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投稿者:ニーミネン - この投稿者のレビュー一覧を見る
人間が意識的に作らなかったものと向き合うことの大切さ(=なるべく自然に接すること)を筆者は一貫して訴えている。自分の意識がすべてで、何もかもできると錯覚している我々ではあるが、昆虫一匹創れない存在であることを忘れがちである。
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投稿者:E(c) - この投稿者のレビュー一覧を見る
いいよ!
まだ、読んではいないけど。
自分探しは無駄!~人生の達観者の思索
2014/08/31 10:34
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投稿者:キック - この投稿者のレビュー一覧を見る
養老氏の「壁シリーズ」を、4作目にして初めて読みました。
「自分」と他者を区別する「壁」とは何か。自然(生物学的見地)・政治・医療・ネット情報等の様々な視点からエッセイ風に思索していきます。そして、「なにかにぶつかり、迷い、挑戦し、失敗し、ということを繰り返すことになります。しかし、そうやって自分で育ててきた感覚のことを、「自信」というのです(221ページ)。」で終わりました。
・・・?「あれっ!この本は自己啓発本だったけ?」と、まえがきに戻って納得しました。「この本のテーマは、最近考えていること、といってもいいと思います。最初の主題はいわゆる「自分」という問題です。残りはなんとなくそれに絡んだ、さまざまな話題です」ということで、「自分」にかかる思索が、多様な切り口で語られていますので、ボーと読むと論点がわからなくなります。また賛同できる意見、できない意見が混在している本でした。
私は前半の「自分の確立だの個性の発揮だのは、やはりそうたいしたものではない(28ページ」「個性を持って、確固とした「自分」を確立して、独立して生きる、などといった考え方が、実はまったく現実味のないもの(60ページ)」とし、共生の世界で育ってきた日本人にとって、「自分探しは無駄」と一刀両断にした意見にはまったく同意します。
ただ、賛同できる意見ばかりではありませんでした。例えば、「政治はまじない程度」とし無関心を煽っています(第7章)。愚かな政治は、結果として我々の生活に跳ね返ってきます。仮に政治に期待しないとしても、養老氏ほど枯れてしまったらダメですね。
結局のところ、「自分探しなんて時間の無駄であり、世間との関わり合いの中で自分を鍛えなさい」というのが結論でしょうか。話題が豊富で、飽きさせない筆致。たいへん面白かったので、他の「壁シリーズ」も読んでみようと思いました。
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投稿者:ああ - この投稿者のレビュー一覧を見る
目に見える物や考え方自身に自分との境を持って考えて
いると行った見方で考え直すと同感する部分は多々あった。
後半部分の内容は、難しかった。
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2014.6.24了読
周囲がお膳立てをして発揮させたり、伸ばしたりするたぐいのものではない、むしろ周囲が押さえつけにかかっても、それでもその人に残っているものこそが個性なのです。
個性は放っておいても誰にでもあります。だからこの世の中で生きていくうえで大切なのは、「人といかに違うか」ではなくて、人と同じところを探すことです。
田んぼは私
変な社会を我々はつくってきてしまった。そう感じることが増えました。本来、自然と共生できる文化、「個人」なんてなくてもいい社会を私たちは持っていたはずでした。それが、どんどんおかしな方向に進んでしまいました。
かつては言わなくてもわかっていたことが、今では言っても伝わらないようになった。
学生を田んぼに連れて行った際に、「あの田んぼはお前だろう」と私は言います。すると、相手はぽかんとします。何を言っているんだ、このじいさんは。でも、田んぼは私たち自身だ、という考えはおかしなものではありません。田んぼから米ができる。その米を体内に入れて、体をつくっていく。米は体の一部になる。その米を作っている田んぼの土や水、そこに降り注いでいる日光も全部、私になっていくわけです。
親孝行
「お前はお前だけのものじゃないよ」
「意識はどの程度信用できるものなのか」という疑いを常にもっておいたほうがいい
私はなにか選択をするときに、常に「楽をしないようにしよう」と考えていた気がします。楽をするのはまずい。
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自分とは何かは考えるな、と言いながら、日本人とは何かを考えろ、と言っているようで、納得しにくかった。
その二つって結局そんなに違わないんじゃないのだろうか。
なんだか腑に落ちなかった。
結論ありきの議論を、言い訳しながら進めているようにしか思えなかった。
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「壁」シリーズ第4弾。
<「自分」の壁>とは、人間が意識的に作り上げた壁のこと。
「自分が勝手に作った妄想という名の壁」を乗り越えるためにはどのような方法があるのかを、生物学的な知見に基づいて、様々な角度から指南している。
その1 自分へのこだわりを捨てて他者を知ろうとせよ。
(ヒトやサルだけが網膜に赤・青・緑の3種類の錐状体細胞を持っているのは、人の顔色の微妙な変化を感知するためであるらしい)
その2 自分は環境の一部に過ぎないことを知れ。
(30%の遺伝子は、もともとは外部のウィルスだったらしい)
その3 自分の気に入ったピュアな情報ばかりを収集するな
(人間の脳は、勝手にメタメッセージを作ってしまう強い癖を持っているらしい)
その4 自分(人間)が意識的に作らなかったものと向き合え。一番いいのは、自然に触れること。
(自分の意識では処理しきれないものが、この世には山ほどあり、自然と接する中で、その事を否応なく思い知らされることになる)
「自分」とは近代的自我が生み出してしまった妄想にすぎず、それを超える最も有効な方法は、謎に満ちた<自然>に向き合い<自然>と接することだという著者の指摘は傾聴に値する。
読後、私という存在が、地球の一部である大気に包まれた一本のチューブにすぎないように思えてきた。口から食物を取り込み、肛門から余り物を排出しているチューブ。ただ、それは、思考するチューブではあるが。
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話題がかなり広い範囲で展開して行くように思う。自分と言う意識が出てくることを扱ったものかと思ったが、そうではなかった。医学を学んだものとして、自分はこう考えてしまうと言うような論調のように思えた。意識というのはかなり神秘的なもの、曖昧なもの、また西洋から入ってきた自我と自分を消していく仏教とは相入れない性質のものとあった。
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・近江商人「店よし、客よし、世間よし」
・「メタメッセージとは、そのメッセージ自体が直接示していないけれども、結果的に受け手に伝わってしまうメッセージのことを指します。」「問題は、メッセージというものは、受け取る側が自分の頭でつくってしまうという点です。」
・「人間が意識的につくらなかったものと向き合うのがいい。」「結局は、なるべく自然に接するようにするところから始めればいい。」
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書いてある内容が自分にとって新しすぎて、自分のアタマの隅っこ、一部分が明るくなったような気がする。社会は情報化社会と言われて、いろいろな情報が錯綜していると思われているけど、世間は結局メタメッセージ的なもの(原発論争など)には群がる。ぼくもそう。そんな中で「実はこうなんじゃないの?」と言われると、非常に知的な刺激を受ける。
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「自分」というものを、どう捉えるかについて書かれています。「自分」とは何なのか、周囲に決められている「自分」というもの、「自分」が捉えているつもりで実は違う情報、それに対するためになにをしたら良いのか。
昨今、ここに書かれているような内容の本はたくさん出ています。ただ取り上げているものの実は難しいことから、そういう本では本当に納得いくところまで書かれていません(書けないと思います)。それをこの本では、難しいことを分かりやすく、そして全体の流れも考えて組まれています。
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読み始めました。
(2014年6月27日)
そういう人たちに、うっかり「そういう問題に興味ないんだよね」などと言ったら、きっと怒られるでしょう。
「こんなに重要なことに興味を持たないのか! 我々はこの問題に向き合うべきた」(養老孟司『「自分」の壁』新潮新書、189ページ)
http://www.shinchosha.co.jp/book/610576/
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『口の中にあるツバは汚くないのに、どうして外に出すと汚いの?』
子どもが発したというこの疑問に明快に答えられる大人がどれだけいるだろうか。
バカの壁から続く、養老孟司氏の話を後藤裕二氏が原稿に起こすやり方で書かれた本著。そのいわゆる壁シリーズは一貫した「養老思想」にトークテーマを与え、時事を絡ませ、ふんだんに紹介していくものだと私は解釈している。
今回のテーマはタイトルの示す通り「自分」。特にその輪郭の在り方について論じているように思う。
どこまでが自分の内側だと自然に許容できて、どこからが自分とは関係のない外側だと拒絶、切ってしまうのか。その切ってしまう境界線の引き方に、著者は警鐘を鳴らす。「あの田んぼはお前だろう」と言っても、通じなくなった、と。
ここまでの話を聞くと哲学的、抽象的な問題かと思われるかもしれないが、決してそうではない。なぜなら、どこまでを自分の内側の物事かと捉えられるかは、どこまでの問題を自身の問題として取り組めるかという、具体的な行動を起こすかどうかの判断基準になるからだ。
例えば、以前ウーロン茶のCMで「食べたものが、肉になる」というコピーがあった。このコピーを考えた人の本意とは異なるだろうが、これはまさに田んぼの稲が米となり、それを食べたあなた自身の身体になるという、つまるところ「あの田んぼはお前だろう」ということである。これを自分の内側だと実感を持てる人は、環境問題に真摯に取り組むことができる。
ことは環境問題だけに限らない。家族、友人、世間、社会との関わりにおけるスタンスをも、どこまでが自分の内側かという問題が決定するのだと私は思う。
そんなこと考えなくても生きていける。それはそうかもしれない。しかし、少し立ち止まってこの問題を考えてみるのもいいんじゃないか。
外に出たツバはなぜ汚いか。
本書を読んで、「自分」なりの回答を得る手がかりを掴んでみてはいかがだろうか。
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自分と外を隔てているものは何なのか?
自分は世界に一人しかいないが、みんな同じ人間であることに変わりはない。
体から切り離された瞬間、気持ち悪いものに思える。それってなんでなの?さっきまで自分と同じモノだったのに。本当に不思議。
世の中は不思議がいっぱい。
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葉月は、蛹の家に勝手に上がり込むと、居間のテーブルの上に無造作に置いてあった本を手に取った。
「……『自分の壁』っていうか、『自分が壁』って感じですよね」
「……それじゃあ、安部公房だよ」
蛹は、庭先で煙草を吸っていた。どこからか拾ってきた一斗缶を、灰皿の代わりにしている。縁側のガラス戸が開いていて、メンソール煙草の匂いが部屋の中まで微かに入ってきていた。
葉月はとりあえずキッチンに入り、旧式のコーヒーメーカーをセットした。お湯が沸くまでに時間がかかるタイプだ。コーヒーが出来るまで、居間のソファで待つことにして、先ほどの本をぱらぱらとめくり始める。
「あまりに強固な『自分』を作り上げてしまうと、そこからうまく外に繋がれなくなる、という話でしょうか」
「多分ね。もちろん、自分は自分だ。他者との境界がないわけじゃない。けれども、他と明確に切り離され、独立して存在するものでもない。それは生物学的に見れば当たり前だけど、それはそれとして、自分を唯一無二で、不可侵で、尊いものだと思いたがる傾向はあるのかもね」
「個性とみせかけてみんな同じ、っていうアレかもしれないですね。でも、前から思っていましたけど、だからといってシロアリも人間も対等だという考え方の人って、意外と少数派かもしれませんよ」
「そうかなあ。じゃあみんな、ソーセージは下等生物の死体だと思って食べてるの?」
「いや、ソーセージはソーセージだと思って食べてますけど」
「それ、意味が分からないよ」
首をかしげながら、蛹はゆっくりと煙を吸い、吐き出した。
「ところで話を戻すんだけど」
と、蛹は言う。
「俺は原発がどうなろうと正直どうでもいいんだけどさ、でも、この本の中の原発に言及した部分は、とてもまともだと思う」
「政治の話なんて、珍しいですね。他人をまともだと表現することも珍しいですし」
「政治の話じゃなくて、科学の話だよ。これにも書いてあるだろ。政治の話にすると、すぐ脱原発か、再稼働か、みたいな話になる。どうするのが安全か、という議論ができなくなるし、実際、今から原子力技術者を目指したいと思う若い人がどれだけいるのかって話。要はめんどくさい」
「まあ、止めても動かしても、この先、原子力とは途方もなく長い付き合いになるわけですからね……って、最後に本音出ましたね?」
「うん。政治的に言えば、全部今さらなんだよ。だから科学の話をしないといけない」
「自分はどう思うか、どうしたいか、じゃなくて、どうするか、ってことでしょうか。結局、手の届く範囲の外にあることは、口ではどう言おうと、頭でどう考えようと、自分と関係の無い他人事ですし」
「そういうことかもしれない。俺みたいな人間からすると、絆とか相互理解とか、正直鬱陶しいんだけどね。でも、言っていることはもっともだと思う。まあ、鬱陶しいんだけどさ、ものすごく」
そのとき、コーヒーメーカーが小さく電子音を発して、コーヒーが出来たことを知らせた。
「……何度も言わなくても、分かってますって」
葉月は立ち上がり、コーヒーを淹れるためにキッチンに入ってい���た。