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修士論文の参考になります。移ろいゆく物事の表層から大衆の思想や考えを汲み取ろうとする研究法は面白いと思う。今和次郎の思想は描写に重きを置くという「方法」からも分かるように「ありのままの姿を、ありのままにみようとする」所から出発した。彼が提唱した「考現学」は「方法の学から対象の学へ」といった表現がよく用いられるがこのことは、スケッチ、採集といった方法論を確立していく動きの中に「対象をよく知り、抽象する」といった認識のプロセス、方向性を内包している、ということを意味しているのではないだろうか。
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データの分析方法は陳腐だが、観察者としての視点とデータ収集の方法には感銘を受けた。
環境を研究しデータを集めるための方法には、このようなアプローチもあるのだと感心させられた。
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今和次郎は、「今現在」を記録する考現学を提唱した方です。大正時代は理解されず、民俗学とも相容れない学問でしたが、現在となっては、当時を知る貴重な資料を残しています。考現学入門には大正末期のワークスが多数収録されています。また、今氏の著作は改訂の度に資料が追加削除されていたりするので、今和次郎全集「考現学」も参照してみた方がいいかもしれません。
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いきなり上下巻はきつい…という方には、この一冊だけでもお奨め!たんぽぽハウスを建てた、路上観察学会会員の藤森照信編です。
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「地方に見える屋根の形」だとか「玄関の様子」だとか、最初の方はまだ民俗学らしいことをしているが、読んでる内に著者の執念がどんどん得体の知れない方向へ行く。考現学とは考古学の逆で、要するに現代を考える学問であるらしい。考古学者が遺跡を検分するように、著者は1925年の銀座を見、そこを歩く女たちの髪型を細かく分類して一人一人を当て嵌めて統計をとり、或いは男たちの髪型を、或いは着物の柄を、或いは履物を・・・・とやっていく内に対象は大衆から個人へ、銀座から一戸の家へ、「本所深川の店に見られる品物と値段」から「男子学生の制服で傷み易い箇所一覧」になって行くのだから人の好奇心というものはなかなか計り知れないものである。中でも圧巻なのは「馴染みの定食屋があまりにも酷い茶碗ばかり出すので腹が立った」ため始めたという「欠け茶碗一覧」。通う度にこれは、と思う欠け具合の茶碗が出されると、こっそりとスケッチブックに書き付けた。というのだから恐ろしい。その他、「井の頭公園自殺場所分布図」や「レビューの踊り子オーディションルポ」などを個人的に楽しく読んだ。
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物、そしてその物を使う人々に対する鋭く温かい視線が、文章や絵で伝わってきます。
表やグラフが手描きで、最近の整然としたものとは違った味があります。それだけでも一見の価値あり かも。
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内容(「BOOK」データベースより)
震災後の東京の町を歩き、バラックのスケッチから始まった〈考現学〉。その創始者・今和次郎は、これを機に柳田民俗学と袂をわかち、新しく都市風俗の観察の学問をはじめた。ここから〈生活学〉〈風俗学〉そして〈路上観察学〉が次々と生まれていった。本書には、「考現学とは何か」をわかりやすく綴ったもの、面白く、資料性も高い調査報告を中心に収録した。
目次
ブリキ屋の仕事
路傍採集
焼トタンの家
東京銀座街風俗記録
本所深川貧民窟付近風俗採集
郊外風俗雑景
下宿住み学生持物調べ
新家庭の品物調査
井の頭公園春のピクニック
井の頭公園自殺場所分布図
郊外住居工芸
宿屋の室内・食事一切調べ二つ
カケ茶碗多数
洋服の破れる個所
露店大道商人の人寄せ人だかり
女の頭
学生ハイカラ調べ
住居内の交通図
机面の研究
レビュー試験場はさまざまである
物品交換所調べ
考現学とは何か
考現学総論
「考現学」が破門のもと
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●構成
(略)
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考古学は古いもの――化石であったり土器や石器であったり住居跡であったり様々である――を研究対象にし、方法としてはモノ自体を実測しスケッチすることで対象に対する考察の一助とする。しかし著者は、考古学の方法を「現在」のモノや風俗に対して用いる。ひたすら執拗に徹底的に、観察し計測し数え上げて、対象を「採集」する。これを著者は「考現学」と名付けた。
本書の大部分は、大正時代後期の日本で、こうして採集された数々のモノや風俗の披瀝と考察である。採集対象は実に多彩であり、田舎の炉縁やかかしや障子の引き手や、火の見やぐらや垣根や欠けてひびが入った茶碗の数々や、銀座を道行く人々の服装とか髪型とか髭の形や、学生の住む部屋にある所持品全てや若夫婦の住居(三部屋)にある全てのモノや、とにかくあらゆるモノや風俗が興味の範囲である。シンプルな描線でのスケッチが、逆に対象物への想像や興味をかきたてる。
考現学は社会学や文化人類学や民俗学や歴史学の近接領域であり、しかしいずれとも完全には重ならない、独特の位置を占める。ただ集めて開陳するだけでなく、他領域の研究のための資料としても用いられる。そうした下支えの学問でも有り、しかしその出発点は素朴な興味なのである。
蛇足ながら、考現学の後継者としての成果が、妹尾河童の『河童が覗いた~』シリーズであり、また花輪和一の『刑務所の中』であるといえよう。
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今和次郎『考現学入門』(と『ワンピース』1から50巻まで)読破。今和次郎が柳田邦男翁のところを破門されていたとは知らなんだ。
でもComparative Ethnographyってこの頃から使われているのね。今読んでるのは恥ずかしながら『考現学入門』。学生時代あまりに赤瀬川源平に熱狂している男子が多くて読むに至らなかった経緯あり。聞きかじり読みかじりの予測可能範囲ですが面白い。
あと今和次郎の『性分によるのだろうが、ものを考えたり書いたりする仕事場はガラクタだらけの場の方が私には似つかわしいようなのだ』っていうのは絶賛言い訳として使用したい。
(ついったから拾い上げ)
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「それは大正12年(1923年)の震災のときからであった。しばらく私たちは、かの死の都から逃げ出してしまった芸術家たちと同じようにぼんやりしていた。しかし私たちはそのときの東京の土の上にじっと立ってみた。そしてそこに見つめなければならない事がらの多いのを感じた。」
それまでの今和次郎は、デザインの技術を生かし、柳田国男とともに農村調査に参加していた。しかし、前述されているように、関東大震災後の東京の荒地に何かを見出した今は、トタンの家をスケッチすることから始める。そして、「考現学」という私造語を作り出し、都市風俗の観察を始めるのである。
今和次郎『考現学入門』は、そんな彼の仕事の一端が藤森照信によって編集されたものである。そのほとんどが楽しげな雰囲気で書かれているのだが、彼が一番初めに考現学を開始した「焼けトタンの家」だけは、違っている。どことなく感傷的で文学的だ。その人たちが蓄えてきた文化で、焼けトタンで家を建て、生活しようとしている姿。そこに住む人々を見て、今は「黒き、赤き、青きトタンの家よ。それらの住む人々の苦き転化へといかねばならぬ心よ。」と述べている。
しかし、その世界こそ、彼に観察の楽しさをもたらしたのだ。今は、このようにも述べている。「地震前までは、大都会における事物の記録作成ということはあまりに錯雑なので、手に負えないものだと考えなければならなかったのだった。が、原始的な状態にかえったあの当時の東京では記録作成が容易であると考えられたのである。」その後は、復興していく東京の姿を記録していきたいと考え、考現学を続けていく。
では、その考現学とは何か。今は、まさに「考現学とは何か」において、自らの考えを述べている。まず、考現学は考古学に対立したいという意識から作られた。考古学が過去の事跡の科学的研究をするのに対して、考現学は現在の生活・文化の事跡の科学的研究であり、社会学の補助として役立つものである。また、考現学の方法は人類学、あるいは民族学なりでも行われているが、彼らが「未開民族」を対象に行われ、これを未開考現学とするならば、それに対し、考現学は文化考現学(文化社会考現学)なのだという。そして、対象とするのは人の行動に関するもの、住居関係のもの、衣服関係のもの、その他である。
実を言うと、この『考現学入門』には、考現学と名づけられる前の彼の仕事も収められているのだが、あまりにもすばらしい仕事なのでそんなことはどうでもいいだろう。Ⅰには、主に住居関係のものが収められている。「ブリキ屋の仕事」から始めるのだが、スケッチを見る限りあまりにも美しいので驚いてしまった。立派な邸宅にあってもおかしくないような気がするのだ。また、「路傍採集」では、普段気に止めることのない数々のものがこんなにも多様であるのかと驚かされる。特に雨樋には感心した。その後、気になって近所の家を見てみたが、新しい家が多いせいか、どれもかしこも同じであった。ページをめくるたびに、心が躍る。かかしやら、植木鉢やら、店の中やら、見張り台やらと、そこら辺に転がっている、誰も気に留めないものが考現学の手にかかると、こんなにも不思議に見えてしまう。
Ⅱには、「東京銀座風俗記録」、「本所深川貧民窟付近風俗採取」、「郊外風俗雑景」という3つの地域の調査と、「下宿住み学生持ち物調べ」、「新家庭の品物調査」が行われている。はじめの3つの調査は、東京が震災後、どのようになったかの追跡調査のようなものだ。主に主眼を置かれているのは、おそらく銀座での風俗記録である。その比較対象として深川と郊外が描かれる。今は、風俗について言及するなかで、「風俗の相違は、歴史的伝統とそして自然的環境との相違から生まれる、という風俗の生誕個条へ、貧富の相違からも……とはっきり加えたいと思うのです。」と述べている。つまり、銀座を歩く人々と、貧しい深川の人々と、新しい生活に踏み出した中流の郊外の人々を観察することによって、風俗の相違が生じる背景を汲み取ろうとしたのだろう。同じ東京とはいえ、人々の風俗は全く別様のものである。特に興味を引いたのが、女児の髪型である。深川では日本髪の名残も見えるし、基本的にはルーズなのだが、郊外のほうは、きちんと編みさげされた髪や、ボブカットのような髪の子までいるのだ。それぞれの調査結果を見ていても、それが同じ東京であるとは思えない。また「郊外風俗雑景」には、賃家札と看板が収められている。そこが郊外であることを感じさせる言葉がちりばめていて、興味深い。他の2つの調査(学生の持ち物と、新家庭の品物)では、持ち物における個人的特徴やら、その人の生活ぶりなどが覗き見られてしまう。持ち物は、その人を表すというが、まさにその通りである。
Ⅲでは、いままでとは志向の違うものが収められている。本書の中で、私が一番興味を抱いたのは、趣味が悪いと言われそうだが、「井の頭公園春のピクニック」と「井の頭公園自殺場所分布」である。(どうやら、今は自殺場所について他にも調べているらしいのだが。)ある人にとっては、ピクニックを行う楽しい場所でも、ある人にとっては「いい死に場所」であるという事実。人はまったく異なるように空間を捉えているということがよくわかる一例である。今もいっているように、まだまだ調査が足りないのかも知れないが、私たちが地理感覚に敏感になるためにはいい資料といえるだろう。それから、「郊外住居工芸」という調査がある。郊外で出会った、棚と垣根、門などである。
Ⅳには、本当に雑多なものがちりばめられている。誰かが、調べていてもよさそうだが、おそらく今にはかなわないのではないだろか。「宿屋の室内・食事一切調べ二つ」をしたかと思えば、「欠け茶碗多数」、「洋服の破れる個所」、露店大道商人の人寄せの人だかり」や、「女の頭」、「学生のハイカラ調べ」などだ。宿の評論をする人はたくさんいるが、ここまできっちり調べている人はいるのだろうか。特に「欠け茶碗多数」は、こんなことを思いつく人はいないだろう。(それにわかったところで、陶器であれば改善するのは難しそうだ)
Ⅴは、「住居内の交通図」、「机面の研究」、「レビュー試験場はさまざまである」、「物品交換所調べ」がある。
そして、最後に「考現学とは何か」「考現学総論」「考現学が破門のもと」と、今が自ら創設した考現学について、非常に丹念に述べている。おおむね納得できるのだが、若干違和感を覚えることもある。
それは「現代文化人の生活ぶり、その集団の表面に現れる世相風俗、現在のそれを分析考査するのには、その主体と客体の間に、すなわち研究者と、非研究者の間に、未開人に対する文明人のそれのように、あるいは犯罪者に対する裁判官のように、われわれが(調査者)が一般人のもつ慣習的な生活を離れて、常に客観的な立場で生活しているのであるという自覚がなかったならば、あまりにも寂しいことのような気がするのだ。」という部分だ。本当に私たちは自らの慣習から自由になれるのだろうか。それはいささか、不可能なことではないのか。それよりは、自分自身の身につけている習慣について知ることこそが(それはおそらく他者の習慣を知ることで可能になる)、重要なのではならないのだろうか。
しかし、そのことを差し引いても、やはり今和次郎の仕事はこれからも参照されるべきものだろう。また、今自身が述べているように、応用考現学の可能性もある。寡聞にして知らないが、おそらくこの考現学が他の学問に蒔いた種はいたるところで芽を出しているに違いない。
聞くところによると、今はいつもラフな服装でズック靴を履いていたという。本当かどうかは確かめられないが、そういう逸話が残ってしまうくらい、彼の仕事が尊敬されていたということなのだろう。「破門された」とか「小使いさん」として早大に入ったとか、ウソをいう、ちょっとひねくれたところも面白い。
未来を探る考現学。本書を読んで、路上を歩きたくなった。
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今和次郎は今から122年前の1888年7月10日に青森県弘前市に生まれて、37年前の1973年10月27日に85歳で亡くなった民俗学者。
というより、この本のタイトルにあるように「考現学」という新しい学問の創始者で、その後に与えた影響としては民俗学の柳田國男に匹敵する人。
つまり、民俗学が古い昔の物や事象を扱うのに比べて、考現学とは、いま現在の物や事象をリアルタイムで研究する学問として創世された画期的なものです。
私は、柳田國男を読んでいたときに、同時に様々な民俗学者にも目を向けましたが、そのとき忽然とさっそうと現れたのが今和次郎でした。
知ってビックリ仰天。自殺の場所の分布図や女性の髪形の収集とか、かけたお茶碗の観察なんかを、はたして学問と名づけていいの? と半信半疑でした。
それこそ、ただの奇人変人の変態趣味を無理やり理由づけしようとしているとしか思えませんでした。
そうじゃなくて、彼が考現学をはじめるきっかけが1923年(大正12年)に起こった関東大震災のすぐあとだったことからもわかるように、昨日まであったものが跡形もなく崩壊してしまった喪失感、そして明日から新しくまた作られていくものへの希望とがないまぜになったとき、民族学者として、目の前のものを継続的に記録することが今もっとも大切だということの自覚だったはずです。
誰も学問として成り立つと言い出せなかった、ちょっと見るとただの好事家の偏執狂的なガラクタ集めとしか認めがたいことを、思い切って堂々と宣言したのはすごいことだと思います。
彼は、東京芸大を出たあと29歳の早稲田大学助手のとき柳田國男の調査に加わったりして、一応はというか、自ら志願して弟子入りした、世間的にはもう決定的な柳田國男門下の学究の徒だったわけですが、考現学を考案してからは柳田國男とは決別したような形になってしまって、結局はそのことが今に到るアカデミズムでの過小評価に繋がっているような気がしてなりません。
ただ、その影響力は大きく測り知れないものとして現代にも脈々と受け継がれていると思います。
多田道太郎・わが敬愛する鶴見俊輔・高田宏らによる現代風俗研究会。
それに梅棹忠夫・加藤秀俊・川添登らの生活学会。
そして私も一時期夢中になった藤森照信・赤瀬川原平・荒俣宏・南伸坊・杉浦日向子らの路上観察学会。
それに、NHKでやっていた「ブラタモリ」という、タモリが東京とか横浜をあちこち見て回るというのも入れていいかもしれません。
あるいは、新聞の切り抜きやフィギアの蒐集、やくみつるの有名な有名人の煙草の吸殻の蒐集なんかも関係がありそうです。
考現学は今も生き続けているようです。
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民俗学の大家と言える今和次郎氏の著作。鋭くも温かい観察眼、味のある手書きの絵や図、やわらかい語り口で、アカデミックな本とは思えないほど読みやすく、面白い。散歩好き、街好きは必見の書。
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民族博物館で今和次郎氏についての展示を拝見し、
考現学に関心を持ったので読み始めたのですが
文章も読みやすく
どことなく著者の人柄が感じられる本でした。
欲を言えばもう少しスケッチを掲載して欲しかった。
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どこかで捨ててしまったのですが、考現学の開祖の本。
「考現学(こうげんがく、the study of modern social phenomena)とは、現代の社会現象を場所・時間を定めて組織的に調査・研究し、世相や風俗を分析・解説しようとする学問。考古学をもじってつくられた造語、モデルノロジー(modernology)」 wikipediaより抜粋。
今はやりのデザイン思考、ペルソナ分析、user experience journey mapに連なる、プロトタイピング志向・フィールドワーク志向の方法論序説です。
面白いというよりは、きちんと書かれていることを習得しないと!といった感じの本です。ビジネスでもそうかもしれませんが、特に行政側で必要になる素養であるように思います。
ゼミの最初か2番目の課題図書でした。
また買いなおさなきゃ。
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銀座を歩く人々の様子(服装、髪型からひげの形まで)、下宿生活を送る学生の部屋にあるものすべてなど、1920年代当時のさまざまな風俗の記録が収録されています。その記録の細かさに驚かされました。
琉球大学:図書館スタッフ