現代貨幣論の源流
2018/05/22 22:19
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投稿者:病身の孤独な読者 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「貨幣とは何か」というのは経済学での一大トピックである。ただの紙切れに「価値」が生じるのがなぜなのか気になる方は多いのではないだろうか。その疑問に真正面から答えてくれるのが本書である。内容の詳細は省くが、キーワードは「無限の信頼」である。わかりやすくかなり評者にもしっくりときた仮説である。
力の表現としてのトートロジー
2002/01/20 16:36
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
トートロジーは「力」の表現である。──エックハルトは、「命が命自身の根底から生き、自分自身から豊かに湧き出ている」とき「命はそれ自身を生きるまさにそのところにおいて、なぜという問なしに生きる」のであって、もし命が「あなたはなぜ生きるのか」との問いに答えることができるならば、それは「わたしは生きるがゆえに生きる」という以外答はないだろうと説いている(「なぜという問のない生き方について」,田島照久編訳『エックハルト説教集』所収,岩波文庫)。
ニーチェの永劫回帰とは、あるいはウィトゲンシュタインが「同語反復は諸命題の実体のない中心である」(『論理哲学論考』5.143,奥雅博訳)とか「論理の命題が同語反復であることは、言語の、世界の、形式的──論理的──性質を示している」(同6.12)と書いているのも、もしかすると世界の「力」の裏返しの表現だったのかもしれない。
岩井氏は本書(後書)で、「貨幣とは何か?」という問いにまともに答えてはいけない、もしどうしてもそれに答える必要があるならば、「貨幣とは貨幣として使われるものである」というよりほかにないと書いている。
同氏はこのことをマルクスの価値形態論と交換過程論の徹底的な読解を通じて、つまり「商品語」(全体的な相対的価値形態と一般的な等価形態との無限の循環論法によって成立する貨幣形態)とその「人間語」への翻訳(貨幣が今まで貨幣として使われてきたということによって、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくことが期待され、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくというこの期待によって、貨幣が今ここで現実に貨幣として使われる)の両面から論証している。
さらには、労働価値説に立脚し商品世界に実体的な根拠を確保しようとしたマルクスの「価値記号論」や「超越的な記号されるもの」の場を究極的に確保してきた古典ギリシャ以来の伝統的な記号論を、貨幣の系譜をめぐる歴史の事実(「本物」の貨幣の「代わり」がそれ自体で「本物」になってしまうという小さな「奇跡」のくりかえし)によって論駁し、最終的に資本主義の真の危機としてのハイパー・インフレーション(貨幣からの遁走)に説き及んでいる。
「貨幣が貨幣であるのは、それが貨幣であるからなのである」。──マルクスの方法の徹底化、すなわち抽象化の極限値として摘出されたこのトートロジーが示す「世界の実体のない中心」から噴出する力とは「剰余価値」であり、岩井氏はこの力の創出を「原初の奇跡」と表現している。
《…わが人類は労働市場で人間の労働力が商品として売り買いされるよりもはるか以前に、剰余価値の創出という原罪をおかしていたのである。それは、貨幣の「ない」世界から貨幣の「ある」世界へと歴史が跳躍したあの「奇跡」のときである。その瞬間に、この世の最初の貨幣として商品交換を媒介しはじめたモノは、たんなるモノとしての価値を上回る価値をもつことになったのである。貨幣の「ない」世界と「ある」世界との「あいだ」から、人間の労働を介在させることなく、まさに剰余価値が生まれていたのである。そして、その後、本物の貨幣のたんなる代わりがそれ自体で本物の貨幣になってしまうというあの小さな「奇跡」がくりかえされ、モノとしての価値を上回る貨幣の貨幣としての価値はそのたびごとに大きさを拡大していくことになる。》(227頁)
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「BOOK」データベースより
資本主義の逆説とは貨幣のなかにある!『資本論』を丹念に読み解き、その価値形態論を徹底化することによって貨幣の本質を抉り出して、「貨幣とは何か」という命題に最終解答を与えようとする。貨幣商品説と貨幣法制説の対立を止揚し、貨幣の謎をめぐってたたかわされてきた悠久千年の争いに明快な決着をつける。
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書かれている内容については、学者の中では批判のでるところだそうです。が、左脳刺激にはもってこいです。
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ネットの人気者、池田信夫は宇野弘蔵のパクリというが(彼が繰り返しことあるごとに、パクリパクリと言うのは、何か個人的な感情が絡んでいる用に思える)、私のような宇野世代ではない人たちにとって、焼き増しだとしても分かりやすい言語で資本主義や最も基本的でありながら「つかみどころのない」エンティティの一つである貨幣の話をしてもらえるのはありがたい。間違いなく、一読の価値あり。経済・経営に関するブログなんかをやっている人には、ここら辺は押さえておいて欲しい。
岩井氏の有名な原著論文はこちらhttp://cowles.econ.yale.edu/P/cm/m27/index.htm
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貨幣とは何かを問い貨幣の不安定さを指摘。そこから生まれる恐慌の危険性を述べるとともに逆説的にそこには資本主義の繁栄が保障されてる。資本主義を崩壊に導くのはインフレーション。労働ではなく貨幣の根本に剰余価値は存在しているみたいな流れ。
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タイトルからはわからないかもしれないがマル経の本。しかし侮る事なかれ、面白い上にきちんと議論が成り立っている。教科書というよりかはその他の空き時間に。
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前半部要約
マルクスの価値形態論を徹底するとマルクスの意図を越えて、「貨幣が貨幣として流通しているのは、貨幣が貨幣として流通しているからである」という循環論法に行き着く。貨幣の起源は貨幣商品説や貨幣法制説といった物語によっては語り得ず、貨幣はその存在そのものが「神秘」である。
後半
資本主義の本当の危機はマルクスの言うように「恐慌」=人々が商品よりも流動性を持つ貨幣を望むために商品を売ることが困難になる事態ではなく、「ハイパー・インフレ」=人々が貨幣からの逃走を始めること。
すなわち、貨幣を貨幣たらしめる神秘が消滅すること。
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いろいろな批判のある書物のようですが、貨幣というものの不可思議さがわかっておもしろい。ので読むの二回目。
ここにあるの、構造主義的な考え方なんですね。貨幣を貨幣で買うことというのは無いわけではないですが、そういうときって、貨幣に何を見いだしてるのでしょうか。貨幣が商品としての価値を持った瞬間貨幣は貨幣でなくなると言うのは今までなかった視点だったので、新鮮でした。
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「日本人はなぜ株で損をするのか?」で紹介されていたので読まなくてはと思い購入。文庫本になってから13刷。この程度の厚さだと気楽に読む気になる。
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「貨幣とは何か?」について丁寧に論じて謎を解いてくれます。面白いです。経済学の知識が無い私でも、「ヴェニスの商人の資本論」を読んだ直後だったのでそう難なく読むことが出来ました。
著者の岩井さんによれば貨幣について本質的に考えることによって、資本主義の本当の危機がデフレスパイラルのような恐慌ではなくて、世界的なハイパーインフレであるということが結論づけられています。
マスクスさんに興味があった折に、古典派経済学や新古典派経済学ともからめてマルクスさんの貨幣論を丁寧に説明してくれている本書を読めてラッキーでした。
本書の内容とは直接関係ないのですが、最後の文章を読み終わった時に感じたのは、人類が自然に手を加えてこれまで無限に作り出してきたあらゆるものが貨幣に姿を変えた途端にその額面だけが残存し、廃棄物として捨て去られた物やサービスのようにもう消えて無くなってしまっているものも、貨幣の額面としては勘定に入っているのかなぁ〜という感慨でした。
もしそうだとしたら、貨幣というものが存在し得た太古の昔から現在に至るまでの人の営みが全て現存する貨幣の額面として刻み込まれていて、それは現に動いている物やサービスをはるかに超える額になっているのじゃないかと。そんな膨大な幽霊みたいな実体の無いものを含み混んだマネーが世界中の金融市場を飛び回っているのじゃないかというような気がして、「幽霊の正体見たり枯れ尾花…」って感じでなんだかお金も大したもんではないのかもなぁ〜と思いました。まぁ…たぶん間違った想像なんでしょうけど…
ですがまぁ、そういうふうに思うことができてしまうと、確かにお金が無ければ資本主義経済社会では非常に生きづらいけれども、かなり相当に不便であるというだけで、絶対に生きられないわけでもないという気もします。やはり、生きるということはその時その時の生き物の営みそのものという風にとらえることが出来れば、生存の象徴である「富」の概念も変化して観念的、機械的で冷たいお金じゃない、もう少し人間的な手触りのよいものに変わっていくのじゃないかなぁと感じました。
そして、岩井さんによるとハイパーインフレによって引きおこされる資本主義経済の危機の本質はお金がお金として受け取ってもらえない状況なんだそうです。お金をお金として受け取らない人をこの本では「異邦人」と名付けています。変化した「富」の概念を採用する「異邦人」さんたちがたくさん増えれば、資本主義経済によるいろんな問題も解決の糸口が見えてくるのじゃないかと…
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この人、ポール・サミュエルソンから指導を受けたそうだ。
資本主義がどうしたとか資本論がどうしたとか、左翼の残党と本出したりしてるのでマル経の人かと勘違いしていたよ。
Wikipediaによれば・・・
当初は新古典派経済学の研究で評価されたけど、不均衡動学に関する研究において新古典派批判に転じた、とのこと。
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以前読んだ『二十一世紀の資本主義論』は「貨幣」存在の独特さを描出してとても面白かったのだが、今回の本は少し様子が違っている。やはり貨幣なるものの存在を浮き彫りにしようとするのだが、そのために、何故かひたすらマルクスを精読・分析し続ける。そして、マルクスの「可能性」として、じぶんの貨幣論に通じる要素を引っ張り出そうというわけだ。
しかし柄谷行人といい、この人といい、何故そんなに無理してマルクスを救済しようとするのだろう?「マルクスの可能性」と言うが、結局はマルクスは古典派経済学の労働価値論(「価値は商品生産の労働時間によって決定される」)を抜け出すことができず、それを超えた理論を決して明言できなかった。マルクスが決して明言しなかったことを「可能性」などとして引きずり出そうなどという試みは、もはやマルクスを逸脱することになるのではないだろうか? そこまでしてもマルクスにこだわり続けるというのは不可解だし、無理に思える。
本書を読んでいてその点が非常に気になったものの、著者の貨幣論はやはり興味深い。
「貨幣が貨幣であるのは、それが貨幣であるからなのである。」(P70)
「貨幣という存在は、みずからの存在の根拠をみずからでつくりだしている存在である。」(P104)
意味内容を持たない、完全に非-意味である貨幣というシニフィアン。それの自己組織化運動である、社会関係のなかでの経済システム。
私はウェーベルンなどが切り開いた、情動/意味作用と断絶したある種の音楽を、このような「貨幣」性と考えてみる。貨幣としての音が、人間主体の意味体系とは別のところで、自己組織化運動を繰り広げる・・・。
こういう夢想を惹起してくれた岩井克人さんに感謝している。
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貨幣は貨幣として使われると貨幣になるというトートロジーこそが貨幣の本質であるという本。要素ではなく関係性に注目するのは論理哲学や構造主義っぽい感じもする。
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マルクスの考えに沿って貨幣の本質を問い直す。
前半部分はマルクスの思考方法が抽象的で理解が難しかった。
貨幣は貨幣とされるから貨幣になる、それはそうなのだけれど、マルクスに限らず昔の哲学者は本質論を展開して物事を捉えきれてないような気がする。貨幣を論じているのに、信用創造や金融機関のバランスシートを語らないのでは、議論の幅に限界が生じるのは当然だろう。