紙の本
幸福に生きよ!
2015/09/12 14:58
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投稿者:けy - この投稿者のレビュー一覧を見る
生と死の狭間で苦しむ人たちの物語。チェーホフの生に対する考え方がこれでもかというほど詰まった作品。また、本に関してもいろいろ愚痴る。チェーホフの言いたいことを言いたいように書かれており、まっすぐ心にくる。
紙の本
不朽の名作
2023/01/28 04:05
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投稿者:une femme - この投稿者のレビュー一覧を見る
主題や構成に、非の打ち所がない。
深みと儚さ、真剣さや若さとそれらの対局にあるもの、そして、中立的なものや凡庸さなどの多くのことが、人が生きる様相から見出されることを、劇の形式を生かして描かれている。
不朽の名作というのは、こういうものだと思った。
紙の本
「わたしはかもめ」
2021/02/17 22:02
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「わたしはかもめ」といえば、ソ連の女性宇宙飛行士テレシコワが使った宇宙活動中の個人識別用のコールサインとして有名だが、もちろん基はチェーホフの「かもめ」のなかでの地主の娘ニーナのセリフだ。ただしくは、「わたしはかもめ、いやわたしは女優」というセリフだった、彼女を慕う新進作家のトレープレフが猟でかもめを撃った、そして彼は「いつか私もこの鴎のような運命をたどるのだ」と悲観するのだが、彼女も同じように考えていたのだが、いや私は女優だ、あの鴎のようにはならないと決意し、彼にも冷たく別れを告げる。最後は残酷な幕切れが待っている。「ワーニャ伯父さん」は、一筋縄ではいかないワーニャ伯父さんのへんこぶりが最後には全開になるというお話、家族にとっては耐えられない身内だが遠巻きに見ている分には楽しい展開だ
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投稿者:Helena - この投稿者のレビュー一覧を見る
東京演劇集団「風」の芝居、「かもめ」(作・チェーホフ)を観ました。それで、戯曲も読みました。
登場人物の皆がそれぞれ、何らかの傷を持っている。どうしてそこまで傷ついてしまうの? と感じるくらいナイーブな心を持ちながら彼らは、精一杯生きている。
物語の一つの軸は、恋と名声にあこがれる女優志望のニーナと、新しい形式の芸術を志す脚本家トレープレフ、流行作家トリゴーリンの間の悲恋であろう。
トレープレフのもとを去ってトリゴーリンとの生活を選んだニーナは、その後トリゴーリンにも捨てられ、女優としても成功したものとはとうてい言えないような人生を送った。しかし、その絶望の淵で彼女は、「忍耐」を学んだ。ニーナは次のように語っている。
「今じゃ、コースチャ、舞台に立つにしろ物を書くにしろ同じこと。わたしたちの仕事で大事なものは、名声とか光栄とか、わたしが空想していたものではなくって、じつは忍耐力だということが、わたしにはわかったの」(第四幕、神西清訳、新潮文庫版、98頁)
この戯曲では、ニーナやトレープレフのような、純粋な世界に憧れる者たちが、絶望したり、自死を選択していく姿が描かれている。そして、その絶望からの救いは「忍耐」であるというメッセージをチェーホフが送っているように感じられるのだが。こういうチェーホフ理解でいいのだろうか。
「忍耐」をそのまま生きているのが、いつも黒い服をまとったマーシャだろう。
彼女は、自らの人生にすでに絶望し、「わが人生の喪服」として黒い服を着ている。トレープレフへの恋心を抱きながらも、それはかなわぬ恋であることを知っていたため、自分には何等魅力を感じない男性と結婚する。
マーシャは、人生に希望を持ってはいないが、絶望の淵にいるわけでもなく、死を選ぶわけでもない。
そのようなマーシャの中にある真の強さをチェーホフは描こうとしたのか? そして、マーシャのようにしか生きられない人生への皮肉を込めて、この戯曲を「コメディ」としたのであろうか?
ところで、なぜ「かもめ」なのか。トレープレフがしとめ、ニーナが何度も「私はかもめ」と叫ぶ。なぜ、例えば、鷹や鷲や白鳥や……その他の鳥や動物ではなくて、「かもめ」なのか。
ロシアの事情に詳しい知人によると、ロシアでは、「かもめ」は特別な鳥らしい。ロシア劇場のシンボルマークにも「かもめ」が使われているとか。
でも、なぜ、「かもめ」なんだろう?
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高校時代すきだったものその3。かもめの、「朝、起きると歌い出す」「水のような感情!」このセリフが好きでした。チェホフはいつも、いつだって悲しいのです。
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ロシア文学大好きなんです。トルストイとか重くて主張どっさり系よりこうやって主題ぼかしてあるほうが好き。特にこれは戯曲なんでとても読みやすいし。内容は主人公かわいそう・・・な話。でも喜劇。
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学校のレポート課題のために読んだものです。そうでもしなきゃ手をつけなかったかもー。
ワーニャ伯父さんは未読です。。
かもめは喜劇です。哀れだけど愛すべき人たちの喜劇です。
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”かもめ”
p23
人も、ライオンも、鷲も、雷鳥も、角を生やした鹿も、鵞鳥も,蜘蛛も、水に住む無言の魚も、海に住むヒトデでも、人の眼に見えなかった微生物も、___つまりは一切の生き物、生きとし生けるものは、悲しい循環をおえて、消え失せた。・・・・もう、何世紀というもの、地球は一つとして生き物を乗せず、あの哀れな月だけが、むなしく灯火をともしている。今は、牧場に、寝ざめの鶴の啼く音も絶えた。菩提樹の林に、こがね虫の音ずれもない。
p33
ドールン:なんのために書くのか、それをちゃんと知っていなければならん。でなくて、一定の目当てもなしに、風景でも賞しながら道を歩いて行ったら、君は迷子になるし、われとわれが才能で身を滅ぼすことになる。
p91
ドールン:しかし、僕は、トレープレフ君を信じていますよ。何かがある!何かがね!あの人はイメージでもって思索する。だから小説が絵画的で、鮮明で、僕は強烈な感じを受けますね。ただ惜しむらくは、あの人には、はっきりきまった問題がない。印象を生みはするが、それ以上に出ない。なにせ印象だけじゅあ、大したことにはなりませんからね。
p93
トレープレフ:おれは口ぐせみたいに、新形式、新形式と言ってきたが、今じゃそろそろ自分が、古い型へ落ちこんでゆくような気がする。(中略)そう、おれはだんだんわかりかけてきたが、問題は形式が古いの新しいのということじゃなくて、形式なんか念頭におかずに人間が書く、それなんだ。魂のなかから自由に流れ出すからこそ書く、ということなんだ。
解説:p199
第一幕で展開される青年トレープレフの書いた奇妙な劇中劇は、十九世紀末にはやったデカダン芸術のパロディと言われるが、現実の人生を素っ飛ばしていきなり二十万年後の冷えきった宇宙のことを考える飛躍的な思索の仕方について、チェーホフは以前に書いた小説『ともしび』(一八八八年)のなかで年輩の技師にこんなことを語らせている。すなわち、数千年、数万年後の世界に思いを馳せて現在の生のはかなさ、うつし世の無常を思う<空の空>といった思想は、人間の叡智の到達する最高かつ究極の段階であるけれども、それは同時に思索の停止する極点であり、人生老年に至ってはじめて持つべき思想である、青年がいたずらにそういう思索にふけると、豊かな色彩を持つ長い人生が無意味に思われてくる、と。劇中のトレープレフはそういう不幸な青年として描かれている。そうして冒頭の劇中劇はそういう思想を表していて青年のその後の運命を予知している。青年は現世的なあまりにも現世的な名声を追うニーナとは結局、異質な人間であり、終幕にいたってニーナが忍耐の必要を悟った時にも、人生の過程を堪え忍ぶ忍耐を彼は信じきれずに自殺するのである。
”ワーニャ伯父さん”
p141
アーストロフ:百姓連中ときたら、じつに単調で、無知蒙昧で、不潔きわまる暮らしをしているし、インテリ連中はどうかというと、これまた、どうも反りが合わない。頭が痛くなるんですよ。つきあい仲間のインテリ連中は、誰も彼も、料簡は狭いし、感じ方は浅いし、目さきのことしか何も��えない___つまり、どだいもうばかなんです。一方、少しは利口で骨のある手合いは、ヒステリーで、分析きちがいで、反省反省で、骨身をけずられています。・・・・そうした手合いは、愚痴をこぼす、人間嫌いを標榜する、病的なほど人の悪口をいう、人に近づくにも横合いから寄っていって、じろりと横目で睨んで「ああ、こいつは気ちがいだよ」とか、「こいつは法螺吹きだよ」とか決めてしまう。相手の額に、どんなレッテルを貼っていいかわからなくなると、「こいつは妙なやつだ」と言う。私が森が好きならこれも変てこ。私が肉を食べないと、これもやっぱり変てこ。いや、今日ではもう、自然や人間に向って、じかに、純粋に、自由に接しようとする態度なんか、薬にしたくもありはしません。・・・・あるものですか!
p158
アーストロフ:・・・ところで、なぜそんなふうに悪くなったか、と考えてみると、つまりそれは、力にあまる生存競争の結果なのです。・・・言い換えると、無気力と無知と、徹底的な無自覚とが、今日このような情勢の悪化を招いたそもそもの原因なので、つまり飢え凍え、病みほうけた人びとが、なんとか露命をつなぎ、子供を守ってゆくために、いやしくも飢えをしのぎ、身を暖めるたしになるものなら、わっとばかり飛びついて、明日のことなどは考えもせずに、すっかり荒らしてしまったわけなのです。・・・今ではもう、ほとんど完全にぶち壊してしまったのですが、その代わりに創り出したものは、まだ何ひとつないのです。
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ペンネームの元になった登場人物が出てくる作品です。
ひたすらふわふわしてるのに何だか緊張する妙な世界が好きです。
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映画版を観た後に読んだからか、内容がすんなり入ってきた。
もし映画を観ていなかったらひょっとしたら理解しにくかったかなとも思うけれどどうなのだろう。
でも印象的でした。
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チェホフの四大戯曲(桜の園・三人姉妹・かもめ・ワーニャ伯父さん)を制覇!
総じて、チェホフの戯曲は一言で言えば、逃れられない人たちのものがたりである、と思う。
ゴーリキーの「どん底」の登場人物ほどストレートじゃないけど、何かに縛られている人たち。
自分を縛る鎖を断ち切りたい、または自分を変えたいと願うのにやっぱり引き戻されてしまう人たち。
おおかたの登場人物は、最後には諦めることで心の平安を保とうとする…
なので、なんだか切ないし、「人生って一体…」と、夢も希望もないような気持ちになる。
そんな中で異彩を放つのが、「かもめ」のニーナ。
彼女は、ひどい目にあって精神的にも不安定だし、破れかぶれながらもまだ飛ぶことを諦めていない。
そのために必要なのは「忍耐力」と彼女は言う。
彼女にとって、女優業が夢の職業ではなく、現実的な生活の糧となった故かもしれない。(そこが、自殺したトレープレフとの分かれ道か)
実のところ、現代の我々だってチェホフ戯曲の登場人物たちと同じように、
理想に燃えて何かに立ち向かった挙句、
自分の力では変えようもない現実、能力の限界、理想とのギャップなんかで挫折して、
疲れ果てて、考えること、闘うことを放棄し、ただ食べるために辛抱して働いているかもしれない。
生きながらに腐っていくような生活。いっそ大きな悲劇があるほうがよっぽどいいというような。
そしてそんな中で、知らないうちに、生活のための忍耐力を身につけているんじゃないかな。
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桜の園が収められた文庫を読んだ時分は戯曲をまるっきり読んだことのないせいか、ただロシアの灰色の土を想像するだけにとどまったものだけど、ようやく数作読んだあとでは、説明の前に感動がやってきて屋敷の内側に配置されたベンチや革の黒々としたつやを逐一楽しむことが出来た。
しかし本作とツルゲーネフのはつ恋を読んだ印象を言い比べてみろ、と言われれば黙ってしまう。両作とも星は満点の評価をするし、感動が胸をゆすって自然に感動したあとのように放心する点では一緒だからである。
そしてタレに説明するために筋を言っても駄目なことは一番僕自身で理解している。なんといえばいいのか。
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恋と名声に憧れる女優志望の娘ニーナに、芸術の革新を夢見る若手劇作家と、中年の流行作家を配し、純粋なものが世の凡俗なものの前に滅んでゆく姿を描いた『かもめ』。
失意と絶望に陥りながら、自殺もならず、悲劇は死ぬことにではなく、生きることにあるという作者独自のテーマを占める『ワーニャ伯父さん』。
二つの戯曲に共通しているのは、夫がいながら別の男を愛してしまうという女の姿だろうと思う。そして、一方的な叶わぬ恋のなんと多いこと──。
こうした切ない想いは、悲劇をもたらす場合もあれば、辛くとも生きていこうとする力になることもある。
戯曲というひとつの形式の中で繰り広げられる物語を、人間らしさを失うことなくチェーホフは描いているように感じられる。
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アントン・チェーホフの愛すべき戯曲2編。私は、かもめ。いいえ、そうじゃない。私は女優。そう、そうよ。僕はこの戯曲のなかのニーナとトレープレフが2年ぶりに再会した際に疲れたニーナが言うこの科白が凄く印象に残っている。私はかもめ。
田園生活の情景とサブネーミングされているワーニャ伯父さんは、もう大分前になるけれど、ルイ・マル監督がニューヨークに舞台を移して脚色した42丁目のワーニャという映画があって、それを観て良い映画だと思ったので興味のある方はお勧めします。その後監督は亡くなり、最後の作品となってしまいました。
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戯曲と云うことであまり読む気になれなかったのだが、読んでみてよかったと思う。どことなくロシア的な作家だと思った。(ドストエフスキー、ゴーゴリ、ソルジェニーツィン?の一部しかロシアの作家は読んでいないのだが)
二つの戯曲が収められていたが、どちらも主題は同じようなものだった。一部の登場人物は人生に絶望しており、生きることを苦痛で退屈なものだと感じている。この問題に対する答えは、自ら死ぬことではなく、じっとこらえて生きていく忍耐であるとしている。この結論は二つの戯曲の共通のものである。ここまでだと、この二つの戯曲はひどく厭世的で、絶望的なものに思うかもしれないが、忍耐の先に希望があると信じているからこそ耐えることができるのであり、その希望の存在を信じようとしているという意味では、ある種楽天的で明るいとも云え、そちらのことのほうが大事であると思う。
『かもめ』では名声に憧れ女優を目指すニーナと、既存の芸術形式を破壊し前衛的な芸術を志すトレープレフ、すでに作家として成功しながらもその現実を知り絶望しているトリゴーリンの三人の絡み合いが面白い。特に夢にも恋にも破れ、若いころの情熱を失ってしまったニーナが云う「わたしたちの仕事で大事なものは、名声とか光栄とか、わたしが空想していたものではなくって、じつは忍耐力だということが、わたしにはわかったの、得心が行ったの」という台詞が印象的だった。
この戯曲は『群青の空を越えて』で使われていたが、あれは夢を信じた純粋な人間が、夢に破れて絶望していく様を描き、それでも耐え、生きていくという姿をニーナと重ね合わせているのであり、一種のオマージュであるということが分かった。