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投稿者:ダタ - この投稿者のレビュー一覧を見る
子供の頃に住んでいた
社宅の雰囲気を思い出した。
夕食時の匂い、階段を往き来する足音、
駐輪場の蛍光灯に集まる蛾。
その団地も今は無くなってしまい
朧な記憶を物語の商場と重ね合わせ
何とも言えない懐かしさに身を浸せた。
本当に素晴らしい作品です。
中華マジックリアリズム
2021/11/23 12:07
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投稿者:しゅんじ - この投稿者のレビュー一覧を見る
文庫版が出たので、購入。訳者後書きの「三丁目のマジックリアリズム」というのがぴったりの読み味。この少し後に台北に行ってるはずで、商場にも行ったような気がする。著者と同世代なんだろう、ちょうどのサイズの靴を履いたような感じ。『ゾウ』の「わたし」と『鳥を飼う』の「わたし」は同じなのか。『九十九階』だけ三人称なのは何故か。『金魚』や『ゾウ』、『鳥を飼う』も誰かに語ってる話なのか。『ギター』の「ぼく」も靴屋の「ぼく」なのか。色んな疑問は湧くし、詳細に読み解けばわかるのかもしれないけど、再読するのも憚られるほど楽しんだ。
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投稿者:ケロン - この投稿者のレビュー一覧を見る
台湾の昔の様子を懐かしむ感じがいい。
日本人にも共通するようなノスタルジー。
「あ、これってあそこだな」という場所も出てきて、いい感じ。
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投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
すでに30年も前に取り壊された台湾初のショッピングモールが舞台です。なぜか……懐かしく感じました。連作短編集なのですが、主人公の一人称が、誰なのかちょっと分かりにくい点がマイナスかな
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単行本刊行以来6年ぶりに再読。読み直すと思った以上に死や消失によって生まれる影の部分が濃く、魔術師に出会った子供たちが見る「魔術」が後の彼らに大きく影響を与えていることがわかる。懐かしむことは退行ではなく、死も喪失も決して悲しみや感傷を呼ぶものではなくて、通過儀礼として彼らの中に残るものだ、と感じながら読んだ。
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Twitter文学賞で知ってからずっと気になっていた作品。これはまるで台湾の村上春樹ではないか。とても読みやすく佳作揃いだった。現実と空想の世界が、魔術師の姿を介して交差する。マジックリアリズムの世界がひと昔前の台湾の商場で繰り広げられる意外性がとても新鮮。
魔術師はまるで空想の存在のようだが、紛れもない現実の存在である。どの作品にも必ず「死」が登場するが、むしろそっちが空想の出来事のように思えてしまう。
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中華商場というのは1961年から約30年ほどのあいだ台湾の台北市にあった商業施設。と言っても今のモールとは異なり、3階建てのビルが8棟連なり、2キロほどの長さになり、そこに店舗とその店を営業する家族の居住空間があったというから、商店街のようなものに近いのかもしれない。
各棟の2階には連絡するための広い歩道橋があり、そこにも露天商が並んでいたそうだ。
この短編集はその商場に住んでいた人たちが、少年時代にそこで起きたことを回想して語る物語。そして、棟を繋ぐ歩道橋でマジックをして見せていた魔術師が各話で語り手になんらかの転機をもたらす。
少年時代の記憶にはえてして記憶違いや、夢と記憶が混ざりあって、どこまでが記憶でどこまでが夢や空想なのか判然としないものがないだろうか。ここで語られる話はまさにその記憶と夢が混ざり合った、しかし、当人にとっては、確実な記憶として、その後を変えた記憶として心に残っているものとして語られる。
ノスタルジーとまとめてしまうのは容易いが、ノスタルジーというのは往々にして溶けやすい砂糖のようなもので、水に混ぜればするりと溶け消えて、飲み下す時には甘みが心地よいが、飲み下してしまうと何も残らない。
しかし、ここで語られる物語には何か口の中に、喉の奥に残って、いったいこれは何なんだろうと考えに耽ってしまうような感覚が残る。
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台北に1961年から1992年まで存在した長さ1kmのショッピングモール「中華商場」を舞台にし,そこで暮らす子供たちを主人公とした10の短篇(と1編のオマケ)からなる.多くの話に「歩道橋の魔術師」が狂言回しとして登場し,また,ある話の主人公は別の話にエキストラとして登場する.
日本に売り込む際には「三丁目のマジックリアリズム」というコードネームだったと書かれているが,確かに南米の作家のような不思議な味わいがある.ただ我々と同じ東アジアが舞台であり,不思議な味わいである一方で,描かれる光景が身近に感じられる.
自分より下の世代にはピンとこないかもしれないが,台湾では1987年まで戒厳令が敷かれ,政治活動や言論の自由は厳しく制限され,市民の逮捕・投獄が横行していた(戒厳令が解除された,というニュースはリアルタイムで見た).本書で死が頻繁に登場するのは,そういった時代の空気が描かれているのかもしれない.
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面白いかどうかと言われると悩むんですが、強く惹かれるものがあり、心に残る作品です。台湾の商場で育った子供たちの思い出と現在をいろいろな視点から描く、心地よく流れて、ノスタルジックな感覚を呼び起こす連作短編集。鮮やかな魔法の時間を切り取ったようなきれいなものではなく、つらい記憶や現実も、死や不幸もあっけらかんとそういうものというふうに描かれていく。
それぞれの人生における様々の分岐点の中に、共通の場が含まれることはあって、その象徴として描かれたのがこの商場なのだろうか、などと考える。決定的に関わるわけではないのに、不思議な存在感を出す魔術師は、観察者のようでもあり、ガイド役のようでもある。
どこが面白いか、惹かれるのかを感想として文章にするのがなかなか難しい。でも、また時間を置いて読もうかなという気持ちにさせられます。
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なんか難しいなと思ったような気がして、読後、パラパラ捲ってみたが、読み終えた今となっては、そんなことはなかったなと思う。
魔術師のマジックはマジックかもしれないけれど、やはり、全て本物、それは記憶についてもそうだよ…と語りかけられた。
商場に住んでいた訳でもないし、実際見たこともないけれど、自分がそこに思い出があるように感じさせられ、何か納得させられてしまった。
ノスタルジーを感じるというより、自分の中の記憶、それはもしかしたら、勝手に脚色されているものだけれど、きっと宝物だと感じさせられた。
読後になんとなく、夢見心地になることに気分が良くなる良い体験をした。
『光は流れる水のように』はきっと何度も読み返す。
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20世紀末に取り壊された台北の巨大商業施設・中華商場。その棟と棟をつなぐ歩道橋には、不思議な黒い小人を見せる魔術師がいた。かつて商場で育った子どもたちは、そこで過ごした日々のなかに確かにあった魔法の瞬間を語り始める。記憶と物語の距離をめぐる連作短篇集。
すっきりした語り口で完成度の高い作品。『自転車泥棒』の煩雑な文体とも、『雨の島』の静謐さとも異なる。芥川賞ノミニーのような空気感があるので、現代日本の文芸作品に親しんでいる人はこの小説から呉作品に入るのが読みやすそう。
中華商場という空間が象徴する子ども時代とその喪失。主題を整理すると左のようになるが、ジュブナイルのノスタルジーを甘く描いているわけではない。人の死の影が全篇を覆い、その筆致はひんやりとしている。登場人物のひとりが印象的な死を迎える「九十九階」は、えっこの小説で人死にがでるの?と驚いたが、その後も失踪や事故、火事などが相次ぐ。語り手たちはその先触れのように魔術師と出会い、彼が見せた魔法を思いだして心がざわめく。解説の東山彰良が言う通り、魔術師が操るのは因果ではなくて世界の位相を少しだけずらしてみせることだったのだろう。
商店を営む人たちの生活の場でもあった商場のガヤガヤした往年の姿を知れるのも楽しい。なにしろ約1kmに渡って千軒以上の商店が連なる3階建てのモールだっていうんだからすごい。マークのお母さんが「小さい頃のおねしょの匂いを覚えている」と言い、商場のトイレを嗅いで行方不明の息子を探し回った、なんていうことがさらっと書いてあり、暴走した母性って感じでとても頭に残った(笑)。大陸からの移住者である仕立て屋の唐さんと猫のエピソードは『自転車泥棒』のラオゾウと小鳥のヤツガシラの結びつきにも似て、切なくも美しい。
呉明益は、今は失われた中華商場という場所そのものを記憶装置に変えた。歩道橋の魔術師は記憶という幻影のなかで過去と現在をつないでいる。「レインツリーの魔術師」の語り手がカンボジアで黒い小人の種明かしを追求せずにやめてしまうのは、単に幻滅するのが怖いわけではないだろう。記憶にかけられた魔法を現在において確かめることにもはや意味などないと、作家になった大人の「ぼく」はわかっているのだ。
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読んだのは「白水社版」
ノスタルジーを感じながら読んだ。不幸な出来事も子ども時代に起きると、なんだか当たり前に感じてしまうような気がした。なんとも不思議な心持がする小説。
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歩道橋といっても日本で普通に見る、あのただの立体横断歩道とは異なる。
台湾の台北市・中華路には1961年から92年代まで「中華商場」という大型商業施設があった。それは鉄筋コンクリート三階建の建物が南北に台北駅の手前から愛国西路まで1キロにわたって立ち並び、それぞれの棟に〈忠〉〈孝〉〈仁〉〈愛〉〈信〉〈義〉〈和〉〈平〉という名前がついていた。商場は中華路の車道の真ん中に建てられていたため、中華商場の建物を南北に結び、同時に車道と鉄道を東西に跨ぐ歩道橋が中華商場各棟の二階で直結し、幅も広く、沢山の露店商で賑わったらしい。
これは短編集であるが、それぞれの話の主人公たちは皆、子供のころ商場で育ち(みな商場のお店の子供)、大人になって回顧するという設定だ。そして記憶の中の共通項が、歩道橋の露店でマジックを行っていた“魔術師”だ。
商場の住人達は商場の中に店兼住居を構え、そこの子供たちの行動範囲は殆ど商場の中ばかり。各店(家)にトイレはなく、汚い共同トイレを使用している。外で親に秘密の行動したいときは「う○こ行ってくる」と言って家を出る。
占いやさんとか筆耕やさんとか本を雑に積み上げただけの古本屋さんとか、古切手やさんとか味は絶品だけどいつも店の親父が丼鉢に親指を突っ込んで品を差し出す牛麺やさんとか…清潔ではないが古き良き活気に満ちた台湾の「商場」が描かれている。
反面、物悲しさに溢れている。主人公の商場の子供達の家庭はだいたい不幸なのだ。初めは商売が上手くいっていたのに、お父さんが飲んだくれになって、そのお父さんを探しに行ったお兄さんが電車に轢かれ、そのショックでお母さんまで早死してしまったり、母親が父親にDVを受けるのを見てられなくて、家出してしまったり、何かの事情で両親が居なくて親戚の家で遠慮しながら暮らしていたり…。商売が振るわないから、子供に歩道橋で露店を出させる親もいる。
魔術師は歩道橋の屋上に寝泊まりしていて、普段はキットさえあれば誰でも真似出来るような安っぽいマジックを披露しているのだけれど、たまにゾワッとするような“魔術”を行う。ある時、母親にDVばかりする父親に耐えかねて家を出た少年に言う。「女子トイレの一番奥の個室の壁に描かれているボタンを押してごらん。」そのとおりにすると、トイレの個室がエレベーターに変わって、あるはずのない99階にたどりつき、それから3ヶ月くらい、その少年は透明人間になった。家族の店の前に立っていても全く気づかれず、家族は血眼になって彼を探し続けていた。結局、家族の所に戻ってきたのだが、その“魔術”はその後の彼の悲しい運命を予言していたのだと、40歳を過ぎた同窓会の後で分かる。
何なのだろう。この、行ったことも見たこともないのに(もしかしたら映画か何かで見たことぐらいあるかもだけど)、懐かしい感じ。確かに主人公たちと私は、ドンピシャで同じ世代なのだけれど、当時の台湾と日本では大分違う。
魔術師は言った。
「世界にはずっと誰にも知られないままのことだってあるんだ。人の目で見たものが絶対とは限らない。」
「ときに、死ぬまで覚えていることは、目で見たことじゃないからだ。」
目で見てなくても、私は中華商場を“覚えている”のかもしれない。
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台湾作家による幻想文学。
作者はガルシア=マルケスが好きなようで本の最初に言葉が引用されている。
この短編集は、実際に台湾にあった「中華商場」という商業施設にに住む人々の人生の喜怒哀楽が書き記されている。商場には八つの棟があり、歩道橋で繋がっていた。歩道橋にはマジックを見せていた「歩道橋の魔術師」がいた。
ここに出てくる登場人物たちの現実はなかなか厳しい。死んだり事故にあったりする人も多い。そんな現実にふと摩訶不思議が顕れる。あまりにもさりげないので不思議とも感じないような不思議。もうなくなった商場に、もう会わなくなった人々。
色々なものが人生を通り過ぎたが、今は自分は歩いている、厳しいような寂しいような印象がする。
『歩道橋の魔術師』
商場には八つの棟があり、歩道橋で繋がっていた。
ぼくは子供の頃に歩道橋で商売をしていた。ぼくの斜め前で商売していたのが「魔術師」だ。
人の心を読み、無いところからものを取り出し、あるものを消してしまう。
でも一番素晴らしかったのは、黒い紙を切り取った小人が命を吹き込まれて踊りだすことだった!
『九十九階』
子供のころトムとマークは親友だった。ある時マークが消えた。
数ヶ月後、消えたときと同じようにいきなり戻ってきたマークはトムにだけ秘密を教える。
…これはなんとも目に浮かぶような幻術的な。
<世界はこんなに美しい。でもあのころのふたりはそれを知らなかった。世界はこんなに悲しい。でもあのころの二人はそれを知らなかった。P32>
『石獅子は覚えている』
お宮の石獅子の口に手を入れた従兄弟のいたずら小僧は死んでしまった。
ではぼくはなぜ生きているのだろう?石獅子はぼくの夢に訪ねてきたというのに。
『ギラギラと照りつける道にゾウがいた』
アルバイトのきぐるみのゾウを着ていると、知っている人が次々現れるんだ。
ぼくの顔はゾウだから相手にはわからない。でもぼくにはわかるんだ。
『ギター弾きの恋』
ぼくは子供の頃に、近所のお姉さんと、そのボーイフレンドの間を取り持っていたんだ。
ぼくもお姉さんに憧れていたから跡をつけるのは自分の興味でもあったけどね。
二人は死んだ。商場のみんな見てきたような噂を流すんだ。
『金魚』
人との関わりを避けていたが、娼婦の百合のことはなんだか気に入った。
彼女のところに通っていたら、商場のころに付き合いのあったテレサと再会した。
テレサ。大人びて虐められていたテレサ。急に姿を消したテレサ。
<ぼくのくだらない、いい加減な人生の中で、やっと一つ残すものを見つけた、たとえ氷のように溶けてしまっても、それはきっと水となって、どこかに残り続けるだろう。P138>
『鳥を飼う』
鳥を飼いたかったの。お母さんに内緒でこっそり買った小鳥はネズミにかじられてしまったし、そのあと飼った小鳥たちも猫やネズミにやられてしまった。
私は泣いて泣いて泣いて。そんな時に歩道橋の魔術師のマジックを見たの。時を止めて、戻して、先に進めるマジックを��
『唐さんの仕立て屋』
兄貴の店の屋根裏に猫が住み着いたらしい。兄貴には懐いているが、同じ声の僕には姿を見せない。
僕は兄貴に聞いた。仕立て屋の唐さんの家に住み着いていた猫の事を覚えている?
『光は流れる水のように』
この題名はガルシア=マルケスの短編「光は水のよう」からとったのでしょうか。
ここで書かれた幻想は、この短編集の不思議のなかでもひときわ印象的で美しく刹那的です。
『レインツリーの魔術師』
ラオスに出張に行ったときに、紙の黒い小人を操る男を見た。君は魔術師かい?
ぼくは子供の頃に商場にいた魔術師のことを思い出す。昔の友達にあって彼のことを聞いた。
もう商場は解体されて無くなった。死んだり出ていったりした人たちもたくさんいる。しかし彼らの昔語りの中にはあの頃自分が過ごした商場があった。
そしてぼくにも魔術師の思い出があるんだ。
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一九九二年に解体された台北の中華商場。
そこに住んでいた人たちの不思議な記憶の物語。
かつて中華商場に住んでいた作家が、当時の同級生や友人、関係者へ「歩道橋にいた魔術師」のことを覚えているか尋ねていくという連作短編集。
マジック・リアリズムというのはよく分からないが、過去の出来事を回顧しているようで、どこかで現実離れした状況を垣間見せている。
それがかえって記憶のあいまいさや少年期特有の感情を表現しているようで、話している人の当時から今に至る人生も微かに映ろう。
その結果、ノスタルチックでありながら、人生の重みまで感じることなる。
また、故天野健太郎氏の訳は、当時の台湾と日本を結び付け、まるで自分の同郷の友が脳裏に浮かび上がってくるような錯覚を覚える。
『自転車泥棒』を単行本で読んでから、読みたいと思っていた『歩道橋の魔術師』が、河出文庫から発刊された。こうなると未読の『雨の島』『眠りの航路』も文庫本化が待ち遠しくなる。