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貞観7年正月、高丘親王は唐の広州から海路天竺へ旅立つ。
幼い頃に藤原薬子が添い寝で語った天竺の話。
薬子の思い出と寄り添うように天竺へ旅をする。
「そうれ、天竺まで飛んでゆけ。」
夢か現か。
異国の景色、むせ返るようなジャングルの熱、しんとした湖の舟。大蟻喰い、儒艮、蘭房の女、獏園、蜜人、卵生の娘、王妃の肉身像。
夢のようで、でも天竺までの彼の地ならそんなことが起きても不自然でないように思うのは西遊記が頭にあるからかな。
ほんわかとじっとりとミーコと一緒に旅をしてきた。
親王の歳を感じさせない好奇心と行動力にニヤリとしつつ。親王の薬子への想いが甘酸っぱさとヒリヒリした闇を垣間見させて切ない。
地図を見ながらミーコの旅したあとを追ってみたくなる。
「一生に一度しか夢を見ず、夢というものの効能も知らずに死んでゆく人間が、この国にはざらにいるのじゃ。おまえは天竺へ達することを一生の念願としているそうだが、そんなに夢を見ることに堪能ならば、どうしてまた天竺なんぞへ足を運ぶ必要があろう。天竺は夜ごとの夢で見ていれば十分ではないか。」
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貞観七年(865年)正月、高丘親王は唐の広州から海路天竺へと向かう。その旅の合間に見る幻想的な夢の数々。
澁澤龍彦だからこその濃密さを、さらりと描写されています。さっと書かれる一言や一場面の奥には膨大な知識が土台となり支えているのだろうとうかがい知れます。
鳥の下半身をした女、犬の頭を持つ犬頭人、人をミイラにする花などが、夢と現の境を曖昧にし、生と死の境も曖昧にします。これが遺作となり病床で書かれたと聞き、より一層生死の混濁した色合いを深めるように感じられました。
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#11年ぶりの再読、やあ、こんなに自由だったかな! P13で秋丸が『バジル氏〜』のルイ君で思い浮かんで以降、今回のビジュアルイメージは坂田靖子が担当。坂田と澁澤が相性良いなんて昔は思わなかったな。
#P19「なにもかもがわたしたちの世界とは正反対」な天竺を象徴することばとしての、アンチポデス。大蟻食いと儒艮、秋丸と薬子、春丸とパタタ姫、またP67の左巻きの貝などの細部の描写や、あるいは全体の夢と現実の照応など。では高丘親王のアンチポデスとは、高橋克彦の解説にあるように、物語を合わせ鏡にした澁澤自身のことなのか、それともP204「わたしの死ぬところが天竺だ」とあるように、死そのもののことなのか。
#P34「とても楽しかった。でも、ようやくそれがいえたのは死ぬときだった。おれはことばといっしょに死ぬよ」 P181「もっとも、ことばをおぼえたおかげで、わたしは地上で一度は死ぬという運命をまぬがれるわけにはいきませんでした」 それとも、死の足の裏にはことばが倒立しているのかな。まだまだわかりませんので、ではまた10年後に!
(2009/11/22)
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時間も空間も夢も現実も自在に行きつ戻りつ、こんな幻想譚…、楽しいなぁ。
美しくも死の象徴である真珠を飲んで親王が喉の病いを患ってしまう最終章は、本作を執筆していたのが筆者の咽頭癌末期であったことを知ると切ない。
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面白かったー!作品が幻想的かつ明るくて、その明るさの中には死も人生の一部分として好意的に捉えていくような感覚も魅力的だった。親王の薬子へのな思いを描いラブストーリーにも見えて、そこにエロスがあるところが好き!描き方も美しい!
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「みこ」と一緒に平安時代のアジアを旅している気分になれる不思議な物語。親王とお供の僧がとても魅力的。
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時代小説風SFといいましょうか。確かに引き込まれる題材ではあるんですが、なんででしょうか、いまひとつ入れ込めないまま終わってしまいました。各所の評価とかを見ていると、自分の感性の問題なんでしょうね、きっと。ふと思いついたのは「アラビアの夜の~」。あれも自分と一般の評価が乖離してしまったけど、そもそもこういう系に対する感受性に乏しいんでしょうね。でも、今後も評判作には諦めず手を出していきます。
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高丘親王は、唐より海路を経て天竺を目指す。付き従うのは腕っぷしの強い安展、博学な円覚、そして、船で仲間入りをした脱走奴隷の秋丸。4人は東南アジア諸国を旅していくが、そこでは不可思議な出来事が毎回起きてゆく。果てしてこれは親王が見た夢なのか、天竺へは辿り着けるのか、というのがあらすじ。幻想的な小説。
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個人的な好みとしては、登場人物がメタ的な発言をしたり、これが創作であると認識しているようなふるまいをするのはやめてほしい。萎えるので。e.g)「アリクイはこれから600年後にコロンブスが初めて発見するのにこんなところにいるわけないだろう」という発言など
どこからが親王の夢なのかが本当にわからない。始めの方でジュゴンがしゃべりだすところからしてなんじゃこりゃと思ったが、全体的には詩的で美しい作品。
色っぽい話が多くてなかなか良い。
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徐々に親しみを覚える物語の隙間から、残酷でやさしい羽ばたきの音が聞こえる。神仏にも悪魔にも、人形にさえも似た女の、深い色をした目のけはいも感じさせられる。
文章を書くものとしての感想を、蛇足ながら付け加えると、知識と物語の融合が独特かつ巧みで舌を巻くしかない。しかもそれでいて、嫌味も全くないのだから! 物語には惹きつけるけれど、しぜん、一定の距離をおくような書き方だと感じる。私は、ひとを真似る気はさらさらないが、真似しようとしても真似できないたぐいの作者であることは間違いない。
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9世紀,平城天皇の皇市である高丘親王は67歳の時にわずかな供回のみ連れて天竺への旅に出る.中国南部からインドシナ半島,ベンガル湾周囲を放浪するがスリランカには行き着けず絶命する.どこまでが史実でどこまでがお伽話かわからない不思議な航海記.
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澁澤龍彦フェアが催されていたので初読み。平城帝の第三皇子・高丘親王60歳を過ぎて天竺を目指し旅をする航海記なのですが、白昼夢のような幻想的な作風で驚きました。幼い頃、共に過ごした藤原薬子の影響たるや凄まじい。もしや親王の見る夢は、薬子がしてくれたおとぎ話に重ねて幼児帰りしているのではないか?あるいは思慕か。親王(みこ)が可愛らしくミーコと呼ばれるのが、好かれている皇子だったのかなと、異国で死しても救われる気がしました。
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澁澤龍彦の遺作だけあり、
彼の生涯が集約された小説だったのかもしれない。
まだ筆者についての教養は浅学だが、
本作は彼の生涯が見て取れたように感じた。
ワンピースや最遊記を彷彿とさせるような
海をかける冒険譚であり、
妖しげで淫らな描写ものぞかせ、
最後には悟りを開いた敬虔な宗教観も
感じさせられた。
冒険→幻想→淫猥→悟り→解脱とでも
いったように次々と進む一連のストーリーには
ページを捲る手を進めさせられた。
このストーリーこそが
高丘親王こと、澁澤龍彦の生涯であり、
両者の共通項であるストーリーの発端には
童心からなる好奇の心があったのだと感じさせられた。
作家としての戦友、三島由紀夫にも言えることだが
芸術家の表現の原動力になる物の1つは、
幼年期症候群ともいえる好奇心なのだろう。
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2008年9月30日、読了。
最後の春丸の「みーこ」に涙。
ひたすらその世界に引き込まれる。
これは面白い。
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夢幻的でいてどこか牧歌的な航海記。ためらっていたが思いのほか読みやすかった。高丘親王の足跡は史実を元にしていながら、喋る儒艮に蟻食い、頭が女人身体が鳥の生物に会ったり夜な夜な獏に夢を食べられたりと、夢の中のお話だった。そしてエキゾチックで蠱惑的で艶かしい。薬子を追い求めていたのだろう。ぼんやりした話なのに真珠を飲んで喉が痛くなり病み衰える描写だけがリアルで、澁澤の遺作だというこの本、重ね合わせずにはいられなかった。
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プリニウス『博物誌』のように、奇怪な人・獣・植物が次々と出てくる。と思えば地の文に「この件についてはプリニウスは珍しく本当のことを書いている」とあったりして。オオアリクイに「お前は南米産ではないか、アナクロニズムを承知で言うとしかもまだ発見されていない」と糺すと人語を話し「蟻がいるのにアリクイが居て何が悪い…」と巧妙に反論する。犬頭人は「将来が見える。プリニウスに滅茶苦茶に書かれる、ああ憂鬱だ」と言い。大粒の真珠を「持っていると命取りになりますぞ」と警告されても持ち続け、運命を受け容れた親王、薬子のもとへ