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紙の本
う~む、これぞ、職人芸。
2010/01/24 14:12
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ぶにゃ - この投稿者のレビュー一覧を見る
我が家の一人娘は、京極にハマっている。『姑獲鳥(うぶめ)の夏』に始まる分厚いあのシリーズを次から次へと喰らうように読破して、「父も読め。そして早くオレに追いつけ。」と僕をせっついている。娘の通う高校は通信制なので、何をするにも、時間だけは充分すぎるほどある。「――そんな君と違ってこの父は、毎日毎日、汗水流して工場で働き、帰宅後の晩酌だけを楽しみとしているのだよ。こんな長~い小説を読む時間は、残念ながらまったくないね。」と言い訳じみたことを言ってみるのだが、娘は馬耳東風の構えである。かねがね、どんな人間がこんな分厚い京極作品を読むのだろうと不思議に思っていたが、まさか自分の娘がそうだとは想像すらしなかった。
ある日、工場から帰ると、娘が京極にしては薄い(薄すぎる)単行本を読んでいた。それは何だ、と問うと、京極だと答える。薄いな、と言うと、薄いよね、と同意する。面白いか、と尋くと、サイコー、という返答。これならすぐにでも読めそうだと借りた本が、この『幽談』。シンプルな色彩の表紙の真ん中に、細くて淡いタイトルの筆文字がゆらゆら揺れていて、なかなか期待感を持たせる装幀である。
そして中身は、
――サイコー。
作者は『魍魎(もうりょう)の匣』のなかで(つい最近、この作品を読み終えた)、魍魎とはなんだかわけのわからぬ化物なのだ、と京極堂に慨嘆させているのだが、この、わけのわからぬ魍魎の世界を、夜の帷をおろすようにひっそりと人間界に紛れこませたようなはなしが八つ載っている。
いずれも、
こわい。
ホラー小説のような即物的な恐怖ではないし、怪談話の<ゾッと感>と似てはいるが、少し違う。たぶん、これは、京極の文体からにじみ出るこわさなのである。
京極の文章は、洗練された噺家の語り口調に似ている。あるいは、こつこつとたゆまず墓石を掘り続ける頑固な石工の芸術に似ている。つまりは、職人芸である。最近は、日本文学にも長編作品が多くなり、それはそれでけっこうなことだとは思うが、独自の文体がなく、細部にもこだわらない<ちからわざ>ばかり見せつけられると、どうも消化不良を起こし、金と時間を無駄に費やしてしまったという後悔がどんよりと湧いてくる。
その点、京極は、長編にせよ短編にせよ、彼独自の文体を創り上げ、それに成功している。妖怪に関する彼のディレッタンティズムはこの作品には見られない。逆に、うすぼんやりとした妖気が活字の合間あいまに漂い、最後にズバッと読者を殺める。――そんな理不尽な世界に読む者を誘うのだ。
巻頭の作品『手首を拾う』の書き出し。
「汽船で行くのである。」
さて、
どこへ行くのか。
どこへ連れて行かれるのか。
読者は、期待と、それ以上の不安におびえながら、作者の操る汽船に乗るのである。
乗ってしまうのである。
紙の本
「生きている」というオソロシイこと
2008/12/12 14:22
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:空蝉 - この投稿者のレビュー一覧を見る
これは単なる怪談話でも、京極氏にお馴染みの妖怪モノでも、ましてや思想や哲学じみた話でもない。いや、そのどれもに当てはまるのか。
8つの恐ろしくも興味深い短編からなっており、そのどれもがただ1つの怖さに帰着する。つまり此方と彼方、此岸と彼岸、生と死のどちらに「私」が属しているかという一点だ。
長編の多い京極氏には珍しい短編集、新境地と思われがちだがそれは違う。物語の行き着く先は「わけのわからないもの」への恐怖であり不気味さであり、それは氏の描いてきた「妖怪」つまりは「こわいもの」そのものだ。
7年前ぶりの旅館の庭先で女の手首を再び掘り起こす男。 30余年前少年期を過ごした街で生死のあいまいな時を過ごす男。ベッドの下に突如住み始めた顔だけの「下の人」。
描かれる人々は皆、自分が今生きているという「普通」を肯定できずにいる。正常・常識・日常・・・普通という定義は曖昧で、ソレを定義するものは己ではなく己以外の「外の人」による認識でしかないということが、彼らをときに安堵させ、恐怖させる。
生と死、日常と非日常、正常と異常、常識と非常識とが交錯し、それを定義するものを求めさまよい探し続ける人々がいる。そうして定義出来ないこの曖昧な「生きているということ」そのものがコワイモノであると、気がつくのだ。
とてもコワイ話である。たんに怖いのでも恐ろしいのでもなく言葉で表しがたいコワイモノだ。そしてそんなコワイモノみたさをもつ人間だから、本書に読者は引き込まれるのだろう。なにせ、私も彼らも読者も、みな多分、「生きている」から。
紙の本
求めた怖さ
2009/09/18 20:29
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夜雲 - この投稿者のレビュー一覧を見る
誰か私を本当に怖がらせてくれ。
そう思い始めてからはや数年。
京極夏彦を好んで読むようになってから、本屋へ行くたびに京極を探した。
ある日ふいに、この本に出会った。
『幽談』
私は、この題名に惹かれた。
一度見つけてしまったら、読みたくて欲しくてたまらなくなる性の私は、この時手ぶらで来ていたので、母に頼んで買ってもらった。
これが、個性的な八つの咄との出会いであった。
京極はどうやら最後の最後まで山場を引っ張る質らしい。
特に最初の咄の『手首を拾う』の終りなんかは、映画の最後の10分のようである。
『ともだち』は、生と死の曖昧さが心地良い。
『こわいもの』の終り方が、私は好きだ。
どの咄も、読んでいるときは最初「ああ、そうなんだなあ」と、ストーリーが自然に流れてゆく。
しかし、読み終えてから思い返してみると、ゾッとする。
欲しかった怖さが、ここにあった。
紙の本
白い物語
2008/08/20 13:09
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:抱朴子 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本には白のカバーデザインが良く似合う。白地に「幽談」の筆文字。あっさり感。これが本書を読み解くキーワードである。
「幽談」に収められた短編の多くは、一言でいえば「何もない物語」である。何もないところから物語は始まる。登場人物にはこれといった特徴もなく、最初から最後まで大きな事件も起こらない。極めて日常に近い世界で、日常でない出来事がちょっとだけ起こる。怖いという感覚とは何か。その瞬間を京極氏は、私達の日々の生活から掬い取り、巧みに物語の中へ忍ばせているのである。
可能な限りまで言葉を削った無垢の物語が八つ並んでいる。読者の解釈によって様々な楽しみ方を備えた本書は、京極氏からの挑戦状とも言えるだろう。
紙の本
怪ではなく、幽
2011/07/14 15:37
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:紫月 - この投稿者のレビュー一覧を見る
怪談専門誌『幽』の連載を単行本化。
八つの幽談が収録されている。
それぞれが、なんとも不思議な物語だ。
庭に埋まっている女の手首。
何のために現れるのかわからない幽霊。
名前のついていない化け物。
どの話にも、物語の行きつく先が定かでない不安定感がある。
怪談ではなく、幽談。
ひどく恐ろしくはないが、なんとなく気持ちの悪い、ぞわりとした感覚が残る。
不確かさからくる不安。
独特の語り口から、あいまいな、気持ちの悪い感覚がゆっくりと身内に広がっていく。
おそらくは、海外のホラー文学にはない感覚だろう。
化け物やモンスターよりも、幽霊が現れる怖さと言ったらいいだろうか。
はっきりと何かが襲ってくるのではなく、何か分らないものの恐怖が、そこここに感じられる。
京極氏の精緻な言葉によって紡がれる、日本独自の物語は、夏の夜にゆっくり楽しみたい。
紙の本
京極先生インタビュー
2008/07/18 23:03
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ビーケーワン - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書にまつわる京極夏彦先生インタビュー記事をお楽しみ下さい。