紙の本
映画のように愛して
2023/06/15 16:37
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投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
沢木耕太郎さんの文庫版『深夜特急』第5巻は
この旅の目的のひとつでもある役割を果たす
トルコの旅を描いた第13章「使者として」、
そこからギリシャで過ごす第14章「客人志願」、
そして地中海からの手紙形式で綴られた第15章「絹と酒」から
構成されている。
文庫版第5巻と第6巻からなる単行本「第三便」は
1992年10月に刊行されている。
単行本「第一便」および「第二便」が出たのが1986年5月だから、
「第三便」の出版まで実に6年の歳月がかかったことになる。
「第二便」の帯には「第三便は今秋(つまり1986年)刊行予定」とあるから
出版社としては、かなり想定外だったに違いない。
その理由について、沢木さんは多くを語っていない。
「この六年が、この「第三便」には必要だったのだという気さえする。」とだけ。
読者としても、この6年はやはり長い時間だった。
私がこの『深夜特急』の「第一便」を読んだのが三十代のはじめ。
だから、「第三便」が出ると耳にした時、どんなにうれしかったことか。
実際それを本屋さんで手にした喜びを今は思い出すことはないが、
きっと頬ずりしたのではないだろうか。
「デリーからロンドンまで、2万キロの道のりを乗り合いバスで旅する」、
それがこの長い旅の目的だったが、
実は沢木さんにはもうひとつの目的があった。
それはトルコ・アンカラで女性にあって美術展のカタログを渡すこと。
沢木さんはただ頼まれた「使者」に過ぎないのだが、
どうして沢木さんの旅にはこんな短かい恋愛小説のような挿話が似合うのだろう。
それを大いに膨らませるのではなく、
ひとつの風景として描いていることこそが、
『深夜特急』の魅力といえる。
電子書籍
紀行文
2023/01/16 20:24
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投稿者:マー君 - この投稿者のレビュー一覧を見る
テヘランで再会した磯崎夫人のことづけを成し遂げたアンカラ、ローマ。
深夜特急を読むと人との出会いが本当に大切だと思わせる。
とてもできないなあ。
紙の本
深夜特急5
2022/09/16 20:42
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投稿者:雄ヤギ - この投稿者のレビュー一覧を見る
旅の様子が、アジアとヨーロッパの間らしく感じられる。東アジア的な人懐っこさがどんどん少なくなっていく。それでもバスのなかでは人と人の交流があり、よかった。
地中海の自然の美しさに感動しているのが面白かった。
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「その夜、私たちは何ひとつまともな会話はできなかったが、少しも退屈しなかった。顔を見合わせてニコニコしているだけで充分だった。」
分かる。とてもよく分かる。
パリ郊外のプロヴァンを観光していた時、私と同じく道に迷った男性と仲良くなり、パリに戻って友人と食事をするから一緒にどうかと誘われ、向かった先は女子会だった。
それもフランス人ではなく、スペインやイタリア、ポルトガルなどなど多国籍の集まり。
突然やってきた日本人の私を、みんなは当然のように受け入れ、いろいろ話しかけてくれるが、英語やスペイン語やポルトガル語などが飛び交い、何を会話しているのかさっぱりわからない。
でも楽しかった。
いつどこでどんな出会いがあるか分からない。
旅の醍醐味を味わったひとときだった。
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これまでの刺激的な旅から、だんだんと、おとなしいという、静的というか、感傷的な旅に変化してきたように思う。旅のおわりが近づくにつれての主人公のセンチな心情が読者の僕らにも伝わってくる。いよいよ、次巻で最終巻に向けて、旅の終わりの近付きに、なんだか、こっちまでさびしい気分に。
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何という筆力!流れが徐々に淡白になっているようにも見えるが、アジアからヨーロッパへの変遷ということかと思えた。文字を追いつつ、旅の行程に夢中になっているワタシが居る。
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・イスタンブールの暇人にまじって、ガラタ橋の欄干にもたれながら魚の唐揚げサンドを食べていると、はるか遠くの国に来たはずなのに、アフガニスタンやイランを経て、また日本に近づいているような気がしてきた。ただ、海があるというだけで、ミカンを買ったというだけで、魚を食べたというだけで……。 いや、それだけではないものがこのイスタンブールにはあるのかもしれなかった。
その予感は当たっていた。 イスタンブールに着いて二日もたつと、一日の過ごし方にリズムができてきた。それは私に二、三の気に入りの場所ができたからでもあった。 朝遅く、ホテルの近くの食堂で簡単な食事をとる。ヨーグルトに蜂蜜つきのパンとチャイといった極めてシンプルなメニューだ。そのシンプルさは、栄養学的な見地からのものではなく、もちろんすべて経済的な事情からきている。これで四リラ、約八十円といったところであるからだ。 食事が終わってもしばらくはそこを動かず、テーブルで手紙を書いたり、観光案内所で貰った無料の地図を広げ、昨日うろついた界隈がなんという地名のところなのかを確かめたりする。そして昼近くになるとようやく腰を上げ、ブルー・モスクに向かうのだ。 モスク前の広場から境内への門をくぐり、メッカに向かって左側の出入り口から靴を脱いで中に入る。ちょうど昼の礼拝が始まっており、前方に男、後方に女たちがひざまずいている。私も壁際の履物置場に靴を置き、古色蒼然とした赤い絨毯に腰を下ろす。異教徒はほとんどいそうにないが、私がいることを誰も奇異には思わないらしい。そうして昼の礼拝が終わるまで、眼を閉じてコーランの朗唱に耳を傾ける。そのまま眠りに誘われることもあったし、さまざまな思いが溢れるように駆け巡ることもあった。しかし、たいていは、不思議と気持が平静になっていき、意味のわからぬコーランの聖句の響きに心地よく身を任せることになるのだった。 朗唱が終わると、人々の立ち上がる気配がする。私も眼を開け、彼らと一緒に履物を手に出入り口へ向かう〜n1171
→ここから始まる、海外で規則的な生活ができることの喜びってわかるなぁ。インタンブールは俺も行ったことがあって、情景がよく浮かぶからかもしれない。ブルーモスクで俺もゆっくりしたかったなぁ。
・ここまで思い到った時、僕を空虚にし不安にさせている喪失感の実態が、初めて見えてきたような気がしました。それは「終わってしまった」ということでした。終わってしまったのです。まだこれからユーラシア大陸の向こうの端の島国にたどり着くまで、今までと同じくらいの行程が残っているとしても、もはやそれは今までの旅とは同じではありえません。失ってしまったのです。自分の像を探しながら、自分の存在を滅ぼしつくすという、至福の刻を持てる機会を、僕はついに失ってしまったのです。n2746
→闇落ちしてるなぁ。長期で旅しすぎることもないのかな。たまには帰ったほうがいいのかな。
・沢木)(帰りが決まっていない人の紀行文が日本には全然ない)僕は帰りを決めない旅をしている旅人が、どうやって「さぁ、帰ろう」と決めるのかということに���味を持っていたんですけどね。
(中略)
高田)『おくのほそ道』の最初の方で「古人も多く旅に死するあり」と言っていますよね。自分も旅の途中で死ぬ可能性を考えて、家も手放して出かけていますね。
沢木)ですから、そのような文学的伝統があるのに、それを受け継いだ紀行文が途絶えてしまっているでしょう。そのことにあるとき気づいたんですよ。n2859
・高田)(死して終わり、完成する旅が存在することは)難しくないんだろうと思う。作品として存在させることはね。ただ、その問題は、突き詰めると「定住」と「漂泊」という問題になると思いますが、「漂泊」というものに対する恐怖が現代の多くの人にはあるでしょうね。
沢木)非生産的ですからね。
でも、芭蕉をはじめ多くの人が腹を括って「漂泊」を選んだのかというと、そこに文学というものが出てくる。「漂泊」というものは非生産的行為にも関わらず、文章を書くという一点において生産性を持ち、それによっていわばマイナスが一挙にプラスに転化してしまう。その事を彼らは知っていたんじゃないですか?
高田)確かに彼らは知っていたし、実際に文章で表現もした。でもそればかりでもないという気がしますね。定住社会、生産社会からドロップアウトしたいという欲望は、多くの人の心の底に眠っているでしょう。その欲望を解放したとき、結果として「漂泊」の文学表現に繋がることもある。でも、一方でそれは浮浪者として何もせずに生きていくという生のあり方に繋がる場合も出てきますよね。
沢木)ええ、現実には何も表現しない人が無数と言っていいかどうか分かりませんが、存在しているんでしょう。そして、文学表現をする「漂泊者」がいたとしたら、その中間的存在なんでしょうね。
(中略)
沢木)今の日本でも、「漂泊」に匹敵する存在の人が文章を書くということがもう少しあれば面白いと思うんですけどね。
高田)『深夜特急』のように実際は帰ってきているんだけれども、作品上は帰ってこないという文学作品としての「漂泊」は、多くの人のガス抜きのための装置として必要だと思いますね。n2877
→終わりのない旅をしている人、漂白者、そんな彼らの表現の場となるプラットフォームができれば。
旅っていうのは、観光名所を回るだけのものじゃなくて、その道すがらでの人との出会いや、自分の心と向き合う時間の方が実はずっと大事で、人に話したい・自分の心に留めておきたいものだと思う。
・沢木)迷子になる可能性がないのは旅ではない、という言い方もできるかもしれませんね。
高田)なぜだか分からないが、迷子になってしまうというのが旅なんじゃないですかね。n2920
→ガーン。そうだよなぁ、でもそれって日にち決めてない旅の特権だよなぁ。
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前巻もそうでしたが、旅が進むにつれストーリーが淡白になって来た。どこそこから何処へバスに乗って運賃が幾らとか、ご飯代やホテル代その他様々な物を値切った。値切りに応じないと機嫌が悪くなる。ホテルは個室か雑魚寝か等、単なる移動する為のコメントが多くなってきて面白く無い。
前半の巻の様に初めて訪れる街の喧騒や市井の人々との触れ合い等、旅行記の主か少な過ぎると思います。最後迄読む力が無くなった。
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ようやくヨーロッパに足を踏み入れる。バスや列車で国境を越えていく不思議さを感じつつも、これまで移動してきた国は若干の緊張感も併せ持っていた。なのでこの巻でヨーロッパに到達したことで、読んでいる私も安堵感がある。特にトルコは国内にアジアとヨーロッパが存在するのだから羨ましい。文中でトルコで出会ったある男性から「茶」の話を聞くのだが、なるほどーとても面白いと思った。
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旅に慣れ、疲れ、序盤にあったわくわく感や感動がなくなり、必要以上に値切ってしまう筆者がさみしい。
あと1巻でこの旅が終わってしまう。
チャイの国とコーヒーの国はたしかに!と思った。
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旅と人生を照らし合わせて、筆者が旅の壮年期に入っている感じが全体のテーマとなってた。
これ、どこかで経験したことあるなぁ。
なんで何を求めて旅をしてたんだっけ?
どうやって旅を終わろう。
人生も、青年期を過ぎ、壮年期、老年期にはいるとこんな感じなんだろうか。
未練なく滅びたあとの街に美しさを感じていたシーンが印象的。
昔は繁栄していたが、いまその痕跡が残っていない、潔い死。
疲労は好奇心を摩耗させる。
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あらすじ
ノンフィクション作家である沢木耕太郎による紀行小説です。
1986年に1便が新潮社から刊行され、新潮文庫からは全6冊の文庫本として出版されています。
感想
時間があればこんな旅が出来るんだなって感じ。
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〝自分の背丈以上の物は見えない〟
芸術でも、自然でも
その物に対して理解するだけの教養がないと
それを面白がれない
いつも巻末の対談で
ハッとさせられることが書いてある
トラブゾンで出会った
ガイドをしてくれた若者との
コインの話が印象に残った
主人公に観光地や名所を案内してくれたり
チャイやお酒をご馳走してくれる現地の人々
気軽に旅ができない彼らにとって
異国の地からやってきた旅人とのコミュニケーションが
ある意味それが
彼らにとっての旅にもなっていたりするのかな
巻末の対談で
〝旅の終わり〟
とはどこだろうか
終わりを決めずに出た旅の終わりは
いつどこなのだろうか
漂白と定住
芭蕉のように、客死することが
旅の完成になるとしたら
人は一見なににも繋がらないような
非生産的であることにのめり込む恐怖をもっている
でも、哲学者たちが
考える時間が、ボーッとする暇があったからこそ
考える時間に向き合い
哲学がうまれたように
人は、生産的であることだけが全てではない
生産性を追い求めるだけが
人生ではない
そうは分かっていても
なかなか非生産的なことにのめり込むことへの恐怖心は拭えないきれない
とくにコロナ禍のいま
それは顕著になりつつあるのかも
だからこそ
深夜特急が心の癒しになってくれている
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アジアからヨーロッパへ。その境のトルコは自分の中で印象が薄かったが、ロシアを駆逐した日本贔屓の国柄、人の良さ、イスタンブールの街並みについて想像を逞しくした。長旅が著者に終結を自覚されてきた。シリーズもあと1巻を残して終わりとなるがもう一踏ん張りいい話を聞かせてくれねば。2022.2.20
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唯一と言って良い「旅の目的」がここで明らかになる。前作読了後ブランクがあったから、そんな目的あったっけ?とスッとぼけていたけど本書でちゃんと紹介してくれていた笑(ネットも携帯も存在しない時代というのもあるだろうけど、手がかりが殆どない状態でよく筆者に依頼できたな…というのが個人的な感想…)
目的を果たす舞台となったアンカラの回は意外とあっけなかったけど、シリーズの中では一番ドラマチックだったと思う。今回に限らず毎回お芝居のようなシナリオだから、通過地点をアップデートする度にこうした出会いが待っているのかと認識しちゃいそうになる。(筆者だからこそ、そうした出会いを実現出来たと言うのに) 一方で目的地へ急いでしまうと著者がトルコ行きのバスで見かけた、目に「無関心の色」を浮かべた少年みたいになるのだろうか。
とか言うものの自分だってシリーズを追う毎に初期ほどの感動を見せなくなっていたりする…それでも著者のジェスチャー読解力だけは毎回感心してしまうけど笑(状況にもよるけど相手が両手をパーンと叩いただけでそれを「交通事故」だと理解されるのは凄すぎる…)
「本当に旅は人生に似ているのだ。どちらも何かを失うことなしに前に進むことはできない……」
筆者がイスタンブールとお近づきになるシーンは圧巻。(今まではバスや列車の移動がメインだったから、ここで船が登場しただけで新鮮…!)
アジア圏ではあれだけ地域や人に溶け込んでいたのに、ここでは最初から簡単に行かなかったみたい。イスタンブールと言うよりコンスタンティノープル(響きが懐かしい笑)と対峙しているみたいだった。なお都入りしてからは無事平常運転に戻り、沢木節全開で城下をエンジョイされていたけど。(たとえ熊が相手であろうともそれは変わらず笑)
スパルタ跡で出会った(古代ギリシアの学者を彷彿とさせる)老人とのエピソードとか絵になる話もちらほらあったけど、章を経るごとに文章が単調になりつつある気がした。
筆者も前述の少年になったのか?と危惧したけど、地中海の一点の翳りもない青が彼を無力化させていることを知り、完全無欠な旅も案外危険かも…とまたもや認識しちゃいそうになるのであった。