紙の本
1936年ベルリン五輪マラソンで金メダルを獲得した孫基禎氏の政治に翻弄された生涯を描いた貴重な一冊です!
2021/03/04 10:30
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、スポーツ史及び朝鮮近代史を専門に研究され、『近代日本・朝鮮とスポーツ―支配と抵抗,そして協力へ』をはじめ、『スポーツの世界史』など、スポーツに関する興味深い著作を発表されている金誠氏の作品です。同書は、1936年のベルリン五輪マラソンで金メダルを獲得した孫基禎氏について書かれた書です。実は、この出来事を日本は国威発揚に、朝鮮では民族の優秀性を示す英雄と扱いました。こうして「日章旗抹消事件」が起きたのです。戦後韓国では陸軍トップやソウル五輪開会式で聖火ランナーを務め、英雄視は続いています。他方で、戦時中に学徒志願兵の募集など対日協力に従事した翳が近年明らかになってきました。同書は、まさにスポーツ選手が国と民族を背負わされた20世紀の実態と、そこで「英雄」とされた孫氏の生涯を描いた貴重な一冊です。
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日の丸のない写真
2022/12/08 13:30
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
ベルリン五輪で優勝した半月後、孫選手の写真が「東亜日報」に掲載された、しかし、そこには胸にあるはずの日の丸がなかった、「孫は日本の英雄ではない、朝鮮民族の英雄なんだ」という記者達の叫びがそこにはあるように思えた
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ありがとうございます
2020/11/06 22:15
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投稿者:玉 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ずっと気になっていたし、
いろいろなかたに知らせてあげていた方ですが、
意外とまとまった書籍はありませんでした。
そのなかで、ある意味タイムリーともいえる出版でした。
じっくり読んで、多くの方に教えたい1冊です。
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国無し時代の孫
2020/09/17 17:00
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投稿者:とめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
子供時代に読んだ戦争マンガで初めて知った孫基禎を今改めて読んでみた。植民地政策における富の集積と経済格差やスポーツ選手の政治利用など、人類の歴史なのかなぁと感じた。
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高橋尚子がオリンピックマラソンで日本女子として初の金メダルを取ったのは有名。それに続けと、男子でも目指せ金メダル。大河ドラマで主人公となったオリンピック初参加の日本人、マラソンランナー金栗四三の悲願だ。ところが、日本男子はオリンピックですでに金メダルを取っていた。そんなあまり知られていない金メダリストが本書の主人公、孫基禎。日本が朝鮮を植民地にしていたときの朝鮮出身ランナーだ。
孫基禎は1936年のベルリンオリンピックで優勝。世界中、日本中が孫基禎を日本を代表するランナーとして称賛した。が、その数日後、朝鮮の新聞社が、孫基禎のユニホームにプリントしてあるはずの日の丸を消去した写真を掲載する。日本は写真を問題視し、その新聞社を処分する。しかし、ことはそれだけに収まらない。そんな新聞社の暴走に全く関与していない孫基禎だが、事件後、朝鮮人にとっての反日シンボルとして利用され、日本政府からは要注意人物として扱われる。
競技のことだけに集中する有能なアスリートを自分たちの主義主張のために勝手に利用するマスコミ。しかも、彼らは利用された側の苦労や迷惑を顧みることもないし、責任も取らない。朝鮮のマスコミだろうが、日本のマスコミだろうが、この事件はマスコミの汚点として語り継がれるべきだ。
そのうえ、日本のオリンピックマラソン史のありのままを伝えにくくしてしまった点でも罪深い事件だ。
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ベルリン五輪マラソンで金メダルを獲得、帝国日本、朝鮮民族の英雄となった孫だったが、二つのナショナリズムに利用・翻弄されていく
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NHKの大河ドラマではほとんど触れられていない内容であった。ベルリン大会で金メダルをとった日本人が植民地での韓国人であったということである。
無着陸世界一周をした日本の女性飛行士が植民地の韓国人であったというノンフィクションはドラマになったが、この話はドラマになっていたであろうか。
コロナでオリンピックがどうなるかわからないが、話題になる1冊である。
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1936年ベルリン五輪マラソンの金メダリスト孫基禎。日本に併合されていた時代。日章旗を背負って走ったランナーの波乱の生涯。
日韓併合の時代。日本人としてオリンピックに参加し金メダルを取る。東亜日報では日章旗を消した記事が掲載され停刊となる事件も。朝鮮の民族運動を恐れた特高警察にも監視される。
戦中は朝鮮人の学徒動員にも協力を余儀なくされ、戦後は時に親日派と目されたり。
1912年生まれ、2002年90歳で永眠。ソウルオリンピックで開会式の聖火ランナーも務めた1人のランナーを通じて日本と朝鮮半島の歴史に迫った傑作。
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孫基禎(ソン・ギジョン)
~帝国日本の朝鮮人メダリスト
著者:金誠(札幌大学地域共創学群教授)
発行:2020年7月25日
中公新書
朝鮮が日本の併合下にあった1936年、ベルリンオリンピックのマラソンで2本の日章旗が揚がった。孫基禎(ソン・ギジョン)が金メダル、南昇龍(ナム・スンニョン)が銅メダル。いうまでもなく2人は朝鮮半島出身の朝鮮人だが、日本代表選手として栄誉を称えられる。胸に日の丸を付けたユニフォームで42.195キロを走り抜き、月桂樹の栄冠に輝いたが、2週間後、「日章旗抹消事件」に巻き込まれ、支配―被支配の対立のなかで英雄でありながらも悲劇を背負わなければいけなくなる。
オリンピック史上、今日に至るまで、たった1回だけ男子マラソンで中央に日章旗を揚げた孫基禎は、韓国併合の2年後、1912年に新義州(現在の北朝鮮北西、川を挟んで中国と対峙する国境の都市)で生まれた。家計が厳しく、13歳にして学校に通いながら親の行商を手伝う。しかし、学校の先生に見出されて陸上競技をする。普通学校卒業間近、地元の商業学校から陸上競技部への勧誘を受けるも、学費の問題で地元の印刷所へ就職。しかし陸上を諦められない孫は、恩師の紹介で長野県の上諏訪にある呉服店に入り、丁稚奉公しつつ朝夕にトレーニングを重ねた。ところが、商売が回らなくなり飲食店へと転業すると、今度は多忙になりトレーニングが出来なくなって故郷に帰る。
1935年11月、彼は第8回明治神宮大会で世界最高記録により優勝、翌年のベルリンオリンピックの日本代表候補となった。翌年5月の最終選考レースで2位となり、正式に日本代表選手に選ばれて6月にベルリンに向けて出発した。
ベルリンでは、前回ロサンゼルス五輪の覇者、アルゼンチンのザハラがトップに飛びだし、大きく差を付けられたが、オーバーペースだと見た孫は冷静に様子を見る。そして、31キロ地点でザハラを捉え、一気に抜き去って優勝、五輪記録を出した。当時は多くの選手がゴールすると倒れこんで動けなくなるなか、彼はゴール後、軽く走ってトレーニングパンツを取りにいった。その疲れを見せない勝者の姿が、海外の人々から称賛された。
東京朝日新聞の報道では、その姿を見て一緒にいた各国の外交団の人から「日本人は偉い」と褒められたことが書かれていた。あくまで彼は日本代表であり、日本人にとってこの優勝はうれしいものだった。しかし、朝鮮の人々にとっては、単にスポーツの勝利の喜びだけではなく。民族としての自身と優秀性を見ようとする出来事だった。支配が正当化されていることへのコンプレックスが強かったが、そこに一筋の光をもたらしたのである。
そんな中、半月ほどたった8月25日、朝鮮の「東亜日報」夕刊に表彰台の孫と南の写真が掲載されたが、胸にあるはずの日の丸がぼけていて、判別ができないように掲載されていた。総督府の事前検閲がある1版目は日の丸がわかる写真だったが、2版目からは消えていた。意図的にされたことは明らかだった。
東亜日報は、廃刊命令こそ逃れたが、休刊となった。
悲劇の主人公となったのは孫だった。船で帰国したときに、彼は当局から警戒される存在となっていたのである。彼を一目みたいと朝鮮の民衆が集まり、彼らが民族主義者たちに先導される可能性があったから。帰国後、英雄であると同時に招かれざる者になった。
翌年、現在の筑波大を受験するが、落ちてしまう。早稲田も受けるが、なぜだか落ちる。結局、明治大学に進むが、再び陸上競技をしないという条件を付けられた。それはどうやら明治大学が出した条件であり、当局からではないようだ。理由は、彼が当局から非常に警戒されている人物であることを明治大学がよくわかっていたため。
1943年、彼は学徒出願兵への呼びかけに協力する。単なるスポーツマンであり、政治的な活動などなにも考えていない彼にとって、それはやらないわけにはいけないことでもあった。ところが戦後、彼は親日派だと後ろ指をさされるような存在になる。ただ走るのが好きだっただけの人間なのに、時代に翻弄され、苦悩する人生を送らなければいけなかった。
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1929年11月にも、光州学生運動が起きていた。
1932年3月に満州国が誕生、4月にはリットン調査団が満州を訪れることになったが、関東軍はスポーツを利用する。調査団の来満に合わせて、建国記念連合大運動会を開催し、日本と満州の人々の融和ぶりを見せようとした。
リットン調査団がハルビンに滞在中、日本にはアメリカからチャップリンが来た。5月15日に首相官邸で催される歓迎会に招かれていたが、それをキャンセルして相撲観戦に出かけた。その日、五・一五事件が起き、犬養毅首相が暗殺された。チャップリンは予定変更で難を逃れたことになる。
1970年8月15日、ベルリンを訪れた韓国の国会議員、朴永禄(パク・ヨンノク)が。オリンピックスタジアムの石壁に刻まれた孫基禎の国籍「JAPAN」を鏨(たがね)と金槌で削り取り、「KOREA」と刻みなおしてスタジアムを後にした。その後、西ドイツは「JAPAN」に戻している。
1981年9月、西ドイツのバーデンバーデンにおけるIOCの総会で、1988年のオリンピック開催都市が、有力とみられていた名古屋を破ってソウルに決定。このオリンピック招致活動に孫は参加し、それが決まった時に立ち会っていた。
ソウル五輪について、韓国では民主化運動が押さえつけられたものの、全国大学学生代表者協議会が北朝鮮の学生とも連携して南北共同でのオリンピック開催に向けた話し合いを行う予定にしていたが、孫らスポーツ界の元老はそれを制し、北朝鮮学生との議論の中断を求めた。
ソウルオリンピックの最終聖火ランナーは、孫が最有力だったが、反対する声も増えた。彼の年齢と、植民地時代を象徴する存在であることが理由だった。結局、19歳の期待の選手が最終ランナーとなり、孫はその直前、スタジアムに入ってくるランナーを務めた。