紙の本
島を死守しなければならないのは分っても、島に送り込まれた将兵にはあまりに過酷な戦いだった。
2007/01/07 16:04
10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:佐々木 昇 - この投稿者のレビュー一覧を見る
いかなる場面でも、著者の「生き延びてやる」という意思の強さが死に行くものと生き抜くものとを隔てたのだと思える。
我が身に巣くう蚤や虱を日々の糧とし、さらには負傷した傷口に食い込んだ蛆虫までをも生き延びる食料にしたという話には驚愕するしかない。
投降を呼びかける米軍に従う者、反攻する者、自爆する者、それぞれの選択肢があるのだろうが、いずれの行動を選んだ人々を非難する術を知らない。
硫黄島を攻める前、アメリカ軍はタラワ、マキンでの戦いにおいて日本軍守備隊の抵抗の凄まじさを経験済みであり、それゆえに想像を絶する艦砲射撃と爆撃を繰り返している。それでも上陸した米軍の被害は甚大なものだったのだから、いかに日本軍が強固に陣地を構築していたかということだろう。
片や島を死守しなければ日本国民が米軍の爆撃にさらされ、片や奪取しなければ日本への爆撃に向かった友軍機を助けることはできない。互いが、互いのために必要な島だった。
それにしても、過酷な戦いである。
著者は両親に心配をさせたくないという配慮から硫黄島での地獄の戦いの日々を語らず、黙々と書き溜めていった。
本書には膨大な戦いの中の一部しか書き綴られていないはずである。
しかし、その一部と分っていても読みつづけるには過酷で、著者はどこで米軍に投降するのだろうか、この場面かと願うばかりだった。重くて、重くて、読みつづけるのが苦しかった。
しかし、直視しなければ著者の苦しみはわからない。
長い長い、欧米人種によるアジアの植民地支配、経済支配、そしてそれら欧米の圧力に対して撃って出るしかないと判断したのだろうが、軍部中枢の思考能力は傲慢で硬直してしまっていた。世界との協調を図る政治家はことごとく葬り去られていった。
その陰で、多くの国民が戦線に駆り出されて死んでいったのである。
また、敵前上陸を行ったアメリカ海兵隊の兵士の多くはアメリカでの市民権を得るために参戦した移民たちである。
国家と国家の威信をかけ、権力者の意思表示として始まった戦争であるが、最下層の庶民がバカをみただけのあの戦争はなんだったのだろうと振り返らずにはいられない。
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投稿者:earosmith - この投稿者のレビュー一覧を見る
17歳までも戦地に送られていたことにまず驚きました。両親には知らせたくないという言葉があまりにも重いです。言葉では説明できません。ただ読んで欲しい。
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凄まじい本である。これでは「硫黄島からの手紙」も吹っ飛んでしまうのではないか。まだ観ていないが。
十七歳という若さで否応なく放り込まれた極限状況が、これでもかとばかりに続いていく。そこに、わずか十七歳の少年が体験すべきことなど何ひとつない。
しかし、書かれているすべては現実に起こったことなのである。間違いなく「戦艦大和ノ最期」に匹敵する一冊だ。
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すごいです。こういう記録を残してくれたことに本当に感謝したいです。思い出したくない記憶でしょうから。硫黄島関連本の中でもかなり読みやすいと思います。
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実際に硫黄島で戦った方の手記です。
壮絶です。もう私なんかが口で何かを語れるようなものではありません。
今の若者が読むべき。本当に。
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あまりに過酷…。「人間の耐久性試験」と語るほどの硫黄島の戦場は凄惨の極みだ。このアメリカ軍のやり口の酷さは、圧倒的な武器と物量が原因だけとは思えない。やはり人種差別的が根底にあってこそだろう。
擂鉢山に星条旗が立てられた映像は映画化もされて有名だけど、そこに日章旗が立った事実があった事に驚ろかされた!それも二度も…。
この本は中学校で教材に使うべきだ!
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(2009.03.21 読了)
著者は、17歳の時に、海軍通信兵として硫黄島に派遣され、戦闘員ではなかったので、最後まで逃げ伸び、負傷と空腹のため意識を失っていたところでアメリカ軍に収容され、俘虜として生き延びた。
日本に戻ってから、硫黄島の体験を書きとめてきた、ということです。60年後の出版ということになります。書いた原稿は千枚ということですので、この本は、ゴーストライターが新書にちょうどいい分量にリライトしたものと思われます。
「はじめに」「おわりに」執筆・石田陽子と書いてあります。ライターはこの人でしょうか?
「はじめに」には、秋草さんの出兵までの略歴が述べてあります。
「おわりに」には、捕虜になってから、この本のもとの執筆に至るまでが述べてあります。
秋草さんは、1944年7月に硫黄島に到着したようですが、第1章は、1945年1月24日から開始されています。栗林中将は、陸軍だったのですが、秋草さんは、海軍ですので、海軍側の様子が述べられているということになります。
2月19日、米軍の上陸が開始されます。1944年の6月ぐらいから米軍は、硫黄島への空爆を開始しているので、ずいぶん長い間、艦砲射撃と空爆が続けられたことになります。
2月23日の10時過ぎ擂鉢山の頂上に星条旗が立てられた。日本軍が奪還したりもしたようですが、2月26日には、米軍しっかり確保されたようです。
棒地雷をもって、米軍戦車を破壊する兵士、日本軍の戦車隊の所属だという。硫黄島へ送り込むつもりだった戦車は、船が米軍に撃沈されたので、多くの戦車はなかった。
日本軍の最前線兵士は、食べるものがつき、弾薬がつき、兵士も死亡、負傷で減って行くが、後方からの援助はない。突撃はせず、「地下陣地にて持久戦を選び、各自陣地を死守せよ」が栗林中将の命令だった。
秋草さんのいたところは、米軍上陸の様子がよく見える玉名山だったが、所属部隊は3月8日総攻撃をかけたが、秋草さんは、負傷のため参加できなかった。
それからは、水を探し、食料を探し、死体と同居しながら、壕の中をあちらこちらとさ迷い歩く、時には米軍による水攻め、火攻めにあったりしながら逃げ回った。
著者 秋草 鶴次(あきくさ・つるじ)
1927年、群馬県山田郡矢場川村(現在は栃木県足利市)生まれ
海軍を志願し、横須賀海軍通信学校卒業後、海軍通信兵に
1944年7月、硫黄島に派遣
1945年5月末、意識不明状態でアメリカ軍捕虜に
グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサス、シカゴ、ワシントンDCへと移送
1946年1月4日、浦賀に帰還
1948年、東武鉄道に入社
1984年、東武鉄道を退社
(2009年4月9日・記)
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著者がそれでも生きていたいと諦めなかったのは何故だろう。
多くの日本軍兵士がそうだったはずだ。
家族に会いたい、このまま死んでたまるか、そう思っていたはずだ。
それでも自決し、戦死し……彼らと著者の間にあった何ものかは一体何だったのだろう。
逃げ場のない絶望。
読んでいるこちらも逃げ場がない。
虱や蛆を食べる。けが人の血をすすって喉をうるおす。
炭を食べ、生きようとする……。
一人残される、元気で、と言って去る仲間たち。
NHKのドキュメンタリーは見た。
DVDまで買った。
インタビューを受けている生き残った方々は、一瞬目が泳ぐ。
ベトナム戦争の時の兵士の話を思い出す。
目が泳いでいる時、彼はその時戦場に戻っているんだと。
後書きを読んで、悔しかった。
無駄死ににしたいのか、現代日本人は彼らを無駄としたいのか、と憤った。
別の本にもあった。
だからこそ、あの言葉なのだ。
「だから、日本は戦後60年、一度も戦争をしていない」
してないと言えるかどうか、正確なところは分からないけれど。
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戦争を知らない僕は、戦争とはどんな事なのか本から体験してもいいんじゃないかと時々戦記物を読んだりする。
今回は激戦地だった硫黄島に17歳で送られ、九死に一生を得て生き残った青年兵が体験した硫黄島での戦闘生活が書かれていた。
彼は銃を持ち敵と対峙して戦ったわけではないが、敵の砲弾が降り注ぐなか通信、諜報任務を行なっていた。
そんな任務柄、個々の戦闘を離れた場所から観察する機会も多く、そこからの戦いの有様の描写が今まで読んだ本とは違っていた。
例えば、艦砲射撃を受けている最中の砲弾の飛んでくる様子。
戦艦の発射する大きくな砲弾の横をそれよりも小さな砲弾が追い越して飛んでくるなど、興味深い事が書いてある。
ただこれは個人的に目に留まったところであり、本当に著者の言いたい事は玉砕の一言で片付けられてしまった多くの兵隊の生き様、その礎の上に戦後60年以上戦争をしない日本国があるという事を知ってもらいたいのだろう。
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激戦地硫黄島で壮絶な体験をした元日本兵の手記。
爆弾の雨、敵との遭遇、仲間の死、飢えとの闘い・・・。
悲惨な体験が綴られている。是非、一読してもらいたい。
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著者は、太平洋戦争において最も過酷な戦場となった硫黄島の激戦を生き残りである。タイトルにあるように17歳という若さで硫黄島に配属された少年兵が、そこで見た事、経験したことを書きとめたものをまとめたものである。イーストウッドの硫黄島2部作などの戦争映画では決してかかれることの無い事実、排泄物、死体の処理などにも触れられており、戦場という極限状態の実際がわかる貴重な証言でもある。このような環境の中で生き残ったことは奇跡としかいいようが無いが、著者が生き証人として、前線に立つ人達がどのような戦いをし、どのように思い、どのように散っていったかを後世に伝えることができたことは、我々日本人のみならず人類にとって大きな意味を持つはずである。最後の著者の言葉が印象的である。「戦友達の死にどんな意味があったか、それは難しい。でも、あの戦争から60年、この国は戦争をしないで済んだんだのだから、おめぇの死は無駄じゃねぇ、と言ってやりたい」、と。重い言葉である。戦争で命を捧げた先人達を弔う方法、それは我々こうした気持ちを忘れないことである。
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[ 内容 ]
志願兵として玉砕の地・硫黄島で戦い、傷つき、壕の中で生き延びること約三ヵ月。
硫黄島で死んだ仲間達を思い続け、六十一年目に初公開する少年兵の心と身体に刻まれた戦争。
[ 目次 ]
第1章 米軍上陸は近い
第2章 情報収集
第3章 米軍上陸
第4章 摺鉢山の日章旗
第5章 砲撃と負傷
第6章 玉名山からの総攻撃
第7章 壕内彷徨
第8章 一瓶のサイダー
第9章 石棺
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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著者は硫黄島海軍通信兵で、主な任務は偵察であり、実際の戦闘には参加していないが、硫黄島防衛戦闘を客観的な視点で見ていた。
戦後に書かれたためかややリベラルで厭戦的な描写となっているが、生還者の貴重な証言である。
硫黄島の臭気や熱気、水と食に飢える様子が精緻な情景描写によってよく伝わってくる。著者はその過酷な状況を人間の耐久試験と表現する。
17歳の硫黄島、極限状態の記録である。
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とても想像できそうにない凄惨、熾烈な戦闘が行われていたのだと実感できた。
圧倒的物量を誇る米軍に対し水、食料さえ満足にない日本軍。
負傷、飢えに苦しみながら戦わなければならない絶望的な状況の中、旗を立てたられたのは驚きであった。
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ちょうどクリント・イーストウッド監督『硫黄島からの手紙』が公開された頃に出版された作品。しかし、映像で見るよりもむしろこの作品を読んだ方が、硫黄島での戦闘の悲惨さをリアルに感じることができる。
著者は、南方諸島軍航空隊本部壕電信室の通信兵であった。一般兵士が知り得ない彼我の情報に接するとともに、送信所と最前線との間を往復して戦況把握に努めることがその任務である。そこで目の当たりにした米軍の圧倒的な戦力と、それに対して絶望的な死闘を続ける日本兵の姿を、著者は克明に綴っていく。
「死を覚悟して敵前に身をさらし、爆弾や鉄砲弾による直撃弾などで戦死する者の多くは『天皇陛下万歳!』と一声を上げて果てた。重傷を負った後、自決、あるいは他決で死んでいくものは『おっかさん』と絶叫した。負傷や病で苦しみ抜いて死んだ者からは『バカヤロー!』という叫びをよく聞いた。『こんな戦争、だれが始めた』と怒鳴る者もいた」(巻末「謝辞」)
インタビューで、これと同じようなことを語っていた人物がいる。戦後右翼の大物、児玉誉士夫氏である。
「私の経験ですと、戦場で“天皇陛下バンザイ”という者は、傷が浅くて、絶対なおるという人間。それからせっぱつまって敵のこわい所へ突っこんでいくときですね。しかし、ほんとうに重傷を負っているのはそんなことやりません。『お母さん』といって・・・みんなそうです」(大森実『日本崩壊』)
それ故に、靖国神社を訪れるたび英霊に問うのだ。あなた方は本当はどこに帰りたかったのかと。