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2003〜2008年にかけて起こった出来事に対して、内田先生がどう捉えたかブログに掲載した内容を編集したもの。当時こんなことがあったな〜と振り返りながら教育や家族の在り方について考えさせられました。少し前のトピックとはいえ、現在にも繋がる問題ばかりで興味深かったです。
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本書単行本の広告が新聞に出たとき、すぐ読みたくて書店で探しました。見つけて、立ち読みをしたのですが、これより先にまだ読んでいなかった「寝ながら学べる構造主義」の方を購入しました。それはそれで正解でした。そして、今回文庫になったのを見つけて即購入、ダラダラ読みました。おもしろい。けれど、いつものことながら、だれかに説明できるほど分かっているわけではない。それでも、いつの間にか読んだことが身体に染み込んで知らぬ間に自分の言葉として口から出てくるのではと信じています。振り返って、いくつか気になったところを。格差社会は拝金主義が生んだ。少子化問題は存在しない。コミュニケーション感度の向上を妨げる要因は「こだわり・プライド・被害妄想」。「正しいこと」は「いいこと」とは違う。男女雇用機会均等法の導入に財界が一言も文句を言わなかったのは自分たちに都合がよかったから。グローバル資本主義は行き着くところセックスを禁止する(あいだにもっと理屈がありますが)。「愛国心」という言葉は公共の場で語るべきではない。そして最後に、もうすでに私の身体に染み込んだ考え方。子どもたちに学びを動機づけたいと望むなら、教師自身が学ぶことへの動機を活性的な状態に維持していなければならない。もう一度肝に銘じよう。
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皮肉で付けられたであろうタイトルだけれど、こんな日本でよかったかもしれないと思ってしまった。
何年も前の文章であるのに、全く古く感じない。
知的な人間として生きたいな。
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著者がブログに掲載した文章をまとめた本です。
著者のブログは、コピー・フリー、転載フリー、盗用フリーを謳っています。それは、ブログに発表された考えを一人の主体性を持ったパーソンに帰することはできないという立場を、著者が採っているためです。そしてこうした立場の基礎は、「人間が語るときにその中で語っているのは他者であり、人間が何かをしているときその行動を律しているのは主体性ではなく構造である」という、フランス現代思想の構造主義の考え方があります。
本書で取り上げられているさまざまなテーマも、こうした構造主義の立場から現代の世相を見たとき、どのような光景が映るのか、というものになっています。とくに、「未来の自分は他者である」ということに気づかず、この広い世界のどこかに自分の適性にぴったり合ったたった一つの仕事があるはずと信じ込んだために苦境に陥った若者たちや、至上のものを求めてばかりで、現在のリソースで何とか折り合いをつけようとするブリコラージュの発想を持たない原理主義への批判などに、著者の基本的な発想のスタイルが明瞭に示されているように思います。
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戦後の言論空間は「自由」については論じられたが、遂に「責任の所在」については論じられることはなかった。
蟻の穴を塞ぎ、洪水を防ぐローカルな責任論は良い。
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買い置きしていたが、濡れかかっていたので急きょ読み通す。この人の本、やはり面白い。 2000年代の空気感がよくわかる。
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仕事の合間時間にたまに手に取って読み進めたから、正直内容はあまり覚えていないのです(苦笑)。でもいつも通りの論調だったと思うし、何といっても最後にまんまそのもの、その後一冊の新書に発展する「日本辺境論」の章が収録されているのがその証左。定期的にコンスタントにその著作を読んで、その度に襟を正される作家です。
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Vol.81
コミュニケーション感度と生き延びる力の関係性?
http://www.shirayu.com/letter/2010/000159.html
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1章■制度の起源に向かって
言語、親族、儀礼、贈与
2章■ニッポン精神分析
平和と安全の国ゆえの精神病理
3章■生き延びる力
コミュニケーションの感度
4章■日本辺境論
これが日本の生きる道?
ブログのまとめ
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普段頭を使わないので、フル回転できた。
書かれたのは少し前なので、今とは違うこともあるけれど、今にも通じることが多々。
リセットしたくなるのは分かるけど、現実的じゃない。でも、何もかも捨ててそうしたくなるよなあー。
・タイプの違う二つのロールモデルがいないと人間は成熟できない。(p.62)
・「誰の責任だ」という言葉を慎み、「私がやっておきます」という言葉を肩肘張らずに口にできるような大人たちをひとりずつ増やす以外に日本を救う方途はないと私は思う。(p.178)
・「強い個体」とは「礼儀正しい個体」である。(p.183)
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pp.24-5
発話の起点は、発話の起点にあるのではなく、発話が終わった後に訴求的に定位される以外には存在しないものなのである。
……
発話主体がまず存在して、それが何かを発語するわけではない。発話主体は発話という行為の事後的効果なのである。
……
「言いたいこと」は「言葉」のあと存在し始める。「私」は、「私が発した言葉」の事後的効果として存在し始める。
p.155
人生はミスマッチである。
私たちは学校の選択を間違え、就職先を間違え、配偶者の選択を間違う。
それでも結構幸福に生きることができる。
pp272
愚かしい幻想が合理的な分析よりも強い力を持つことがある。そして、「本当のリアリスト」は、この「愚かしい幻想」の持つ政治的なポテンシャルを決して過小評価しない。「愚かしい幻想」を鼻で笑うのは「三流のリアリスト」 だけである。
例えば、マルクスはそういう意味で「本当のリアリスト」だったと私は思う。マルクスは「幻想」の力について、次のようなみごとな文章を書き起こしている。
(以下『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』からの引用)