だるま - この投稿者のレビュー一覧を見る
第一次世界大戦の敗北で廃位したヴィルヘルム2世についてイギリス的であり反英でもある、男性的に見られようとするも女性的でもある、親政志向だが政務に熱心ではないと二面性がある人物像が描かれていてその人物像について勉強になった。
ウイルヘルム2世の真実
2019/08/12 15:30
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投稿者:ワインアドバイザー - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書をよく前は、ステレオタイプでビスマルクは素晴らしく、ウィルヘルム2世は単純な愚か者と思っていたが、複雑な事情があり、歴史の必然としてやむを得ないとの感じがしてきた。
ドイツ帝国の崩壊
2018/05/26 10:49
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投稿者:ニッキー - この投稿者のレビュー一覧を見る
国家の崩壊には、トップの能力や資質も大きな原因となっていることが分かります。本書はそれを教えてくれます。また、ヴィルヘルム1世と2世の間に短期間のドイツ皇帝がいたと言うことに気づかされました。
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投稿者:ハム - この投稿者のレビュー一覧を見る
ドイツ最期の皇帝として、しかも第二次世界大戦の重要な人物。最期どうなったかと思ったら、案外平穏に暮らしとった。
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統一国民国家草創期、工業化・大衆社会化、世界大戦という激動の時代に生きた、最後のドイツ皇帝の生涯。覇権への夢と敗北を描く。
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第1次大戦がどうして起こったのか、3国同盟と3国協商陣営の対立などと昔から一方的に類型化されているが、その中でドイツの指導者であった「カイザル」がどのような人物で、彼が開戦へ向かう中でどういう役割を果たしていたのか、あまり考えたことがなかった面である。英ビクトリア女王の孫として生まれ、英国への憧れ、英国風の生活・政治をしようとした人物、そして両親への反発から反英主義者でもあるという全く矛盾した顔を持ち、また男性的を装いつつ、女性的な性格が強かったという人でもあった。国民には酒場談義でむしろ人気があった君主だった!そして敗戦後はオランダに亡命し、1941年に死亡するまでどのような日々を送り、ナチスドイツの台頭への受け止め方は…。私たちからすれば、平穏な仕合せな晩年と思うのだが、本人はそうでもないと思っていた!ドイツ帝国がプロイセンその他との連合国という2重帝国の形をとっており、単純な帝国ではない!との説明には驚き。オーストリア皇太子暗殺事件が第1次大戦に結びつくとは誰も!ドイツ皇帝も夢にも思っていなかった!歴史の流れの恐ろしさを痛感する。このような中で戦争責任としてウィルヘルム2世を訴追する動きもあったとは、まるで30年後の日本を彷彿させる話だった。世界史の常識を崩された本であった。
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ドイツ帝国最後の皇帝ヴィルヘルム2世の評伝。
生い立ちなどからくる性格の2面性や、国民国家への時代の流れが、皇帝と彼の帝政を終焉に導いた。
自身の能力を過信してベラベラ喋ってしまうみたいな性格面では、ヴィルヘルム2世はトランプに通じるところもあるように見える。また、興隆しつつある大国という点で、彼の治世下のドイツと中国の類似性がある。そう考えると、現代の世界を読み解くことに、彼の時代を学ぶことの意味が一つあるのではないかと感じる。
カイゼル髭に象徴される武張った威厳ある皇帝の姿ではない、弱いひとりの人間ヴィルヘルムの物語として、面白く読めた。
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ヴィルヘルム2世の評伝。小説を読むように面白く流れていく。著者の筆力に脱帽。時代とともに振り回されつつも、つくづく幸せな人生を鑑みる。こういうリーダーは結構いる。
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ちょうど百年前に退位・亡命したドイツ最後の皇帝の評伝。人生がとてもドラマチックで引き込まれる。
ビスマルクとともにドイツ統一を成し遂げた祖父のヴィルヘルム一世の後,父フリードリヒ三世の治世が僅か百日で終わって即位というのも劇的。
その皇帝個人を軸にして第二帝国の隆盛と落日を辿る。特に落日が詳しく,主人公の晩年と併せて哀愁を誘う。
ロシア最後の皇帝ニコライ二世は義理の従弟で,ウィリー,ニッキーと呼び合う仲。その従弟はロシア革命で銃殺されてしまっているから,さすがの権威主義者も退位・亡命の道しかなかったのだろう。本書冒頭で紹介される,一次大戦開戦時の演説が彼の絶頂期だった。
「ホーエンツォラーン家」って表記には初めて接したけど,めちゃくちゃ良い本だった。
(「ホーエンツォレルン家」の方がなじみがある)
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ドイツ帝国最後の皇帝、ヴィルヘルム2世の評伝。
帝国の隆盛と斜陽へと向かう様子とともに、当時の国際情勢などを交え、ヴィルヘルム2世の「カイゼル髭」と称されるような威厳のある皇帝の姿を描き出す。
ひとつの劇的な人生物語を読んだ気持ちだった。
生い立ちがどれくらい影響したかは、はっきりわからない。
しかし、子どものころに受けたスパルタ教育や母との確執もあり、イギリスへの憎しみ・反発はあっただろう。そして、同時に、イギリスへの憧れ、愛着もあり、イギリス風の政治を取り入れようとした。
それが、晩年、イギリスを意識し過ぎて海軍増強に力を入れ過ぎた。結果、周辺諸国の均衡を崩し君主制の崩壊を早めてしまう皮肉。
高すぎる自己顕示欲、高慢、多すぎる(そして、深刻な)失言の数々。
筆者は”生まれる時代を間違えた王様”と評するが、“生まれた時代も場所も間違えた王様”のような悲哀を感じる。
しかし、生まれるべくして生まれ、第2帝国をよくも悪くも導いた皇帝の姿である。
意外に、ヴィルヘルム2世についての評伝が少ないことにも驚き。
もちろん、本国にはたくさんあり、日本においてもあるようですが、入手しにくい状況だったりするので、『ヴィルヘルム2世』(中公新書)は、個人的には、手がかりになる1冊になるのではないか、と。
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竹中亨著『ヴィルヘルム2世 : ドイツ帝国と命運を共にした「国民皇帝」(中公新書 ; 2490)』(中央公論)
2018.5発行
2025.1.6読了
本書は、1871年から1918年まで存在していたドイツ帝国の最後の皇帝ヴィルヘルム2世の評伝である。
ヴィルヘルム2世の母親(ヴィッキー)がイギリス王室の血筋を引いていた関係から、ヴィルヘルム2世はイギリスびいきであった。しかし、母親との確執から、次第に「イギリス的なもの」を忌み嫌うようになり、ヴィルヘルム2世を「ドイツ的なもの」へと向かわせた。ただ、このドイツ的アンデンティティはあくまで装われたものであり、ヴィルヘルム2世は終生イギリスとドイツの間で揺れ続けた。
1888年3月に祖父ヴィルヘルム1世が死去すると父フリードリヒ3世が即位するが、すでに病床に伏せていた彼は同年6月に病没し、ヴィルヘルム2世がドイツ皇帝兼プロイセン国王として即位する(三皇帝の年)。
皇帝として即位したヴィルヘルム2世はまもなくビスマルクと対立する。「個人統治」を目指す新皇帝ヴィルヘルム2世にとって、老練な政治家ビスマルクは邪魔だったのである。かくして、ビスマルクは1890年3月に宰相職を解任される。
当時のドイツ帝国は、帝国内にプロイセン王国やバイエルン王国を内包する連邦国家であり、邦は強い自立性を持っていた。ドイツ皇帝は数ある諸邦の君主の一人にすぎず、ドイツ帝国は国民国家というよりは国家連合的な集まりだった。そうした中で、ヴィルヘルム2世は「個人統治」を目指し、30年の統治の間にドイツ帝国は国家連合から国民国家へと推移していくことになる。
ビスマルク時代のドイツ帝国は、ロシアとイギリスという2大強国の対立の中で、背後にフランスという仇敵がいる地政学的状況だった。しかし、ビョルケの密約(1905年)の失敗によりロシアとの関係が険悪になり、さらには、ヴィルヘルム2世肝入りの建艦政策によってイギリスとの関係も悪化してしまう。そうした中で、ドイツはイギリス、ロシア、フランスの接近を許してしまい、次第に孤立していく。そこには新興国ドイツに対する老大国の反感意識も作用していた。
1914年6月28日、サラエボ事件から数時間後、ヴィルヘルム2世の元に電文が入り、事件の概要が知らされる。
オーストリアとロシアはバルカン半島への進出をめぐって争いあう関係であり、セルビアはロシアのパートナーだった。だから、オーストリアがセルビアを攻撃すれば、ロシアがセルビアの支援に乗り出してくる。ロシアが参戦すれば、オーストリアの同盟国であるドイツも対抗上参戦する。ロシアの同盟国であるフランスも加わる。フランスがドイツの攻撃に晒されれば、同盟国であるイギリスも乗り出してくる。このようにして、第一次世界大戦が一気にヨーロッパ全土に広まった。
1914年6月28日のサラエボ事件から7月31日のロシアの総動員令までが、世界の命運を定めた1か月だった。一般に「七月危機」と称される。
7月5日、オーストリアからの支援の打診に対して、ドイツは全面支援する旨の「白紙委任状」を手渡すが、ドイツは過去の成功体験(ボスニア危機)からロシアの��戦はないと予測していた。
しかし、7月の最終週あたりからロシアが参戦の準備をしているとの情報が入りだすと、事態は急変する。急坂を転げ落ちるようにドイツは8月1日にロシアに宣戦布告を行ったが、同日夕刻にイギリスが中立を守る旨の「誤報」が届くと、ヴィルヘルム2世はすでに発令されていた総動員令を停止するよう命令を出す。しかし、参謀総長モルトケの抵抗にあい、さらに同日深夜に誤報であることが判明すると、ヴィルヘルム2世は最終的に総動員令を許可した。このようにヴィルヘルム2世は、大戦にいたる過程を通して、武力解決に消極的だった。
大戦中もヴィルヘルム2世は作戦の関与させてもらえなかった。作戦に関わるとすれば、最終承認を与えることのみであった。
1918年10月末にキール軍港の水兵が蜂起し、ドイツ革命が始まった。ヴィルヘルム2世は退位を頑として拒絶していたが、11月9日になってようやく了承し、翌日にはオランダに亡命した。
ヴェルサイユ講和条約の一文の中には、旧ドイツ皇帝の戦犯法廷への出廷が盛り込まれていたが、オランダ政府が連合国側の身柄引渡し要請を拒否してくれたため、辛くも難を逃れた。しかし、ヴィルヘルム2世は一生涯ドイツに足を踏み入れることができなくなってしまった。彼は遠いオランダの地で自身の潔白を証する壮大なストーリーを考えだした。いわく、諸悪の根元はユダヤ人、フリーメイソン、イエズス会であり、彼らがドイツをして世界大戦をしかけさせた張本人であると。特にヴィルヘルム2世はユダヤ人に敵意を向けた。ドイツ革命の指導者がユダヤ人だったこともあり、ユダヤ人の「背後からの一突き」がドイツ帝国破滅の原因であると本気で信じていた。今で言う「陰謀論信者」になったのである。彼は精神的に不安定になり、関係者の間でヴィルヘルム2世は精神に異常をきたしたという噂がめぐった。そんな彼を支えたのは、帝政復活への願望であった。戦後、ワイマール共和制打倒、ヴェルサイユ体制打破を政綱の柱とするナチスが伸長してくると、ヴィルヘルム2世は帝政復活の機会到来ととらえ、ナチスに接近していく。ナチス側も帝政復活の賛同を匂わせる言動をとり、旧皇帝を勢力拡大に利用した。ヴィルヘルム2世の三男と四男は連れ立ってナチス党に入党した。
しかし、1933年1月にナチス政権が誕生しても、ヴィルヘルム2世のドイツ帰国は依然として禁止されたままであった。ヴィルヘルム2世はそれでも望みを捨てなかったが、1934年2月にナチス政権があらゆる君主主義団体を禁止し、解散を命じたことで、帝政復活の望みは完全に絶たれてしまった。
ヴィルヘルム2世は宿願をうち砕いたナチスに憎悪を抱くが、その一方で、1939年9月にナチスドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦がはじまり、快進撃の戦果があがるの見て、子どものように狂喜したという。1940年5月にナチスドイツはオランダを占領すると、ヴィルヘルム2世は亡命生活がこれで終わると喜んだが、結局はナチス党の親衛隊の監視下に置かれてしまった。
1941年3月、ヴィルヘルム2世は樹木の伐採中に発作で倒れ、そのまま6月4日に逝去する。82歳であった。独ソ戦が始まる直前の逝去だった。
ヴィルヘルム2世は、若きドイツ帝国が経済大国へと成長していく激動の時代に生き、ドイツ帝国の国民国家化をたくまずして後押しした。彼は「国民皇帝」たらんとし、絶対王政時代のような「個人統治」を理想としていたが、大衆政治の時代に政治的自覚をもちはじめた「国民」がもはや君主との封建的な絆で宥められるはずはなかった。近代社会の中で君主制が生き延びるためには、「君臨すれども統治せず」しかないことに、ヴィルヘルム2世は終生思い至らなかった。
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I028972515
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世界史の教科書で一度は見たことのあるヴィルヘルム2世。まえがきでも言及されていたあの立派なお髭が特徴の皇帝(「カイゼルの髭」と呼ぶそう)。 ところが、思いの外ヴィルヘルム2世は立派な皇帝とはかけな離れた人物のようだ。プライドが高く、自分は頂点に立つのであるから自分自身の中身もそれに相応しいものと過信していたようだ。私自身このような人にはならないように戒めて生きる。 そして、個人的にビスマルクと併せて読みたい。祖父のヴィルヘルム1世とは比較的良好な関係のようだが、ヴィルヘルム2世とはそうでもなかったようだ