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紙の本
“大”デュマ、“小”デュマ、じゃあ“中”デュマっていうのは無いの?ジョッキだって学校だって大中小あるのし。でね、読んでると分かるんです、デュマ・フェスは小物だな、って。読んでください、分かります。もしかするともっと小さいかも・・・
2010/09/10 20:54
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
『黒い悪魔』『褐色の文豪』に続くデュマ家3部作完結です。どうも苦手なんですね、“大”デュマ、“小”デュマっていう言い方が。クラシックの世界では“大”バッハ、“小”バッハ、政治でいえば“大”カトー、“小”カトー。じゃあ、“中”はないのか? なんてね、ジョッキじゃあるまいし・・・。どっちだっていいけど、他にいいかたあるだろう? って思います。ま、こういう言い方が日本人には合っていないのかもしれません。“大”小泉とか、“小”小泉なんて。
ちょっとおさらいをすると、『黒い悪魔』の主人公がトマ・アレクサンドル、カリブ海に浮かぶフランスとスペインが4対6の割合で領有する「サント・ドミンゴ」島で、アフリカ生まれの黒人で美貌の母マリー・デュマとフランス人のラ・パイユトリ公爵アレクサンドル・アントワーヌ・デリールとの間に生まれた、奴隷の子供ムラートです。ナポレオンに反抗したことで昇進の道を閉ざされた将軍となり、44歳で死亡。今回の主人公にとって「黒い祖父」ということになります。さしずめ“中”デュマでしょうか。
『褐色の文豪』の主人公が“大”デュマこと、アレクサンドル・デュマ・ペールです。生まれも育ちも、北フランスの辺鄙な田舎町ヴィレル・コトレで、父方の祖父が「ラ・パイユトリ侯爵」の肩書きをもつ正真正銘の貴族です。親と違って軍人の道を進まず、作家となります。代表作『三銃士』『モンテクリスト伯』で、その圧倒的なストーリーテリングで地位を確立した文豪です。今回の主人公にとって「褐色の父」ということになります。
デュマ・ペールは、放蕩の限りを尽くし、お金を湯水のごとく使い、常に美女を身の回りにはべらし、息子に遊びを教え、その成長を喜びながら、自分の庇護を必要としなくなると嫉妬もするというなかなかの存在です。晩年はそのつけがまわり、お金がなく娘、そして最後には息子のもとに転がりこんで亡くなります。その様子は、今回の小説に描かれます。享年68歳。
で、今回のお話の主人公は、“大”デュマの息子アレクサンドル・デュマ・フェス、“小”デュマと呼ばれた息子、象牙色の私です。母親は、ベル・クレサールでデュマ・ペールを誰よりも理解しながら結婚せずに終わります。デュマ・フェスはデュマ・ペールに認知されている私生児で、父親の文名の陰に隠れ、その資産のおこぼれにあずかりながら、最後には父親を凌ぐ地位を確立、父親が願ってももらえなかったレジオン・ドヌール勲章をもらうことになります。
出版社のHPには
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偉大な文豪を父に持ったがために、“小”デュマと呼ばれた息子。名作「椿姫」の作者であり父をしのぐ栄誉に輝いた男の苦悩の生涯
奴隷から将軍へ成り上がった英雄を祖父に、『三銃士』の作者として名高い文豪を父に持ったデュマ家の3代目は、物質的にはなに不自由ない少年時代を過ごしながら、私生児という出生に悩み、愛憎半ばする想いを抱きながら成人する。父と同じ作家を志し、若くして成功をおさめながら常に偉大な父と比較され続けた男の苦悩の日々。『黒い悪魔』『褐色の文豪』に続くデュマ家3代の歴史、ここに完結。(AH)
*
とあります。これ以外に書き加えることのない内容で、作家としてだけでなく男としても魅力あふれる偉大な父をもった私生児の苦悩は、小説で味わってもらうしかありませんが、この小説で“大”デュマ、デュマ・ペールの大胆で男らしい生き方を見ていると、どうしても佐藤が『小説フランス革命』で描いたミラボーを思い出さずにはいられません。
話は変わりますが、他の人はともかく、私にとって「椿姫」といえば、ヴェルディのオペラで、近年では2005年のザルツブルク音楽祭のソプラノにアンナ・ネトレプコを起用した舞台は、彼女の美しさもですが舞台のモダンな作りは、衝撃としかいいようのないものでした。当時、中学生だった我が家の次女も、ハイビジョン放送の画面に圧倒され、今でも歌劇、といえばあの舞台を思い出すそうです。そのもととなった小説が、“小”デュマの「椿姫」です。
これは、同じヴェルディの歌劇「エルナニ」とユゴー『エルナニ』の関係と同じです。多分、今の日本人にとってはフランスの戯曲や小説に目を通すより、オペラを見るほうが楽しいのではないでしょうか。私など、若い頃は海外の歌劇場がくると聞いては高額チケットを手に入れ、文化会館やNHKホールに通いましたが、それも結婚するまでの話。今はテレビ放送を見るのがせいぜいですが、それでも週に一本くらいは見ています。さほどに“小”デュマの小説に縁がありません。
話は変わりますが、この赤い布をきれいにひねりながら波打たせたデザインは、椿姫からのイメージでしょうか。なんだか岡本太郎の絵を前にした時のような、情念の爆発を感じるのですが。装丁の坂川栄治+坂川朱音(坂川事務所)に確認したいところです。最後は目次と初出。
第一章 私はアレクサンドル・デュマ。いえ……
第二章 咲き誇る椿の花に飾られながら、マリーの美しさときたら……
第三章 結婚し、子どもを作り、その幸せを願うという……
第四章 いや、人生なんて土台が滅茶苦茶なもので……
初出「文學界」2008年4月号~2009年11月号
紙の本
沿う読書 受け入れる読書
2010/03/05 20:27
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:星落秋風五丈原 - この投稿者のレビュー一覧を見る
今までの作品における佐藤賢一氏作品は、その独特の語り口で、過去に生きた人物達を、まるですぐ隣にいるかのように感じさせてくれた。「誰誰がこう思った」という語句を敢えて外し、当時の登場人物達の心の叫びを、現在彼らが考えているかのように感じさせてくれた。
さて今回の作品だが、こちらは、功なり名遂げたデュマが、生まれから現在までを自分の視点で振り返るというこれまでとは異なる書き方をしていた。敢えて外したのだろう、と評したレビューもあったし、実際狙いはあるのだろう。
しかし、実際の内容は、「これこれこうだと思っていた人が実はこうだった」「このように考えていた出来事の裏は実はこうだった」という動かしようのない事実の羅列である。これで驚くとするのは、「これこれこうなんだ」という前提をわかっている、つまりデュマについて既成事実をある程度知っている人に限られるのではないだろうか。デュマのことを作品でしか知らず、あまり詳しい事実まで知らない人にとっては、羅列される内容に意外性を感じることなく、ただ書かれている内容を受け入れるだけになる。
従来の語り口であれば、読者は作品人物と共にその時代を歩むことができた。でも、この作品では、登場人物が歩んできた道を、第三者的に受け入れるだけである。
読者がどのような読み方を好むかにより、好悪が分かれると思われる。
紙の本
デュマ家三代記もラスト
2017/03/26 14:29
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:るう - この投稿者のレビュー一覧を見る
三代目のデュマ・フィスの目から見た父の姿とそれに振りまわされていく周囲。父の無謀に呆れても 同じ作家の道を行くのだから 親の影響というものは凄まじい。父に振りまわさた彼が 今度は家族を振りまわす側になったり。その血には安穏としていられ無い何かがあるのか。
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