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上流階級の女・ブレットは奔放そうでいて奔放になれない。主人公は女を抱けなくて、アフィシオン(情熱)のない祖国・アメリカを捨てて、ヨーロッパ的価値観の中、傍観者にしかなれない。闘牛の場面が面白かった。
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読みきったーーー!初めて挫折せずに海外の純?文学読み終わった笑
理解できたかは別で。
最近の若いモンは、ってきっといつの時代にも言ってるんだろうな。
若いのは若いなりに、かっこわるくてもかっこつけても頑張ってるんだよ。
ブレットをずっと二コールキッドマン風な女性を想像しながら読んでたのに、ラストで え、髪短いの?!ってショックだった笑
旅の描写が素敵。ずーーーっとジェイクが見てたもの、きっとそのうち断片的にしか思い出せなくなるものがしっかり書いてある。
あと旅での羽振りの良さがお金ない学生には恐ろしくてしょうがなかったよ…
名作に触れられただけで満足しちゃいました☆
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友人達と連日酒を飲みながら釣りしたりフィエスタを楽しんだり、カフェに浸ったりと、読んでて途中から俺も混ざりたくなったよ(笑)
小気味良い会話のテンポが素晴らしいね。
読み終えた後に、自分も一緒に旅に参加したような充実感が残った、これも表現力の凄さなのかな。
この本でスペインに興味を持ったよ。
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フィエスタ!フィエスタ!フィエスタ!
劇中の喧騒の感じと、実際に見たパンプローナでの夜の賑わいと、テレビで見た牛追いの様子とが重なって、本を読んでる間少しドキドキした。
ところどころに出てくる地名やカフェの名前
パンプローナ
バイヨンヌ
サンジャン•ピエ•ド•ポー
カフェ•イルーニャ
ボティン
これらの単語が、特別な響きで私を揺さぶった。
多分、この話の舞台に実際行ったあとだからこそ読めた。
あとはThe sun also risesという題名の響きが気に入った。
それだけ。
"いい事も悪い事も流されるように過ぎていって、生きてるって感じ"
誰かの感想にこうあった。
あ、この感じなるほど、ロストジェネレーションってこういう事?としっくりきた。
そして自分にそれを重ねてみる。
2012.11.29
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まったくわからなかった。
ジェイクに感情移入できかなったというか、登場人物も全員好きになれなかった。
パンプローナの熱狂も読んでいてまったく伝わって来なかった。
たぶん読む時期が悪かったのだと思うで(まだ読むレベルに達していない)、
いずれまた読みたい。
草食系にはウケが悪いかもしれない?いや変に真面目でつまらない男に
はわからない小説なのかも。
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コーンの無様さをひたすら語る話かと思ったら、ブレットを巡る男たちの話だった。自分の本能のままに生きる彼女の姿が印象的。
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ヘミングウェイの処女長編。
パンプローナの祝祭とロストジェネレーション―失われた世代。
現代の失われた世代である我々からすれば多少の違和感があるのだけれど、それぞれに何かが「欠けている」という思い、その思いを酒やそのほかの享楽で埋めようとするさまは時代を越え我々に訴えかける。
ああ、祭りのあとの虚しさよ。
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アメリカ文学史の課題図書。アメリカの理想ともいえる?あまりおもしろくなくてパラパラ飛ばし飛ばしに読んだ。
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これまで出会った中で、1番好きな小説。
主人公ジェイクの絶望感がすげーヒシヒシと伝わってくる。
ブレットとの、どうすることもできない関係がせつなくて心が苦しくなる。
パリの華やかな喧騒、パリのアメリカ人たち、フィエスタに湧く灼熱のスペイン、祝祭のパンプローナ・・・どれも情景が浮かんでくる。
まず、冒頭の聖書の言葉にグッときた。
一代過ぎればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地。
日は昇り、日は沈み
あえぎ戻り、また昇る。
風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
風はただ巡りつつ、吹き続ける。
川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。
コヘレトの言葉(伝道の書) 1.4-7
「日はまた昇る」という訳は、正確な訳ではないらしく、正しくは「日も昇る」ということらしい。
実際、オレもはじめてこの小説を読んだとき、「日はまた昇る」という日本語の響きから、ポジティヴな、希望を示す言葉として受け止めていたんだけど、この小説をよく読んでみると、それは間違いで、むしろ旧約聖書の言葉のように、希望ではなく、絶望を示している。
ヘミングウェイは、ジェイクとブレットの、どうすることもできない関係を、そこには何ら希望は無いんだけど、それでもなお、繰り返されてゆく、という意味で使っている。
投げやりだけど、それでも、人は、生きていく・・・というように。
この本を読んでから旅にでるようになった。
あちこちの街で、酒飲んだくれ、メシ食いまくり、ケンカして、時々祈った。
旅から帰ってくると、また読みたくなる。
何度も読み返した。
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スペインのパンプローナで行われた、サン・フェルミンという牛追い祭りで、どんちゃん騒ぎをする男達と女の話。
そしてとにかく毎日飲んでばかり。
「失われた世代」と呼ばれることになった発端の小説のようだ。
途中、男二人でマス釣りに出かけるシーンがあるが、私にはそのシーンこそが一番印象的だった。
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なんとも言えないさわやかな読後感。
若干のもやもや感は残っており
もう一度時間をおいていつか再読してみたい。
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ロストジェネレーションの虚無感とフィエスタの熱狂が対比的である。
主人公ジェイクとブレットの微妙な関係が、恋人のようでも、兄妹のようでも、友人のようでもある。でも、少しカッコよすぎだと思ってしまう。
登場人物(パリのアメリカ人)たちは、いつもカフェやバー、レストランなどで、飲んだり食べたりしてて、当時のドルの強さをまざまざと見せつけられる。
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"a lost generation"
文学的には第一次世界大戦後の若者たち、「失われた世代」と総括される用語である。
しかし、実際は仕事をきっちりしないことへの怒りにまかせたガートルード・スタインの発言、「自堕落な世代」「だらしのない世代」が本来の意味であるという。
確かに仕事もせずに毎晩のように飲み歩き、旅行に興じ、ヒロインのブレットのごとく自由なセックスライフを楽しむ若者たちを描くこの作品では一見そうした歓楽に生きる「世代」をテーマにしているように見える。だが、それぞれの登場人物の個性や心情、そして彼らが興じる舞台を丁寧に丁寧に描くことによって、反対に時代のしがらみから解放され、自由を謳歌し、生命の躍動を感じている彼らに対し、次第に羨望の眼差しをもってしまうのは自分だけではないだろう。
皮肉も効いている。出だしで紹介が長かったため当初主役かと思ったロバート・コーンが実は一番本書のテーマに相応しくない対極としての人物像であり「自堕落な世代」を引き立てる役であったこと、ブレットの婚約者であり大金持ちの家出身であるにもかかわらず破産しブレットにも奔放に振る舞われいつも酒にだらしなくなっているマイク、性に奔放なブレットが実は一番愛情を欲し彼女なりのの理性を働かせていること、物語の一人称であり視点でもあったジェイクが最も「遊び」に長けており、ブレットとプラトニックな愛を育んでいながらも戦争後遺症として性的不能者であったことなど、世界大戦後という時代の変わり目において自由を謳歌する彼らにもそれなりの傷を持ち、しかし、いやだからこそ、生命の躍動感が溢れる「いま」を真剣に興じているだということがこの皮肉な設定によりひしひしと伝わってくるのである。
パリのカルチェ・ラタンに集う彼ら仲間たち。事あるごとに飲んでは楽しみ、舞台はスペインのブルゲーテでの鱒釣りへ。そこでも釣りを楽しみ大いに飲んで、舞台はいよいよパンプローナのフィエスタでの闘牛見物へ。ここでも大いに飲んで騒いで闘牛を楽しみ祭りが終わる。最後は喧騒の疲れを癒すかのようにサン・セバスチャン、そして、ブレットの待つマドリードへ。
パリでの仲間との集い→釣りで心の洗濯をしながらも徐々に高揚→さらにフィエスタで恋のさや当てと闘牛という否応のない生命の躍動と生死を意識する緊張と高揚が最高潮に→祭りが終わりクールダウン→そして心の恋人と心休まるラストへ、というまるでジェットコースターのような上がって下がってという展開が本書の魅力であるともいえよう。
これも「自堕落な世代」もいづれは落ち着き安寧さを求めるという、ヘミングウェイなりの「だらしのない世代」論に対する反論の一つであったのだろう。たとえそれが叶うことのない虚構であったとしても。
直接的にはヘミングウェイ青年の世代、第一次世界大戦後の若者世代を描いているが、この時代感覚はいつの時代においても甦ってくる感覚であり、どの「世代」の若者においても共感できるものがあるはずであり、その意味で普遍となった物語だったいえるだろう。
本作品の背景ともなっているヘミングウェイ自身のパリ時代を描く『移動祝祭日』も併せて再読してみたい。
そして機会があればパンプローナで酒を飲み闘牛を楽しんでみたいものだ。
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闘牛好きなインポテンツ退役軍人の話。特に何がどうという話でもないけれど、とにかくテンポと情景描写が素敵。
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古い翻訳で一度読んだことがあったけど、イマイチしっくりこなかったので再読。正直物語に大きな盛り上がりもなく面白い作品かと言われるとそうでもない。ただ物語の舞台となっている、パリ、バイヨンヌ、ビアリッツ、サン・ジャン・ド・リュズ、ブルゲーテ、パンプローナ等いずれも滞在したことがあり、90年前の小説なのに古臭さを感じないのが魅力になっているのかもしれない。