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正高信男のケータイを持ったサル 「人間らしさ」の崩壊を読みました。最近の日本人の引きこもり傾向や携帯電話依存症などの現象をサルの研究を専門とする著者が分析してサルの生態と比べて説明しています。漠然とおかしいなあ、と感じていることが明快な論理で説明されており、胸がすっとします。社会的賢さは40歳で衰える、子離れしない妻と居場所のない夫などドキッとする指摘もあります。いろいろ考えさせられる点の多い本でした。
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内容は若者とサルを関連付けて批判的に書いてるものです。
個人の主張なのでとやかく言いませんが、例えば携帯を持っている人を「ケータイ族」と呼ぶのはいかがなものか・・・
ルーズソックスにしろ携帯にしろ、やや統計と主張が時代遅れの感がします。まあ5年前くらいの本なので。
だめ出しするなら改善策を出して下さい。
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今となってはmixi中毒になったサルとかでも良さそうです。
個人主義的思想が薄い日本ではきっとこうなる傾向が強いんでしょうね。
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おもしろい考察だった。ただ、少し弱いなと感じたのは自然科学者らしく実験、調査のデータをもって自論の援用を行なうのだが、どこか我田引水な印象に思えてしまう点である。霊長類の違いによる社会形成の差
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なるほどな、と思いました。今まで自分の中で感じていたことに上手い説明を加えてくれた感じですね。
「自立できていない親が増えている」からモンスターペアレンツが増えている、ということなんでしょうね。
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若者が公共の場でルーズに過ごすこと、引きこもること、その現象をどっちも「家のなか主義」という考えで説明したところはすごくおもしろかった。でも後半はだらだらしてて微妙でした。あと、現代の若者に対してものすごく批判的なので、読んでてあまり気分はよくないです(笑)
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久々に再読。
捕食されるリスクを回避するために
協力や交渉を避けるニホンザルと
ニホンジンの社会性との相関を指摘した
第4章がとくに興味深い。
社会性をもつことで傷つくことを恐れている(成熟した大人になるリスクの回避)場合に、必要なものはなんだろう?
<< 4章概要 >>
サルは危険が迫っても声をあげて仲間に知らせない。それは、自分も捕食者になる可能性が高くなるからである。ヒトはサルとは違って「情けは人のためならず」の交渉能力をもつはずで、それに基づけば「あっちはあぶないよ」と【知らない人】にも知らせてあげることが可能であるにも関わらず、それを駆使せずサル同様「見て見ぬふり」の行動パターンにはまりがちではないか?というもの。
意欲的に交渉をしても相手がそれに答えてくれなかったり、裏切られたりする恐れに耐性がないとヒトは社会性を発揮しなくなる。これは教育に起因すると筆者は結論付けている。
このようにしてサル化したヒトが子どもを育てるとどんどんサルが量産されていくぞという警鐘と、そもそも育児のリスクをも回避して少子化が益々すすむぞという警鐘。
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以前読んでたなぁ(^^;
面白そう!と、借りちゃって再読。
コミュニケーション力が退化してサル並になっている…と。
ごもっとも!!と、思う反面、月9の最終回で、
「ベルは、なんで電話を作ったんだ?真相は解らないけれど、遠くに居る恋人の声が聞きたかった。心配性の母を安心させたかった。そんな事だ。」
「ITの中心には、いつも人が居るんだ。」
って発言が脳内リピート。
「どんなに離れてても、いつでも隣に居る」みたいにする技術。
とっても素敵な事なんだと思う。
それを、ある程度のレベルに達していないウチから常用する事に問題がある。
ケータイを持たせたら、節度なく使うだろう…人は、普及しだした時に臭いで解った。
なにが足りていないのか…。
そこが問題だ。
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人間のコミュニケーションが猿っぽく(単純かつ内向き)なってる、その原因として、専業主婦うんぬんって話があって、まあその主張自体は同意できないものでもない。
とりあえず、自分は猿っぽくなりたくないな、というのが率直な感想ですね。
ケータイメール以上に簡単なコミュニケーション手段が増えているので、それらにとらわれないように気を付けないと。
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この筆者は若者と女性に何か恨みでもあるんだろうか……?
電車の中、携帯で大きな声で電話してるのは若者に限ったことじゃないし。
問題定義だけで解決策がなかった。
じゃあどうしろっていうねん!
とつっこみたかった
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大学のレポートのために読んだが、これはひどい。
論拠は粗雑だし、完全に筆者のなかで「若者=サル」の図式が完成していて、それを主張したいがためにこの本を書いた、という感じ。飛躍が多すぎる。
そもそもルーズソックスってそれだけの理由ではなく、「流行り」だから履いている高校生も多かったのでは…?
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読書レポート:ケータイを持ったサル 「人間らしさ」の崩壊 | デジたろうとピアノ http://digitaropiano.luna.ddns.vc/digitaropiano/?p=3798
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少し前に流行った一冊。
私的な空間と公的な空間のリミナリティーが結局重要なのねってことを具体例を出して理詰めしている。
話もとても分かりやすい。
なかなかもっともらしいことを主張しているが、個人的には問題提起で終わっているものは嫌いなのでマイナス1点。
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タイトル通り、人間と猿との違いを例に挙げながら、行動学なども織り交ぜた、現代人へ警鐘を鳴らすないようだと思う。実験や様々なデータを基に、著者の考えがまとめられている。
「ひきこもり」「ケータイ依存症」「少子化」「社会性の欠如」など、便利なツールであっても、使い方次第で人間性が失われていくのだと感じた。
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著者はもともとサルの研究者だけれども、子どもの成長や老人のことにも興味を持って取り組まれている。どの本を読んでも、よくまあこんな実験するなあ、と思われるようなことを次から次へやっている。今回は、著者が用事でたびたび渋谷の街に訪れるようになったのがきっかけで出来上がった。電車の中でも平気で床に座り込んでいる高校生。夏でもルーズソックスをはいて暑そうな女子高生。電車の中で化粧をしたり、ケータイで大声で話したり、常にメール交換をしている若者。いったいこの人種は何者なのだ。と、そのとき著者は気づいた。自分はサル学者だ。動物の行動を研究するのが自分の仕事ではないのか。こんなおもしろい対象が目の前にあって放っておく手はない。そして出来上がったのが本書である。電車の中で化粧をしたりベタッと床に座ったりするのと、引きこもるのとは同じ現象だと著者は考える。自分の世界に入り込んでしまう。それが外に出るか内にこもるかの違いだけだというのだ。メル友が100人いたからと言ってそれが本当の友人と言えるのだろうか。他人と関係を持つことができない、コミュニケーションがとれない人が増えていると言われている。少し長くなるが実験を紹介しよう。メル友300人以上の女子高生(ケータイ族)とケータイを持っていない女子高生(非ケータイ族)に集まってもらう。そこで2人1組でこういうゲームをする。2人の最初の所持金は5000円ずつ。第1のプレーヤーは第2のプレーヤーに賭けるか賭けないか2つの方法が選べる。第2のプレーヤーも同じ。賭けると自分の5000円を支払うため自分の所持金はなくなるが、相手には新たに10000円が渡される。つまり相手のプレーヤーの所持金は15000円となる。第2のプレーヤーも賭けるか賭けないかを選べる。4つのパターンが考えられるのが分かるだろうか。①2人ともが双方に賭ける。すると、2人の所持金はそれぞれ10000円ずつとなる。②第1のプレーヤーが相手に賭けたにもかかわらず、第2のプレーヤーは賭けない。すると、1人目は手持ちがなくなり、2人目が15000円もらうことになる。つまり抜け駆けということ。③これはあまり起こり得ないが、第1のプレーヤーが自分に賭けてくれなかったのに、第2のプレーヤーはお金を出すという場合。1人目は15000円が手に入り、2人目は手持ちがなくなる。2人目の人はちょっと「おひとよし」ということ。④2人とも賭けない。この場合は2人とも所持金は5000円のまま。どうだろう、自分ならどうしますか。①のパターンが2人の所持金合計を加えれば最も有利ということになる。でも、自分のことだけを考えれば②を選んでしまうことになる。さらに2人ともが双方に関係を持ちたくなければ、④になる可能性が高いだろう。さあこのゲームをケータイ族と非ケータイ族に別れてやってもらう。結果は想像がつくだろうか。詳しくは本書の4章をお読み下さい。非ケータイ族では①のパターンが多いけれども、③になることもあるというからおもしろい。情けは人のためならず。5章にもおもしろい実験がある。その説明はできないけど、ぜひ自分でもやってみてほしい。世の中豊かにな���、どんどん便利になっていく。しかしそれが本当の幸せに通じているのだろうか。著者はそんな問いかけを読者にしている。そして今世紀中頃には日本人はもっとサル的(?)になっているのではないかと結んでいる。