「党国体制」という言葉
2020/12/27 12:24
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投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は太平天国の主張について「往々にして貧困と差別に苦しんだ客家のコンプレックスの裏返し」(101頁)という認識なのは、この本の基調だ。中原を追われた客家が自らの原風景である中原への回帰という観念が太平天国(というより天王洪秀全)の行動を、ある時期から決めていたようだが、洪秀全が理解した形でのキリスト教の認識が元になっている。例えば白蓮教あたりの主張との共通点があるのではないか。
太平天国では「皇帝」号はヤハウェのみに用いるべきものとして扱われて、洪秀全は「天王」と号していたにしても、諸王を封じ、列強とは華夷秩序による朝貢外交での関係を結びたいと認識していたのは、やはり彼が従来からの思想から抜けきれなかったことの表れだと見ていいだろう。もっとも、それは時代的な制約があるから、無理がないかもしれない。
240頁の小見出しにある「党国体制」という言葉は国民党が使っていた言葉だ。中国共産党の体質は何も延安整風運動から始まるのではなく、長征以前の毛沢東が党内の指導権を握る前から共通しているし、ソ連共産党の体質に由来している点もある。この本にはほとんど出て来ない中国国民党にしても、2・28事件や台湾に拠点を移す前後の白色テロに見られるように独裁政党だった時期がある。以前の中国国民党と中国共産党に見られる独裁政党としての体質が太平天国に由来しているかどうかは分からないが、共通した基盤はあると思う。
太平天国とは何か
2025/03/07 23:03
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投稿者:福原京だるま - この投稿者のレビュー一覧を見る
太平天国の乱とはなんだったのか、その勃発から滅亡までの流れがこの一冊でわかる。現代の中国の問題とも絡んで面白い。
なんだか現代の中国共産党を彷彿とさせる組織
2021/04/17 22:28
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
太平天国の乱が起こったのが1951年、日本にペリーが来航する2年前、明治維新からは15年ほど前の話だ。太平の世というのは「家をあけっぱなしにしで、道にものが落ちていてもだれも拾わず、男女は別々の道を歩く」世界のことで、大同思想のユートピアのことをさすのだと洪秀全は語る、彼の造りたかった国は清を倒し漢人が支配する国家(しかし、洪の家は「客家」とよばれ移民扱いされていたというが)だという、天朝田畝制度を始めとした平等社会の実現を目指していたが現実には権力を持った者たちが権力争いに終始するという結果に終わってしまうという、なんだか現代の中国共産党を彷彿とさせる組織だ(中国共産党も漢民族以外の中国人を夷狄扱いし迫害している)、歴史は繰り返すのだろうか
色々な背景があって
2023/11/11 08:57
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投稿者:アオイコオオカミ - この投稿者のレビュー一覧を見る
夢を見ていたのか・・・
空想的な社会主義観がありますね。
抱いた理想に焼かれた末路
2024/06/19 16:06
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投稿者:ブラウン - この投稿者のレビュー一覧を見る
太平天国の興亡史。広大な清朝のみならず西欧諸国も絡むため、新書サイズに圧縮すると、膨大な固有名詞に暴露されて目眩を起こしそうになる。淡々とした語りで大まかな流れを書いている一方で、洪秀全とキリスト教の出会いや、客家と聖書の一致、土着のシャーマニズムの影響など、太平天国の精神に影響を与えた要点をしっかり押さえている。
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帯には民主化への分岐点となった「人類史上最悪の内戦」という惹句があり興味を惹かれたが、「最悪の内戦」というイメージはあまりわかなかった。が、期待以上に内容的には面白かった。
副題にもあるとおり、太平天国は「皇帝なき中国」を目指したが、その理念は実現できず、1851年から1864年まで足かけ14年にわたる内戦で多くの犠牲を出しつつ終結した。
太平天国の指導者であった洪秀全の特異なキリスト教理解は、それまでの中国の皇帝支配を否定するものであったが、はじめから「滅満興漢」を掲げたものではなく、太平天国が拡大していくなかで作られていったスローガンであった。「つまり太平天国の滅満興漢の主張は旗人(*清代の満洲族の人びと)を偶像崇拝者と見なすことで「創り出された」言説であったと言えるだろう」(p.64)。(*は評者注)
そうした「排除の論理」は近代ヨーロッパが中国やアジアにもたらしたものでもあった。そして、それは逆にアジアの抵抗運動に報復の暴力をもたらしただけではなく、のちの階級闘争のなかでも抑圧と暴力の連鎖となってながく続くというのが、著者の見立てである(p.73-75)。
また太平天国の目指した理想社会は儒教的な「貧しきを憂えず、均しからざるを憂う」という倫理観にもとづくものであった。この原理主義的な行き方は世俗的な不平等を抱え込みつつの繁栄というあり方とは折り合いが悪い。毛沢東主義が社会主義の理想を目指す原理主義であり、鄧小平路線が現実主義的なものであるとするならば、太平天国は前者に似通っており、ある意味、現代の習近平の行き方にも近いものがある。
さて当然のことだが、太平天国を語るときにはそれを鎮圧した曾国藩・李鴻章・左宗棠らの漢人勢力の評価がキーになる。清朝弱体化の中で台頭してきた彼らは外国勢力と結び、民族主義的な太平天国を鎮圧した裏切り者という側面と、中国国内の混乱を鎮め、のちの洋務運動などの近代化路線に道筋をつけたという側面とがあるからだ。
本書で描かれているような太平天国内部の構造的な問題が根本にあるとするならば、その「挫折」に内在する問題をあらためて中国近代化全体の問題として捉えることが重要である。つまり、専制的で中央集権的な政府の圧力に抗しながら社会の多様性を認め、分権的な支配がいかに可能かという問題である。最後に曾国藩が漢人中心の中央政府を組織することを断り、地方にその地盤を置いて生き延びる道を選んだというエピソードが紹介されているが、現代の中国における共産党支配のあり方を見ていると、非常に重要なヒントがそこには隠されているように思われる。
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キリスト教を母体とした独自の宗教を創設した洪秀全の指導のもと、農民らを巻き込みながら独立国家として清の打倒を目指した太平天国の乱を巡る概説書である。
本書を読むまで高校レベルの世界史で教わる程度の知識しかなかった自身にとってまず驚かされたのは、太平天国の乱による死者数2,000万人という数値である。これは第一次世界大戦の死者数(約1,500万人)を超えており、わずか14年間に中国という一国での死者数ということを考えると、この乱がどれだけのインパクトを後世に与えたかがわかる。
なぜ、現代において太平天国の乱に注目する必要があるのか?その答えは、現在の習近平指導体制で一層強化された中央集権的体制がここまで中国で存続しているには、太平天国の乱による大混乱が背景にある、というものである。太平天国は当初、一種の地方分権体制を取っていた。しかし、最終的には各地方の権勢が増し、コントロール不全に陥る中、太平天国を危険視した西欧諸国の介入もあり、太平天国は終わりを告げる。そしてその過程で生まれたのが2,000万人もの死者である。
莫大な混乱と膨大な死者を招いた太平天国の失敗により、中国の後世の人間は「権力を分散させればこのような惨事が再び起こるかもしれない」という危惧を持ち、現在に至る中央集権体制を支えているのではないか。それが太平天国の乱の意味合いであるというのが著者の説である。
単なる歴史的事実の概説に留まらず、現代に至る中国という国家の政治体制を考える上でも非常に意義深い一冊であった。
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非常に深刻な内乱。
もし足りない部分があるとするならば、どれだけ悲惨な被害を長江流域にもたらした大災害だったのか?という記述が、さらりと書かれていることでしょうか。
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太平天国の乱の通史。
洪秀全の説く拝上帝会はキリスト教を教義としながらも、官として出世する現世利益や中国固有の天朝制度華夷思想を盛り込んだ独自のものだった。ヨーロッパ近代が「文明」を自任し「野蛮」を排斥した論理をも含み込んでいる。
タイへ天国の乱の当初は教義に基づいた天朝田畝制度や男女の別などの理想主義的な政策が特に貧民に対して受け入れられたが、やがて現実との摩擦で変容を余儀なくされるのは古今東西の革命軍の倣いの通り。太平天国は自らの支持基盤である下層民以外の地主や旗人といった旧体制側の人間を取り込めず発展性を失った・
南京を落とし天京として制度を整えた洪秀全は、自ら天兄・真主として形而上形而下頂点に立ったが、ナンバー2の東王・軍師・楊秀清に軍事や政治といった形而下の権力を委ねもした。しかし楊秀清が戦略の失敗を糊塗するために天父下凡で自らの地位を脅かしかねないとみた洪秀全は、天京事変で自ら太平天国の勢力衰退を招く。
不倶戴天の敵となった曽国藩の湘軍との類似点が挙げられている。「敵の必ず救うところを攻める」戦略や、参加者の出身地、後方へ回り込む戦法など共通点を指摘している。
太平天国は複数の実力者が並び立つ王制や農村まで支配の手を伸ばした郷官の地域支配といった、中央集権をカバーする可能性を含んでいたが制度の未成熟や政争で結局中国古来よりの中央集権的に回帰した。
中国の古代よりの中央集権・専制支配的な体質の変革という可能性を秘めた太平天国だったが、結局は古風に回帰した。
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岩波新書って地味だよね・・。ドラマチックに書けそうなテーマだけどわざと退屈させようとしてるかというくらい淡々としている?太平天国の初めのほうは男女が別れて生活させられたのに洪秀全は1000人の女官とたくさんの妻に囲まれて生活していたとか、内容はショッキングなのに、読者を煽らずアッサリとした文章でむしろ好感持てるくらい。
アヘン戦争が終わったばかりのぼろぼろの中国で、1843年、科挙試験に挫折した洪秀全は初期の中国人キリスト教徒が書いたプロテスタントの伝道パンフレットを読んで自分なりに目覚め(?)、自分が上帝(キリストの当時の中国語訳)に選ばれた末裔と思い込む。偶像崇拝の誤りや上帝が唯一の神であるという考え方は清朝支配下で惨めな生活を送ってきた洪秀全にとって、世界が180°変わって見える希望が持てるものだったのだろう。上帝が中国にいると思い込んでいるあたりは中華思想が大前提で生きてきた人間の限界なのか。清朝の軍隊が略奪や暴行で人民を苦しめていたこともあり、規律正しく、基本的に略奪などもしなかった太平天国は人々に受け入れられる。
しかし、1855年、武昌では住民を味方につけられず、結果、太平天国が敗北した歴史からは学ぶべき。わずか19歳の太平天国軍官、陳玉成は無秩序な取り立てを行って、住民を敵に回し、この頃は清軍で住民への略奪をしないよう徹底が図られるようになってきていたので、住民は清軍に連絡を取った。陳玉成は怒って住民を虐殺するが、逆に太平天国軍人の清軍への投降につながり、太平天国は敗北する。住民に支持されることで拡大した太平天国が、住民を苦しめ、結果、没落が始まる。
5章、イギリス公使たちの太平天国との接触はおもしろい。キリスト教の影響を受けた太平天国はいかばかりかと南京にやってきた公使に、太平天国の王のひとりは「天条を知っているか」と聞きイギリス人が「それは十戒のことではないか」と暗誦すると「我々の信仰と同じだ!」と喜ぶ。しかし、西欧では真の君主は全世界共通の神だと考えて、主権国家同士は対等な条約関係を結ぶのに対し、太平天国は天帝は中国にいると言う中華思想。また、洪秀全が88人の妻、他の王も36人、14人と多妻制なのもヨーロッパ人が太平天国を異端と論じる根拠となった。
太平天国の乱での死者は江蘇だけで2000万人を超えたという。この後も、ずっと中国は内乱が続くわけだが、王の一人は太平天国の乱失敗の理由を、「洪秀全が部下を信じず、兄を補佐役にしたが能力がなかった」とのこと。すごく属人的な見方と言うか、組織の中の人の狭い考え。著者は、洪秀全がキリスト教に出会って、全ての人が大家族となって救済される理想を持ったが、自らが救世主と言う考えは専制君主と変わらず、結局自分の権力が脅かされるという不安で猜疑心から逃れられなかったこと、意見の異なる相手を排除する不寛容な教義を克服できなかったことが原因と分析する。巨大な中央政府がどのように社会の多様性を確保するか170年前から続いている中国の課題、と最後はウイグルや香港で圧力政治を行う習金平政権につなげてきれいにまとまった。
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教科書でチラっと見て清朝末期の中国でキリスト教系の反乱があった、くらいの認識だったのだけど帯に今の中国の一党独裁はこの事件に起源がある的なことが書いてあったので興味を持った。結果言うと自分の読みが浅いのかなぜそう言えるのか分からなかった、とうのが正直なところ。太平天国の乱とは科挙に落ち続けた洪秀全という男がある日、キリストの啓示を受けて自分たちの国を作るために立ち上がり一時は大都市南京をはじめかなりの勢力を持つに至ったが結局は鎮圧された、という事件である。既に弱体化しつつあった清朝が更に弱くなり、地方に軍閥が生まれるきっかけにもなったようだ。作者は太平天国が権力の分散のきっかけになったのでは、という見立てのようなのだが、洪秀全はキリストの啓示を受けたと言いつつも科挙=儒教の文化が染み付いた人間であって逆にキリスト教に関しては野狐禅レベルとしか思えず...つまり清朝に対しては易姓革命を仕掛けたに過ぎず、自分はキリストの弟だなどと言うに及んで一旦は味方につけられそうだった欧米の勢力からも見放され自滅していった、というふうに読み取れた。反乱の背景には華僑の中でも後発で地位が低くならざるを得なかった客家の鬱屈があったというあたりはなるほど、と思わせられた。それにしても中国の内乱系は死者の数が桁違いでちょっとゾッとする時がある。
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太平天国の概説書。基本は時系列を追う形。
はじめに、や結論で現代の香港・台湾問題に引きつけようとするのは飛躍があるかなと思った。何か意味合いを引き出すのであれば、その後の清朝の展開や民国の話をすれば良かったのではないか。
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一時話題になった本である。太平天国について統一から分裂までを描いている。そこで現在の中国、あるいは毛沢東の政策に続けている。したがって、現在の中国の体制を考える視点を与える本のひとつであろう。
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「太平天国」菊池秀明著、岩波新書、2020.12.18
262p ¥946 C0222 (2022.04.28読了)(2022.04.17借入)
副題「皇帝なき中国の挫折」
2022年2月に「太平天国」増井経夫著、を読んだのですが、1951年に出版された本だったためかよくわかりませんでした。研究がまだあまり進んでいなかったのかなと思い、新しい本が出ていたので読んでみました。
太平天国の戦いは、1850年12月に始まり、1864年7月に終わっています。14年も続いたんですね。
太平天国の教えは、中華思想とキリスト教をミックスしたようなもので、キリスト教の宣教師には、とても受け入れられないようなものだったようです。
指導者の洪秀全は、啓示を受けて上帝教を創っています。宗教を作るには、啓示を受けることが必要なんですね。
ひょっとすると、イスラム教と同様に、中国全土に広まって清朝に代わる帝国ができていたのかもしれません。残念ながら、イギリスをはじめとする列強が干渉してくる時代になってしまっていたためにうまくいかなかったのかもしれません。
【目次】
はじめに
一 神は上帝ただ一つ
二 約束の地に向かって
三 「地上の天国」の実像
四 曽国藩と湘軍の登場
五 天京事変への道
六 「救世主の王国」の滅亡
結論
あとがき
参考文献
関連年表
☆関連図書(既読)
「太平天国」増井経夫著、岩波新書、1951.07.15
「李鴻章」岡本隆司著、岩波新書、2011.11.18
「実録アヘン戦争」陳舜臣著、中公文庫、1985.03.10
「中国の歴史(13) 斜陽と黎明」陳舜臣著、平凡社、1983.03.07
(アマゾンより)
「滅満興漢」を掲げて清朝打倒をめざし、皇帝制度を否定した太平天国。その鎮圧のために組織され、台頭する地方勢力の筆頭となった曽国藩の湘軍。血塗られた歴史をもたらした両者の戦いの詳細を丹念にたどり、中国近代化へと続く道に光をあてるとともに、皇帝支配という権威主義的統治のあり方を問い直す。
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清朝の太平天国を論じた歴史書。太平天国は清朝の支配とは対照的であった。中国に新たな政治の仕組みを生み出す可能性があった。
第一に阿片の厳禁である。太平天国は阿片の吸引を厳しく禁止した。洪秀全は阿片吸引を「変じて妖を生む」ことを批判した。清朝は司令官レベルにも阿片中毒者がいた。阿片中毒者が虚偽告発で冤罪を作っていた。
「湖北巡撫だった旗人の崇綸(ツォンロン)は西征軍が兵を引いた今こそ追撃すべきであるのに、湖広総督で漢人の呉文鎔(ごぶんよう)が怯えて出撃しないと告発した。実は崇綸はアヘンの常習者で、先の戦いで逃亡しようとしたところを呉文鎔に叱責され恨んでいたという」(129頁)
第二に軍紀である。太平天国軍は厳格な規律があった。これに対して清朝の軍隊は略奪や殺人の絶えなかった。清朝の軍隊は賊を見れば戦わずに逃げ、賊が去れば民をがして手柄にする状態であった。貧しい農民は太平天国軍の進撃を清朝の支配よりもはるかに良いと歓迎するほどであった。
湘軍は天京に入城すると住民に対する激しい略奪と殺戮を行った。「老人や年配の女性は片端から殺され、幼児も面白半分に殺された。天王府にあった金銀もすべて略奪され、証拠隠滅のために焼き払われた」(232頁)
第三に分権である。太平天国は洪秀全を天王としたが、専制君主ではなく、諸王が併存する体制であった。「占領地の経営のために実施した郷官制度も中央主権的な統治の弊害を改め、新興の地域リーダーに地方行政への参加を促す分権的な側面をもっていた」(239頁)。これは秦の始皇帝以来の官僚制の徹底した中華王朝とは対照的である。
第四に中華思想からの脱却である。太平天国は中国という言葉を多用した。中国と言うと世界の中心に位置する中華思想と考える向きもあるが、西方(ヨーロッパ)と中国という価値中立的な対比であった。西戎と呼ぶような中華思想からすると進歩的であった。
しかし、第三と第四の点は徹底を欠いた。第三の点は王の間で粛清が相次ぎ、専制や不公正な人事が行われるようになった。第四の点は既存の中華帝国と同じように欧米諸国に朝貢を要求し、相互主義に基づく主権国家同士の外交を求める欧米諸国を失望させた。これらの点は太平天国の失敗原因となる。
太平天国にも不寛容という問題があった。しかし、それは欧米思想に内包しているものであった。「不寛容さは元をたどればユダヤ・キリスト教思想の影響にたどりつく。抑圧された民の異議申し立ては、しばしば自分たちがかかえた苦難の大きさゆえにエスノセントリズム(自民族中心主義)に陥り、他者の苦悩に対する理解を欠いてしまう」(238頁)。これはパレスチナを抑圧するイスラエルに重なる。また、ハマスの攻撃にも重なる。
清朝の正規軍の八旗や緑営は太平天国の軍勢に対して無力であった。そこで漢人有力者は郷勇を組織した。曾国藩の湘勇、李鴻章の淮勇などである。曽国藩は「太平天国の中核を占めた広東、広西人に対する敵愾心を煽ることで人々を戦いに動員しようとした。それは中国社会に濃厚な地域主義を生み出した」(139頁)。後の中華民国は軍���の跋扈に苦しむことになるが、その根はここにあった。
清朝では太平天国を「心腹の害」、欧米列強を「肢体の患」と呼び、ヨーロッパの協力を得て太平天国を鎮圧しようとした(219頁)。後に蒋介石は日中戦争で「日本軍は軽い皮膚病だが、共産党は重い内臓疾患」と言ったが、それと似ている。