紙の本
ミネルバの梟は夜に飛翔するのである
2023/06/04 13:42
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投稿者:Haserumio - この投稿者のレビュー一覧を見る
「本丸」を落とすべく、まずは堀を埋める狙いで一読。大いに知的好奇心を喚起されました。新書としては厚目ですが、内容的には(著者自身の語りになる)173頁までと鹿島茂氏寄稿を読めばよいかと。(大澤真幸氏と東畑開人氏パートは独りよがりの雑文。渡邊英理氏パートは最もシャープでしたが難解。佐藤優氏パートは安定の佐藤優品質。鹿島茂氏パートは読者目線の叙述と補論で、裨益するところ大。)
「産業資本主義が成立するためには、それを強いる、何らかの観念的な「力」が不可欠だったということです。宗教改革からそれは来た、とヴェーバーは考えた」(135頁)。
「生産関係が変わるのは、その基底にある交換のあり方が変わるからです。したがって、社会的関係の「土台」(下部構造)は「交換様式」にある、といわねばならない」(140~1頁)。
「宇野はそれらを峻別し、史的唯物論は"イデオロギー"であるが、『資本論』は科学である、と主張したのです。・・・ 宇野の考えでは、『資本論』は、産業資本の致命的な欠陥を示した。それは、産業資本が本来商品となりえない労働力を商品とすることによって存立していることです。この特殊な商品は、必要だからといって、急に生産することができないし、不要だからといって始末することもできない。そのことが資本主義経済に、決して解消し得ない困難と危機を必然的にもたらす。これは、今日も起こっている事態です。たとえば、少子・高齢化や移民の問題」(143頁)。
「定住後は、その地域では確保できないものが出てくるから、どうしても交換をせざるをえなくなる。しかし、交換の相手は他の共同体の見知らぬ者なので強い抵抗が生まれる。では、そうした抵抗を押し切って、彼らは交換に踏み切ったのか、あるいは彼らをしてそうせざるをえなくさせたものはなんなのか?・・・ それを成り立たせたのが、各人の意志を越えた『霊』の力である」(271~2頁、鹿島氏パートより)。
「「原遊動性(U)」は「向こうから来て」交換様式Aを発動させたのだから、その交換様式Aの高次元での回復であるはずの交換様式Dにおいてこれが強く作用していないはずはないからである。では、この「原遊動性(U)」が反復強迫的に「向こうから」回帰してくる兆候は現在の世界には存在しないのか? 私はあると思う。それは先進国における人口減少と、発展途上国における人口爆発である」(280頁、同上)。
上記の引用からも、来たるべき様式Dが、今後の人間存在(の重視)や労働の在り様と深く連関していることは明らかであろう。なんにせよ、「引力」のみならず、「国家権力」や「政治権力」というワードもあるわけなので、柄谷氏のいう「力」(force)があるという認識はなんらの問題も惹起しないように評者には思われた。
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エピソード、対談、講演、書評
2023/11/09 15:34
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投稿者:魚太郎 - この投稿者のレビュー一覧を見る
哲学、文学、経済学に素人の私にとって、「力と交換様式」を読んで十分に理解し得ていないところを、エピソードや講演、対談、書評の紹介で補ってくれた。タイムリーでありがたい、貴重な解説書。理解が深まったような気がする。
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「力と交換様式」を読む前に
2023/08/07 09:18
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投稿者:とらとら - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本の主題になる「力と交換様式」を読む前に、こちらの新書を読みました。何かの書評かなんかで取り上げれていて、読んでみようかなとおもっていたところで、この新書が目について、まずはこちらからと。「力と交換様式」を執筆中のシンポジウムや出版前の講演なんかも載っていて、それ以前の著作のことなんかも知ることができました。最初のシンポジウムと大澤真幸の読後の解説・コメントが特にわかりやすかった。マルクスをはじめとしていろいろな哲学者や思想家の考えなんかが議論の前提・ベースになっているようで、最初に本編を読んでいたら挫折していた気がします。
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交換様式という概念
2023/06/28 15:31
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投稿者:nekodanshaku - この投稿者のレビュー一覧を見る
何も知らずというか、何気なく読み始めた本書だが、ある意味難しく、かといって途中で投げ出すことができない魅力があった。柄谷行人という哲学者の「力と交換様式」に対する評論が後半を占めるが、交換様式なる概念を理解させ、来るべき社会の状態を受け入れる準備を促す書であると理解した。贈与と返礼に基づく互酬交換(A)、略取と再分配を行う服従と保護の交換(B)、貨幣と商品による商品交換(C)、それらの先にAが高次元で回復されたものが交換様式Dとして、新たな社会形態として、私たちが受入れ、到達することになるらしい。
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【絶望的な未来にも〈希望〉は必ずある】国家と結びついた資本主義を超えることは可能か。世界の成り立ちと反復する歴史の危機を「交換様式」で捉える柄谷理論の源泉に迫る。
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何よりも柄谷行人の生い立ちを読むことができたのが最大の収穫である。新聞連載もされているが、1ヶ月に2回ほどのペースなので、それは忘れたころにやってくるという感じ。最初からではないがすでに相当汚かった駒場寮にもいたとのこと。そこで廣松渉などとも出会っている。なかなかおもしろい時代だったわけだ。「力と交換様式」については理解が深まったかというと、なかなか難しい。前半は國分さんや斎藤さんとの会話をワクワクしながら読んでいたのだが、後半、5人の書評(これは書評と呼んでいいものなのだろうか)を読んでいると余計に分からなくなってくる。皆さんきっぱりと解説してくださっているのだけれど、特にDについては解釈が大きく異なるように感じる。まあそれぞれが自由に考えて、Dを探し求めていけばよいのだろうか。戦争や恐慌などを乗り越えた後に向こうからくるものと言われると、どうしてもそれだけではなく自然災害が一番影響大なのではないかと思われる。やはり大地震か富士山の噴火か、はたまた地球外からやってくる小惑星の衝突か。あまり大きな声では言えないが、養老先生も相当地震を期待されているようだし、何かそういう大きな出来事が起こらない限り、この「クソみたいな世界」は変わらないのかもしれない。(ちょっとドラマに影響されている。)と思ったけれど、3.11と原発のことを考えると、地震があっても変わらないのか。東京が壊滅しないとダメということか。しかし、東京には知り合いも多くいるし、はあ悩ましい。こういうとき、たいがい自分は大丈夫という変なバイアスがかかっている。ところで、僕にとって柄谷行人は分からないけれど読んでおきたいNO.1で、単行本でも出れば買って読む唯一の著者だ。そう頻繁に出ないからでもあるのだが。
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【はじめに】
本書は、柄谷行人の最新作『力と交換様式』に関するインタビューや講演録、および雑誌『文學界』に寄せられた書評を集めて編集したものである。本書出版直前の2022年12月に 百万ドルの賞金で話題にもなったバーグルエン哲学・文学賞を受賞したが、世界的な影響力を確固とした柄谷行人の最後となるかもしれない交換様式を本格的に論じた『力と交換様式』は、思想界・哲学界から多くのアテンションを惹いていることがわかる。
柄谷は、互酬的な交換様式A、国家による略取と再分配という「交換」をもとにした交換様式B、資本主義経済による商品交換をもとにした交換様式Cに続くものとして、交換様式Aを高次元で実現する交換様式Dが今後訪れるはずであるという交換様式論を唱えている。彼の主著のひとつである『世界史の構造』の後、約10年以上を経て2022年に出版されたのが『力と交換様式』という本である。そこでは、『世界史の構造』で展開した理論の補完をしながらも、ある意味では余計なものを排するかのような徹底した論考の純化が行われているように感じた。
本書の巻頭に置かれた柄谷へのインタビューでは、柄谷自身の大学時代の駒場寮の話や、交換という観点で世界の構造を見ることに至った思考の軌跡などが語らていれる。
【シンポジウム】
國分功一郎を聞き手、斎藤幸平をコメンテータとした講演録が収められている。そこで柄谷は、『世界史の構造』とその10年後に書かれた『力と交換様式』では、「力」という問題についての認識に違いがあるという。交換において要請される「力」とはある種の霊力であり、『力と交換様式』は交換様式A、B、C、Dから生じる諸霊を考察するものとして書き上げたのだという。目には見えないけれども、社会を動かしている「力」が『力と交換方式』の主題となる。
柄谷は、彼の理論の中心でもある「交換様式D」は、こちらの力では無理なので、向こうからやってくるという主張を繰り返す。過去のNAMの活動を挙げて、昔は柄谷自身も人間が能動的にアクションを取ることで社会を変えることができる、少なくともそうであるべきだと考えていた。しかし、その活動の失敗にも触れながら、改めてこのシンポジウムの中でも交換様式Dは自分たちが意図してできるようなものではないと繰り返す。斎藤幸平は、交換様式Dを自らの課題認識に引き付けて脱成長コミュニズムに相当するものだと考えていると語るが、柄谷はその考えをやんわりと否定している。柄谷は、交換様式Dは向こうからやってくるものだと繰り返し、それは「何もしなくていいという意味ではありませんよ。むしろ大変な努力をして、それでもうまくいかない。でも、耐えろ、ということです」と言う。そういう意味では、斎藤幸平の考え方には逆説的にいまだ絶望が足りていないのかもしれない。
【書評集】
本書は最後に大澤真幸(社会学者)、東畑開人(臨床心理士)、渡邊英理(日本語文学研究者)、佐藤優(元外交官・文筆家・神学研究)、鹿島茂(仏文学者・評論家)の書評が並ぶ構成となっている。
佐藤優は、神学でいう聖霊を「力」に置き換えることによって社会の中に見えないが確実に存在する何かを語っているのだとして、これを「柄谷神学」の誕生と評する。なるほど交換様式Dが向こうからやってくるという思想も、どこか終末論的で高い次元において宗教が回復されているようにも思われる。改めて神の喪失から生まれた人文主義(ヒューマニズム)の限界への向き合うことが要請されているのだと感じさせた。
臨床心理士の東畑が、またある意味では佐藤優も、あまりにも自らのフィールドに引き付けて読み、そして語っているのに対して、加島茂の評は柄谷のテクストに寄りそう形で書かれていて『力と交換様式』を読む上で助けになるものだ。
【まとめ】
交換様式Dは「向こうから来る」ものだと繰り返すのに対しては、やはりもう少し具体的な候補のようなものを率直なインタビューや講演では触れてほしいとは思う。
そして、國分功一郎や斎藤幸平との対談、大澤や佐藤優の書評を読むにつけ、そうであるならば、東浩紀にも「交換様式論」について何かを書いてほしいと思う。自身もある意味では弟子筋であり、そうとは認めないかもしれないけれどもある種の継承を期待するのである。何となれば、東が拘るルソーの「自然」は柄谷の交換様式Dにもつながるものとして捉えることもできるのではないかとも思うのである。
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『力と交換様式』(柄谷行人)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4000615599
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著作に関する雑誌記事を集めたもの。微妙に異なる箇所もあるが、基本的には同じ話が繰り返されるのである意味理解は深まる。よって、エッセンスを把握するには丁度よい。
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柄谷行人の近著『力と交換様式』をめぐって著者による講演、鼎談/インタビューを集めたⅠ、ⅡとⅢでは「文学界」2023年2月号『力と交換様式』を読む(各界識者5名による論考)を収録した。
『力と交換様式』を読んだ人は読んで損はないと思う。手元に置きたい一冊。
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柄谷行人の著作は他によんでいないので、これ一冊を読んだだけでの感想である。
交換様式A、交換様式B、交換様式C、という概念(理念型)を用いて社会の基本構造を分析する、という方法の有効性は納得できる。また、これらの交換様式に基づいて構成されている社会の問題点とその揚棄が望ましいこと、それがいわゆる共産主義的な社会であることもだいたい同意できる(実現可能か否かは別として)。
私にとってはここまで、後は観念的な議論の繰り返しにしか思えない。
以下、私的なメモです。
・生産物は、交換されなければ商品にならない。
・そもそも、財・サービスが交換される、という ことはその財・サービスを私的に所有している人 間(人間集団の場合も含む)が存在している、とい うことが前提である。
であれば、所有という観念とその実体について 明確にする必要がある。
・原始共同体(氏族社会?)が他の共同体と交換を 始めるのは、どのような経緯によるものなのか?
とりあえず、カール・ポランニーを再読したほうが良いだろう。
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社会システムを交換様式で体系化する『力と交換様式』について、有識者との対話、思想の解説が本著で掲載される。私は原典より先にこの解説書を読んだのだが、分かりやすいので、こうした順序で読むのも良いかも知れない。A贈与と返礼、B服従と保護、C貨幣による交換、D X(Aの高次元での回復)という4つの交換様式に分類することから、論説はスタートする。
ー 交換は本来見知らぬ他者との交換であり、それを成立させるには、交換を強制させるような力が必要であり、マルクスは、その力をフェティシズム(物神崇拝)と呼んだ。
分業は交換を前提としているが、国家の成立も、その保護に対する法の上での警察権への服従という観点では、これも交換の一形態だとする。更に、マルクスの言う物神とも異なる精神性、貸し借りの社会的紐帯を基礎とした儀礼、義務感のようなものが、贈与と返礼を成り立たせる。更に、柄谷は、コミュニケーションも言語の交換とした。確かに、褒め合いの現象はこれだろう。つまり、人間は交換し合う生き物だ。
よく分からないのは、Dの存在。交換様式DにおけるAの高次元での回復とは。人間の理性では構築できないが、必ず到来する。資本主義社会のあとに出現する。無力化したAが復活、回帰する、そして反復脅迫的に向こうから来るのだという。はて。
ネットで調べても、自論が飛び交う感じだ。オードリータンも分かっていないと、柄谷は指摘する。ここまで来ると、柄谷の説明責任という気もするが、ここに読み解く、解釈する楽しさもある。本著は他に史的唯物論と資本論の構造的解説など興味深い内容も多々含むが、私の感想はこの解釈に絞ってみる。
Aの回復という前提は、既にAが毀損している状態を示す。つまり貨幣を媒介せず担保のない「贈り合い」が消えた世界だ。資本主義が行き過ぎれば、全て信用が数値化され、貨幣に限らず、究極のCとなる。また、Aは低次元だとも言っている。これは一対一の閉じた関係だからだ。閉じた関係性を開くために、集団で信仰する貨幣を要したのだから、Aの未熟さは交換範囲が狭いことだと解釈できる。ならば高次元とは、Aのように貨幣を介さず、しかし、万人と交換が成立する事。どうしても、シェアリングエコノミーとか、ベーシックインカムとか、ボランティアみたいな事が想像される。
何となく、もう一踏ん張り。衣食住の生産がAIや機械により満たされた後、人間の仕事は遊びとの境界線が曖昧になる。そこでは賞賛が報酬となる。つまり、商品の交換ではなく人間は「賞賛を交換」し出す。「いいね」がいつの間に社会に組み込まれた。答えは「いいね」、ブクログはDの先取り。これこそ高次元の回復だ、と分かったような事を述べてみる。うむ、原典を読んでみよう。