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みんなのレビュー60件

みんなの評価4.2

評価内訳

高い評価の役に立ったレビュー

12人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

2011/08/18 19:28

本書はもともと国際交流基金からの「日本における漢字の問題を、日本に関心を持つ外国の人たちに紹介する文章を書いて下さい」という依頼に基づいて書いた日本語原稿(本文は英語)をベースに新書としたものである。平成13年のベストセラー。確かに売れただけのことはある。大変面白い、興味深い日本語論でした。

投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る

著者の考えのポイントは、第一に、漢字と日本語はあまりにその性質が違う為にどうしてもしっくりこないが、しかしこれでやってきたのであるからこれでやっていくほかない。第二に、我々のよって立つところは過去の日本しかないのだから、それが優秀であろうと不敏であろうと、とにかく過去の日本との通路を絶つようなこと(日本語を廃止して英語やフランス語を「国語」にするとか、あるいは漢字を全部廃止してカタカナやひらがな、アルファベットで日本語を表記するようにするとか)をしてはいけないのだということ。この二つに尽きている。

本書は大別して二部構成になっていて、1章から3章までは「日本語の発達の歴史」「日本語と漢字のかかわり」「日本語本来の性質と漢字の持つ性質が如何にそりがあわず、日本語にとって漢字が如何にやっかいな重荷であり続けているか」「にもかかわらず日本語にとって漢字は不可欠な要素であり続けた。とりわけ明治以降、文明開化、西洋化の荒波を日本語がかぶる中で、西洋語を翻訳した大量の漢語を日本人が作りだす中で、日本語と漢字のねじれた癒着は一層密になり、著者言うところの漢字と日本語の腐れ縁が決定的になったということ」の説明に費やされ、第四章は、こうした「日本語と漢字の腐れ縁」「漢字という重荷の重圧」から日本語を解放すべく、繰り返し主張され、かつ文部省と結託した国語調査委員会の「漢字削減」「日本語の表音文字化」の歴史をまとめたものである。

本書を読むと、確かに漢字という、もともとシナ人がシナ語を表記する為に作りだした表意文字が、それまで文字を持たなかった日本に輸入されたが故に、日本語と深い関わりを持つようになり、それが日本人にとって「漢字のくびき」として今に至るまで激しい重荷となっていることが良く分かる。梅棹忠夫は「漢字こそが文明を劣化させる諸悪の根源」と結論付け、彼はその著書でこれでもかこれでもかと脱漢字、日本語のかな表記を主張している。ご丁寧にも梅棹は、二人いる自分の息子の名前を全部カタカナにしている(笑。一体、漢字の何が重荷なのか。第一は、シナ語と違って音が極めてシンプルで、かつ全ての文節に原則母音がつく日本語の音声の特殊性から、漢字・漢語を輸入したことで、日本語には「漢字にしないと区別できない膨大な数の同音異義語が発生したこと」にある。西洋等の言語学者は「言語の基本は音であり、文字はそれを表記した影にすぎない」という立場をとる。言葉というのは聞いたらすぐわかるのが原則で、同音異義語などというものは滅多にない(あってはならない)のが基本だと言う(それが故に、西洋語もシナ語も膨大な数のイントネーションの別が存在し、音で単語を区別している)。日本語はそうはいかない。前後の文脈から皆さん瞬時に判断して、この文脈ならこの漢字と情報処理をしているからなんとか辻褄があっている。ところが時たま、これが上手くいかない時があって、その代表例として著者が提示したのが第一章第一節の表題にもなっている「カテーの問題」である。これは関西で起きた幼児連続殺事件を犯した中学生の犯人が捕まった時、その中学生が通っていた中学の校長先生が新聞記者に「それはカテーの問題でしょう」と答えたところから騒ぎが始まったことをとらえての話である。校長先生は「それは仮定の問題でしょう」と話したつもりだったが、記者の方は「それは家庭の問題でしょう」と校長先生が犯人の家庭に全責任を押し付けたかのように受け取ったと言う話だ。

漢字には二文字にしないと言葉として安定しないという欠陥があるそうで、それが故に日本語にも似たような漢字を並べた皮膚、福祉、樹木、闘争などという膨大なシナ語が入り込んでいる。これをいちいち覚えなくてはいけないので、それが重荷だと著者はいうのである。

それに日本人は似たような意味を持つ漢字にもともとあった日本語をくっつけて読む「訓読み」というものを発明した。本来サンと発音する山という漢字をヤマと読むようになったのがその例だ。日本人はこれを当たり前のものとして処理しているが外国人にこれを理解させるのは至難である。

江戸時代になり文化が繚乱してくると日本人は漢字を組み合わせて和製漢語を作り出す。それがシナ人にはちんぷんかんぷんな組合せであるという。例えば「野暮」。シナ人はこれを野原の夕暮かと思うが日本語の意味は「ださいこと」である。以下、世話、心中、無茶、家老と続く。無茶のことをシナ人が「お茶が品切れになったこと」と思うとは知らなかった。そして明治維新。この時、日本人は西洋から持ち込まれた膨大な概念を全て漢字を組合わせることで処理した。その数は膨大で著者は数千数万語といっている。その多くは日本発の外来語として今でもシナでしっかりと使用されている。例をあげると覇権、白金、白旗、白熱、版画、理念、冷蔵、理論、人民、共和国などなど。

著者の視点が爽やかなのは、シナ語を日本語の重荷と断定し、それを体に癒着してしまい今さら切除するとへたをすると日本語そのものを殺しかねないものとした上で、漢字と日本語の関係を腐れ縁と定義し、もともと日本語の体質に合わず永遠にしっくりこないけれども、それなしにはやってはいけないのだから、そのまま付き合っていかざるを得ないと開き直っているところである。漢字と日本語の関係は、そのまま日本と中国の関係を暗喩しているようで面白い。

あと私が全面的に賛成するのは、著者が西洋発の進歩主義を全面否定している以下の部分だ。「人類の諸種族は、一本のまっすぐな道を目的地にむかってあゆむ多くの人々のようなものである。ある者は元気よく先頭を進んでいる。ある者は中間あたりをのろのろ歩いている。ある者は最後尾で立ち止まったままである」これが西洋人の歴史のとらえ方だ。「実は人類諸種族の生活というのは、いろいろなところで遊んでいる子供たちみたいなものだ。山の上、森の中、野原、川っプチ、海辺とそれぞれの環境条件に応じ、またそれぞれの種族の性格に応じて遊び方が違う。それぞれの遊び方に優劣はなく、今は遅れているように見えても、そのうち工夫して気のきいた方法を発明するかもしれない。だから違っていても放っておけばよいのである。ところが自分と違うことを一切認めず、口を出し手を出すお節介が西洋人なのである。一番迷惑なのは自分たちの神様が唯一のほんとうの神さまだと思って、世界中に自分たちの神様を押し付けて回ることだ」。

シナ文明と日本文明の間に優劣が無いとする以下の記述も痛快だ。「中国には二千年も前から文字があったのに日本にはなかった。これは中国の文化が優れた文化であり、日本の文化は劣った文化だからだと思っている人があるが、そうではありません。中国の文化は早く生まれた文化であり、日本の文化は遅く生まれた文化なのです。文化も個人と同じで、早く生まれる人もあれば遅く生まれる人もある。早く生まれたか遅く生まれたかは優劣に関係ありません。個人でも文化でも、これは同じことです」

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低い評価の役に立ったレビュー

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

2001/12/10 22:17

2001/11/25朝刊

投稿者:日本経済新聞 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 同じコーセンという発音であっても、日本語には交戦、好戦、抗戦、光線、公選……といくつも単語がある。音が同じでも文字が違えば別というのが、日本人の当然の意識だ。しかも、どんどん新語をつくり、造語に励む。もし漢字をなくしたら、とても意志の疎通ははかれない。日本人にとって「ことばの実体は文字」だからである。
 著者のそんな風な説明に接すると、いかに自分たちの言葉を知らなかったかと痛感させられる。予備知識のない読者のためにできる限りかみ砕き、複雑な話に退屈しないよう趣向をこらしながら、「日本の漢字」の歴史と特質が解き明かされていく。霧が晴れるのを見るような爽快(そうかい)な読書を楽しめる。
 文法も成り立ちもまるで異なる漢語と和語とは本来しっくりいかないが、日本人はこれでやってきたのだから、これでやっていくよりほかはない、というのが著者の考え方だ。過去を切断してはならない、とも。同じ音読みでも、移入した時代によって呉音と漢音があり、さらに訓をつけることで日本の漢字は難解になる。たとえば「生」には十かそれ以上の訓がある。日本人の発音の不器用さや漢字崇拝(著者は冷笑的だ)を具体的に参照し、日本人の苦闘の跡を見ていく。
 一貫して漢字制限を打ち出す「国語改革」も詳説。改革の迷走は日本語の負ったややこしい歴史の皮肉な産物と感じられる。すっきりと言い切る魅力に、思わず引き込まれる日本人論。
(C) 日本経済新聞社 1997-2001

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60 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

本書はもともと国際交流基金からの「日本における漢字の問題を、日本に関心を持つ外国の人たちに紹介する文章を書いて下さい」という依頼に基づいて書いた日本語原稿(本文は英語)をベースに新書としたものである。平成13年のベストセラー。確かに売れただけのことはある。大変面白い、興味深い日本語論でした。

2011/08/18 19:28

12人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る

著者の考えのポイントは、第一に、漢字と日本語はあまりにその性質が違う為にどうしてもしっくりこないが、しかしこれでやってきたのであるからこれでやっていくほかない。第二に、我々のよって立つところは過去の日本しかないのだから、それが優秀であろうと不敏であろうと、とにかく過去の日本との通路を絶つようなこと(日本語を廃止して英語やフランス語を「国語」にするとか、あるいは漢字を全部廃止してカタカナやひらがな、アルファベットで日本語を表記するようにするとか)をしてはいけないのだということ。この二つに尽きている。

本書は大別して二部構成になっていて、1章から3章までは「日本語の発達の歴史」「日本語と漢字のかかわり」「日本語本来の性質と漢字の持つ性質が如何にそりがあわず、日本語にとって漢字が如何にやっかいな重荷であり続けているか」「にもかかわらず日本語にとって漢字は不可欠な要素であり続けた。とりわけ明治以降、文明開化、西洋化の荒波を日本語がかぶる中で、西洋語を翻訳した大量の漢語を日本人が作りだす中で、日本語と漢字のねじれた癒着は一層密になり、著者言うところの漢字と日本語の腐れ縁が決定的になったということ」の説明に費やされ、第四章は、こうした「日本語と漢字の腐れ縁」「漢字という重荷の重圧」から日本語を解放すべく、繰り返し主張され、かつ文部省と結託した国語調査委員会の「漢字削減」「日本語の表音文字化」の歴史をまとめたものである。

本書を読むと、確かに漢字という、もともとシナ人がシナ語を表記する為に作りだした表意文字が、それまで文字を持たなかった日本に輸入されたが故に、日本語と深い関わりを持つようになり、それが日本人にとって「漢字のくびき」として今に至るまで激しい重荷となっていることが良く分かる。梅棹忠夫は「漢字こそが文明を劣化させる諸悪の根源」と結論付け、彼はその著書でこれでもかこれでもかと脱漢字、日本語のかな表記を主張している。ご丁寧にも梅棹は、二人いる自分の息子の名前を全部カタカナにしている(笑。一体、漢字の何が重荷なのか。第一は、シナ語と違って音が極めてシンプルで、かつ全ての文節に原則母音がつく日本語の音声の特殊性から、漢字・漢語を輸入したことで、日本語には「漢字にしないと区別できない膨大な数の同音異義語が発生したこと」にある。西洋等の言語学者は「言語の基本は音であり、文字はそれを表記した影にすぎない」という立場をとる。言葉というのは聞いたらすぐわかるのが原則で、同音異義語などというものは滅多にない(あってはならない)のが基本だと言う(それが故に、西洋語もシナ語も膨大な数のイントネーションの別が存在し、音で単語を区別している)。日本語はそうはいかない。前後の文脈から皆さん瞬時に判断して、この文脈ならこの漢字と情報処理をしているからなんとか辻褄があっている。ところが時たま、これが上手くいかない時があって、その代表例として著者が提示したのが第一章第一節の表題にもなっている「カテーの問題」である。これは関西で起きた幼児連続殺事件を犯した中学生の犯人が捕まった時、その中学生が通っていた中学の校長先生が新聞記者に「それはカテーの問題でしょう」と答えたところから騒ぎが始まったことをとらえての話である。校長先生は「それは仮定の問題でしょう」と話したつもりだったが、記者の方は「それは家庭の問題でしょう」と校長先生が犯人の家庭に全責任を押し付けたかのように受け取ったと言う話だ。

漢字には二文字にしないと言葉として安定しないという欠陥があるそうで、それが故に日本語にも似たような漢字を並べた皮膚、福祉、樹木、闘争などという膨大なシナ語が入り込んでいる。これをいちいち覚えなくてはいけないので、それが重荷だと著者はいうのである。

それに日本人は似たような意味を持つ漢字にもともとあった日本語をくっつけて読む「訓読み」というものを発明した。本来サンと発音する山という漢字をヤマと読むようになったのがその例だ。日本人はこれを当たり前のものとして処理しているが外国人にこれを理解させるのは至難である。

江戸時代になり文化が繚乱してくると日本人は漢字を組み合わせて和製漢語を作り出す。それがシナ人にはちんぷんかんぷんな組合せであるという。例えば「野暮」。シナ人はこれを野原の夕暮かと思うが日本語の意味は「ださいこと」である。以下、世話、心中、無茶、家老と続く。無茶のことをシナ人が「お茶が品切れになったこと」と思うとは知らなかった。そして明治維新。この時、日本人は西洋から持ち込まれた膨大な概念を全て漢字を組合わせることで処理した。その数は膨大で著者は数千数万語といっている。その多くは日本発の外来語として今でもシナでしっかりと使用されている。例をあげると覇権、白金、白旗、白熱、版画、理念、冷蔵、理論、人民、共和国などなど。

著者の視点が爽やかなのは、シナ語を日本語の重荷と断定し、それを体に癒着してしまい今さら切除するとへたをすると日本語そのものを殺しかねないものとした上で、漢字と日本語の関係を腐れ縁と定義し、もともと日本語の体質に合わず永遠にしっくりこないけれども、それなしにはやってはいけないのだから、そのまま付き合っていかざるを得ないと開き直っているところである。漢字と日本語の関係は、そのまま日本と中国の関係を暗喩しているようで面白い。

あと私が全面的に賛成するのは、著者が西洋発の進歩主義を全面否定している以下の部分だ。「人類の諸種族は、一本のまっすぐな道を目的地にむかってあゆむ多くの人々のようなものである。ある者は元気よく先頭を進んでいる。ある者は中間あたりをのろのろ歩いている。ある者は最後尾で立ち止まったままである」これが西洋人の歴史のとらえ方だ。「実は人類諸種族の生活というのは、いろいろなところで遊んでいる子供たちみたいなものだ。山の上、森の中、野原、川っプチ、海辺とそれぞれの環境条件に応じ、またそれぞれの種族の性格に応じて遊び方が違う。それぞれの遊び方に優劣はなく、今は遅れているように見えても、そのうち工夫して気のきいた方法を発明するかもしれない。だから違っていても放っておけばよいのである。ところが自分と違うことを一切認めず、口を出し手を出すお節介が西洋人なのである。一番迷惑なのは自分たちの神様が唯一のほんとうの神さまだと思って、世界中に自分たちの神様を押し付けて回ることだ」。

シナ文明と日本文明の間に優劣が無いとする以下の記述も痛快だ。「中国には二千年も前から文字があったのに日本にはなかった。これは中国の文化が優れた文化であり、日本の文化は劣った文化だからだと思っている人があるが、そうではありません。中国の文化は早く生まれた文化であり、日本の文化は遅く生まれた文化なのです。文化も個人と同じで、早く生まれる人もあれば遅く生まれる人もある。早く生まれたか遅く生まれたかは優劣に関係ありません。個人でも文化でも、これは同じことです」

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漢字と日本語の不思議な関係

2008/01/21 04:17

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:濱本 昇 - この投稿者のレビュー一覧を見る

言語とそれを使用する人間の思想には、深い関係が有る事は、理解出来ると思う。日本語に無い概念は、日本人には理解出来ないし、英語に無い概念は、アメリカ人には、理解出来ない。しかし、日本語には、6世紀頃より「漢字」という得体の知れない文字が入って来た。優秀なる日本民族は、この得体の知れない「漢字」から「かな」を発明した。江戸末期まで、これで矛盾は、起こっていなかった。しかし、明治になり西洋から、また特異な言語が入って来た。西欧を模範にして富国強兵を計った政府の主導で、西洋言語から、色んな今まで日本に無かった概念を現す日本語を造語し、それに漢字を当てはめた。これから、日本語の酩酊が始まる。即ち、日本語は、話された言葉を一端、頭の中で漢字に読み替えて、意味を理解すると言う世界に類を見ない言語になってしまった。これを突き詰めると、文書第一主義、つまり正式な書類は、紙で有り、有印である必要性が生じた。(最終段は、私の想像)
本書は、日本語をこよなく愛した著者が、日本語の歴史を西洋人に説いた原稿が元になっている。そういう意味で、私には、新鮮であったし、とても面白い視点で書かれていると思った。
漢字に関しては、時の知識人或いは、政府の政策に拠り、大きな変遷があった事が良く分かる。しかし、その改革が良いものであったとは、著者は考えていない。所謂、「やまとことば」=元来の日本語には、漢字を使わない方が良いと著者は言う。平安時代、教養のある印として、漢字が用いられた。漢字を男性が使用し、かなは、女性が使用するものとの習慣もこの一つであろう。それを現代でも引き継いでいる日本人を著者は、揶揄する。漢字を多く使った文章は、格調高く見えるのは、確かであるが、それを馬鹿げた事と一笑するのである。私も、なるべく多く漢字を使って、文章を書きたいと思う人間の一人である。著者に嘲笑されて、恥ずかしい気持ちにもなるが、世間一般的にそういう風潮があるので、私は、これを曲げたくない。
明治の知識人は、漢字を捨てて、音をそのまま文字にした「かな」或いは「ローマ字」を日本語を表記する手段に採用するという運動が有ったらしい。これは実現しなかったが、この系譜の元に、当用漢字等の漢字の略字化が為されている。この事の愚も著者は、嘆いている。
漢字が入ってきて、1400年以上が経過し、漢字と日本語は、既に「腐れ縁」になっている。著者は、今のままの漢字との付き合いは、捨てられないと結論付けている。言語を漢字に置き換えて意味を理解する日本語、この世界に類を見ない日本語を使いこなす日本人の頭脳が、今の日本を支えているような気がする。
本書を読んで、著者が、日本人として、日本語をこよなく愛している事が良く分かった。文字が行動原理にまで波及するという意味において、新たな考え方を理解出来て、興味深く読めた一冊である。

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日本人の運命を漢字受容に見た

2002/03/01 12:05

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:伊豆川余網 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 読後感を一言で言えば、秘薬が仕込まれた発泡酒を飲んだような気分である。安価(新書判という意味、あくまでも)で飲みやすく、たちまち酩酊した後、何かがじわりと身体中に染みこみ、覚醒しながらも重く考え込んでしまった。版を重ねているようだが、通俗すぎる書名に比して本書の内容は微温的な漢字うんちく話などではない。〈漢字受容と日本人の運命〉を明解に説いた、文化史的課題を含む警世の書である。
 著者の文体は、『週刊文春』連載の名物エッセイ「お言葉ですが…」同様、まことに親しみやすく読みやすい。しかしその奥には、冷徹というよりは冷酷に近い虚無的な認識がひそむ(特に、後半の国語改革の失政を紹介するくだりは、憤慨を超えて諦観がにじむ)。
 あとがきによれば本書の元々の内容は、国際交流基金の依頼に基づく「日本に関心を持つ外国の人たち」を前提に構想された原稿らしい。「どうりで英語(の音韻、構文など)を引き合いに出した説明が多いはずだ、もっともそのお陰で元々中国の人が母国語として用いてきた『漢字』と、我々の先祖が使いこなしてきた『漢字』との違いがわかりやすいな」と思って読んでいたが、やがてこの「わかりやすさ」が、問題なのだと気付く。
 著者によれば、漢字を簡単にうけいれてしまったがために〈日本語は、みずからのなかにあたらしいことばを生み出してゆく能力をうしなった〉。その結果、〈言語というのは、その言語を話す種族の、世界の切りとりかたの体系〉なのに、日本人は言語を〈甘く見〉過ぎ、漢字の造語能力に依存し過ぎて、翻訳の美名のもとに同音異義語を増幅させてしまった。本質(ことばの本来の意味)とかけ離れた言葉が次々に生み出されてきた。
 この「言語への甘さ」は、漢字(と漢字にまつわる文化)に対してだけではなかったことは、ここ1世紀半あまりの日本の「進歩」(これも造語)を省みれば、誰しも類推できることだ。そして今や、日本人の多くはどんなに日本には固有の文化遺産(特に言語による文化)があると自負したくても、英語(正確にはアメリカ語)習得によってグローバリズム化への文化的インフラを普及させなくては、この国は立ち後れると心の底では考えている。だからこそ、一方で本書のような題名の本を、伝統文化へのある種の憧憬と現在と将来の文化変動に対する焦燥のなかで、一つの道しるべのつもりでひもときたくなる。
 だが、名著がもたらす真実はつねに読者を裏切る。書かれているのは、一見すると知的冒険に溢れた(日本の)漢字文化の淵源と変遷。その概説と歴史。だが、我々はたちまち、その「歴史」という概念と言葉さえも日本人自身では生み出せなかったという事実を認識させられる。我々が誇りたい「漢字文化」は、〈からだに癒着してしまった重荷〉なのだから。著者は言う。日本の漢字のように〈音声が意味をにない得ない〉のは〈畸形的な言語〉なのだと。この断定に粛然としない読者がいるだろうか。さらに著者はこう結論づける。〈からだに癒着してしまった重荷〉である漢字は、切除すれば〈日本語は幼児化〉し、〈へたをすれば死ぬ〉。だから、日本語は、〈畸形のまま生きてゆくほか〉ないのだ、と。
 今後、日本と日本人のたどり着く文化の地平が、苛酷な精神風景となるのはやむを得ないことなのかも知れない。しかし、我々の〈よって立つところは過去の日本にしかないのだから、それが優秀であろうと不敏であろうと〉漢字とつき合っていかなけばならない、著者はそう最後にしめくくる。これは慰撫ではない。決意だ。
 本書は、読書好きにとって(とくに言葉についての)名著が快楽にもなるが、また、新たな悩みの種ともなる格好の例と言っていいかもしれない。

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日本語をつかうすべての人に

2001/11/23 18:18

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:ちーたま - この投稿者のレビュー一覧を見る

 なぜ漢字には音読みと訓読みがあるのか、熟語に同音のものが多いのはなぜかといった、漢字にまつわる疑問を解決してくれる。漢字をつかうのが不適切な場合についての説明もあり、文章を書くうえで非常に参考になった。
 間違っているものを間違っていると言いきる歯切れの良さも魅力。

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かくれんぼの衝撃

2003/01/10 06:27

1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:鳥居くろーん - この投稿者のレビュー一覧を見る

「いーち、にーい、さーん、しーい」 。
まだこどもの頃、電信柱に目をふせて、こうして数えたあのすうじ。今思えばなつかしい、誰もが知ってる「かくれんぼ」のワンシーン。ふとしたことでじわっと思い出される、いわば「心の原風景」になっている人も少なからずいると思います。
「!」
そんな風景にショックをあたえるような事実に、この本を読んで気づかされました。この「いちにーさんし」、中国で使われている「イーアルサンスー」にそっくりじゃありませんか!
日本のことばだと信じて疑わなかったこの「すうじ」、実は中国からの舶来ものであったということ……。

日本人が自分たちの使っていることばにいかに無自覚であったかということ、あたりまえのものだと思って深く考えようともせず、その歴史、伝統、そこに込められた思想、をかえりみようともしなかったこと、そういった許されるはずもないことに、本書はこういう形で気づかせてくれた……。感謝します。

ただ、高島さん、「和語にはなるべく漢字をもちいぬようにする」この提案、わたしにはちょっとキツイです。

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ちゃらんぽらんな日本人のちゃらんぽらんな漢字用法

2002/06/16 18:01

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投稿者:のらねこ - この投稿者のレビュー一覧を見る

 本来文字をもたなかった「日本語」という言葉を、外来の、当時は「唯一の」文字体系であった漢字を使って無理に表記しなければならなかった。漢字は、日本語とはまるで違った文法・性質をもった華語を記すのに適した文字で、日本語を記すのためは、あまり都合がよくない部分も多々ある……といった歴史から説き起こし、早い時期から成熟していた漢語を輸入したおかげで、土着の日本語に抽象的な語彙が育つ余地がなくなったこと、「拿捕」の「拿」と「捕」など、同じ意味の漢字を二字連ねて一つの単語として使うという無意味な習慣が、現在の日本語の中にも生きていることの「不合理性」、明治以来、音を無視した訳語が増えて、同音異義語が飛躍的に増えたことなどの「弊害」を説く。
 普段使っている語彙のどこからどこまでが「和語か、漢語が、和製漢語か」などと意識している人は、専門の学者とかごくほんの一部の人でしょうけど(少なくとも、わたしは普段意識していません)、まあ、今まで自覚してなかった部分に注意を向ける契機になった、という意味では参考になりました。
 ちなみに、わたしは和語も漢語も和製漢語もカタカナ外来語もごちゃませに使って平然としている現行の日本語表記方式のちゃらんぽらんさは、けっこう好きです。

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おすすめの一冊です

2002/01/10 00:21

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:たーさん - この投稿者のレビュー一覧を見る

 久々によい本に出会った。
 日本人は、独自の文化が未成熟な時期に、中国の成熟した文化を、「漢字」と同時に受け入れてしまった。その受け入れた文化は、漢字と一体不可分のものとならざるを得なかった。これがすべての始まりとなり、以後、明治の西洋文明導入時における大量造語へと続く。本来日本語に合わない漢字であるが、それが文化、概念といったものと既に一体化してしまっている以上、捨てることは不可能である。この結論に向かって、著者はきわめて明解かつ自然に、読者を導いてくれる。
 日本語における漢字の厄介さを認識させてもらったと同時に、自分より優れていると見るやプライドもなく取り入れ、それを日本式に作り変えてしまうあたり、良くも悪くも日本人の特質だと感じた。当用漢字、常用漢字で育った世代にもわかるよう、きわめて丁寧に書かれている。ぜひともご一読を。

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ロングセラーの資格を持っている

2005/08/01 05:12

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:k-kana - この投稿者のレビュー一覧を見る

あまたの新書の中から、私見では本書をベストワンに推す。自在な語り口と主張の明確さ。そして高い見識。知的刺激にも欠けることはない。広く読み継がれるロングセラーの資格を持っている。中高生の夏休みの課題読書にもぴったりではないか。話は「カテーの問題」からスタートする。家庭か、假定か、それとも課程か。仮定ではなく假定である。
日本語は「顛倒した言語」であると著者は言う。ことばとは人が口に発し耳で聞くものであり、言語の実体は音声である。しかし日本語では、文字が言語の実体であり、耳がとらえた音声をいずれかの文字に結びつけないと意味が確定しない。音声が意味をになっていない。
コーコーという音は「高校」あるいは「孝行」という文字に結びつけてはじめて意味が確定する。その語を耳にしたとき、瞬間的にその正しい一語の文字が脳中に出現して、相手の発言をあやまりなくとらえるのである。文字を思いうかべるのにヒントになるのは、その語の出てくる文脈である。
顛倒した言語になったのは明治以後である。あたらしいことば、音を無視して文字の持つ意味だけを利用したことばがつぎつぎにつくられ、生活の場にはいりこんできたからだ。現代の社会で新聞や雑誌で見ることば、毎日もちいていることば、その大半は明治以後につくられた。現代、社会、生活、政府、官庁、会社、企業、銀行、等々。これらの字音語が主要なことばをほとんどしめることになったために、顛倒がつねにあらわれることになったのである。
そして重要なことは、日本人がそのことをすこしも意識していない、ことだと著者は言う。明治以後の日本人の言語生活のなかで漢字がどんなに重要な役割をはたしているかに気づかない。政府や知識人がくりかえし漢字の削減や全廃を主張してきたのもそのためであると。
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個々のことがらは前から言われたことでもあが、全体的には独創的な漢字論

2003/06/03 22:30

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:萬寿生 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 独創的な漢字論である。何が独創的かは、個々には指摘できない。個々のことがらは前から言われたことでもあるように思うが、全体的に、これまでとは異なる視点で観ており、異なる切り口で論じているように思う。この本の概要をしめすとおもわれる文章を、抜粋しておく。
 音声が無力であるためにことばが文字のうらづけをまたなければ意味を持ち得ない、という点に着目すれば、日本語は、世界でおそらくただ一つの、きわめて特殊な言語である。「カテーの問題」と言われたら、その「カテー」が家庭か仮定かあるいは過程か、日本人は文脈から瞬時に判断する。無意識のうちに該当する漢字を思い浮かべながら……。あたりまえのようでいて、これはじつは奇妙なことなのだ。本来、言語の実態は音声である。しかるに日本語では文字が言語の実態であり、漢字に結びつけないと意味が確定しない。音声が意味をにない得ない、というのは、言語として健全なすがたではない。漢字はもともと日本語の体質にあわないのだが、日本語全体が和語と漢語との混合でできていて、その関係はまさしく「腐れ縁」なのである。しかし、日本語は漢語なしにはやっていけない。しいて正常化しようとすれば、日本語は幼稚化する。

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日本語の骨格としての漢字

2023/12/22 08:20

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投稿者:Koukun - この投稿者のレビュー一覧を見る

言語というものは、民族を作り上げ、その民族の気質 考え方の基盤を作り上げるものの最重要要素の一つである。我々は物事を考えるとき、頭の中で母国語を使用して論理を構成する。言語を廃止するのはその民族を滅ぼしてしまうのと同じことだ ということがよく分かる。日本人にとって重要な日本語の骨格をなすのが「漢字」であると考える。著者は漢字の導入によって、自然発生的にできたであろうオリジナルな日本文字の発生が阻害された と主張しているが、この点に関し私は疑問に思っている。高度な土木技術を発達させたインカ帝国は孤立した文明だったためか文字らしいものを作ることができなかった。近代 現代の自然科学 社会科学を導入した発展途上国の多くは、その概念を表現する母国語がないので多くは英語をそのまま使っている。これらの点から1300年以上前に漢字が導入された日本語日本人は幸いであったと考えている。

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紙の本

自然に変わろうとする漢字と、それを強制的に変えようとする国家の葛藤を描くドキュメンタリである

2002/06/01 11:43

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投稿者:yama-a - この投稿者のレビュー一覧を見る

日本語の本がブームである。この本も、下手するとそういうあまたの本に混じって、書店で平積みされているケースがある。
しかし、この本は「わたし国語が苦手だから」というような人が読む本ではない。ことばや漢字というものにかなりの興味があって、それなりの知識を持っている読者の知的好奇心を満たしてくれる本なのである。
これは中国語・中国文学の専門家が書いた言わば学術書であり、中途半端な知識の持ち主が、もっと中途半端な読者に向けて、ブームに乗って書き散らしたような本ではないのである。
であるにも拘らず、この話し言葉みたいな文体は何なんだろう? 読んでいるとベランメエ口調の江戸弁が頭の中にこだまする。「ちゃんと書き言葉で書けよ」と言いたくなるのは僕だけではないだろう。
内容的には、中国と日本の歴史から説き起こして、日本における漢字の変遷が非常によく解るように語られている。さらにその過程で、国家や官僚の干渉によって、いかに漢字というものが歪んでしまったかという事実を突きつけられて、読んでいる者は愕然とするのである。「ことばは時代とともに自然に変わり行くものである」というのが僕の持論だが、それを強制的に変えようとする権力が存在するのだということを強く印象づけられた本である。
これをそういうドキュメンタリとして読む読み方もある。

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紙の本

漢字を日本人はどのようにして扱ってきたか

2003/06/22 22:02

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投稿者:格  - この投稿者のレビュー一覧を見る

 著者の主張は,「日本語とは腐れ縁.和語と漢語の混合からできていて,その関係はまさしく腐れ縁.日本語は畸型のまま生きていくより生存の方法はない」ということらしい.このことを,第1章から第3章まで歴史をおってのべている.第1章で漢語とはどういう言語かを説明し,第2章で,日本にはいってきた漢字を日本人がどうつかったか,第3章で,明治の時代に,漢字をあたらしい使用法で大幅に単語をふやしたはなし.第4章は,そのながれを,たとうとした,漢字をやめようという運動や,国語改革の無駄についてのべている.

 順番に説明されているため,漢字をやめようという運動がいかに,ひどいものであるかはよくわかる.しかし,では,どうあればいいのか,といえば,解がないのだから,むなしい感がある.このままでいくのが,一番いいということなのだろうが,現在の矛盾をかかえた日本語の文字の問題は,もとへもどすべき,ということなのだろうか.

 著者の使用する「和語に漢字をもちいない表記法」というのは,たしかにうなずける面があるが,それで徹底するのは,かな文字だけで表記しようという運動と精神ではもちろんまったくことなるが,できあがった文章の面では五十歩百歩のところがある.逆に部分的に字音語をつかわなければとてもよめなくなるのである.きがついただろうか,ここまでかいてきたこの文章が,その記法によるものなのだ…著者の文章も,あらためてみてみると,とても厳密に,その記法にしたがっているわけではないようである.気分で使い分ける,というか,よみにくい部分は,漢字で表記する,ということなのか.

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紙の本

漢字は悪か?

2002/06/02 02:46

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投稿者:高杉親知 - この投稿者のレビュー一覧を見る

脱線して説明している部分が多いので初学者には読みやすいだろうが、内容にそれほど新味は無い。漢字運用に関する考察はむしろ古いくらいである。

著者の高島俊男氏は、漢語には漢字を、和語にはかなを用いるべきで、また訓読みの使い分けはくだらないと主張するが、この意見は軽率である。鈴木孝夫氏が「日本語と外国語」で示したように、音訓両用は日本語の漢字運用の生命線であり、日本語話者が漢字の意味を把握できるのは訓読みによって日本語の概念と漢字が結びついているからである。本来の意味と訓読みがずれている字はあるが、多くない。むしろ白川静氏が「回思九十年」で語っているように、「おもう」に「思う」を用いるだけでなく「想う」も認める方が「想」という字を理解しやすい。その上で「思」と「想」の違いを知れば良いのだ。また鈴木氏が述べているように、音韻体系が単純な日本語は同音異義語を防ぎ得ない。何しろ road, load, lord が全てロードになってしまうのだ。漢字を使うことでのみ、単語の短さと語彙の豊かさを両立できる。そして高級語彙が理解しやすいという重要なおまけも付いてくる。確かに同音異義語が多いと不便なこともあるが、それを理由に漢字は日本語を奇形化したという本書の意見は言い過ぎで、有意義な考察とは思えない。

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紙の本

漢字ってダメなもの?

2001/12/31 03:36

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投稿者:天鳥  - この投稿者のレビュー一覧を見る

 携帯電話を持っていても、電話で話すよりメールを打つほうが多い時代。口語で入力していくと変換が難しくって、ついついひらがなが多くなってしまうわけが、この本を読めばわかる。

 ただ、少し気になるのが、この本をさらっと読んでしまうと「漢字」ってダメなものなのか? と勘違いしてしまいそうなこと。日本人が漢字を取り入れていくうえであせりすぎたことはしっかり書かれているけれど、「漢字」の良さについてはほとんど書かれていない。日本人と漢字の歴史について書かれたものだし、漢字をやたらありがたがる人たちへの反論も含んでいるからしかたないかもしれない。
 しかし、物事には必ず裏の面がある。漢字を受け入れることで生まれた文化もあるということを、読者は考えなければならない。

 じっくり読んで、漢字とのつきあいかたを考え始める一冊にしてほしい。

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紙の本

2001/11/25朝刊

2001/12/10 22:17

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投稿者:日本経済新聞 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 同じコーセンという発音であっても、日本語には交戦、好戦、抗戦、光線、公選……といくつも単語がある。音が同じでも文字が違えば別というのが、日本人の当然の意識だ。しかも、どんどん新語をつくり、造語に励む。もし漢字をなくしたら、とても意志の疎通ははかれない。日本人にとって「ことばの実体は文字」だからである。
 著者のそんな風な説明に接すると、いかに自分たちの言葉を知らなかったかと痛感させられる。予備知識のない読者のためにできる限りかみ砕き、複雑な話に退屈しないよう趣向をこらしながら、「日本の漢字」の歴史と特質が解き明かされていく。霧が晴れるのを見るような爽快(そうかい)な読書を楽しめる。
 文法も成り立ちもまるで異なる漢語と和語とは本来しっくりいかないが、日本人はこれでやってきたのだから、これでやっていくよりほかはない、というのが著者の考え方だ。過去を切断してはならない、とも。同じ音読みでも、移入した時代によって呉音と漢音があり、さらに訓をつけることで日本の漢字は難解になる。たとえば「生」には十かそれ以上の訓がある。日本人の発音の不器用さや漢字崇拝(著者は冷笑的だ)を具体的に参照し、日本人の苦闘の跡を見ていく。
 一貫して漢字制限を打ち出す「国語改革」も詳説。改革の迷走は日本語の負ったややこしい歴史の皮肉な産物と感じられる。すっきりと言い切る魅力に、思わず引き込まれる日本人論。
(C) 日本経済新聞社 1997-2001

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