紙の本
『シティ・オヴ・グラス』変奏曲
2002/06/02 22:22
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投稿者:ひろぐう - この投稿者のレビュー一覧を見る
探偵の主人公は謎の人物からある男を見張るよう依頼を受ける。彼は男を見張り続けるが何も起こらない。やがて見張り観察する彼自身の存在そのものが…。といった話で、『シティ・オヴ・グラス』変奏曲といった感じの作品になっています。前作ではポール・オースターという作者の分身のような人物も登場するのですが、今回は登場人物の名前はすべてブルー、ブラック、ホワイト、ブラウンといった色の名前になっており、よりいっそう言語による表象と具象、日常の自己と実存といったテーマのカフカ的寓話に近い感触の作品になっています。今回も翻訳が良いこともあってサクサクと読めました。文学的な完成度もこちらの方が優れていると言えるかもしれません。ただ、お話の面白さとしては前作の方かな。
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知人にすすめられて初めて読んだポール・オースターの作品です。なんだかわからないままにひきこまれて、一息に読んでしまった。
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私立探偵ブルーが見張っているのは、誰?もしかして、自分自身ではないのか? とか思わせる、不思議感覚。アメリカの村上春樹ってどっかに書いてあったぉ。
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入手方法:もらいものだと思っていたら借り物でした。
初めてのメタ・ミステリーでした。
下北のカフェで読むのがおススメの、何となく空白の多い物語です。
先輩がけちょんけちょんに言っていたので弁護しようとしたのですが、「コーヒーの味がします」というしごくぼんやりとした弁護しかできませんでした。
でも、わたしは好きですよ。
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ニューヨーク三部作の第二作。探偵ブルーがホワイトと言う男からブラックと言う男の見張りを依頼される。見張り部屋を用意してもらって四六時中見張りを続けるが、そのうちに謎の男ブラックと実際に会いにいくのだ。あるときはブラシのセールスマンに化けてブラックに会いに行く。そして最後はブラックマンがホワイトマンだと気がついた時ブルーのアイデンティティ確立を確かめられる。
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不条理小説で知られるpaul austerのニューヨーク三部作、第二作目。
探偵であるブルーは、ある日奇妙な変装をしたホワイトと名乗る男に、ブラックという男を見張り続けてほしいとの調査を頼まれる。そこで、ブラックは頼まれたとおり見張りをはじめるのだが・・・。
ブラックとは何者なのか。
ホワイトの目的はなんなのか。
ブルーは誰を追いかけているのか。
ブルーは誰に追いかけられているのか。
自問自答の末に、ブルーはさまざまな行動を実行する。
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謎の男ホワイトからブラックを見張るよう依頼された私立探偵ブルー。
用意された部屋から絶えずブラックを見張り、ホワイトに報告書を送り続けるが、ブラックは特に変わった様子も見せず、ホワイトからは決められた報酬が送られてくるだけで何の反応もない。
連綿と続く何も起こらない日常の中で、本来の生活から疎外され、耐えがたい孤独の中で監視されているのは自分のほうではないかという錯覚すら覚えるブルー…。
どこでもない場所(現代と呼べる時代であればどこでもいい)を舞台にした、だれでもない男(それはあなたかもしれないし、わたしかもしれない)の話。
追記1:
ブルー、ホワイト、ブラックという名付けは象徴的、示唆的。
それぞれ何を示しているのかは読み進めるにつれ分かってくる。
追記2:
「不在」「幽霊」、すなわち「そこにいるのに、いない」というのがポール・オースターのテーマなのだろうか。
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クエンティン・タランティーノに『レザボア・ドッグズ』という映画がある。それぞれ相手を知らないで呼び集められた犯罪者集団はお互いを色の名前で呼び合う。ブラックという名前が人気で、みんながその名をほしがったというのがギャグになっていたのを覚えている。ブラックやブラウンというのは、普通に存在する名前なので別段おかしくもないが、色の名前ばかりが集まると一気に可笑しくなる。
ニュー・ヨーク三部作の第二作『幽霊たち』は、主人公の私立探偵の名がブルーで、その師匠がブラウン。依頼者がホワイトで、監視対象者がブラックと、登場人物の名がすべて色の名前である。オースター自身、別の作品で主人公の作家が人物名に困ると色の名をつけると語っているので、これもその伝であろう。自作の戯曲を素材に小説化した作品ということもあり、場面も人物設定もシンプル極まりない。
引退したブラウンの下で私立探偵として働いていたブルーは、ホワイトという男から、ブラックという男の監視を依頼される。浮気調査かと思い、引き受けたブルーは、向かいのビルからブラックを見張るものの、相手は机に向かって何かを書き続けるばかりで、一向に事件らしきものは起こる気配がない。冬に始まった仕事は、一年過ぎても進展を見ない。ブルーの疑心暗鬼は募るばかりだ。
何かが起こりそうで、何も起こらない、というのはベケットの『ゴドーを待ちながら』を想起させる。初期のオースターが、カフカやベケットの衣鉢を継ぐものという評価を受けたのは、この作品に負うところが多いのではないだろうか。戯曲をもとにしたといわれるだけに、小説的要素は乏しい。会話と内的独白がほとんどで、その中に、いくつかの挿話が点綴される。その後の作品における物語内物語というほどの質量は持たず、簡単な紹介にとどまるが、内容は興味深い。
それらの話に共通するのは、自分とは何かという問題だが、特に印象的なのが、ホーソーンの『ウェイクフィールド』という話で、ある日突然失踪した男が自宅近くに家を借り、何年も妻の傍で暮らしながら、連絡を取らずにいて、最後はもとの家に戻るという、ボルヘスが激賞した有名な作品である。
自分の家を見張る男というのは、ブラックを監視し続けるブルーの状態に重なる。それかあらぬか、監視を続けるうちに、ブルーはしだいにブラックに親近感を感じ、監視をサボってもブラックがどこにも行かないことさえ確信するようになる。つまり、監視している側と監視されている側に共鳴現象が起きてくるのだ。
オースターという作家は、物書きである自分という存在について過分に自覚を持つ作家である。ブラックは本を読む以外は何かを書き続けている。その本とは、ソローの『ウォールデン(森の生活}』である。その冒頭に次のような記述がある。
「われわれはふつう、話をするものは結局第一人称であることを忘れている。もしわたしがわたし自身と同じぐらい善く知っている人間が世の中にいたならば、わたしはこれほどまでにわたし自身のことを語りはしないだろう。不幸にしてわたしは経験がせまいためにこの主題にのみ限られてしまうのである。のみならず、わたし自身もすべて物を書く人間に、第一に、そして結局、彼自身の生活の単純で正直な感想を求め、単に彼が他人の生活について聞いたことを求めないのである。」(神吉三郎訳)
ソローは、オースター偏愛の作家で、その著作に何度も登場している。謎を解く鍵は、ここにあった。ブラックは、ブルーとの対話の中で「ものを書く人間の暮らしぶりを知るのが好きなんだよ。特にアメリカ人の作家のね。いろんなことを理解するのに役立つ」ともらしている。「ものを書く人間の暮らしぶりを知るのが」趣味という作家が一番知りたいアメリカ人作家とは、ソローも言うように「自分自身」であった。しかし、「書くというのは孤独な作業だ。それは生活をおおいつくしてしまう。ある意味で、作家には自分の人生がないとも言える。そこにいるときでも、本当はそこにいないんだ」とも語っている。自分の暮らしぶりを知るためには、自分以外の誰かに自分を見てもらう必要がある。そう考えたブラックは、ホワイトという男に変装し、ブルーという探偵に自分を見張らせ、毎週報告書の提出を義務づけたのだ。
整理すると、物語は主人公ブルーの視点を通して語られる。一方、ブラックは対象人物であるとともに、ブルーの登場する作品を執筆しつつある作者という位置にある。観察者が見た事実が報告書という形で執筆者に渡され、作品化されるというのは、よくある話(柳田國男『遠野物語』が一例)だが、その観察対象が執筆者であるというところが、これまでにないオースター独自の着想である。M.C.エッシャーに、鉛筆を握った手が、鉛筆を握った手を描いているという同じ像を180度回転した作品があるが、差し詰め『幽霊たち』は、その翻案である。
小説内の登場人物が進行中の物語の登場人物であることを放棄し、今まさにその物語を執筆中の作家を襲う。物語は主人公の造反により、唐突に終わる。種明かしは、その後に来る。冒頭に「時代は現代」と記されてあったのは、所謂時代設定であって、本当は三十年も前の出来事だったと、メタレベルの語り手が明かすのだ。いやはや何ともポスト・モダンな展開ではないか。戯曲家としてのオースターの側面が存分に発揮された一作である。
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何も物語が動かない孤独な話【幽霊たち – ポール・オースター】
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