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ローマ人の物語[電子版] みんなのレビュー

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みんなのレビュー68件

みんなの評価4.5

評価内訳

77 件中 16 件~ 30 件を表示

紙の本ローマ人の物語 3 勝者の混迷

2007/06/19 12:33

青年期ローマの岐路と苦悩

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:コーチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 前巻とはうってかわって暗く陰惨なトーンの『ローマ人の物語』第3巻「勝者の混迷」。前巻「ハンニバル戦記」が、自国を侵略するカルタゴから、祖国を守るために一致団結して戦ったローマ人の雄姿を描いたのに対し、この巻で描かれるのは、ローマ人同士がいがみ合い、騙し合い、殺し合う姿である。後に「内乱の一世紀」と呼ばれるこの時代は、帝国へと発展をとげようとするローマが、その過渡期において悩み苦しむ時期であった。
 カルタゴに代わって地中海の覇者となったローマ国内では、大きな変化が進行する。相次ぐ戦争により、土地を失い、没落した自営農民。彼らは都市に流れ、「パンと見世物」を要求する無産市民へとなってゆく。その一方で、彼らの土地を買い取って大土地所有をおこなうことで、裕福となってゆく富裕層たち。ローマ社会を蝕んでいたのは、貧富の拡大、失業などの社会問題だった。自由で平等な市民により成りたっていた彼らの社会の変化を、ローマ人は放任することはできなかった。その結果、公正な社会を求めるさまざまな運動が展開されることとなったが、それらは多くの犠牲を強いるものであった。
 ローマ社会の基盤である自作農の救済・育成をめざし、最初の改革を試みたグラックス兄弟。彼らは、元老院や市民の反対に遭い、ともに非業の死をとげる。またマリウスは、募兵を中心とする兵制の改革により、失業者の救済をおこなった。その後権力を握ったスッラは、強い指導力で共和政体制の強化を図る。政治闘争のたびに多くの血が流された。また、同盟市との戦争を通じ、イタリア半島内のすべての部族にローマ市民権があたえられた。スパルタクスの乱、海賊の横行など、政治的混乱に乗じた反乱や騒乱も起こる・・・
 混乱の一世紀とは、自国をめぐるこのような情勢の変化にローマ人自らが敏感に反応し、試行錯誤を繰り返した時代であった。このような試行錯誤の中で、ローマは徐々に変革されてゆく。やがてそれは、共和政というローマの伝統的政体をめぐって戦われ、最終的には紀元前1世紀後半のカエサル、アウグストゥスによる帝政への移行というかたちで完成する。
 このドロドロの内乱記においても、第1巻から描かれているローマ人らしさは伺われる。残忍な仕方で反対派を粛清したスッラさえも、ローマ人的な明るい気質と憎めない人間的魅力を感じさせるのは、この時代の誰もが国家ローマの理想を自分なりに追い求めているからだろうか?この民族的苦難の時代から、とびきりの明るさととびきりの人間らしさをもって現われるローマ史上最大のヒーロー、カエサルについては次の二巻でたっぷり語られるのだが、本巻における最も魅力あふれる人物は、やはり正義感に燃え美しい理想を抱きながら散っていったティベリウス、ガイウスのグラックス兄弟であろう。塩野は、この巻の表紙に使われている無名の青年の像をティベリウスに見立て、こう述べている。
 ―意志は強固でもそれは育ちの良い品性に裏打ちされ、口許に漂う官能的な感じは、この若者が冷血漢ではまったくなかったことを示している。そして、憂愁が漂う。私が第3巻の内容を端的に示さねばならないカバーにこの顔を使うのは、グラックス兄弟からはじまるローマの混迷の原因が、研究者の多くが一刀両断して済ませる、勝者ローマ人の奢りでもなく頽廃でもなく、彼らの苦悩であったことを訴えたいからでもある。まったく、「混迷」とは、敵は外にはなく、自らの内にあることなのであった。―
 血なまぐさい内乱の一世紀に、青年期の苦悩のような積極的意味をあたえる塩野の見解に、大きな共感をおぼえた、そんな一冊であった。

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このシリーズを読み始めた頃、よちよち歩いていた長女は今は受験生。彼女は塩野の母校目指して頑張ってます。塩野のように目標を達成できるのでしょうか

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る

私が塩野七生の著作に出会ってからもう30年近い年月が流れました。その歳月のうち、半分を占めるのが『ローマ人の物語』ですから、この作品が作者にとっていかに重いものであるか分ろうかというものです。10巻あたりだったと思いますが、塩野は自分の体調の不良を訴え、何とかこの通史を書き終えたいが、はたしてそれが可能か、というようなことを書いていました。
まず、私はそれがこうして見事に終わりを迎えることができたことを素直に喜びたいと思います。
塩野はこの本の「終わりに」で、
「誕生から死までを追ういわゆる通史は、私には二度目だった。『海の都の物語』と題したヴェネツィア共和国の歴史と、この『ローマ人の物語』で。だが、この二国の歴史は、一千年以上もの長命を享受したという点ならば似ていたが、同時代の他の国々やその後の時代にまで甚大な影響を与えたということになると、比較しようもないくらいにちがう。それが『海の都の物語』は二巻で終えられたのに、『ローマ人の物語』は十五巻にもなってしまった理由である。いや十五巻は書かなければ、ローマの歴史は書けなかった。」
と書いています。
最終巻に相応しく、この巻は面白いといえます。理由は、これもまた「終わりに」にで塩野が言うように、このローマ帝国の衰亡する時期については多くの著作があり、私たちにとっても馴染み深いということがあります。西洋史に必ず出てくるフン族やオペラにも出てくるアッティラ、フランク族、東西ゴート族といった名前は誰もが知っているといえます。
しかもです、フン族について「二本足で動く」なんていう説明は、そのあとに人間という文字がついても、爆笑もの。こういったユーモアも最終巻を無事迎えることが出来た余裕でしょう。ワーグナーの『ニーベルンゲンの指輪』への言及、あるいは、スコラとスクール、ギリシア語では椅子の意味だったカテドラ、山を意味するモンテといったようなラテン語を駆使しての語源解き明かしみたいなところも、この巻を読みやすいものにしています。
また、西ローマ帝国が滅亡後、東ローマ帝国の末期を支えた気の強い二人の女の存在も面白いものです。一人は皇帝ユスティニアヌスの妻で踊り子だったというテオドラで、猛女というのがピッタリ。もう一人が、将軍ベリサリウスの妻で子持ちの未亡人だったアントニアで、このひとは賢妻ということばがピッタリです。
他にも、心ある日本人ならば思わず手を叩きたくなる
「しかし、専制君主国では、君主は決定するが責任を取らない。そして臣下は、決定権はないが、責任は取らされるのである。」
といった発言もあります。そうか、第二次大戦前の日本ていうのは、専制君主国だったんだ。だって、天皇は責任とってないし、軍人の多くは責任取らされたし、なんて肯いてしまいます。ま、この構図は「あるある」問題でも同じですね。フジテレビは全く知らん顔で、関西テレビと下請けだけに責任あるみたい。
また、最終巻ゆえでしょう、過去の巻からの引用が度々あります。中でも印象的なのが第二巻『ハンニバル戦記』で、スキピオがポリピウスに答えたものです。
「われわれは今、かつては栄華を誇った帝国の滅亡という、偉大なる瞬間に立ち合っている。だが、この今、私の胸を占めているのは勝者の喜びではない。いつかはわがローマも、これと同じ時を迎えるであろうという哀感なのだ。」
あまりにも古い話なので、そうだったかなあ、いつかもう一度読み直すときが来るのかなあ、でも私だったら、やっぱり『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』や『イタリア共産党讃歌』、或は何故か巻末の著作一覧に名前が出ていない『神の代理人』あたりから読み直したいなあ、と思います。

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立体的に浮かび上がるローマ人の姿

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:コーチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 この巻では、戦争や政治的事件を描くこれまでの記述スタイルをがらりと変え、ローマ人がつくったインフラすなわち道路、水道、橋などの社会基盤を扱う。「インフラの父」ローマ人の手になる公共建造物の実例やその建造技術が、豊富な写真とイラストを使って明らかにされ、時系列の中ではとらえきれなかった彼らの横顔がうかがわれる。以下、本巻で印象に残った点を記してみたい。
 街道と橋・・・本来軍事目的であり、それゆえに軍隊がその建設の任を負ったローマの街道や橋は、人々が旅をするための道でもあった。作者の塩野は道路や橋の建設方法を詳細に記す一方で、自身のコレクションの中から当時の旅行者が携帯していた地図付の銀製コップを披露して、当時の旅行者、特にパクス・ロマーナ時代の彼らが、いかに快適で楽しい旅をしていたかについて想像を駆り立ててくれる。
 水道・・・街道と異なり、民間に委託された水道の工事は、「純粋に採算を度外視したもの」だったという。山間部から何十キロにもわたって引いてきた清水を、人々はほとんどただで存分に利用できた。道路や橋についても同様だが、現代のように、整備されたインフラの使用料を徴収して原価償却しようというのは、ローマ人に言わせれば、せこい考え方であったにちがいない。
 公衆浴場・・・水道の完備と同様、公衆浴場の建設は、健康増進、伝染病の予防など公衆衛生の向上に大いに貢献した。また社交の場でもあった公衆浴場では、皇帝も一般市民といっしょに裸の付き合いをしたが、ローマの全時代を通じて浴場での暗殺はただの一度もなかったという。別の巻だったと思うが、ブリタニア(イギリス)を遠征したローマ兵たちが、温泉を見つけて大喜びで入浴したというくだりもあった。これらの記述を読むにつけ、入浴好きのローマ人を微笑ましく感じる。
 医療と教育・・・本書ではこれらをソフトなインフラと呼ぶが、ローマではほとんどの時代、これらが完全な自由競争のもとにおかれていたという。つまり土木工事によるハードなインフラが無償なのとは反対に、医療と教育は有償で、よりよいサービスを求める者がより高い代価を払って受けるべきものであった。特に教育に関しては、次のようにある。
「小学校も中学校も高等学校も私立であったのが、ローマ帝国の教育制度の特色だ。・・・国定教科書やカリキュラムのようなものは存在せず、教材の選択も教育法も、当の教師に一任されている。教育効果が良くなければ親は別の私塾に子供を送るようになるから、これはもう自由市場というしかない世界であって、教師もそれなりの努力を忘れるわけにはいかなかったであろう。」
 これが、キリスト教支配の強まる帝国末期からは180度転換し、医療・教育は公営化・無償化され、同時に教会の教えにそぐわない教育内容や教師はいっさい排除された。
「ある一つの考え方で社会は統一されるべきと考える人々が権力を手中にするや考え実行するのは、教育と福祉を自分たちの考えに沿って組織し直すことである。ローマ帝国の国家宗教になって後のキリスト教会がしたことも、これであった。」
 自由と寛容を旨としたローマ人の生き方は、教育と医療の無償という甘い言葉を餌に、国民の思想を画一化し、行動や思想の自由を奪う新たな勢力―キリスト教に侵食され、非寛容的で依存的なものへと変化してゆく。このような視点は、キリスト教的博愛精神に負うところの多い現代の福祉政策のあるべき姿について考える一助となるかもしれない。
 年代ごとの歴史記述を横糸、市民の日常生活についての描写を縦糸とすることで、ローマ人の姿はより立体的に浮かび上がってくる。その意味で、本巻はシリーズ中の異色作ながら、『ローマ人の物語』全体の構成において重要な役割をもっているといえよう。

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孤軍奮闘する将軍と無能な皇帝の物語

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:サッチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 滅びに向かう西ローマ帝国を何とか食い止めようとする軍司令官と、これを妨害したとしか思えない、無能な皇帝と官僚との物語である
(1)蛮族出身の西ローマ軍総司令官スティリコが孤軍奮闘して、ゲルマン族の進攻を防ぐが、皇帝ホノリウスの処刑されてしまう。
 スティリコの死で、西ローマ帝国は実質的に滅亡し、それ故にスティリコは「最後のローマ人」といわれた。
(2)西ローマ軍総司令官アエティウスが、ゲルマン族と共闘して、アッティラ率いるフン族に対抗するが、皇帝ヴァレンティニアヌスに殺される。
 21年後、西ゴート族のオドアケルによって、皇帝ロムルス・アウグストゥスが退位させられ、西ローマ帝国はあっけなく消滅する。
(3)東ローマのベリサリウス将軍が少ない兵站で、北アフリカのヴァンダル族を壊滅させ、イタリアを占拠する東ゴート族と戦うが、途中で帰還させられる。
 最終的に、イタリアは東ゴート族と、次に来たロンゴバルド族に蹂躙される。
全15巻に及ぶ「ローマ人の物語」は最終巻まで興味深く読み進めることができた大著である。

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紙の本ローマ人の物語 8 危機と克服

2010/05/30 00:02

リーダーの要件。リーダーシップに欠ける政治的トップは国の危機を招く。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:風紋 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 1992年以来毎年1巻づつ刊行され、2006年に全15巻が完結した壮大なシリーズの第8巻目である。
 本巻では、ネロの死からトライアヌスが登場するまでの30年足らず、68年夏から97年秋までが描かれる。この間、ガルバ、オトー、ヴィテリウス、ヴェスパシアヌス、ティトス、ドミティアヌス、ネルヴァの7皇帝が矢つぎばやに入れかわった。

 アウグストゥスにはじまるユリウス・クラウディウス朝は、ネロの死により崩壊した。
 直後から、ローマ市民同士が血で血を洗う内戦へ突入した。わずか1年の間に、ガルバ、オトー、ヴィテリウスの3皇帝が相ついで即位し、そして自死または殺害された。
 その虚をついて、ゲルマン系の一部族の指導者ユリウス・キヴィリスがローマに叛旗をひるがえす。反ローマの「ガリア帝国」は次第に勢力を拡大し、ライン軍団を構成する7個軍団のうち6個軍団が降伏し、敵に忠誠を誓った。ローマ史上、タキトゥスのいわゆる「一度として経験したことのない恥辱」であった。

 ヴェスパシアヌスが内戦を収拾した。叛乱を制圧し、フラヴィウス朝を創始した。「健全な常識人」だった彼は、「なかったことにする」寛容な措置で内外ともに報復を抑え、新たな繁栄の礎を築いていった。その長子ティトス、二子ドミティアヌスも堅実な路線を継ぎ、善政をしく。
 しかし、元老院を圧迫したドミティアヌスは、暗殺に斃れた。
 元老院はただちに議員のネルヴァを皇帝に推す。内乱の記憶は、まだ人心にまだなまなましく、異論は起きなかった。五賢帝時代の幕開けである。

 連綿とつづく『ローマ人の物語』の特徴は、リーダーの人間学である。リーダーシップが、これでもか、というほど書きこまれ、分析される。
 本巻では、ことに負の側面からリーダーの要件が剔抉される。反面教師となるべきリーダーの特徴である。すなわち、ガルバにおいては人心把握の失敗、オトーにおいては実戦の経験不足、ヴィテリウスにおいては消極性、無為。・・・・なにやら、現代日本の宰相を思わせる特徴ではないか。
 その立場にふさわしくないリーダーの下では危機が起こり、続く有能なリーダーによって危機が克服される。こうして「ローマ」は栄え続けてきたし、繁栄は危機の後にもやってきた。

 著者はいう。歴史は、史料に立脚して書かれる。史料は不確実な性質をともなう。歴史家は史料を信じるが、作家は史料を疑いの目をもって利用する。このちがいは、「人間性をどう見るか」による。自分は、この長大なシリーズを書き続けるにあたって、一つの判定基準を採用した。すなわち、ある皇帝が成したことが共同体すなわち国家にとってよいことだったか否かは、彼が行った政策ないし事業を後の皇帝たちが継承したか否かによって判定する、という基準である、云々。
 タキトゥスをはじめとする同時代人にとっては悪名高いネロも、その勢力を削いだがゆえに元老院から憎まれて功績を抹消されたドミティアヌスも、この「判定基準」で見なおすと、評価されてよい側面が浮き上がってくる。
 通説に与せず、個性的なまなざしで史料を洗いなおすところに、埃をかぶった史料の中から血の通った人間を救出し、21世紀の読者のまえに生き生きと現前させるのだ。

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本当に悪い皇帝たちであったのか?

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:コーチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 本書に収められているのは、初代ローマ皇帝アウグストゥス死後に現れた4人の皇帝、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロとそれぞれの時代についての物語である。アウグストゥスの養子だったティベリウスはクラウディウス家、それ以外はアウグストゥスのユリウス家の血を引くそれゆえ、彼らの統治をユリウス・クラウディウス朝という。そして、4人の皇帝はこれまでのローマ史においては一様に評判が悪く、それが本書のタイトルにつながっている。
 作者の塩野は、これら悪名高き皇帝たちに新たな光を当ててやることにより、ある者は英君として浮かび上がらせ、またある者には何らかの名誉回復を試みている。殊にティベリウスの再評価は、力強く説得力に富んだものとなっていて、彼がいまだ発展途上にあった帝政ローマの安定に大きな貢献をした皇帝であることが、よく理解できる記述になっている。晩年は一人孤島に住み、市民との接触を絶ったばかりでなく、遠くから元老院をあやつる一種の恐怖政治を行い、加えて国民の評価などいっさい気にしない性格ゆえに、生前から評判の悪かったこの皇帝の業績を正当に評価した点は、作者の大きな功績としてよいだろう。
 またクラウディウス帝の、地味だがこつこつ仕事をする姿も、非常に好感がもてる。甥カリグラ帝の暗殺によって、それまで歴史家として陽の当たらない生活を送ってきた彼は、望みもしなかった皇帝の地位に半ば強制的に就かされるが、承諾した以上、まじめに職務をはたそうという義務感だけでそれを果たした。まったく威厳をもたず、ただただ仕事の虫のような性格が、部下や妻の放縦を許し、側近政治をはびこらせる原因となったのは否めないが、前帝の失策を補う立派な仕事をしたといえるだろう。
 カリグラとネロはどうひいき目に見ても、悪帝と評価せざるを得ないが、彼らにも評価ないし同情すべき点はある。ネロは東の隣国パルティアとのあいだに平和協定を結び、その後の帝国東方の安定に貢献した。
 幼年時代、前線の兵士たちから「ちっちゃなカリガ(兵士の靴)」と可愛がられてその愛称で呼ばれるようになったカリグラは、兵士からも市民からも熱狂的に迎えられて皇帝となった。彼は、そんな国民からの信頼と愛情を得ようと、市民の見せ物などのため国庫を浪費し、国家を混乱に陥れる。悪政をくりかえす彼を暗殺したのは、幼少時に彼を可愛がっていた軍人の一人で、護衛隊長のケレアだった。暗殺実行後の彼は、まるで世間に迷惑をかけた不肖の息子を成敗した父親のように、従容として死刑台に向かったとある。運命によって暴君となってしまった男と、彼を手にかけねばならなかった側近のともに哀しい最期であった。
 共和政から帝政へ。一人の人間に権力が集中する政体への移行は、以前には見られなかった権力争いと人間の欲に起因する数多くの悲劇を生んだ。ローマ人のからりとした気質に晴れ晴れすることしばしばであった『ローマ人の物語』も、この巻以降は、陰鬱な気分の方が強くなる。それでもアウグストゥスの始めたパクス・ロマーナは着実に続いていった。本巻終わりに描かれるネロ帝の自滅までは...

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電子版によりローマ人を携帯できるようになりました

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:hontoカスタマー - この投稿者のレビュー一覧を見る

本書は記念すべきシリーズ第1巻ということもあり、なぜローマがこれほど長期間にわたって繁栄を享受できたのかを考察しています。まず、ローマは宗教に関して寛容であり他民族の対立関係よりないほう関係に進みやすかった点を上げています。まさにイスラムとの文明の衝突を実践している現代と対極になります。また、階級制度は存在したものの、執政官制度で王政の利点を生かし、元老院制度によって貴族制の利点を活かし、市民集会によって民主制の利点を活かした政治システムにおける柔軟性をあげています。翻って現代はフランス革命以来の自由・平等・博愛を掲げているものの、理想に反して宗教的に非寛容でありグローバリズムという単一化から歪を緩衝できない不安定な状況であること分かります。

科学技術は格段に進歩しているものの、個の欲望を極端に肯定する現代社会には新たなパラダイムシフトが必要なのではないかと思わせる書籍でありました。

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壮大なる一歩

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:るう - この投稿者のレビュー一覧を見る

日本人から見ると果てしないとさえ言いたくなるスケール。ローマ帝国が作り上げたものが今もヨーロッパの芯なのでしょうね。

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普通に無理でも続いてく

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る

かつて『坂の上の雲』をはじめとする司馬遼太郎の作品群は、高度成長期の志を下支えし、演出もし、体現もしたが、その司馬遼太郎賞を受賞した塩野氏は、失われた20年を下支えも演出も体現もしていないのに、時代に欠かせない作品群を書き残してしまったのだと思う。特に、迷走し、衰退するこの後半戦の記述によって。

北アフリカ属州出身の軍人皇帝セプティミウス・セヴェルス没後、ローマ帝国は本格的に衰退を始める。ローマ市民権の大盤振る舞いによってローマ人になりたいという価値観が薄れ、実力と正統性という価値観が入り乱れた三世紀のローマは、73年間で22人の皇帝を生んでは殺した。この領土を治めるなんて、皇帝にだって普通に無理、という感じだろうか。

やがて帝国は反乱により分裂の憂き目にも遭い、時の皇帝が敵方に捕えられもする。大帝国の首領が捕囚されるとは、日本人には到底体感出来ないものであるけれども、それでも帝国は帝国としてそこにあるから、皇帝はリメスという名の防衛線で体を張らざるを得なかったわけで、それにも関わらず帝国を取り巻く情勢は悪化の一途を辿り、その歴史は迷走の歴史として残酷にも残った。

さすがに22人もいれば優秀な皇帝もいた。特に分裂した帝国を就任速攻で再統合したアウレリアヌスの活躍は見事で、だからこそ見事な皇帝ですらあっけない最後をむかえたことに呆然ともする。この呆然とする感じがどうしようもない諦念につながって、再浮上の気配を蝕んでいく、そんな12巻だ。

やがてそんな厭世観にキリスト教がじわじわと浸透してくる。皇帝の就任とあっけない最後が繰り返される12巻は、嫌になるほどどこかの国の情勢を想起させる。皇帝って肩書きがついててもやっぱり人間だから普通に統治とか無理でしょ、という感じに対抗するには、それでも人間性に基づいて現実的に対処するしかないはずだけど、人間はそれを続けられるほど強くもなく、そんな強くない人間が大量に出現する12巻は、坂の上の雲の向こうの世界の果てでもある。この見たくもない人間性の現実を直視すること、ローマ人の物語の醍醐味は、そこにこそある。

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終わりの始まりからまた始める

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投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る

わたしはローマ人の物語をじっくり読んでいるつもりだ。そしてこの11巻目の『終わりの始まり』まで来て思った。もう1周、読もうと思う。終わりが始まるまで、面白いがままに読んでしまって、終わりが始まることをあんまり想定していなかった。でも、もう1周読むつもりで、終わりの始まりを読むと、それは現実の歴史の中で、終わりをどう始まりにつなげるかを考えるようになってくる。ルネサンスを思うようになってくる。

マルクス・アウレリウスはかっこいい。皇帝にして哲人。世界に君臨しつつも自省的。問題山積でも、黙々と責務を果たす。それでも、帝国は傾いていく。賢帝中の賢帝が生命の限りを尽くして統治を行っても、人間世界は御しがたい。否、世界も地球もそんなに甘くない。パクス・ロマーナもいつか終わりが来る。この現実の凄まじさ。とかくこの世は住みにくい。

世に言う五賢帝のうち、唯一男子に恵まれたマルクス・アウレリウスは、避けがたく訪れる自らの死と、愚息コモドゥスへの帝位承継を前に、どんな思いでいたのだろうか。栄えること、至高の道へと至ることそのものが、やがて凋落を生む。寛容の精神で繁栄を極めたローマ帝国は、ローマ的であろうと努め、その最高の精神の発露をマルクス・アウレリウスに見出したことによって、その使命を果たしたかのように自ら終わりの始まりに立った、わたしにはそう見えた。もうこれ以上はすごくはなれない、と。

でも、終わりの始まりは、頂点でもある。カエサル好きな塩野さんは、どこか引きこもりなオタク的なマルクス帝に結構手厳しいけれど、頂点はあとは下るだけだから、いつも儚い。それでも、もう1周じっくり読むことに決めた自分にとって、艱難辛苦を生き抜いた11巻目のローマ帝国は、日本に居ながらにして仰ぎ見ることができるひとつの到達点であって、そこに至る道筋は、落ちきることを見届けることからまた、始めるしかないのだ。

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すべての道はローマ人に通ず

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投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る

『ローマ人の物語』には庶民はあんまり出てこない。
国家の存亡において庶民の動向が関係ないはずはないのだが、それよりも何よりも特に帝国となって以降のローマの存亡は皇帝が担っていたので、その庶民軽視とも言うべき記述も多少はうなずけるのである。そんな中で10巻目に現れた本書において、『ローマ人の物語』は本当に『ローマ人たち』の物語へと昇華したように思えるのだ。

ローマ建国からカエサルによる共和制から帝政への以降を経て、五賢帝時代までの歴史記述が指導者たちの攻防であったとするならば、インフラ構築に丸一冊分捧げられ、歴史書において異色の存在となった本書が提示するのは、普通のローマ人たちの仕事ぶりだ。取り上げられるのは、ローマ帝国の代名詞とも言うべき道路、橋、水道といったハードなインフラと、医療や教育といったソフトなインフラ。これらを通じて見えてくるのは、2000年の昔、ローマ人たちはどう生きたのか、ということで、それは今も残るローマの道を通って地続きに現代の我々の仕事ぶりに揺さぶりを掛けてくる。

全長8万キロにも及ぶとされるローマの公道は、その敷設能力だけでも民族の底力を示すようでいて凄まじいが、万里の長城やピラミッドと異なり、それが日常のためのもので、なおかつ有力者がメンテナンスまで担っていたところに惹かれてしまう。実際にローマ帝国が平穏なうちに最盛を極めたのは
300年ほどらしいが、その広大な領地において地道に現実的に道路や橋や水道を創り続けて、公共医療や公教育はさほど発展していないながらも、大規模な疫病を生まずに大事業を担う指導層を生み出し続けたのだから、現実に行き詰った中世のヨーロッパ人がルネサンスに目覚めたのも納得できる。

実際に道路を創ったのは兵士たちで、指揮したのも戦場での指揮官と同じだったようなのだが、軍事のための道を開拓しておきつつも、やがてそれが商売の道となり、水道が追加的に引かれることにによって農工業の振興となっていく様子が、国家の繁栄と隆盛には、まず安全、そして食と職の確保が必要ということが端的に伝わってくる。

果たしてこの国の道がローマにまでつながっているのかわかりませんが、これからは大して伸びないで老いていこうとする道にどう対処するかは、国家的課題。インフラのアンチエイジング、メンテナンス、寿命の見極め。この困難な課題に向き合うのは、どこの国でもこれからを担う世代なわけですが、すべての困難もローマにあったので、ローマ人たちから学べることはこれから1,000年経ってもきっと尽きないことでしょう。

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市民精神の終焉

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投稿者:jupitorj - この投稿者のレビュー一覧を見る

★☆「ローマ帝国衰亡の原因・カルタゴの復讐」(「ローマ人の物語」を読んで)
より抜粋
全文は電子本「哲学の星系」に掲載されています。
「哲学の星系」の内容紹介の頁はこちらです。

 軍隊の市民精神について。ローマ市民権の開放により、軍人の市民精神は「ローマ帝国の国政は軍人である自分たちが決め、ローマ帝国の安全は軍人である自分たちが守る」に変質したと考えられる。自主決定について見よう。元首政下では、次のような権利があった。皇帝になる。皇帝を推挙する。元老院議員になって国政に関与する。このうち、「元老院議員になって国政に関与する」は軍隊と元老院を分離する法律により失われた。しかし、ディオクレティアヌス帝以前までは、なお、「ローマ帝国の安全は軍人である自分たちが守る」という自主防衛の精神に加え、「皇帝になる」「皇帝を推挙する」という自主決定が残った。皮肉なことに、変質したとは言え、市民精神は軍が最も色濃く持っていたと言えよう。軍から改革者が現れたことは不思議ではない。そして、ディオクレティアヌス帝の分割統治制度により、「皇帝を推挙する」が停止された。上位の皇帝が下位の皇帝及び自身の後継者を指名するようになったからである。
 そして、自主防衛の精神が機能するには、軍人が皇帝=国家に対して忠誠心を持たねばならない。軍人に忠誠心を持たせるのは主に皇帝の権威・権力である。皇帝が権威・権力により、誇るべき軍隊という権威を軍に持たせ、軍に規律を与え、給料を支払い、補給・装備を与え、戦場で勝利できるからこそ、皇帝に忠誠を誓うのである。
 治世の仕上げとして、ディオクレティアヌス帝はキリスト教を大弾圧する。キリスト教徒は専制君主政にとり極めて重要な皇帝の権威を否定する態度を示した。ローマ帝国の屋台骨である軍への入隊を拒否する者がいた。これらが、その理由であろう。そして、ディオクレティアヌス帝は、多神教の異教を支持したようにローマの伝統を愛していた。専制君主政を導入したのも、国家に奉仕するローマの伝統的精神に従い、国家のために必要なことをしただけだと考えていたのだろう。そのローマの伝統に反するのがキリスト教だと考えたのだろう。そして、市民精神を失わせたことに密かに負い目を感じ、その代償として伝統的異教の保護者となりたかったのだろう。その証拠にディオクレティアヌス帝は、三〇五年に皇帝位を捨てて引退する。権力のために皇帝の専制君主化を行ったのではなく、国家のためだと言いたかったのだろう。元首政下なら、安穏に生涯を終えることもできただろう。しかし、専制君主政下では、その代償が大きかった。妻と娘はリキニウス帝により殺害される。
 そして、分治制度が持つ危うさゆえに、ディオクレティアヌス帝が始めた四分統治制度は崩壊する。しかし、ディオクレティアヌスはすべてを失ったわけではなかった。ディオレティアヌス帝が作った専制君主政に適合したローマ帝国はそのまま継続した。

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塩野七生をずっと読み続けてきた私としては、正直、このローマ人の物語で、彼女が評価されてしまうことは、いやなんだね。やっぱり、ボルジアでしょ。それにしても、塩野の視界にはいつも日本の政治があるんだね

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投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る

全体は大きく二部構成で、第一部が三世紀前半、第二部が三世紀後半を扱う。具体的には紀元211年から284年までの73年間で、ローマの歴史では「三世紀の危機」と特筆されるらしい。第一部は、さらに三章に分れ、第一章では名のみ有名な皇帝カラカラの失脚の経緯と、ローマ経済の危機が中心。第二章は、あの誰もが知っているササン朝ペルシア、第3章は一年に五人の皇帝が立ったことやキリスト教徒弾圧などが描かれる。

第二部第一章は、ペルシア王国と帝国の三分、第二章は皇帝アウレリアヌスとペルシア戦役、第三章がローマ帝国とキリスト教という具合である。

塩野は、三世紀の危機の要因として
・帝国指導者層の質の劣化
・蛮族の侵入の激化
・経済力の衰退
・知識人階級の知力の減退
・キリスト教の台頭
が、多くの研究者から上げられている、としながら、「これらは、歴史の上では、はじめて起こったことではなかった。」「これまでは克服できていたのに、この三世紀からは克服できなくなってしまうのか。この疑問の解明を年代を追って詳述することで試みよう」とする。

やはり、この巻73年で22人の皇帝、というのはあまりに多いだろう。それが「迷走」の由来なのだが。で、ともかく、日本人にとって馴染みのない名前ばかりなのだ、皇帝たち。当然、親しみは湧かない。辛うじて知っているのが、浴場のカラカラだけというのも情けない。お、と思うタキトゥスにしても、あのタキトゥスとは同名異人である。とはいえ、血の繋がりはある。そして13年と在位がもっとも長いセヴェルスにしても、全く知らないのである。

しかし、この混迷の期間に、ローマは建国1000年を迎える。その時の皇帝が、アラブ出身のフィリップスで、祭儀の先頭に、ローマ式のトーガの端で頭部をおおった姿で立ち、それに対して元老院議員・市民のだれからも不協和音が聞こえなかったというのは、まさに多民族を市民として囲い込んでいったローマの面目躍如といったところだろう。

ただし、それこそがローマの「迷走」の原因でもある。塩野が繰り返し描く皇帝の失脚劇の背景にあるのは、相も変らぬ皇帝と元老院との対立、いやそれより、この時期に関して言えば、元老院からの一方的な皇帝に対する忌避であり、その原因は、やはり本来のローマ人ではない皇帝への不満なのである。ただし、というか、だから、と書くべきかは分らないが、いわゆる根深い動機、例えば外交をめぐっての意見の対立であるとか、重税に対する怨嗟であるとか、そういうところから発するものではない。

辺境出身の皇帝が、自分たちに顔を向けていない、或は、言葉遣いに配慮が欠ける、或は戦陣に立とうとしない、同性愛者であるなどなど、どちらかと言うと嫌いだから、という感情的なものによる失脚である。しかし、その政治的な混乱、僅かな空白、それを安易に埋めようとする隙に、異民族が、キリスト教が、そして経済の破綻が忍び込む。

それを、きちっと回避しローマの危機を乗り越えさせる指導者は、現れない。それは元老院にしても同じである。帝国の版図の拡大がもたらす政治・経済の希薄化。どうも、現在のアメリカ支配を思わせないか? いや、身近に言えばわが国の政治体制を思わないか。これは、やはり繁栄を謳歌した世界の必然の結果なのかもしれない、そう思わせる巻である。

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この国を危うくするものは何か?

3人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:jupitorj - この投稿者のレビュー一覧を見る

この国を危うくするものは何か?


私が11巻の書評で明らかにした
「帝国の紐帯としてのローマ市民権の喪失」という概念を
12巻で著者は、「取得権の既得権化」として説明しています。
そして、著者は「ローマ帝国の一角が、この法によって崩れたのだ。
まるで、砦の一つが早くも陥ちた、という感じさえする」(32p)
と言っています。
私は、11巻で著者が
マルクス・アウレリウス帝に帝国衰退の責任があると批判したことに対して、
歴史が一般的な心性によって大きな影響を受けるという
「歴史心理学」(ゼベデイ・バルブー著、1971年法政大学出版局刊)を適用して、
11巻の書評でカラカラ帝によるローマ市民権の開放が
帝国の衰退に決定的な影響があったと指摘しました。
「帝国の紐帯としてのローマ市民権の喪失」が
帝国の組成に与えた影響も指摘しました。
著者も重大な影響があったと認めるなら、
マルクス・アウレリウス帝に対する故無き非難も再検討して、
11巻の記述を変更して欲しいものです。
そうすれば、高校の歴史教科書にもなりうる
「ローマ人の物語」の大きな瑕疵が消えると考えられるのですが。
もっとも、著者はこの解釈を導いたのは
カラカラ帝前の皇帝がなぜカラカラ帝と同じことを考えなかったのかという疑問と
「アントニヌス勅令以前のローマ市民」とわざわざ断った碑文によるものであったと
言っています。
著者は書評を見ないのでしょうか。
しかも決定的な書評には目を瞑って見ないのでしょう。
だから、マルクス・アウレリウス帝に対する不当な非難を
訂正する必要性も感じていないのでしょう。
同時代の声は「増税策」としか言っていないと著者は述べます。
歴史心理学の概念など存在するはずもなかった古代に
表面は善政であるアントニヌス勅令を
論理的に批判することは極めて難しかったからでしょう。
同時代人はその帝国に与える重大な影響と不当性を感じ取りながらも
増税策としか言えなかったのでしょう。
著者の言う通り、カラカラ帝は善政だと信じて切っていたとも考えられますが、
周囲に悪政であることを知って勧めた人物が居るとも考えられます。
「カルタゴの復讐」である可能性は否定できないでしょう。
そして、ローマ市民権の喪失が
ローマ人の心性と現実の帝国機構に与えた決定的な影響は徐々に帝国を蝕み、
巨大な影響となって帝国を衰退させて行くのです。


私が11巻の書評として2003年頭頃に発表した「ローマ帝国衰亡の原因」
の全文はこちらから読めます。

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今、この時読むべき本である

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投稿者:ひゅうが - この投稿者のレビュー一覧を見る

何が良いって、著者は現代の世界や日本のあり方に対して多大な示唆を与えていながら、それを今回は(多分意識的に)明示していないところが素晴らしい。題名からして読み手が現代に重ね合わせてしまうので、ここで著者が更に「これでもか」と明示してしまったらさすがに読者層の主流であるところのおじさまたちもちょっと辟易するかもしれないが、今回は淡々と当時の史実を書くことによってかえって読者に深く考えさせる内容になっている。まあ、著者も冒頭に書いているように「幸福な家族はみな似ているが不幸な家族にはそれぞれの不幸がある(トルストイ)」といったことを考えれば、この本から現代への示唆を取り出そうとするその試み自体がいやらしいのかもしれないが、それでも様々に考えざるを得ない内容であった。特に印象的だったのは、「ローマの衰退の大きな原因は、都市の過密と地方の過疎」であった、と指摘している部分である。2004年の政治経済における大きな問題が地方問題であることを考えると、あまりにタイムリーな指摘といえよう。
また、これも著者が意図して抑え気味に取り扱っているのではと思えるほど本来重要かつ時期を得た内容として、ローマ帝国の東方政策及びキリスト教の問題がある。ローマ帝国東方政策とは、チグリス・ユーフラテス、つまり今のイラク地域のことである。イラク、イラン、アフガニスタン、シリア。これらが強大なひとつの国であったら…。また、多神教が当たり前の世界に、拡大を明らかに意図した一神教が入り込んだら…。詳しくはじっくり読んで頂くしかないが、「歴史に学べ」ということの真の意味が理解できるという意味では、シリーズ随一かもしれない、という気さえするのであった。おすすめ。

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