紙の本
クールに爆発する
2004/10/08 05:20
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:すなねずみ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「芸術は爆発だ」と叫ぶ奇妙なおじさん。それが岡本太郎のイメージだった。ブラウン管のなかでタモリにからかわれている、ちょっと(かなり)あぶない感じのおじさん。ああはなりたくない、という思いを子ども心に強く持った覚えがある。おまけに芸術家が実作を離れて書いたものというのは、えてして信用ならないところがあったりするから、バタイユやブルトンや花田清輝(←個人的なお気に入りの三人)との交流という予備知識がなかったら手に取ることさえなかった本だと思う。
彼は書くという行為について、(「造形(=芸術制作)の場合、私にはコミュニケーションを拒否する意志が強烈にはたらく」と書いた上で)こんなふうに位置づけている。
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岡本太郎流の美術史、それが『美の呪力(じゅりょく)』という本で試みられていることだ。いわゆる正統派の美術史の本ではない。(各章タイトル→イヌクシュクの神秘/石がもし口をきいたら/血・暗い神聖/古代の血・現代の血/透明な爆発・怒り/挑戦/仮面の戦慄/聖火/火の祭り/夜----透明な混沌/宇宙を彩る)
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岡本太郎はとても子どもだ。子どもそのものの熱さ、それはとても冷たい熱さだ。
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子どもたちはとてもバランス感覚に優れている。その天性のバランス感覚は、彼らの世界が比較的狭いということのゆえに守られているのかもしれない。それは、彼らが自分の世界、大人たちのほとんどが失くしてしまった世界を、ほぼ奇跡的に無傷のままに維持しているということなのかもしれない。その世界の失い方はたぶん、あまりにたくさんのものをそこに詰め込みすぎたことで壊れてしまう、そんな失われ方を僕は経験しているように思う。彼らには空っぽの場所があって、僕にはない。ほとんどの大人たちにも、たぶんない。それは、ちょうど「0(ゼロ)」の発見が数学というデジタルな世界を飛躍的に広げたように、無限の可能性を秘めた空っぽだ。あるいは4×4のフィールドの中で1から15までの十五枚のピースを動かして順番通りに並べ変えていくパズルのように、空っぽな場所がなければ身動きがとれないまま朽ち果てていくしかない、そんなふうに感じる。
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「0(ゼロ)」が発見されたのは、たしかインドだった。たとえばラヴィ・シャンカールの奏でるシタールの響きに耳を傾けながら、美に取り憑かれた人間たちの歴史に思いを馳せてみるのも悪くない。そんなふうに感じる。
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この本を買った一番の理由は、表紙の色が激しい赤い色だったから。岡本太郎の「赤」は、人間の、ほとばしる鮮血の色をしている。太郎は言う。造形の行動と思索は、全く違うことなのだ、と。創造と思索の狭間に身を置いて、その両極のバランスが崩れると爆発したい欲求に駆られるのだと、あとがきで述べられている。中でも、グリューネバルトの「磔のキリスト像」、イーゼンハイムの祭壇画に関する著述は秀逸だ。「人間自体が鮮血なのだ。」と語る岡本太郎の、人間存在の根源に迫る芸術論である。「爆発」というキーワードを読み解くための、絶好の書になるだろう。
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美術は 呪術だ!
仮面の話と原始美術については資料として。その他は太郎ワールド堪能のために読んでる本。
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大学入学当初手に取り、今に至るまで
ずっと手放せないでいる。
この本の存在が自分の中で大きいことに気づき、驚いた。
岡本太郎、興味深い人物です。
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最後の方流してしまった。だんだんあきてきて、、、
既存の考察を無視して、自分の視点でちゃんと見ていいんだー!
と、はっきり示してくれたお方です。また今度読み直すね。
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太郎さんの著書は「今日の芸術」が有名だが、中身だったら絶対こっち!!
日本全国の土着の日から普遍の美へとつながる洞察は岡本太郎のぎらぎらした感性と知力の結晶!!
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岡本太郎の文章を初めて読みました。
こんなきちんとした文章を書くんだ、と正直驚きです。
もちろん、文章にも「太郎節」というものが炸裂していて、その個性は唯一無二。
ただ、そこにある、「自分自身をまず他者として置き」、問題をとらえ、調査し、思索し、文章を書く――という姿勢。
それがメディアに露出していた本人のイメージとは違っていてなんだか新鮮に感じられました。
古代の石、血、仮面、怒り、炎と水、夜。
岡本太郎が心惹かれるもの。
その何が彼の心を惹きつけるのか、を論じています。
比較文化論でもあり、美術史論でもあり、社会論でもあります。
その独特の感性と、本質に迫ろうとする迫力を感じると同時に、
客観的な視点から分析しようとする姿勢も感じます。
「まことに大地と天空は永遠のものであるのに、火と水の激しくはかない性(さが)は人間のいのちを暗示し、
よろこび、悲しみの波動をおおい、くぐり抜けていく。」
などという、美しい文章もさらりと現れたりします。
ピカソやゴヤ、ゴッホなどについて語っているところが個人的にはとても面白かった。
特にゴッホ論は秀逸。
様々なテーマを、深く、広く語っている岡本太郎。
「芸術は爆発だ!」の言葉の意味を自ら解説している書、でもあります。
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一回読んだだけでは、この本の良さはあまりわかりませんでした。
あまりにも岡本太郎が世界中の伝統や文化、芸術の知見があるので読んでいてよくわからなくなりました。
全体的に、まず本のボリュームが279ページあるので読み進めづらいのと、主張が一回ですっと入らないから岡本作品を何冊か読んで慣れてないと辛いかなと思いました。
ただ章が「血・怒り・仮面・火」などしっかり別れており、章の初めに考えが書いてあるのでそこはポイントとして抑えておいてよかったです。
もう一度読みたい本です。
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石積みの回、失われていった文化にみる本当の芸術、終盤のゴッホ、あやとり宇宙論が特に面白かった
今日までにのこったものでなく失われたものの側から真の芸術を強烈に照らし出そうと試みた一冊
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飾られるために創るのでなく、使うために作る。だから使われるときこそ最も輝く。単純なものほど、原点。語学や美術史にも深い岡本太郎のすばらしさを再認識。イヌクシュクの石積み。
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何となく網野善彦さんの「無縁・苦界・楽」に似てるなと思った。
人が営んでいく上での本能(?)的な所を突き詰めていくと、血や炎、石積みにもある種のアジール的な所を見れてしまうのかもしれない。
これまで芸術に全く興味が無く、岡本太郎さん自体、万博で太陽の塔を建てたり、「芸術は爆発だ」とか言ってる何か変な人と言うイメージしか持っていなかった。
けど、もし、あの世で網野善彦さんと岡本太郎さんが対談したら、結構、面白いんじゃないかなぁと思いましたよ。
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あるということを拒否するところからないを考えるという言語化の仕方が気に入ったけど、後半同じテーマの話が引き延ばされている感じでちょっとぐだった。あとあらすじが「わたしは赤が好きだ」という引用からはじまっているがあまり適当でないと思う。
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太郎さんの何がって限定したくはないけど
私の知ってるうちじゃ、柳さんとパイロットと重なるときがある、あともう一人か。
芸術家が芸術作品に興味ないって言ってるなら、素人の私もそんなの知らない、あんなのこどものらくがきでしょっ、って言えるだろうか。そしてその理由を質すされたときにだってあの偉い人もそういってるんですよなんて、子どもの絵と馬鹿にしておきながら、それでもって子どもの絵も馬鹿にしておきながら、お主がやっておるのは子どものそれとはどうちがうのじゃろう?それは理解できないだけで外にいるものが内側にいる者、内側に入ることができたものに対する嫉妬、そう嫉妬。芸術、芸術家というものがこの世には存在していました、そして今も存在し、この先も存在し続けるでしょう。我々人類のうち一体何割の人間がこの存在をその生のうちに自分の内側に認めることができるのでしょう?
極めて少数なら存在しなくても、存在しないとみなしてもよいのではないでしょうか?
そう、微分です。存在量が少ないものは微分して、多で世界を構成させましょう。我々が依れるのは極めて少数の有限な存在だけ。希少性は不要でございます。
美なんて言葉は女性にだけ用いるのが正しい。
芸術作品があるから凡人は引け目を感じるのです。
理解できない存在ガボン人にとってどんなに苦しい次第か、それはちょうど天才がなぜ凡人は自分たちの作品を理解してくれないのかと悶々とするのと似たようなものでしょう?お互いが会い寄れない。そのようなモノが存在していることが誠に滑稽でございます。
芸術作品と芸術家と鑑賞者。
いつまでたっても私にはすごい上手って言葉しか
出てこないのが、とっても恥ずかしい....
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大阪万博の制作と並行して著されたと言う『岡本太郎による世界美術館』的なエッセイ。 怒り・憤り・畏れ… 太郎なりの美的感性から評されるテーマはゴッホ、ピカソ、ゴダールらの著名美術作品のみに留まらず、作者不明の作品、聖地、土着の祭り・儀式など、アミニズム・シャーマニズムに根差した有形・無形の『美』にも及ぶ。 “才能と技巧は違う。技巧を伴わない才能こそが芸術。” 評論の形を取りながら、各々に挑み向き合う様な、ほとばしる言葉は、全編にパワーが漲っている。 この空気感から『太陽の塔』は産まれたのだなと。
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大阪万博の直前に芸術新潮で連載された「わが世界美術史」がもとになった本。 自分も生まれる前だし、日本中が熱狂した万博直前の岡本太郎がどれほど忙しかったかは想像もできないが、たぶん寝る間もないほど忙しかったと思う。それなのに、こんな連載を執筆していたなんて、おそろしいほどのバイタリティだ。
岡本太郎の作品は公共の場にもよくあり、目にする機会が多いが、著作を読んだのは恥ずかしながら初めて。
著述の範囲は、イヌイットの石像、ストーンヘンジ、スフィンクス、グリューネバルトの宗教画、アステカ文明と血の儀式、オルメカ文明の巨石人頭像、曼荼羅、菩薩像、ロシア・イコン、ボッシュの絵、ゴッホの絵、平治物語絵巻、組紐文、ケルトと縄文・・・ などなど、多岐に渡る。
それらに共通するテーマが「呪力」だ。
炎や血などの鮮烈で荒々しいイメージ、石像や仮面に込められた念、動と静のようなイメージの中にも、二律背反するように静と動が内在されていることが、感じ取れた。
この1冊しか読んでいないのに、うんぬんするのは良くないが、おそらく岡本太郎にとっては、美しいとかきれいとか、日本人一般が「美術」と捉える心を落ち着かせるようなものには、あまり美を見出さなかったのではないかと思う。
うまくまとめられないけど、解釈の仕方が独創的で新鮮だった。
巻末の鶴岡真弓さんという方の解説が丁寧で大変助かった。あっちこっちに話が飛び、芸術家らしく、情熱の赴くまま綴られる熱い文章が表したかった真意がよくわかった。
岡本太郎の作品を見かけるたびに、読みなおしたいと思う本だ。